目隠しの綱渡り


 “思い出してはだめ”。その言葉の意味を理解できないまま、数日が経った。
 あの日。朝起きるとアンは何事もなかったかのように、けろりとした表情をボクに見せた。体調は大丈夫なのか、と心配するボクに対し、アンは「ありがとう。だけど大丈夫よ」と、何ともなかったかのような口調で言った。
 妖精とは逞しいのか、ボクが心配し過ぎなのかはわからないが、少なくとも本人は大丈夫だと言っているのだから、今はその言葉を信じるしかない。

 学業に忙しく、アンに会いに行けなかった日が続き、漸く時間が取れたと、薔薇の迷路の更に奥にある白薔薇が咲いている灌木に足を向けると、迷路の途中にある四阿でアンの姿を見つけた。
 後ろ姿しか見えないが、あの身体に不釣り合いな羽根を生やしている女性の姿は、間違いなくアンのものだろうと、後ろから声を掛けると、驚いたのか、小さく両肩を跳ね上がらせ勢いよく後ろに振り向いた。

「リドルくん!」
「久し振りだけど、体調はどうだい?」
「大丈夫よ。そんなに心配してもらわなくても」

 へらりと笑うアンは立ち上がり、ボクの身体を腕ごと抱き締める。きつく抱き締められても痛くも痒くもないが、流石に両手が拘束されるのは良い気がしないし、アンの細い身体を抱き締める事が出来ない。
 肘から下の動く腕でアンの脇腹を軽く叩くと、アンはボクを抱き締める腕の力緩めてくれた。アンの腕の中から両腕を抜き出して、アンの背中と腰に手を回すと、気に入ったのか、アンは先程と同じような強さでボクを抱き締めた。

「ふふっ、苦しくないかしら?」
「アンは力が弱いから大丈夫だよ」
「ムキムキになってみたいわ。リドルくんからお菓子を一杯貰えばなれるかしら」
「……あまり想像したくないな」

 筋骨隆々になったアンは確かに強そうではあるが、今のような可憐さがなくなってしまうと考えるとあまりお勧めはしたくはない。今のままで十分だ。と意味を込めてアンの頭を撫でると、彼女は小さく肩を揺らして笑った。

 いつまでも抱き合っているわけにもいかない。と、離すように数回軽く背中を叩くと、今度は素直に離してくれた。あまり変わらない目線。それでも、アンの方が僅かに低くて目を覗き込むように見る彼女の双眸は真っ直ぐとボクを捉えている。
 あの日と同じような温度の視線だ。ボクの目を捉えて離さないというのに、鋭さはまるでなく、寧ろ暖かさ……アンからの好意を感じる程に甘く優しい。そんな視線がくすぐったくて一瞬目線を逸らして、四阿の中央にある丸いテーブルに目を向ければ、白薔薇が数本横に寝かされており、誰がこんな事をしたのだろうか。と内心首を傾げた。
 ハーツラビュル寮の生徒はこんな事しないだろうし、他の寮生だろうか。と冷めた瞳でテーブルの上にある白薔薇を見つめていると、ボクの視線の先に気が付いたアンが、一度後ろに振り向きすぐにボクと向き合った。

「あれ、私がやったの」
「どうして? キミは白薔薇の妖精だろう?」
「そうなんだけどね……枯れかけていたっていうのもあるんだけど、なんだろう……上手く言葉に出来ないわ」

 確かにテーブルの上に横たわっている白薔薇の花弁の一部は茶色くなり、瑞々しさからかけ離れるように乾燥しかけている。だから摘んだと言われれば納得するが、それ以外の言葉に疑問を覚える。アンの中で何かが起こったのか。それはあの日、頭を抱えて気絶してしまった事に関係があるのだろうか。と不安ばかりが募るボクを他所に、アンは力こそ入っていなかったものの口角を上げた。

 ──キミは……己の最後を想像してしまったのだね。

 踏み込んでいいのだろうか。と今更怖気づいてしまうボクはなんて弱虫なのだろうか。
 然し、此処で踏み込まないと何かが手遅れになってしまいそうで、咄嗟にだらりと垂れているアンの手を握った。突然の事に驚いたアンはその双眸を更に大きくさせ、音の出ない唇と数回開閉させると、今度は僅かに眉間に皺を寄せて眉尻を下げて笑う。
 そんな笑顔が見たいわけじゃない。ボクが見たいアンの表情はそんな悲し気な、何かを諦めてしまったような笑みじゃない。

