思い出してはいけない


 翌日、学校を終えたボクは薔薇の迷路に向かって歩いていた。
 アン相手に何時に待ち合わせ。と打ち合わせをしても意味はないのは、とうの昔に知った。
 薔薇の迷路の更に奥にある、白薔薇の潅木に行こうと、迷路を通り抜ける途中の四阿で、またアンの後ろ姿を見つけた。

 この四阿がいたく気に入ったのだろうが、一体いつからここにいたのか。と半ば呆れる気持ちを抱えながら、アンの身体に不釣り合いな羽根を動かして、薔薇の木に咲いている白薔薇に触っている。
 純真な生き物だと思う。人間ではない彼女の姿は消えてしまいそうな程儚く見える。ボクが知っている妖精は力強い印象がある所為か、大きくなったアンを見ても小さい姿の時からあった天真爛漫なところを差し引いても儚い。
 手を握っていないと、そのまま白薔薇と同化してしまうのではないか。という不安が募る。

 ――消えない。ボクが彼女を消させない。絶対に。

 力を入れて握り拳を作ると、手袋が小さく悲鳴を上げた。その音に気が付かないまま、白薔薇に顔を寄せるアンを見つめる事数秒。白薔薇を見つめていた双眸がボクを捉えた。その瞬間バチッと音が鳴った。否、音が鳴ったように錯覚したのだ。静電気が走ったような衝撃。どうして今になってこんなにも彼女に――アンに視線が奪わされるのだろうか。
 今更じゃないな。きっと、アンに出会ったその瞬間からどんな理由であれ気になる存在だった。ただ、彼女に向き合う時いつも違う事ばかり考えていたから、些細な音に気が付かなかっただけで、本当はずっと前からこの微弱な電気は流れていたに違いない。

「アン」

 甘い感情を内包した穏やかな声色だった。ボクの事をよく知っている人間がこの場にいたらきっと、驚きで固まっているかもしれない。自分でも驚くくらいに穏やかな声色だった。
 然し、アンにとってはいつもの呼び方なのか、驚いた様子もなく、ボクの存在に気が付くと身体に不釣り合いな羽根を大きく動かしてボクのところまで飛んでくる。
 抱きとめようと両腕を広げると、アンはボクの胸の中に飛び込んできた。綿毛のように軽いアンが幾ら勢いよく飛び込んできても衝撃なんてあってないようなものだ。

「リドルくん」
「今日は機嫌が良いようだね」
「早く会いたかったわ」

 まるで猫のように擦り寄ってくるアン。彼女が言うボクに会いたかった理由なんてお菓子か、昨日の事しかない。その二択しかないのは悲しいが、アンの頭の中を占めているのがこのどちらかなのだから仕方がないだろう。
 アンの頭を数回撫でると、ボクの背中に回っていたアンの腕が解けた。

「このまま行くのかしら?」
「アンがそれでもいいなら」
「知っての通り私は暇だから大丈夫よ」

 向かい合って立つアンに手を差し伸べると、陶器のように滑らかな小さな手がボクの掌に重なった。
 軽く握って薔薇の迷路の四阿から、ハーツラビュル寮に向かって歩き出す。比較的ゆっくりと歩く事を意識しなくても、今日のボクの足取りはいつもに比べて遅いだろう。アンを自室に連れて行く最悪感からの行動ではなく、彼女に再び苦しい目に遭わせてしまう覚悟がまだない故の行動だ。
 昨日決めたのはボクだ。だから今更アンに何か言うつもりもない。でも、隣で浮いているアンを横目に見ると、どうしても先日の彼女の姿が蘇る。

「リドルくん?」
「なんでもないさ。このまま真っ直ぐ部屋に向かおう」
「わかったわ」

 ハーツラビュル寮の建物が近付くと、アンはボクの掌に置いていた手をするりと動かして、ボクの腕に絡めた。確かにアンの姿が見えない現状ではその方が有難いが、相も変わらずアンの体温が服越しに僅かにでも感じない事を突き付けてくるようで、あまりボクは好んだものではない。
 制服の生地が幾ら厚いからとはいえ、此処まで何も感じないものおかしな話なのだ。

