War orphan







 
 
 ――戦争孤児。

 大陸を南北に分断した大戦が終結した。多くの犠牲を払った代償に手に入れた平和。その犠牲は今も、生き続けている。
 戦争で両親を亡くした子供の行き末は知れたものだ。一番多いのは人身売買だろう。そうでないのなら、野垂死ぬか、少ない賃金で雇われるか、盗みを働くか……戦争孤児の大半は、明日を生きていく希望を持たずに、今日を生きるのだ。

 「お花、いりませんか?」

 袖が擦り切れ、裾や腹回りが煤で汚れている。元々は赤い筈のポンチョも煤で汚れ、元の色を黒く侵食している。
 ディートフリートに花を差し出している女の手は土汚れがついて汚い。
 何日風呂に入っていないのだと言いたくなる程汚れている少女――齢十七か十八の女は、絶望を孕んだ目でディートフリートに一輪の花を差し出した。

 それはかつて、弟であるギルベルトが名も無き少女兵に付けた名前と同じ名前の花だった。

 ディートフリート・ブーゲンビリアがかつて拾った少女も孤児だった。人間離れした身体能力をもった少女をディートフリートは少女兵に仕立てあげ、弟に押付けた過去がある。
 今更孤児を見つけたところで動く心もない。一々孤児に反応していてもキリがない。元々軍人を輩出する家系に生まれた所為もあってか、ディートフリートの感情は非常に機微で、揺れないのだ。
 平和に向かっているライデンシャフトリヒとはいえ、まだ遺恨のような爪痕は残っているか。と孤児を目の前に考えるような男なのだ。

 それだというのに――。





 ――ライデンシャフトリヒにある港町。カモメの鳴き声と、防波堤に打付ける波の音、活力溢れる人の声。ディートフリートが軍艦から下りれば、活気溢れる街の声が耳に入った。

 レンガの敷石の上を歩けば、カツカツと音が鳴る。それが複数人分ともなれば、いやでも道を歩く人の耳に入るだろうに、活気溢れるこの港町では、商売人たちの声の方が耳に入る。
 血気盛んなのはいいことだが、ブーゲンビリアには商売人の声が煩く聞こえ、早々にどの店に行こうかなんて会話している部下たちから離れていった。

 眉間に出来た険しい山脈を隠しもしないで敷石の上を靴音を鳴らしながら歩いていれば、次第に喧騒が遠くになっていく。
 長年海軍で従軍していれば、何度もこの港町を訪れる機会はあるわけで、ディートフリートは何処が静かな場所なのかをちゃんと把握していた。
 石段を下り、アーチを抜けると確か美味い珈琲を出す店があった筈だと足を進めていると、ポツンと立っている少女が見えた。

 ――孤児か。

 ディートフリートは目がいい。それは戦争経験で叩き上げた産物である。
 遠目でもポツンと立っている人間が、まともな環境で暮らしていないのがわかった。話し掛けるつもりもなければ義理もない。ただ少女が立っている場所が問題だった。
 少女は今まさにディートフリートが入りたい店の玄関先に立っているのだ。

 邪魔だ。退けろ。と言えばいいのは分かっているが、店先で立ち尽くしている少女がまるでこの世のものではないようで、ディートフリートの目に強い印象を植え付けた。
 女が纏う雰囲気が、周辺の時間の流れを止めているかのような錯覚。飲み込まれたら引き返せないかもしれない。そう考えている時点で、ディートフリートは女の纏う雰囲気に飲み込まれかけていた。

「――っ、邪魔だ。退けろ」
「っ! あの、お花、いりませんか?」
「聞いてなかったのか? 退けろと言ったんだ。それに俺は花を買う――ッ!」

 灰色の前髪の隙間から見えた女の瞳に息を飲んだ。
 希望なんてない、明るい明日なんて来ない。そんな仄暗い感情を孕むその瞳は奇しくも、つい先日「お前は人殺しだ」と罵った女と同じ名前の色がそこにあったからだ。

