泡沫に末路

02

 翌日。少なからず心の痛みを無駄に負わされたと同時に、いい勉強にもなったあの日を境に、贔屓にしていたあの喫茶店に足を向ける事はせず、事件を解決してくれた探偵が働いている「喫茶ポアロ」に向かって車を走らせた。
 菊さんの上司がいる場所からは少しばかり遠くて、あの喫茶店は立地と紅茶の味はよかったな。と近くの駐車場に車を停めて歩くと、毛利探偵事務所と書かれた看板が目に入った。

 あれがあの有名な……。

 その事務所が入っている建物の一階にあるのが喫茶ポアロで、木製の扉を引いて開けると、カラン。と扉に付属しているベルが客入りを知らせる。その音に反応するように、男の声で「いらっしゃいませ」とお決まりの台詞が耳に入る。

「一ノ瀬さん。来てくださったんですね」
「お礼をしたいと言ったのは此方ですから。それよりもよく名前を憶えていましたね」
「昨日の今日ですから。さぁ、こちらにどうぞ」

 喫茶店に入って最初に目を向けたのは、カウンターの中に立っている男だった。褐色の肌に金色ともミルクティー色ともとれる髪色。すらりと背が高く、少々幼い顔つきをしている男はまさに美丈夫。と呼ぶに相応しい成りだ。そんな男性……安室さんに案内され、カウンターの一番端の席に腰を下ろして、メニュー表を広げた。
 軽食からデザートと豊富な飲み物。喫茶店らしいそのメニューにどれにしようかと迷う事なく注文した。

「ホットミルクティーを一つお願いします」
「かしこまりました」

 本当はコーヒーを注文すれば幾らか格好がいいように思えるのだが、小さい時からコーヒーは飲めず、二十歳を四年前位に過ぎて、いい加減大人になったのだから、と挑戦してみても、あの苦さには慣れず断念し今となっては飲めなくてもいいだろうと開き直っている。
 その事を知ったアーサーさんは嬉しそうに私の頭を撫でてくれたのが、唯一の救いのような気がする。

「お待たせしました」
「ありがとうございます」

 注文してからそんなに時間を待たないで、ミルクティーを受け取った。今日は客入りが悪いのか私を含めて五人しかいなくて、店内に入った時にちらりと見たが、遅めの昼食なのだろうと思われる軽食を頼んでいる人が殆どで、長居する気があるのは私しかいない。
 普段からこんな感じなのだろうか。それとも、今日に限っての話しなのだろうか。と自分には関係のない事を考えつつ、運ばれてきたティーカップを持ち、表面の温度を下げる為に何度か息を吹きかけ、カップの縁に口をつけてほんの僅かのミルクティーを口に含む。猫舌故に多くの量を口に入れる事が出来ないのが悔やまれるが、こんな情けない所、誰かが見ているわけでもない。とその動作を何度か繰り返し、満足したところで視線をティーカップから上に向けると安室さんと目が合った。

「あ……」
「熱過ぎましたか?」
「いえっ、その……私、猫舌で……えっと、すみません」
「ふふ、僕こそすみません。一ノ瀬さんが頑張っている姿が可笑しくて、つい見てしまいました」
「……笑いを提供出来るような飲み方はしていないと思いますけど」

 心外だ。とまでは思わないにしろ、そんなにおかしな飲み方をしていただろうか? と首を思わず傾げてしまうくらいには安室さんの反応に驚いた。この話をし続けるのも不毛、というか、こっちが一方的に恥をかくだけだ。とない頭を回転させどうにかこの会話を切り上げようと、先日あった事件について口を開いた。

「そう言えば、安室さんって探偵もやってらっしゃるんですよね? 二足の草鞋は大変じゃないんですか?」
「そうでもないですよ。店長も梓さんも理解してくれてますし、事件自体そこまで多いものでもないですから」
「そういうものなんですね」
「そういうものですよ」