 寮の扉を開けて中に入ると白と黒の菱形模様の床の玄関口があり、そのまま真っ直ぐに進むと、うねっている廊下がある。四つの方向に向かって分かれている廊下の先にはそれぞれのスートがあり、寮生が寝泊まりする区画に繋がっているのは、ハートの入り口だ。
 様々な寮生が行き来しているこの場ではあるが、ボクの姿を見て立ち止まらない寮生はいない。

「おかえりなさい寮長」
「うん。キミたちもお帰り」

 初めて見る光景に、ボクの腕に絡みついているアンは感心深そうに辺りを見回している。壁紙は三色が交互に塗られていて、額縁やトランプが不規則に張り付けられている。それにも目がいっていたのだろうが、寮生とボクの会話を聞いて、寮生に興味を持ったアンがボクの腕に絡めいていた腕の力を少し緩めた。幾らボク以外の人間に見えていないとはいえ、万が一何か起こったら困ると、ボクは緩んだアンの腕を脇腹で挟むように床に向かって垂れている腕に力を入れた。

「少し見るだけよ」

 離れて行かないように。という意味がアンに通じたようだが、それでもアンはボクに耳打ちする。聞こえていないとわかっていても、耳元に唇を寄せてくるあたり李かいと咄嗟の行動は別らしい。
 アンの姿は寮生から見えなくても、ボクの姿は寮生から見えるのは、考えるまでもなく当たり前の事だ。
 横目でアンを一瞥すると、アンは大人しくなった。

 自由にさせてやる事が出来ないのは心苦しいが、何かが遭ってからでは遅いのだ。

 寮生に分かれを告げてそのままボクの部屋に向かった。道中紅茶とお菓子くらい用意しておけばよかったな。と小さな反省をしたが、ボクの部屋に着いた途端のアンを見れば、紅茶を片手に語らう時間なんてものはなかったな。と眉尻を下げた。
 自ら男の寝台に座り、スプリングの感触を楽しんだ後、未だにベッドの前に立っているボクに向かって頭を下げた。

「では、お願いします」
「……本当にいいんだね?」
「うん」

 何処にも迷いが見当たらないその瞳にボクはいい加減覚悟を決めた。
 何が起こっても、ボクがアンを助ける。それでいいじゃないか。出来るか出来ないかの話しじゃない。やるんだ。他でもないボクが。

 ベッドに腰を掛けているアンと向き合うように、ボクは片膝をベッドに乗せるとワインレッドのカバーが皺を作る。そのまま腰を下ろしてアンと向き合うように座ると、何処か嬉しそうにした。
 何がそんなに嬉しいのだろうか。と内心首を傾げながら学校指定の制服手袋を外すと、アンが腕を伸ばしてボクの手を正面から握った。指を絡めて繋がれていくその光景が嫌にゆっくりに見えて、一瞬心臓が高鳴った。

「私ね、リドルくんと触れ合うの好きよ」
「……そう」
「リドルくんは? 好きかしら?」

 スプリングが小さな悲鳴を上げた。
 アンが動いたところでこのスプリングは悲鳴を上げない。偏にアンには重さがないからだ。それでも今鳴ったのは、他でもないボクが動いたからだ。指を絡ませながら繋いでいた手をやんわりと解いて、正面に座ってるアンの脇腹を両手で挟んで、持ち上げる。薔薇迷路でやっているみたいに、足の間にアンを座らせれば、アンは困惑から喜びに表情を変える。

