泡沫に末路

03

 私の朝は特に早くも遅くもない。出勤時間がある訳でも退勤時間がある訳でもない。その日の旦那さま……菊さんの予定に合わせて動いているからだ。
 今日は少しだけ早めの出勤。特に理由はない。菊さんの作った朝餉を食べたい。ただそれだけだ。

 四六時中一緒にいたいのだが、それだと私の時間が穏やかにゆっくりになっていき、寿命じゃ死ねなくなるようで、菊さんはそれを嫌がり四六時中は一緒にいてくれない。
 決して菊さんは私の死を望んでいるわけではない。ただ、ヒトとしての在り方を変えて欲しくないだけなので、私も菊さんが望んた通りに一定の距離を置いている。

「おはようございます」
「おはようございます。今日もよろしくお願いしますね」

 渡されている合鍵を持って本田邸に入ると、丁度廊下を歩いていた菊さんと鉢会った。
 へらりと笑って見せれば、菊さんも目を細めて微笑んだ。今日も調子が良さそうだと内心で頷けば、ワンとキャンを混ぜたような鳴き声が足元から聞こえる。

「ぽちさんも、おはようございます」
「ワン」

 屈んでぽちさんの頭を撫でれば、ぽちさんが太腿にその小さな身体を乗りあげようとしたので、前足の付け根に手を入れて抱え込み、そのまま立ちがる。

「ご飯を食べに行きましょうね」

 もふもふとした小さな犬は、私がほちさんと同じ大きさの時からいる。むしろ、私が産まれる前からいるし、父も同じことを言っていた。
 これが所謂“時間が穏やかにゆっくりと進むようになる”ということなのだろう。菊さん曰く気が付いたら一緒にいた。とのことだが、江戸時代には既にいたような記録が残っている。どこぞのテレビ番組のように、何代目豆助みたいに何代目ぽちくん、と言う訳でもない。
 この小さな犬は、その身一つで何百年という時間を菊さんの傍らで生きている。
 正直、羨ましい限りではある。私だって出来ることなら未来永劫菊さんの隣にいたいし、菊さんをこの身で守っていきたい。でも菊さんはそれを嫌がる。過去を遡っても一ノ瀬家の人間やその他の人間が、百年と生きた記録は残っていない。
 ただのヒトが限りなく限りのない寿命を与えられたところで、待っているのは絶望と狂気なのだろう。ギルベルト先生が人は人の理から外れると、気が狂い身体と心が乖離し瞳の色が濁る。と教えてくれた。そうさせない為に菊さんが私の手をいつか離すのだろう。
 それが菊さんの優しさだから私は受け入れるしかないのだ。

「ぽちさん、今日の朝ご飯はなんでしょうかねぇ?」
「塩鮭とお味噌汁と卵焼きと冷や奴ですよ」
「いいですね! どれも美味しそうです」

 せめてこの小さな犬に、私の思いを少しでも託しておこう。いつかやって来る別れがもしかしたら今日やって来るのかもしれないし。

 お味噌汁の匂いに混じって朝の匂いが仄かに香る。ぽちさんを畳みの上に降ろして卓袱台の前に座る。両手を合わせて「頂きます」と口にする。すると菊さんも「いただきます」と両手を

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小鹿