大淫婦バビロンは誰のことぞ
さて、ジウスドゥラが言っていた“地上で一番低い場所”は恐らくカナンにあるわけだが、カナンとはヨルダン川と地中海と死海に挟まれた地域を指す。アンナとギルガメッシュが初日に辿り着いた都市の名前はアイという地域だ。そこから紅海に向かってギルガル、エリコ、エルサレム、ヘブロン、アラデとなって行くわけだが、アンナの星詠みでは死海付近に若返りの霊草があると出ている。精々、回るとしてもヨルダン川と死海に隣接している都市を中心に回って行くだろう。
少しでも早くこのカナンという地域から出たいアンナは、ギルガメッシュに早く霊草探しを諦めてくれと念を送ってみるも、死という恐怖を前にギルガメッシュは諦めることを知らないで探し続けている。
アイからギルガルに移動して三日。この旅に消極的だったアンナの顔色が傍若無人のギルガメッシュですら顔を顰めるほどに悪くなっていた。
「小娘、拾い食いもほどほどにしろと言ったはずだが」
「誰が! ……拾い食いなんて、するわけ、ない……じゃない」
威勢が良かったのも最初だけで、急激な失速を伴いながらアンナの言葉が消えていく。
流石に異常だとギルガメッシュが目を細めたのが就寝用の天幕の中だ。微かに聞こえる息はか細いくせに荒さを感じさせる。息苦しいのかとギルガメッシュが隣で寝そべるアンナの上半身を起こすも、呼吸が楽になる気配がまるでない。
アンナの体はヒトの女を経由して生まれたものだが、神格は間違いなく神々と並ぶものだ。病気になどなるわけもない。だが、この女神は神々の営みの中で生まれたものではなく、人工的に作られた女神である。エルキドゥと違い体は泥ではないが、造り自体はヒトのものに近いのかもしれん。と真紅の瞳を細めたギルガメッシュは、今だに短く息を吐き出し続けるアンナの顎を掴んで持ち上げた。
「故障か、不具合か」
あまりにも短い質問ではあったが、普段の威勢を失ったアンナにとっては無駄な思考に体力を割かないその質問は有り難かったが、そのどちらも正しい答えではなく、緩く首を左右に振った。
「多分、聖域が近いんだと思う……魔術師が他の魔術師に自分の領域を犯されたくないように、神も神の聖域を犯されたくないのよ」
普段だったら気にも留めない不快感。だが、慣れない地域で活動することはアンナの体に小さな疲労感を募らせ、反発する体力すら僅かだ。
「カナン……そうか、乳と蜜の流れる大地があるわけだな。しかし、それは先の話であろう。今の貴様になんの関係があるというのだ」
「私たちがその聖域に近付いているから、警戒しているんでしょうね。私は言わずもながだけど、ギルだって半分は神なんだから警戒されて当然よ」
約束の大地カナン。それは神がアブラハムの子孫に与えると約束した地上の楽園。信心深い人だけが入れるその地は導かれねば入ることも許されず、偶然に見つけたとしても、回り続ける剣が入り口を塞ぎ楽園に入ることを許さないという。
神秘で隠しているその場所は、いつ開かれるのかもわからない。ただ、今はそこに存在しているのだ。ずっと先の未来の為に。
「面白い。興が乗ったぞ雑種」
「ちょっと待って、ギル、あなた、まさか……」
「そのまさかよ。明日の朝此処を立ちその乳と蜜の流れる楽園とやらに行ってみようではないか。何、久々の観光所巡りよ。案内は任せたぞ」
上半身を起こしていたアンナの首元に腕を回して、床に寝そべるギルガメッシュに引き摺られれば、逆らう余裕もないアンナは四肢を垂らしたままされるがままになるしかない。
僅かに身体を浮遊させるだけでも精一杯の身体に、何をさせる気なんだと一言言ってやりたいがその体力すら惜しい。
結局アンナはさらに重くなった体に自由をギルガメッシュに託したまま、ロバ荷車に乗って気怠げに口を開くだけだった。
