日本の最北端に位置する大きな離島。縄文の文化が根付き、アイヌ文化が生まれたこの離島に住む人は、それ以外の人達を和人と呼んだ。
私の母も所謂“和人”で、母は加賀からやって来たのだと言っていた。蝶よ花よと育てられた母はお付きの人がいないと何も出来ない人で、小樽に来た時も実家からお付きの人を何人も連れてきた。そして父と出会って私を小樽で産み、父に先立たれた母は後を追うように幼い私を置いて逝ってしまった。
お付きの人に支払う給金も、私が生きていく為のお金もそのうち底が尽きる。それが分らない程私は子供ではなかった。
春になったとは言え、北海道の春は肌寒く、囲炉裏とはまでもいかなくとも夜には火鉢が手放せない。内地とは違い、四月に桜は咲かないし、五月に梅と共に桜が咲くが山には雪が残り風がまだ冷たい。母はこの景色を見て情緒がないと花見をした時に言っていたのを、何故か今思い出した。
勤め先の庭に咲いている蝦夷桜を見てしまったからだろうか。今年もこの桜は綺麗に咲いてくれたが、あっと言う間に散ってしまう。私の前からいなくなった両親みたいだと、散る桜を見ては感傷に浸るのだから笑えない。
とうに私は子供と呼ばれる年齢を超えてしまった。お付きの人の紹介で私はとある旅館で仲居として働き生計を立てている。ひっそりと山の麓にある旅館は知る人ぞ知る。と有名な旅館だ。
「雪子ちゃん!誰かお客さんが入って来たみたい」
「見てきますね!」
女将は溌剌として、笑顔がとても似合う人だ。私の事を可愛がってくれ、私によくいい人だと言って男の人を紹介してくるのは正直お節介だとは思うが、それは言わないでいる。何を思おうが私は女将さんにお世話になっているし、大切な人なのだから、余計なお節介ですら心地いいのだ。
宿泊部屋の掃除を途中で止めて、玄関先に行くと男の人が立っていた。その人は丈の長い外套を羽織り顔を隠すように頭にもそれを被せており、片手には歩兵銃を持っている。外套の隙間から見られる服装から見るに軍人であることが分った。軍人さんがこんな所に何の用だと首を傾げながらも決まり文句を口にする。
「お泊りですか?」
「…それ以外の何に見える」
「……一泊ですか?」
「あぁ」
頭から被った外套からは男の表情は見えなかったが、聞こえてきた声は人を馬鹿にするようなものだった。それが頭にきたが、冷静に受け流そうと努めて宿泊数を聞くと、男は頷いたので私は上がってもらい男に帳簿に名前を書いてもらったが、どうもその名前がふざけているようにしか見えないのだ。
「名無、権兵衛…様ですか」
「文句でもあるのか?」
「いえ」
本名なのかもしれない。きっとご両親が洒落をきかせてこの名前になったのかもしれないと、無理矢理納得して掃除の終わった部屋に案内する。名無さんは私の後に付いて来てくれ、椿の間と書かれた表札の部屋に案内すると、男は無遠慮に中に入り中を見渡した後、窓際に移動し身を顰めながら外の様子を見ている。
なんでそんなに外の様子を気にするのかと、また私は男について首を傾げる。だが名無さんは後ろを振り返ることもなく私に向かって言った。
「いつまでいるつもりだ」
「部屋の説明などはいらないでしょうか」
「あぁ、ついでに夕飯も要らん」
私はそれならお茶を出す必要もないだろうと、判断して部屋を後にしようと名無さんに背を向けると、男は付け加える様に口を開く。
「この旅館に誰が来ても俺の存在は明かすな」
「旅館は客商売です。誰が何と言ってもお客様の事は誰にも話したりはしません」
「誰が何と言おうと…か」
男はまた私を馬鹿にしたように鼻で笑った。腹が立つが大事なお客様だと自分を落ち着かせ、女将さんに椿の間にお客さんを入れたことと、食事はいらないと言っていたことを伝えると、女将さんは、随分楽なお客さんだねぇ。と笑っていた。
果たしてこのお客さんは本当に楽なお客さんなんだろうか。そう思うのは勘繰り過ぎなのか、真実なのかはわからないけど、あの男の事は気に食わない。
「名無しの権兵衛…」
部屋に入ってもなお外套を頭から被せていた。警戒心が強いのか外し忘れたのかはわからないが、恐らく前者だ。だってあの人の服装は軍人のものだ。軍人はいかなる時も警戒を解かないと聞いたことがある。本当かどうかはわからないが、あの男はそういう性分の男に見えた。
嘘つきな軍人さんは何をしに此処に、小樽に来たのだろうか。
あの軍人さんは運がいいのか今日は客入りも少なく、女将さんも用事があるとの事で夕飯を出し終わると帰ってしまった。今日は私が夜の当番だからこの旅館に泊まりこまなければならない。家に帰れないのは切ないが、これも仕事だと割り切って、仕事を熟す。ふと、私は嘘つきな軍人さんの事を思い出した。
あの人、夕飯は要らないと言っていたけど、それだと朝まで持たないんじゃないかと、勝手場に入りお櫃に入っているご飯を掌に載せる。予め手には塩水をつけてあるから味付けはこれだけでいいだろう。男の人だしと私が普段食べる量よりも多めにおにぎりを作り、名無しさんが止まっている椿の間まで持って行き、部屋の前で中に向かって声をかける。
「いらっしゃいますか?」
暫く待っても返事はなく、中にいないのか。と結論付けててもいいが、折角嘘つきな軍人さんの為におにぎりを作ったのだから、持って帰るのはなんとなく引けてしまい、私はおにぎりをのせているお盆を床に置いた。すると椿の間の扉が音も立てずに開いて、中から男が出てきた。外套は肩から掛けていたが、頭が出ており、私は今日初めて男の顔をちゃんと見た。男の左右の顎近くの頬には痛々しい傷跡があり、私を見下ろす目に光はなく真っ暗闇で私は背中に冷や汗が一滴流れた。
なんなんだこの男は。なんでこの男の人と目が合った瞬間私の身体は動けなくなるの…?
