「ごめんください」
男の人の声が聞こえ、玄関に行くと二人の軍服を着た体格のいい男の人達が立っていた。男は私を見つけると、お尋ねしたい事が…。と話を切り出した。そして私は理解したのだ。名無さんはこの人達から逃げているんだと。なぜ逃げているかはわからない。だけどあの人は“言うな”と言ったのだ。
「なんでございましょう?」
「こちらに尾形と名乗る男が泊りに来てませんか?」
「尾形、様ですか…いえ、本日当館を利用して下さっている中にそのような名前の方はいらっしゃいません」
“尾形さん”はこの旅館に泊まってない。これは事実だ。それをありのまま伝えると、黙って聞いていた軍人さんが歩兵銃を握り直して、私を睨みつける。名無さんに見つめられた時程の恐怖はなかったが、睨まれると怖いものは怖い。肩をビクッと揺らし、恐怖に負けじと軍人さん方を見ると、重ねるように同じ言葉を発した。
「こちらに尾形と名乗る男が泊りに来てませんか?」
「…はい。そのようなお客様はおりません」
「名簿帳を見せて頂いても?」
軍人さんのお願いは、客客商売をしている身として出来ないお願いだったので、無言で首を横に振ると、軍人さんは口調を強めに私を責め立てる。
「軍に逆らうというのか!」
「申し訳ありません!ですが信用商売です!お客様の情報は公開出来ませぬ!」
二人の内一人が私に向かって歩兵銃を向ける。名無さんの時とは違い、言葉や行動を間違えたら撃たれる。名無さんの時は私は毒を盛ってない事を食べる事で証明してみせたが、今回は私が嘘をついていない事を、帳簿を見せる事で証明出来るが、それは出来ない。
どうしたらいいんだろう。どうしたらこの軍人さん達は納得してくれるんだろう。
震えて何も言えないでいる私を見て、歩兵銃を構えてない方の軍人さんが震える私を見て信じてくれたのか、構えている銃を下すように言ってくれた。それを見て私はやっと息が出来るような気がした。その様子を見た軍人さんが苦笑いして謝り、玄関から出て行った。音を立てて引き戸が完全に閉まった。力が抜けた体は重力に従って床に膝をつけ座りこんだ。
怖かった…。
なんで私がこんなに怖い思いをしないといけないんだ。それもこれも椿の間に泊っている男の所為だ。
「今日は、もう寝よう」
力の抜けた状態から何とか抜け出し、足に力を入れて立ち上がる。当直用にと当てが割れた部屋に行き、押し入れから布団一式を取り出し、畳にそれを広げてお風呂に行く準備をした。お客さんが利用できなくなった時間からは、私達従業員が使って良いと女将さんが言ってくれたから、そっちに行こうと思って着替えの着物を持ってゆっくりと移動する。案の定浴場には誰もおらず一人風呂をしながら、体を癒す事が出来た。
さて。
当直室に戻り、予め敷いておいた布団に包まり眠りに入る。夢も見ずに深い眠りに就いた私が次に目を覚ましたのは、雀が鳴く頃で女将さんは既に出勤していたようで、乱れ箱が何かにぶつかる音も聞こえてくる。春とは言えまだ朝は寒く火鉢が近くにないと起き上がれない。だけどそんな事を言っている暇はないのだ。私も着替えて働ける体制に入らねば。
「女将さん、おはようございます」
「おはよう。昨日は任せてごめんね。何もなかったかい?」
はい。と笑顔で答えれば女将さんも笑顔で頷いてくれた。仲居用の着物に着替える私を尻目になんて事のない、日常的な会話を交わしてくれる。
「今日もしばれるねぇ」
「ですねぇ。起きるのも一苦労で…」
準備が整い、二人で勝手場に行き朝食の準備をする。私は朝食をまだ食べていないが、それはお客様がご飯を食べ終わった後にこっそり食べる事にしている。今日はお客さんが少ないうえに椿の間の名無さんは要らないと言っていたので、今日はいつもより早めにご飯を食べる事が出来るかもしれない。
大きな黒いお盆に料理を乗せ客室まで運ぶ。声をかけると既に白樺の間のお客さんは起きていてようですんなりと朝食を座卓に並べる事が出来た。次は自分の朝食を作ろうと浮足立って勝手場に戻ろうと客室の前廊下を歩いていると、通りかかった部屋の引き戸が急に開き、連れ込まれた。悲鳴を上げる暇もないまま驚きで固まっていると、男の声が聞こえた。
「握り飯を作ってこい」
「……名無さんかぁ」
「なんだ?早くしろ」
椿の間の男がおにぎりを要求したいが為に、こんなに私の心臓に負担のかかるやり方をしたのか。
なんとも腹が立つが、自分のご飯を作るついでだ。と頷き椿の間から出て、今度こそ勝手場に向かう。女将さんが私の朝食を作ってくれていたが、事情を話して私もお櫃の中からご飯を取り出しておにぎりを数個作る。昨日同様私が普段食べる量よりも多めに作り、ついでに余っていたお味噌汁も持って行こうとすると、女将さんが沢庵も持って行きなさいと言ってくれたので、小皿に沢庵を数枚乗せて、黒い大きなお盆にそれらを乗せて椿の間に向かった。
声をかけると、入ってこい。と中から声が聞こえたので引き戸を開けて中に入る。名無さんは窓際に座って未だに外の様子を気にしている。昨日来た軍人さん達はちゃんと誤魔化したのに、それでも自分以外に対する警戒は怠らない。
「おにぎりは食べた方がいいですか?」
「持って来たもの全てに口をつけろ」
だから毒なんて盛ってないって。と口に出しそうになったが、ぐっと堪えてお盆を座卓の上に置き、その横に男と向き合うようにして正座する。先ずはお味噌汁に口をつけ飲み込み、次におにぎりを、次いで沢庵を口に入れる。見せつけるようにそれぞれを飲み込むと、用心深い男は暫く私の様子を観察し、やっと窓際から動き朝食に手を付ける。昨日と変わらず無表情でご飯を食べる様は見ていて不気味だが、私がそれを口出すものでもない。今日帰っていくお客さんに向かって、食べ方が気に食わない。とは言えない。
「美味しいですか?」
試しに聞いてみても、無表情のままご飯を食べ進めている男はやはり何も言わない。
私も座ったまま少し後ろに下がり、男と距離を取り立ち上がって部屋から出る。引き戸を閉める時に私は男の様子をぼんやりと見たが、男は私を一瞥しただけで何も言ってこなかった。
今、私の方を見た…?