 ソーサ―の上に置いたティーカップの中には白茶色の液体が入っていて、受け取った時から量が変わってないように見えるし、カップの中からは湯気立っている。あれだけ息を吹きかけて熱を冷ましたというのに、これだけ湯気が立っていると、猫舌の私にはこのミルクティーは楽しめないのではないだろうか。とくだらない事まで余計に考えてしまう。
 はた。ととある疑問に行き当たる。この店に来たのは初めてだからわからなかったが、店員は安室さん以外にもいるようだ。そりゃ当たり前の事か。とカウンターに立つ安室さんの後ろ姿を見た。彼は“店長と梓さん”と二人の名前を挙げたと言う事は、この店の従業員は全員で三名と言う事なのか。と小学生でもわかるような推測を立てる。

「そう言えば梓さん今日はお休みですね」
「女性の方ですか?」
「えぇ。一ノ瀬さんとも歳が近いと思いますよ」
「そうなんですか」

 さして興味もない話題だったからこの話題を適当に流し、両手でティーカップを持ち上げカップの端に口を付け息を吹きかけた。天井に向かって緩やかに立ち昇る湯気は、息を吹きかけると比較的真っ直ぐに立ち昇っていた湯気が大きく乱れた。何度も湯気を大きく乱し、意を決してミルクティーを口に含むもやはり熱い。

 この様子を安室さんに見られいると思うと恥ずかしいが、仕方がないのだ。と割り切り暖かい紅茶を口に含む。
 のんびりとした穏やかな時間。さて、どうやって時間を潰そうか。と考え至った結論が普段つけている日記を此処で書くか、本でも借りて読む事だ。しかし今現在そのどちらも手にしていないから、その手段で時間を潰す事が出来ない。
 晩冬のこの時期、外はまだ寒く外に出ようという気は一切起こらない。これを怠惰と言われても仕方がないかもしれないが、菊さんを護衛し始めて早数年。試せる暇潰しは大体試して来たのだ。飽きが来るのも仕方がない。と自分に言い訳を重ね、また一口ミルクティーを口に含んだ。

「丁度いい……」
「一ノ瀬さんは学生さんなんですか?」
「うん? あぁ、昼間から此処にいるからですか?」
「大学生くらいなのかな、と思いまして」

 確かに年齢的には大学生と間違われても仕方ないものだが、残念な事に大学には通った事はないし、高校を卒業した後、みっちり扱かれて無事に菊さんの側役を請け負う事が出来た私は、立派な社会人と言ってもいいのではないのだろうか。

「残念な事に学生ではないんです。仕事柄昼間は割と時間が空いてるんです」
「そうでしたか。失礼しました」
「いえ。大学生と同じような歳ですし、昼間からのんびりしているのを見たらそう思いますよ」

 気にしないでください。と付け足し、ぼんやりと店内の内装を見渡した。昼時も過ぎた今時間、店内の客は私だけでじっくり見ても大丈夫だろう。と左右首を捻りながら観察していく。

「どうかされましたか?」
「落ち着いた雰囲気が好ましいな。と」
「それはよかったです。マスターも喜びますよ」

 世間話にも満たない話を誰も居ない店内で話していると、ふと、今自分が置かれている状況を考えた。店内に客は私だけ。店員さんも安室さんだけ。二人きりの空間。ふと湧いてくる疑問。

「私長く居座って迷惑ですか?」
「いえ、そんな事はありませんよ」

 何時間も居座られては迷惑この上ないだろうに、安室さんは親切にも笑顔を浮かべて私の言葉を否定した。嬉しい否定な筈なのに、気を使わせてしまったのではないか。という不安が僅かに胸の内に残り「邪魔だったら言ってください」と言うと彼は「言いませんよ」と店員らしくまた否定した。