そもそも聖域とは神が整える区画であり、実際に神がいる区画を神域と呼ぶ。これからギルガメッシュが行こうとしているカナンにある約束の大地は神の聖域であり、神が選びし人類──信心深いアブラハムの子孫にのみ開かれる永遠の楽園。そこは間違いなく聖域であり、ウルクの都市神であるアンナにとってカナンの地は紛れもない毒でしかない。そんな地域に近付けばどうなるかは火を見るよりも明らかだ。
「この神殺し……!」
「ハッ! 我はくだらん神々と決別をしたが故に、今更神殺しを遂げたところで賛美にもならん」
「くたばれ、このっ、不敬者……!」
「雑種。己が立場を弁えよ。その素首に別れを告げたいらしい」
この男はやると言えばやる男だ。己が形を保つのに殆どの魔力を使っているが故に今ギルガメッシュと刃を交えるのは避けたいところ。黙って整備が整っていない道路のお陰で揺れる荷車に横になっていることしか出来ない身だ。終いには腕を上げるのも億劫になってきたとなると、今の姿を保ち続けるのも難しい。
折角成長した姿だが、形が無くなるよりはマシだと自分に言い聞かせて大人の女の姿から幼児の姿になった。
煙を上げながら姿を変容させたアンナを目の前にしても、ギルガメッシュがアンナの魔力不足を理解出来ないわけではないが、友であるエルキドゥなら兎も角、後継機であるアンナに気を使う程優しい男ではない。
「みてくれと魔力も幼童並みに落ちているな。出来損ないの神らしい姿ではないか。中々に楽しませてくれる。……して、姿形も繕えなくなっている所を見ると近いな」
「そうね!」
約束の大地の場所はどこにも明記されていない。ただ時が来たら楽園への道が開かれると。それまでは入口を二人の天使が門番をし間には黄金の剣が回転し続けているとだけ、聖典に記されているだけだ。
ではどうやって見つけれないいのか。簡単な話だ。アンナの具合が悪くなる方に向かって無作為にロバを走らせればいい。人間の女から生まれたとはいえ、アンナの自我はバビロニアの神々と同じく神だと認識している。それに対してギルガメッシュは神々と決別すると言っている手前、己が肉体は兎も角自我は人間のものだ。故にこの土地の神はギルガメッシュに対して威嚇なんてものをしない。同じ規格である二人だが苦しんでいるのは神であるアンナだけなのだ。
くたばれ。
そんな罵りの言葉さえ今のアンナには惜しい体力だった。
そうしてアンナは遂に意識を手放した。
人が住まう街からどんどん離れて行き、気が付けば平坦な草原が広がる景色が今にも形を失いそうになっているアンナの視界に飛び込んだ。
時刻は黄昏。何時間くらい寝ていたのだろうかと、少しはまともに動けるようになった上半身をゆっくり起こせば、ロバを操縦しているギルガメッシュがアンナの目覚めに気が付き眉間に深い皺を生み出す。
「遅い! いつまで寝ているつもりだこの戯け!」
「……どのくらい寝ていたのかしら」
「もう三日は寝ている。遂にその役目を放棄したかと思ったが、存外生にしぶといらしいな」
「三日!?」
どうりで体が幾らか楽なはずだと納得するのも束の間。活動し始めた体に回す魔力が足りないと、魔力の源である心臓に似た核が大声を出して騒ぎ始め、アンナは起き上がって数十秒で再び横になった。
そうか。三日、三日かぁ。
三日も起きなかったけどギルガメッシュは移動し続けたのか。死にかけの幼児を連れ回すように。なんて野蛮な男だ。いくら約束の大地へ行く為へのアンテナだとしてももう少し気を使っても神罰は降らない、むしろ気を使わないことで神罰が降ってもおかしくはない。こんな状態じゃなかったら雷でもなんでもあの男の脳天に落としてやれるのに……!
