真っ赤に染めないで


 静寂。それは私が愛するものの一つだ。私が生まれた所はとても静かな場所だった。
 朝も昼も夜も人の声がしない、そんな場所だった。私にはそれが心地良くてまるで真綿の中で微睡むようだった。

 朝、朝陽の日差しに目が刺激されて、瞼を開けて縮こまった背中を後ろに反らして身体を起こす。そうして朝露を浴びた私たちを見て回って綺麗に咲いているかを確認する。
 昼、お昼寝の時間。たまに小鳥が私に話しかけてくるけれど、私は小鳥が何を語りかけているかなんてわからない。わかったらきっと楽しいのでしょうけど、あと何年時間を費やしてもわかりそうにはない。
 夜、太陽がすっかり姿を消して月が真上に昇ったら、私は深い眠りにつくの。幸せな夢が見れますように。と誰かに祈ってから寝るが、一度も夢と呼ばれるものを見た事がない。本当に夢なんて見るのかしら。と誰かに向かって疑問を問いかけたいけど、私は私以外の存在と交流を持った事がない。

 小鳥は毎日見るけど、話した事はないし、蝶も時折姿を見せるけど、何もしないで去っていく事が多いから、交流なんて出来やしない。風に聞く人間は何度か姿を見るが自分から話しかけた事もないし、話しかけられた事もない。多分私の姿が見えないんだと思う。
 ……私以外の妖精は人間とお話する事が出来るのかな? それすらわからない。
 少なくとも私は私以外の生命と交わる事が出来ない。見えない境界線が足元にでもあるのだろう。

 何もない小さな箱庭に私の全てが詰まっている。それを悲しいともつまらないとも思った事はないし、まして嬉しいだとか幸せだとも思った事はない。
 私にとってそれが普通でこれからの変わらないものだと思っていた。

 箱庭がある邸は随分古い。壁中に蔦が這って本来の壁の色がわからなくなってしまっている。私が初めて私を意識した時はまだ壁に蔦はなくて、この邸にもまだ人の声があったように思う。
 随分昔の話で覚えていないけど、何となくそんな気がする。
 遠い過去の事を思い出すだけで頭が痛むのだから嫌になる。

 時間という概念が完全に失われた私の生活は酷く単調だった。
 気の向くまま、背中に生えている蝶のような羽で飛んでいける。それでも私の本体である白薔薇から離れすぎてしまうと、力が抜けて飛べなくなってしまうのだけれど、それで苦労をした事はないから、気にも留めていない。

 何処までも単調で静寂で長閑で穏やかな毎日。不変の日々。
 私はそれを信じて疑わなかった。

 ――それはある日の夜を境に急激な終わりを私に告げた。

「違うって! お前俺の説明聞いてた?!」
「あぁ! だからその通りに塗っただろう」
「だとしたら何も聞いてねぇんだよ!」

 煩い。煩い。煩い、煩い煩い煩いうるさい!!
 誰よ私の優雅な昼寝を妨げる人は! 見つけたらただじゃおかないんだからね!

 そう息巻いて私は勢いよく瞼を開けた。そこには目元に赤いハートのフェイスペイントを施している赤茶の髪をした男の子と、ハートの男の子とは反対の目元に黒いスペードのフェイスペイントを施している、深い藍色の髪をした男の子が何やら言い合いをしながら、折角白く咲いた薔薇をペンキで赤く染めている。

 私の眠りを妨げた挙句に、この私を目の前にして白薔薇を赤薔薇にしようだなんていい度胸じゃない。と私は寝起きの身体を解す為に両腕を空高く上げた。
 そうして二人の男の子の前まで行って、ハートの男の子の耳元で叫んだ。

「今すぐ白薔薇を赤く染めるのを止めなさい!」

 全身全霊の叫び声だった。私史上最大の叫び声だったであろう。その声は無慈悲にもハートの男の子には届かず、その隣で赤いペンキがべっとりと付いた刷毛を握っているスペードの男の子にも届かなかった。
 なんて悲しい……。と肩を落とす私の姿なんて視界に入っていませんと言わんばかりに、男の子たちは白薔薇を赤く染めていく。

 あぁ、もう止めて! 息苦しいの。それは私と同じなのよ。貴方たちにわかって? 無理矢理色を変えられる私たち薔薇の気持ちが少しでもわかっているのかしら? いいえ。わからないでしょうね。じゃないとこんな風に惨い事出来るわけがないわ。

 がっくりと小さな肩を落とした私は、全身から戦意が消え去り、トボトボと男の子たちから少し離れた灌木にひっそりと咲く白薔薇に腰を下ろした。めそめそと泣きたいがそんな事をしたところで私の白薔薇たちの色が元に戻ってくれるわけじゃない。
 私の声は彼らには届いていないようだったし、どうしたら止めてくれるんだろう。もう一度叫んだら今度は私の声が届くかしら。……ううん、きっと届かないでしょうね。だってあれが私の最大の叫びだったんだから。

