スクロールする恋

 この世の中には一体優良企業……所謂ホワイト企業なるものはどれだけの数があるのだろう。
 私が働いている職場は所謂ブラック企業だ。残業なんて当たり前で、定時帰宅なんて単語はとうの昔に忘れ去った単語だ。
 そんな私にも彼氏と言う存在はいる。私の仕事の都合や、向こうの都合で会えるのは2ヵ月に1度程度だがこまめに連絡は取り合っている。正直なんであの人が私なんかと付き合っているのだろう? と時折首を傾げることがあるが、それを彼に伝えると怒鳴られるのは目に見えているから、聞いたことも話題にあげたこともない。

 今夜はそんな彼と待ちに待ったデートなわけで、朝からソワソワし続けていたし定時帰宅で職場から立ち去れるように仕事だって片づけた。
 それだというのに。

「苗字さぁん! この仕事今日まで何だけど、頼めるかなぁ?」
「えっ、私この後用事があって……」
「奇遇ぅ〜! 私もこの後用事があるの。それよろしくね」

 語尾にハートマークが付きそうな程甘ったるい声の持ち主は、同僚の事務職員だ。容姿に気をかけていて、男性職員からも評判が高い、と言うのは要らない情報だろう。
 そんな彼女は人の話を聞かない。正確に言えば、聞いてはいるが自分を優先するタイプの人間で、時折私にこうして仕事を押し付けて来る。周りの人間に助けを求める視線を投げかけて見ても、誰だってこれ以上仕事は抱えたくないと、目を合わせる事すらしない。

 “ごめん。今日、残業になっちゃった”

 メッセージアプリで勝己くんに謝罪の言葉を送ると、すぐに既読が付いた。返信も早く、何時に終わるのか? と聞かれたが、甘ったるい声の同僚が押し付けた書類の束は、かなりの厚さで何時に終わるのかわからない。それを素直に伝えると、先程と同じようにすぐに既読は付いたが返信はなかった。

「はぁ……」

 吐く溜息は周りのタイピング音に掻き消され、私はiPhoneをデスクの脇において書類に手を付けた。
 カチカチと進んで行く秒針。長針と短針は一体何回重なったのだろう。気が付くと広々とした室内には私と、もう1人の男性職員しかいなくて、時計を見れば終電にギリギリ間に合いそうな時間だった。

「私帰りますけど、どうしますか?」
「俺も帰るよ。苗字さんを1人で帰らせるわけにはいかないし」
「ありがとうございます」

 仲がいいわけではない。穏やかな笑みを浮かべる男性職員は元々の人が良いのだろう。プロヒーローとして活躍する勝己くんだっていい人だけれど、短気な性格が先行してヴィランっぽいヒーローランキングでは毎年上位常連だ。
 ……愛想がいい勝己くんは最早勝己くんではないような気もするが。

 そんなくだらない事を考えながらも、男性職員の話に適当に相槌を打ちながら会社の外に出ると、見慣れた高級車が道路脇に停められていた。車に寄りかかりスマホを見ている男は金色の髪をしていて、変装用なのか目元にはサングラスを、口元はマスクをしていてる。顔の大部分を隠しているにも関わらず不思議と不審者には見えず、がっしりと鍛えられた身体や、カリスマ性と言えばいいのかタダ者ではない感が相まってお忍びの芸能人にしか見えない。

「こんな時間にどうしたんだろうね」

 男性職員が言うのも無理はない。きっとあの男の人は勝己くんに間違いがない。と言うことは、彼は私を迎えに来てくれたのだろう。何時になるのかわからない。と言ったのに、だ。

「苗字さん行こう。終電逃しちゃう」
「あ、私……」
「その手ェ離せや」

 私の腕を掴んだ男性職員の腕を握ったのは勝己くんで、男性職員は私と勝己くんの顔を交互に見ている。その表情は驚きを隠せないようだ。
 そんな彼に構ってはいられないと、勝己くんは私の手を引き彼が所持する高級車の中に容赦なく押し込まれ、勝己くんは行き先を告げることなくアクセルを踏んだ。
 着いた先は勝己くんが生活しているマンションで、何回も足を運んだことがあるから足取りは迷うわけがない。だというのに勝己くんは私の腕を掴んだまま離してはくれない。何回か勝己くんの名前を呼んだが全て無視。短気な彼は怒る時声を荒げ、目を吊り上げるからわかりやすいのだけれど、今の勝己くんは怒っているのにどれにも当てはまらない。
 玄関に入ってからも勝己くんは無言のまま。挙句には私を抱き上げ寝室に足を運ぶ。

「勝己くん……?」
「あの男、なんだ?」
「職場の人で、今日たまたま残業が被って、夜遅くになったから駅まで送ってくれるって」
「その男が"駅まで送る"って言ったんか」
「ニュアンス的に……?」

 その答えが気に食わなかったようで、勝己くんの目が鋭くなる。

「テメェそれでもし家まで送られたらどうなるかわかってんのか? あ?」
「え? そんな事にはならないと思うけど」
「わかんねェだろうが!!」

 劈くような怒鳴り声に身体が震えた。なんでこんなに責められなきゃいけないんだろう。あの人は親切心で送ってあげると言ってくれただけなのに。その時その場にいなかった勝己くんに変な勘繰りをされたくはない。

「勝己くん何も知らないくせに、変な事言わないでよ!」
「あぁ?! テメェこそ何もわかってねェじゃねェか!!」
「わかってるもん!」

 怒鳴り合いに発展してしまった口論は止まる所を知らない。普段抱えているストレスは1度決壊すると雪崩れ込むように次々と言葉が出て来る。勝己くんが怪我をしていないか心配だ。電話したい。もっと会いたい。

「それだけか?」
「うん」
「ンなもん言われなくたって叶えてやるわ!」

 お前だけが寂しいと思ってんなよ。と怒鳴るように勝己くんは叫んだ。そこで私は初めて寂しさを感じていることに気が付いた。そうか、私は久しぶりに勝己くんに会ったというのに、こんな事になってしまって悲しく寂しかったのだ。

 ベッドに腰を掛ける勝己くんの首にそっと両腕を回した。頬に勝己くんのツンツンした剛毛な毛先が当たってくすぐったいが、それよりも伝えたい言葉がある。

「好き。大好き」

 そう言うや否や、視界は揺れ背中には柔らかい感触がした。天井が勝己くんの顔越しに見える。

「抱くぞ」

 厚い皮膚を持つ勝己くんの掌が私の掌と重なった。
 与えられる温度に私は一筋の涙を流した。確かにそれは幸せの涙だった。
 

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