自由の効かないアンナが下唇を噛んでやるせなさを堪えていれば、皮膚が爛れる熱さに見舞われた。実際に皮膚が焼けているわけではない。何も攻撃を受けていないのにも関わらず、アンナは全身の皮膚が焼かれる強烈な痛みを感じ呻き声を上げた。
「い、だぃッ!! ゔぅ……!!」
アンナの異変にギルガメッシュの両手で握っていたロバの手綱を引き荷車が進行を止めた。すると途端に草原に影帽子が生まれゆらりと蜃気楼じみた人影が生まれ、次第に影がなくなり人の姿をした何者かがそこに立っていた。
「“汝、ここから先へ向かうことは許されず、罪を認め罰を受けよ。さすれば全知全能なる神もその笑みを崩すことはない”」
「ほう? この我に罪の是非を問うか」
ギルガメッシュよりも大柄な男の背中には真白い翼が生えており、間違いなく約束の大地に着いたのだ、着いてしまったのだと半ば切望した気持ちのまま二人のやり取りの行く末を見守ろうと、焼け爛れる痛みに耐えながら見つめていれば、もう一人の天使が現れた。
機械的に同じ文言しか言わぬ大男に目を細めたギルガメッシュが己の背後に金の円盤を浮かび上がらせれば、それに対抗するように二人の天使の間に黄金の剣が浮かび上がり剣が回転し始める。
とうに荷車から降り傲慢な態度で二人の天使の前に立つギルガメッシュの後ろから、数え切れぬほどの英雄殺しと名高い武器たちが飛び出し標的に向かうも、蜃気楼の中に溶けて行くだけで擦りもしない。
聖域は間違いなく目の前にあるものの、約束の民ではないアンナとギルガメッシュでは入る為の条件を満たしていないが故に、幻覚じみた映像は見せるものの“本物”を見せる必要がないのだろう。
「つまらん。贋作では我の相手をさせるのも褒美が過ぎる」
「“立ち去れ大淫婦とその王よ。二度とこの大地に足を踏み入れてはならぬ”」
「大淫婦だと……?!」
これ以上はないほどの嘲を受けて我慢が効くギルガメッシュではないが、そんなことは構うまいと回転し続けている黄金の剣がぴたりと動きを止め、アンナに矛先を向ける。刹那、黄金の剣が予備動作なしにアンナに向かって飛び出しす。指一つ動かすことが出来ないアンナは逃げることも黄金の剣を防ぐことも出来ない。
──殺される!
アンナが出来る精一杯の抵抗と言えば、貫かれるその瞬間まで視線を逸らさず睨むことだけだったが、視界の端に剣と同じ色を持つ円盤から幾つかの剣が飛び出し、剣を弾き飛ばそうとするも、白い翼の生えた大男に対して攻撃が効かなかったように、また剣にもギルガメッシュの攻撃が効かず地面に突き刺さるだけだ。
で、あれば。この黄金の剣だってアンナに届く訳はない。猫騙しだとさらにキツく睨み、体を通り抜けるその瞬間を待ち構えたが、心の臓を貫く寸前で性質が変わった。
「まずい──!」
幻影が現実に変わったものの、体を捻ることも出来ないアンナの心臓に大男が両手で持たねばならぬような大きさの剣が突き刺さり、小さな体からこれでもかというほど血飛沫が上がり地面に鮮血で出来た大輪の花を咲かせる。
「アンナ!!」
アンナの肉体に心臓というものは備わっていない。命の期限というものがないからだ。故に心臓を貫かれたところで肉体的死は訪れない。が、非常に拙い事態になったことに変わりはない。
魔力を生み出す核がアンナの心臓部なのだ。咄嗟に核を守ったアンナを嘲笑うように剣先が核に触れてひび割れを促した。人々の楽園の入り口で赤子の絶叫が響き渡る。ギルガメッシュが駆け出しアンナの体を抱き上げ、傷口を塞ごうと掌を当てがうも、貫かれた挙句剣はアンナの心臓から引き抜かれた所為で栓が間に合わず、手の隙間から止めどなく鮮血が流れ続ける。
そしてその剣は何事もなかったように二人の天使の間で回転している。そこにはアンナの血は着いておらず、目を惹く輝きを放っている。
「“壊れなかったか”」
「“だがそれでも大淫婦の核は不能になった”」
「“地の底に落ちる偽りの神よ。お前は自生する魔力によって淫らな肉が腐り溶け、その美しい顔は見るも無惨なものに変わる”」
それがお前の運命であり、覆ることはない。
そう言い切った二人は出現した時と同じように消えていった。
ギルガメッシュの腕に抱かれるアンナの肌は青白く、止まらない血が高貴なるギルガメッシュの衣服を汚したりず地面に滴っていた。