 カランと来店を知らせるベルが鳴り、視線を向けるとランドセルを背負った男子小学生が立っていた。その男子小学生は、こんにちわ。と安室さんに挨拶をすると、私に目を向け小首を傾げた。そんなに視線が煩かっただろうか。と反省し、少年から目を逸らし、ティーカップに視線を向けると足音が聞こえ、次にランドセルをカウンターに置く音も聞こえた。
 何故かこんなにも席が空いてるにも関わらず、少年は私のすぐ隣の席に腰を掛けたのだ。

「コナンくん、今日はどうしたんだい?」
「家の鍵がなくて」
「珍しい事もあるね」
「朝おじさんがバタバタしてたから、その時に持って行っちゃったみたいで」

 安室さんは少年が何も注文していないにも関わらず、透明のガラスで出来た細長いグラスを少年の前に置いた。中身は黒く、匂いからもアイスコーヒーだというのは手に取るようにわかった。が、こんな小学生がアイスコーヒーを好んで飲むのか? と疑問が頭を過るが、人の好みなんて千差万別。と結論づけすっかり冷めてしまったミルクティーを飲んだ。

「ねぇねぇお姉さんって、一ノ瀬 桜乃さん?」
「そうだけど、君と会った事あったかな?」
「やっぱり! 僕一ノ瀬さんが大会に出ていたテレビ見た事あるんだ!」

 テレビ。と言われて真っ先に思いつくのは高校の時の空手全国大会のテレビ中継だ。確か毎年テレビ局が会場に入っていたはずだけど、私が高校の時なんて何年も前で、少年がテレビで見ていても記憶にないんじゃないか。と首を傾げると、安室さんも違った意味で小首を傾げていた。

「テレビって何かされているんですか?」
「空手を少々。君、良く知ってるね。もう何年も前の事なのに」
「蘭姉ちゃんが一ノ瀬さんのファンで、何度も録画した映像を見てるから」
「蘭さんも空手をやってますからね」

 “蘭さん”という方が何方か知らない私は、納得する安室さんを尻目に、今でもファンって言ってくれる子がいるのか。と胸に熱いものが込み上げてくるのこの感動を味わっていると、また来店を知らせるベルが鳴った。
 今度は女子高生で、懐かしい制服を身に纏っている。

 帝丹高校の制服懐かしいなぁ。なんて感慨深く眺めていると、女子高生は私と目が合うと驚いたように大きな目を更に大きくさせた。何かおかしなものでも付いていただろうか。と少し焦ると、隣に座る少年が「蘭お姉ちゃん」と声をかけた。
 彼女が噂……噂でもないが、私のファンだと言ってくれていた子か。と驚かれた理由を察し、近づいて来る蘭ちゃんに向かって笑顔を浮かべた。

「あの! 一ノ瀬 桜乃さんですよね?!」
「貴方が蘭さん? 初めまして一ノ瀬 桜乃です」
「初めまして、毛利 蘭です! こっちは江戸川 コナンくん。私中学の時から一ノ瀬さんのファンで、高校も一ノ瀬さん追いかけて決めたんです」

 そんなにか。と驚きはしたものの、嬉しさの方が勝り、ありがとう。と言うと彼女は頬を赤らめ照れたように笑った。蘭さんは今日は急いでいるみたいで酷く残念そうに眉尻を下げている。その姿が可哀想に思えて彼女に声をかけた。

「基本的に平日は大体此処にいると思うから、タイミングが合えばまた話しましょうね」
「はい!!」

 蘭さんは何度も頭を下げてコナンくんを連れてポアロから出て行き、事の経緯を見守っていた安室さんは、私に視線を向けるとへらり。と笑った。

「この店は気に入ってくれましたか?」
「えぇ。格好いい店員さんと、可愛いお客さんがいるお店ですから」

 そう言いながらティーカップに口をつけ、随分と冷めてしまったミルクティーを飲んだ。何よりもこの味が気に入ったのだから、此処に来ない理由がない。
 


小鹿