序章に過ぎない徒然
目が合った! 目が合った!
可愛い子、可愛い娘。
この庭で駆ける君はなんと可憐で、私の心を震わせるのだろうか。ご覧。君が微笑む度に花が歌い、風が躍り、小鳥が恋をしている。
あぁ、君はなんて素敵な人なんだ。
さぁ私に触ってくれないか。その真っ白で穢れを知らないその掌で私を包み込んでくれ。
あ、でも私の身体に付いている棘には気を付けるんだよ。まだ君を傷つけるつもりはないのだから。
「あれ……? こんな所に薔薇なんて咲いていたっけ?」
まるで小鳥の囀りのような声! 君の発する声までもが私を魅了し、惹きつけて堪らない。
さぁ、さぁ、さぁ! さぁ早く私をその小さな掌で触ってくれないか。そしてその飾りのような小鼻を近付けて欲しい。
「まぁ! なんていい匂いなの。お母様が植えてくれたのかしら。それともお父様? 早くお礼が言いたいわ」
お礼なら私に言っておくれ。いいや、私が君にお礼を言いたいのだ。言葉があれば、君と意思を交わせる術が私にあれば。とこんなにも願ったのは初めてだ。
ご覧、私の真っ赤な花弁を。鮮やかだろう。華やかだろう。私はきっと君の為に咲いたんだ。そんな私を君は気に入ってくれるだろうか。
もしかしたら私の棘で君が傷ついてしまうかもしれない。その雪のように白い肌から流れる鮮血は、私の花弁と同じように鮮やかで華やかな赤なのだろうね。
早く見てみたいな。でも今はその時じゃない。
「お花摘み取ってしまったら可哀想かしら……」
君の手に摘み取られるなら、私は何の文句もないよ。但し、私を君の一番傍に飾っておくれ。それだけで私は君が望むまで咲き続けるよ。
こんな変哲もない中庭に相応しい私ではない。私が養分として欲しているのは……わかるだろう?
あぁ、この蔓が人の腕のように伸びて君を包んでしまえたらいいのにね。そうしたら君の温もりを私は味わえるのだろう。真っ赤な薔薇で埋まる君もきっと綺麗だ。
人にこんな感情を持ったのはいつ以来だろうか。もしかしたら初めてかもしれないね。私は私という時間軸を知らない。気が付けば真っ赤に咲き誇る薔薇として生きていたんだ。
可愛い君は薔薇にも意思が宿っている事を知らないだろうね。私も知らなかったよ。
……いや、十二分に知っているさ。何を言っているのだろうね私は。
そんな事より私の可愛い君。君に祝福を上げよう。なに、焦るものでもないさ。ゆっくりで構わないよ。
君が君のままでいる限り、私はいつだって君の味方さ。
「マリー! このお花を部屋に飾りたいの。手伝ってくれないかしら」
「お嬢様そのまま触っては怪我をしてしまいます。このばあやにお任せくださいな」
「うーん。私が自分でやってみたいの。駄目かしら?」
困ったように小首を傾げる君も何て愛らしいのだろうか。だけどね、私も心配しているんだ。苦労を知らないその指先が私の棘で傷ついてしまうんじゃないかって。でも私は我儘だから、君の手で摘み取って欲しいとも思っているんだ。
困ってしまうだろう。
「……わかりました。それでは今手袋を持って来ますので、少しお待ちください」
「ありがとう! マリー、大好きよ!」
可愛い私の君の細腕が老婆の背中に回る。柔らかく抱き締めるその腕は明らかに老婆の身体を気遣っての事だろう。
私はその日の昼には可愛い君の部屋にひっそりと佇んだ。陶器で出来た花瓶に私だけが存在している。この部屋には私と、私の可愛い君しかいない。
あぁ、早く、早く夜になってくれないか。そうしたら私は君を抱き締める事が出来るのに。
「おやすみなさい。薔薇さん」
おやすみ私の可愛い君。
何も知らずに眠って君が望む夢を見るといい。私はそれを歓迎しよう。
あぁ、それにしてもこの花瓶は邪魔くさいな。
私は身体に複数生えている棘を人の腕のように伸ばして、サイドテーブルに手を付いた。そうして花瓶から身体を持ち上げて濡れそべっている身体に肉を付けていく。
あぁ、これだ。この感覚だ。懐かしい。懐かしい。
誰かは私の姿を見て、ドワーフとも呼ぶしエルフともフェアリーとも呼ぶ。私という存在に名前はないし、私も私の名前は知りもしない。
ただの赤薔薇の妖精だ。それ以上でもそれ以下でもない。
私の可愛い君。夢の中で一体何を見ているのだろうね。君と一つになればそんな私のちっぽけな願いも叶うのだろうか。いいや、叶わないだろうね。だって私は君と一つになりたいわけじゃない。変わらない君の一番側にいたいのだから。
その為の私からのプレゼントだ。受け取っておくれ。
窓から射し零れる月光に照らされた私の影は、人間の赤ん坊よりも小さい。可愛い君の掌に乗れてしまうような大きさだ。背中からは蝶のような羽が生えている。明らかに人ではないその姿。この世界なら誰しもが一度は見かけた事はあるだろうが、私は私の仲間に会った事はない。つまり、そういう事なのだろう。
この世界に妖精と呼ばれる存在は沢山いても、私と同じ赤薔薇の妖精はいないのだ。
ねぇ、だから私の可愛い君。私とずっとずっと生きてくれないか?
私の腕となった棘が再び蔓となって、可愛い君を覆っていく。
ぷつり。と私の棘が可愛い君の柔肌に喰い込んでいく。穢れを知らない。痛みを知らない君の肌は僅かな抵抗をしたけれど、意味なんてなかったね。
ご覧。私の花弁と同じように鮮やかで華やかな鮮血を。
これで私たちはお揃いだね。あぁ、でも君は鮮血の赤よりも、無垢で純粋な白がよく似合っているな。
そんなちょっとした後悔をしながらも、私はこの身体を棘が生えている蔓に変え、可愛い君の身体に巻き付ける。
あぁ、そうだ。姿が全て隠れてしまう前に妖精の祝福を送らねば。じゃないと君は生きたままこの蔓に閉じ込められてしまうのだから。
「愛しているよ。私の可愛い君」
そっと触れた唇は柔らかく、その色は桜貝のように目を惹きつける。可愛い君はその全身で私を誘惑して来るのだだから、私はなんて幸せ者なのだろうか。
「可愛い、可愛い人の子。プレゼントをあげよう。その美しい姿のまま生き続けられるように。ただ思い出してはいけないよーー」
月明かりに照らされた私の妖精としての姿は変り果て、可愛い君を私自慢の棘が生えている蔓で覆った。
愛おしい君。これで私と君はずっと一緒に生きられるよ。時間なんて概念を捨て、ただ楽しい時を過ごそう。
君が何もかもを忘れていてくれれば、私は漆黒の薔薇となり咲き続けるよ。
ほら、朝陽が昇って小鳥が祝福の讃美歌を歌い、風が私たちの頬を母の手のように優しく撫でてくれている。
この世界は私たちをこんなにも祝福してくれているんだ。