「何で来た。夕飯はいらないと言った筈だが」
「…っ、お腹を減らしては可哀想だと思って」
「女将の仕業か?」
男の質問に私は黙って首を横に振った。女将さんは既に帰ったし、これを持って来たのは私の独断だ。だから女将さんは関係ない。それを伝えようと私は、おにぎりののったお盆を両手に持ち男の真っ暗闇の目を逸らさずに見て言った。
「私の判断です」
お盆を差し出すも男は私を見たまま、視線を逸らさない。どうしたらいいんだろうか。震える両手はそのまま男に差し出している。これは私の意地だ。この男の不気味さに怖いと一瞬でも感じてしまった。でも折角作ったおにぎりを無駄にはしたくない。この男に食べて欲しい。私は半分睨みつけて男に向かって叫ぶように言った。
「さぁ!受け取ってください!」
「…ここの仲居は握り飯を押し付けるのが流儀らしい」
そう言って男は私の腕を掴み、部屋にあげ、部屋の壁に私を押し付け座らせた。私の両手には依然としてお盆がのっており、男は立ったまま私に向かって歩兵銃を向けて、何時でも撃てるようにと構えている。どうしてこうなったかと考えるが、状況を理解できていないのだから、正確に今の状況を捉える事なんて出来るわけがなかったのだ。
「その握り飯を今食え」
「何故ですか?私は貴方にと作ったんです」
「お前の事は信用してないからな」
となると、この男は私が毒を盛っている可能性があるとでも言いたいのかもしれない。警戒心が強すぎる。初めて会った女中に対してもこの警戒心の強さだ。
なんでこの人はこんなにも警戒しているんだろう。ただの仲居の私に向かって…。
その歩兵銃を下すつもりのない男に向かって、あからさまな溜息を吐きお盆にのっかっているおにぎりを一つ取り、それをこれでもかって程に頬張る。母が見たら確実に叱られるであろう私の食べ方を見て男は、意表を突かれたような表情をし、やっと歩兵銃を下した。
私はそれを見て、ホッと胸を撫でおろす。私が何も企んでいない限り撃たれる事はないと思っていた。だからその心配はしていなかったけれど、万が一があるかもしれないと、緊張していたのだ。
男はしゃがみお盆の上からおにぎりを一つ取ると、それに口をつけた。無表情のままおにぎりを食べるさまは不気味だったが、それよりもおにぎりを食べてくれた方が嬉しくて、思わず笑みが零れた。
「美味しいですか?」
男は私の質問に対して無言のまま、おにぎりを食べ進める。何も言わない男に、失礼過ぎないか?と思いもしたが、そういう人なんだろうと、無理矢理納得して、私は立ち上がり、備え付けの棚の中から湯呑を取り出し、それにに水筒に入れたお茶を入れる。お茶も毒見した方がいいのかと思い、飲んだ方がいいですか?と確認すると、男は首を縦に振るので、湯気の立つそれに向かって息を吹きかけ、表面の温度を少しでも下げて火傷しないように少しだけ口に含み、それを飲み込んだ。
「…寄こせ」
お茶を渡すと男はそれを煽った。熱さを感じないのか。と固まったが、軍人さんは私が想像も出来ないような鍛え方をしているのかもしれない。
お盆にのっかっていたおにぎりは全てなくなり、男は立ち上がって窓際に寄り、腰を落ち着かせる。この人は此処に来てからずっと外を警戒しているんだろう。これだけ警戒してるって事は誰かに追われているのかもしれない。だから自分が此処にいる事を誰かに尋ねられても言うなと言ったんだ。
「来たか」
「え?」
肩から羽織っていた外套を頭にも被せ、歩兵銃を両手で持ち真っ直ぐ立てている。
来たというのは彼の事を追っている人の事だろう。となるとこの旅館に来るのかもしれない。
「失礼致します」
丁寧に座り直して、三つ指を畳に着き頭を下げる。男は私の方を一瞥する事もなくこう言ったのだ。
「上手くやれよ」
ただのお尋ね者をうまくかわせばいいだけ。この時の私は簡単な事だと思っていた。