「あまり直接的な表現は照れ臭いけど……こんな事をするのはアンにだけだよ。ボクが言いたい事、おわかりだね」
「ふふっ」

 あまりにもアンが嬉しそうに笑うものだから。恥ずかしさが込み上げて来たボクは赤くなりつつある頬を隠すように、アンの肩口に顔を埋めて深い息を吐いた。
 正直アンが小さく肩を揺らして笑っているものだから、あまり居心地が良いものではなかったけれど、こんな顔を見られるよりはマシだと、熱が落ち着くまでの間、肩口に顔を埋めていると、アンの小さな手がボクの頭を撫でた。
 規則正しく。心臓の鼓動よりもゆったりとしたリズムで撫でられるその手には、アンの体温は感じないが、ボクは彼女の優しさを享受していた。

「具合は、大丈夫そうなのかい?」
「うん。まだ大丈夫」

 顔をアンの肩口に埋めたまま問いかけると、アンは撫でる手を止めて答えた。顔をあげると撫でていた手を握ったり閉じたりしている。無言のままその動作を眺めていると、視線に気が付いたアンが眉尻を下げて笑った。

「どうしたら思い出せるのかしら」
「この前は頬を触れたんだったね」
「うん」

 アンの頬に触れる。両手で包み込むように。すると、アンの手がボクの手を挟むように触れるが、大きさが違う所為でボクの手を覆いきれていない。
 目尻を親指で撫でてみたり、耳殻を指先で撫でていると、アンがクスクスと笑いゆっくりと唇を動かし始めた。

「そう言えばね、庭に沢山の花が植えられてたの。私の好きな花だったわ」

 それは此処ではない何処かの話しの始まりだった。

「お父様が私の気を引こうとしてくれたのか、忙しいその身でありながらどの季節にも必ず花が咲く様にして下さったの」
「――優しいお父様だったんだね」
「えぇ。私の周りの人は皆、両親もメイドも執事も優しいわ」

 メイドに執事? 待て待て、アンはただの白薔薇の妖精ではないのか? 下手したらマレウス先輩のような上流階級の可能性もあるのか。だとしたら今頃捜索されていてもおかしくはない。
 一体彼女の背景に何があるというのだ。と驚くボクを他所にアンは瞳を伏せながら言葉を紡いでいく。

「陽だまりのような空間が私の全てで、それ以外を知らないの……ぁっ、ぐぁ!」
「アン!」

 流れるように軽い口調で語っていたアンが急に苦しみ始めた。頭を両手で抱え俯いているアンは、短い息を吐き出しながら痛みに悶えている。
 マジカルペンを取り出し、強制的に眠らせようとするも、苦しんでいるアンがボクの腕を掴んで動きを封じる。

「アン手を離すんだ!」
「ぁ、私、私は……はっ」
「アン!」

 吐き出す短い息の合間に震える声でアンが言う。何かを思い出したのか。とマジカルペンを振るおうとしていた手を止めると、弾かれるようにアンが顔を上げた。

「私の名前は、アイリーン・ランカスター……デオール・ランカスターの娘っ! ぁあ!!」
「アン!」
「思い出してはいけない呪い……薔薇が私を絡み取っていく……」

 半ば強制的に意識を失ったアンはボクに凭れかかった。綿菓子のよう軽いアンの身体を支える事は簡単だったが、彼女から発せられた言葉を受け入れるのは、今のボクは簡単に受け入れる事は出来そうになかった。

 ランカスター。それは薔薇の王国で伯爵の称号を与えられた貴族である。デオール・ランカスターとは、悲劇の伯爵として有名だ。今となっては魔法史の教科書に載るくらい有名な、事件の当事者でもある。
 彼の一人娘が薔薇の呪いにかかったのだから。

 ――アン……キミが、あの伯爵令嬢なのかい?

 ボクの問いに答える人はこの場の何処にもいなかった。
 静かに朝露を瞳から流しているアン。目尻を指で拭い抱え直してベッドに寝かせる。何時ぞやの時と同じように、アンの手を握ると不思議と暖かさを感じた。
 この変化が意味するところを、思い出してはいけない呪いをボクはまだ知らないでいる。
 





Bambi