 ボクはアンの手を握ったまま大きく足を前に踏み出した。困惑しているアンはされるがまま身体に不釣り合いな羽根を動かして付いて来てくれている。四阿を抜け、薔薇の迷路の奥に着いてボクは足を止めた。此処に何かあるわけじゃない。然し、アンが愛している白薔薇なら売れる程あるのだ。
 薔薇の木に生えている白薔薇を一輪摘んで、細かい棘を魔法で抜き取ってアンの耳の上に差した。きっと初めて会った時の小さなサイズの時には、薔薇の方が大きすぎて似合わなかっただろうが、今のアンに白薔薇はよく似合っている。

「リドルくん?」

 驚きを隠す事もしないアンの表情は、彼女の胸の内の感情を言葉よりも雄弁に語る。
 どうしてボクがキミの髪に薔薇を差したのかがわからないのだろう? 悪いが、その答えはボクも持ち合わせていないんだ。ただ、あの枯れていく花のように、いつか自分も枯れてしまうのではないか。とアンが感じたのではないか。と思っただけなんだ。そんな事、このボクがさせない。

「アンは何も変わらず、ボクが知る中で一番この気高い薔薇が似合う女性だ」

 一気に頬に熱が集まったアンは、身体の内から込み上げる熱を隠そうと、紅葉よりも大きくなったその手で顔を隠し俯くも、薔薇を差した方の耳が完全に露出してしまっている所為で、赤く染まっている事がバレてしまっている。そんな事に気が付いていないアンは、小さく肩を震わせたまま、何かを呟いているが、生憎とボクの耳には言葉として入って来ない。

 そんなアンの耳を親指で撫で、耳元に唇を近付けた。

「キミは枯れないよ。ボクがキミを枯れさせない。だからボクに話してくれないか」
「……何かを、思い出したの」

 薔薇の木に背中を預けるように腰をかけたボクたち。隣に座るアンは顔を俯かせている。
 ぽつりぽつりと紡がれるアンの言葉に、ボクは耳を傾けた。
 ──曰く。母親と父親と呼ぶに値する存在があった。顔までは思い出せずとも、頭や頬を撫でるその温もりは知っていると。
 次に思い出したのは、真っ黒の手だ。その手は激痛を齎し、思い返すだけでも怖いと顔を青くさせるアンの頭を抱き寄せ撫でると、彼女は弱々しくボクの背中に腕を回した。

「落ち着いてごらん。話すのが辛いならもう──」
「最後まで聞いて欲しいの! リドルくんには、私の事、知って欲しいの」
「──わかった」

 愛の告白のようだった。
 アンにその気はないと知っていても、ボクには愛の告白のように感じたのだ。

 ──曰く、突然やって来た恐怖は、何かを告げたと言う。でもその内容は思い出せないとの事だった。

「リドルくん、もう一回、私に直接触ってくれないかしら」
「だが、あの時アンは凄く苦しんでいただろう」
「それでも、それでも私は知りたいの! 私は一体何を忘れているのかを」

 半ば縋り付くようにボクを見上げるアンは、どこか焦っている。何故そこまで必死になっているのかが、ボクには理解出来なかった。
 だってそうだろう。アンは忘れてしまうのだから。
 自分の過去を思い出しても、数週間後には忘れてしまうのだ。
 ボクだってキミの過去を知りたいと思っている。でも、それはアンを深く理解したいからだ。
 忘れてしまうのにどうして、あの苦しみをもう一度繰り返さなければならないのだ。

「お願い……!」

 返事をしないボクに不安が募ったのか、アンの双眸には露の膜が張っている。

「あの日アンは“思い出してはだめ”と言ったんだ。それに、ボクはアンが苦しんでいるところは、もう、見たくないんだ」
「お願い」

 お互いに譲らない意志のぶつかり合いは、無言のまま相手を見つめ合う。逸らさないし、逸らされないその視線のぶつかり合い。
 ──先に折れたのはボクだった。

「わかった。でも今日はやめておこう。アンがまた倒れてもいいように、明日、ボクの部屋で。これ以上は譲歩しないよ。いいね」
「……わかったわ」

 渋々納得したアンの頭を撫で、その日はそれで別れた。
 思い出してはだめ。その言葉が意味するところを、ボクはまだ見つけられないでいる。
 





Bambi