「ヴァイオレット……」
「はい。確かこの花の名前はヴァイオレットだったと思う、です」
「お前あまり喋れないのか」

 上流階級育ちのディートフリートの耳に余るような言葉遣いの女は、ディートフリートの質問に首を縦に一度動かした。

「花、いりませんか? この言葉だけ、旦那様から教わったです。あとは人の会話で何とか覚え、ました、です」

 間違ってはいないが、決して正しくもない。どちらとも言えない時、ディートフリートは間違っていると指摘する。正しくはないは間違っているのと同じなのだから。
 だからといってここで女に間違っていると、正しい言葉遣いを教える優しさも、道理もディートフリートは持ち合わせていなかった。
 弟のギルベルトだったら花を買い、女に正しい言葉遣いを軽くでも教えてやっただろう。

「花、要りませんですか?」
「必要ない。――何故大きな通りで商売しない」

 買われるかどうかは別にして、こんな奥まったところより、船が停泊するような港の方が行き交う人が多いだろうに。
 誰もが疑問に思うこと。それをディートフリートは問うただけだったが、何分ディートフリートの声は艶があるものの、男の声の中でも低く、大佐という地位がそうさせているのか、小柄の女には威圧的に感じ、問われた女はびくりと赤いポンチョを震わせた。

「大きな通り、は。人がたくさんだから……」
「だからなんだ」
「人たくさんで、誰も私の話し、聞かないです。貴方だけ、が――」
「もういい。わかった。そうか、精々その花を売って、雀の涙の金を稼げ」

 これ以上は聞いてはいけない。頭の中で警鐘が鳴り響く。敵軍が近付いてきたと知らせる鐘の音のように忙しなく、冷徹な警戒音。
 この女の口から何も聞いてはいけない。蟻地獄に片足を突っ込んでしまうことになる。
 手早く会話を断ち切るディートフリートは、そのまま美味い珈琲を嗜むことを諦め、ヴァイオレットの瞳の前から姿を消そうと、女の前を通過しようと歩きだす。

「貴方だけ、です。私の声が聞こえたの、です。どうか、花を買ってください、です」

 明日生きることが出来るかどうか。この生活に終わりなんて来ない。変化などやってくるわけがないと悲観し、絶望を宿していた薄紫色の瞳が色を変えた。
 ディートフリートが女の声に耳を傾けたことで、女は僅かな期待を見出したのだ。
 かつて拾ってきた少女を戦争の道具にした男に――。

 それがわかった途端、ディートフリートの全身に鳥肌が立った。言い知れぬ寒気が足元から頭の先まで駆け巡る。それは思わず立ち止まり、女を見下ろしてしまうほどの衝撃で、ディートフリートが無意識に再び警報を頭の中に鳴らした。

 やめろ。関わるな。この女になんの価値がある。

 ディートフリートの脳裏に、未帰還になった弟の後ろに必ずいた少女兵の姿がチラついた。
 人を殺す術しか知らない、ただの戦闘人形のあの少女の姿で。

「ありがとうございます、です。私の声聞いてくれてです」

 嬉しい。嬉しい。と何度も口にする女。ディートフリートは気が付けば、大きなその手で女の腕を掴んでいた。
 歳の割に随分と細い腕は、痩せた木の枝のようで、ディートフリートが力を込めれば折れてしまいそうだった。

「――えっ」
「来い」

 女は驚き声を上げたものの、ディートフリートの言葉に抵抗しなかった。
 見ず知らずの男に腕を掴まれているというのに、女は嫌がる素振りを見せない。それが気味悪く感じたディートフリートは顔を顰め怪訝な表情で女を見下ろした。

「怖くないのか」

 こくりと女が頷いた。
 今から誘拐されるとか、暴行を受けるとか、最悪勝手に使われ殺されることだって有りうるこの状況においても、女の目の色は変わらないままだった。
 それらの可能性を知らないのか、知っていての態度なのか、今のディートフリートには皆目検討がつかなかったが、大人しくディートフリートを受け入れている女は益々気味が悪い。

「買って、くれます。です?」

 ――その日、ディートフリート・ブーゲンビリアは人生で二度目の拾いモノをしたのだった。