泡沫に末路

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 男が見上げた空は雲一つなく、まさに快晴。何処までも高く青空は続き、空を見上げている人間の心まで澄み渡らせるような、曇りを知らない良く晴れた日。とある男が庭で自慢の花々に水を上げている時だった。
 やんちゃな男の子が、やーいやーい。と囃し立てている声が男の耳に届くと直ぐに、少年の「僕は日本人だ」と訴える声が聞こえた。その声は震えており、今にも泣いてしまうのではないか。と庭先で花を愛でる男は心を痛め、邸の門から顔を出す。
 やんちゃな少年はまさか人が出てくるとは思わなかったのか、門から顔を出す男と目が合うと、ぎょっと幼い瞳を丸くさせ、今にも涙を流しそうな少年に背中を向け、何処かに向かって走った。

 男の住んでいる邸が目立つが、ここは住宅がいくつもあるのだ。家人だって出て来るであろうに。と男は痛む心をそのまま、呆然と立ち尽くす少年に近づいた。

「少年」
「っ! ……誰、だよ」
「この家のお爺さんですよ」
「おじ……?」

 少年は男の台詞に首を傾げた。それもそのはず。少年の目に映る男はこの時代には珍しく着流しを着ているが、とてもお爺さんと形容するような外見ではない。墨のように黒い髪は短く切り揃えられていて、同じく黒いその瞳は大きさ故にかお爺さんどころか、お兄さんと呼んでもおかしくはない出立だ。

「お兄さんじゃなく?」
「これでも私は結構歳をとっているんですよ」
「ふーん……」

 爺さんと自称した男はぼんやりとした黒の瞳で、大きな瞳を潤ませる少年を観察した。確かに異人だと思える容姿をしている。金色と形容出来るミルクティーのような色合いの髪に、褐色の肌。目鼻立ちがはっきりしていて、容姿が整っているが……頬や額に絆創膏をつけている。
 男は先程の少年たちのやり取りを思い返し、もしや。と考えを巡らせた。

「少年。私の家に遊びに来ませんか? 丁度梅が見頃なんですよ」
「普通桜じゃないのか?」
「おや、桜も風情があっていいですが、古来より花と言えば梅と言われる程馴染みのある花なんですよ」
「……見る」

 どうぞ。と着流しを着ている男は少年を邸の敷地内に招いた。玄関を通らず、真っ直ぐに中庭に向かい、男はふと立ち止まった。その後ろをついて来ていた少年は何事かと、男の影から顔を出すと、満開に咲く梅の木があり、そよ風で大輪を揺らしている。
 少年は褐色の頬に薄く紅を差し、幼い瞳を大きくし感嘆の声を漏らした。

「すごい!!」
「そうでしょう。少年、こちらに座って待っててください。お茶を持って来ますから」
「うん!」

 警戒心を何処かに置いて来たのか、少年は男に言われた通り、縁側に腰を掛けるも沓脱石に僅かに足が引っかかる位で、少年はぶらぶらと足を前後に揺らしている。そんな少年の視線は色んな所に彷徨っていて、忙しなく大きな瞳を動かしている。
 梅の木もそうだが、中庭には小さいながらも池があり、鹿威しが定期的に音を立てている。室内に目を向ければ畳張りの床に彫刻されている欄間。奥の部屋は障子で締め切って見えないが、奥の部屋もこの部屋と同じように和室なのだろう。と所謂日本家屋というものを前に、少年は色んな期待や想像を膨らませていく。

「お茶とお菓子を持って来ましたよ。少年の口に合うと良いんですが」
「大福だ」
「好きですか?」
「うん」

 男はお盆に湯呑と小皿に大福を乗せたままそれを少年の横に置き、男はそのお盆の隣に座り、お盆に乗せている湯呑を持ち上げ少年に手渡す。

「暑いですから気を付けてくださいね」
「う、うん」

 少年は男から湯呑を受け取り、それを口元に持って行き何度か息を吹きかけ水面を冷まし、少量口に含んだ。お腹の中を染み渡るような優しい味に、少年はぽつり、と言葉を漏らした。

「ねぇ。僕、日本人に見えない?」
「何か言われたんですか?」
「僕ね、ハーフ? なんだって。だから髪の色も肌の色も皆と違う。だけど、日本で生まれて日本で育ったんだ! それなのにあいつらは、僕を日本人だと認めてくれない!!」

 少年の悲痛の叫びは言葉尻になるにつれ、怒号に変わっていく。それ程までに散々吐かれてきた言葉に胸を痛め、腹を立てているのだ。そんな少年を横に、男は一つ笑みを零した。それを見た少年は馬鹿にされたのかと、眉間に皺を寄せ大きく口を開くが、男が少年よりも早く声を出した。

「少年はこの国が好きですか?」
「うん。好きだよ……だから悲しい……悔しい……先生に喧嘩しちゃダメだって言われたから、沢山我慢してるけど、僕、あんな奴らに負けたみたいで嫌だ」

 俯く少年の髪は日本人には珍しく明るい色をしている。そよ風で揺れるその髪に男の指が触れ、男はそのまま少年の頭の上に掌を置いて、数回撫でた。少年は驚き、咄嗟に男の方を見ると、矢張り男は笑みを浮かべたままだったが、さっきとは違い、馬鹿にされているとは微塵にも思えなかった。
 それは、男が嬉しそうに笑っていたからだろう。

「少年。強くありなさい。誇りがあるのならば、守る為に立ち上がりなさい」

 誇りは誰かに守ってもらう事は出来ません。守るのは自分自身なのですから。
 男は諭すように少年に語りかけると、少年は意味を理解しきれなかったのか、小首を傾げている。そんな少年が愛らしく、男はまた明るい髪を持つ少年の頭を撫でた。

「ほこりって何? 喧嘩してもいいって事?」
「誇りの為になら……と言いたいところですが、流石に昨今ではそんな考えは古臭いですね。暴力だけが正しい方法ではありませんよ」
「だってあいつらしつこいんだ」
「では、何度でも教えるしかないですね。自分は日本人だと。挫けてもめげてもいけません。根気強く何度でも日本男児ならば諦めない事も美点ですよ」

 男は一瞬遠い目をし、何処かに思いを馳せているようだったが、少年はそんな事に気付きもしないで、大きく頷いた。

「僕、この国が好きだよ」
「ありがとう、少年」
「零、僕の名前は降谷 零って言うんだ。覚えておいてよ! お兄さん!」
「えぇ」

 邸に招き入れた時の少年は今にも泣きそうな顔をしていたが、邸を出る頃には自信に溢れた表情をしていた。ありがとう。と男が言ったその言葉は少年の脳裏に優しく響き、少年が自宅に帰る頃には調子よく鼻歌まで歌っていたのだった。
 


小鹿