気の所為ではないと思うんだが、と考えても答えは本人に聞く以外に方法なんてないのだから、考えるのを止めて女将さんと旅館の清掃に励むこととする。途中白樺の間のお客さんが帰られたのを二人で見送り、時間になっても名無さんが部屋から出てこないので、見に行くと既に部屋に男の姿はなく、剥き出しに置かれたお金と朝食に出した食器が座卓に置かれていた。窓が全開になっている所から見ると、男は間違いなくこの窓から出て行ったんだろう。部屋を出て女将さんにお金と部屋の状況を伝えると、女将さんは溌剌と笑い、私の手からお金を受け取り料金の確認をしていた。
「少しばかり多いね」
「どうしてでしょうか…?」
「心付けだろうね」
もらっておきなさい。と少しばかりのお金を女将さんが私に差し出すが、もらう理由がないと断ると女将さんが、可笑しそうに笑い無理矢理私の手にお金を握らせる。
「椿の間のお客さんはあんたが世話をしたんだ。これはあんたのもんだよ」
「…はぁ」
世話をした記憶がないが、怖い目に遭わせた給料と受け取る事にした。正直、これじゃあの恐怖の対価には見合わないような気がしたが、もうこの旅館に居なくなってしまった人だから何も言えない。もう二度と会わない男の人は一体何処に行くんだろう、なんて感傷に浸る。
あの人と過ごした時間は本当に僅かで、すぐに風化してしまうようなものなのに、あの人の所為で起こった出来事は暫く忘れさせてくれないんだろう。
椿の間の掃除も終わり、女将さんとゆっくり世間話でもしながらお茶を飲んでいると、女将さんお得意のお節介が発動し、私にいい人はいないのかい?と顔を緩ませながら聞いてくる。因みにこれに素直に首を横に振ると、お見合いを勧められるのだが、事実私にいい人がいないから首を横に振るしかない。
「もう婚期でしょう!私に任せればいい人紹介するのに」
「結婚にそこまで興味がなくて…」
この女将さんの紹介しようとしてくるいい人とは、紹介人だ。女将さんが紹介人を紹介してくれて、更にその人が写真を持ってくる、というまどろっこしいものなのだが、女将さんはそれでいいと何度も私に話を持ち掛けてくる。いい加減諦めないものかと思うが、年を重ねるにつれてそういうお節介は図太くなるらしい。それに紹介人が紹介してくれる人は階級の高い軍人さんの息子さんで、怪しさしかない。なんでそんな人と結婚しないといけないんだ。
母は所謂お嬢様で、詳しい事は何も聞かされていないが、時折小樽の家に母方の叔父が来ては何かと怒鳴り合っていた。父の家も裕福だったのか、親戚の人が小樽に来た際に家に立ち寄り、お土産など持って来ては挨拶をしてくれたものだ。どれも両親が生きていた時の話で、亡くなってからは以前のように挨拶に来ることもなくなり、今では年に一回か二回だけだ。
「雪子ちゃん、そろそろ帰る頃かしら」
「そうですね」
「お疲れ様」
「お疲れさまです」
当直室に戻り、普段着の着物に着替えて旅館を出て家を目指して歩く。途中にある八百屋に行って買い物を済ませると、八百屋のおじさんがおまけで追加の野菜を持たせてくれた。正直荷物は重くしたくないのだが、おまけでくれると言うのなら是非欲しい。お礼を言って家を目指す。丘の上に立つ洋館は近所でも有名で、目立つからかこの辺りで私達を知らない人はいなかった。
「ただいま」
そう言っても、もう誰もお帰りなさいなんて言ってくれない。もう慣れたと思っていたけど、何故か今日はそれが胸を締め付けた。