 じゃあどうしたら……と目の奥から熱いものが込み上げてくる。それを止める術は私にはなくて、気が付けば頬に朝露のような雫が伝っていた。
 泣くな泣くな泣くな。泣いたって何もかわらないってさっき自分で言ってたじゃない。泣くよりも解決策を考える方が先でしょう! と私は朝露が伝う頬を勢いよく両手で挟んで気合を入れ直した。

「よしっ! もう一度ぉ!?」

 もう一度耳元で叫んでやる! と男の子たちに視線を向けると、急に視界が陰って赤い模様が入った生地が一面に見えた。
 それは間違いなくハートの男の子が着ていた服で、もうこんな所まで来たのか。と私は驚愕で目を丸くさせた。
 どうしよう。どうやって抵抗したらいいの?! と冷静になれない頭で考えても、解決策なんて出てくるわけもなく、真っ赤なペンキが付いた刷毛が、私の本体である白薔薇を赤く染めようとしている。

「止めて! お願い!」

 ハートの男の子の指を掴んで押し返していると、隣にいたスペードの男の子が焦ったように声を上げた。

「まずいぞ! もう何でもない日のパーティが始まる時間だ」
「マジかよ! こんな奥まった所、流石にリドル寮長も来ないだろうし、諦めて行くか」
「確かにそうだな。優等生としては心苦しいが、遅刻してまた首を跳ねられるよりはまだマシだ」

 リドル寮長? 何でもない日のパーティ? 何の話だ。と首を傾げる私の存在は、彼らの目には存在せず、私に背を向けてどこかに向かって走り去って行った。
 もうここに戻ってくる雰囲気もないし、最悪な事態は免れた……。と安堵の息を吐く私の目に、真っ赤に染められてしまった白薔薇の姿が映る。

 ……痛々しい。折角気高く純真の心のまま白薔薇に咲いたというのに、何も知らない人の手によって真っ赤に……まるで血の色のように穢されてしまった。

「ごめんね」

 真っ赤に穢れてしまった白薔薇の花弁に額を付けて謝るも、花弁からの返事は返って来ない。
 そりゃそうだ。花は喋らない。子供でもわかるこの世の常識だ。それでも私は謝らずにはいられなかった。こんな風に息苦しくさせてしまってごめんね、と言わないと、私の胸の奥で存在を主張している罪悪感に、心が潰されてしまいそうだったからだ。
 花きり鋏で切られたように痛い。蔓で締め付けられように苦しい。
 そんな罪悪感から解放されたいが為の謝罪かもしれない。だって私は、私の本体が穢されなくてよかった。と思ってもいるのだから。

 頬に何度滴目かの朝露を伝わせたところで、また人の声が聞こえた。
 さっきの男の子たちとはまた違う、男の子の声に私は朝露を零していた目を擦って、こちらに近寄って来そうな男の子を睨みつけた。
 今度こそは追い払ってやるんだから。と唇を噛み締めて、じっと一点を見ていると、赤い髪をした男の子が何かを見定めるような目をしながら歩いて来た。

「庭の薔薇は……うん、赤く塗られているね」

 その男の子の髪の色、何処かで見た事があるような気がした私は、必死に頭の中で思い出すが、先日まで単調な時間の中を過ごしていた為に、過去の事を思い出す事が一苦労なのだ。
 林檎……ううん。さくらんぼ……それも違うラズベリー……あ、何処かで見たあの深い赤薔薇に似ているんだ。何処で見たのかな? あの箱庭? いいえ、あの箱にはあんな髪の赤薔薇はなかったような……。

「おや、此処の薔薇は赤く塗られていないじゃないか。確か此処はエースとデュースが担当していた筈……」

 遠い過去の記憶を掘り返していると、私の本体が揺れた。風が吹いたのではない。人の手が触れた事で揺れたのだ。ちょっと目を離した隙に危機的状況に追い込まれた私に、追い打ちをかけるように、赤薔薇の髪をした男の子が胸元から赤い石を取り付けた棒のような物を取り出した。

「本当は叱らなといけないんだけど、時間がないからボクが塗ってあげよう」

 だから! 塗らないでって言っているじゃない! と私は勢いよく赤薔薇の髪をした男の子の前に飛び出し両手を広げた。そうして思い出したのだ。
 そうだ。私人の子の目に映らないんだった……。
 飛び出し、本体の花を守るように両腕を広げた私はなんて空回りをしているのだろうか。と唇を噛み締めると、大きな双眸を持っている男の子が更に石盤色の双眸を大きくさせた。
 なんて綺麗な顔をしている人なのだろうか。綺麗というよりは可愛い顔と言うべきだろう。日差しを知らない肌にぷっくりとした頬。唇は血色がよく鮮やかなピンク色で、その双眸は大きくはっきりとしている。
 ……違うそうじゃない。そうじゃないでしょ私。

 ――そう、今、私たちの目は……。

「よう、せい……?」
「貴方、私の姿が見えるの……?」

 決して交わる事のない境界線が、この瞬間消え去ったのを私は喜びとは思えなかった。
 





Bambi