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 さて、ライデンシャフトリヒにはブーゲンビリア家が所有している邸宅がある。そこにはディートフリートとギルベルトの両親が暮らしているわけだが、未帰還の弟は兎も角、ディートフリートは陸軍の父と仲違いの末に家を出ている為、滅多にブーゲンビリア邸には寄り付かない。
 故に、ディートフリートはブーゲンビリア邸の他に居住地を持っている。それも元を辿ればブーゲンビリア家が所有している財産の一部ではあるが、今は誰も使用していない別邸だ。
 拾いモノはディートフリートの居住地に置くことにした。

 ライデンシャフトリヒの港町で拾った女には名前がなかった。だから最初ディートフリートは拾ってきた女のことをそのまま「女」と呼んでいた。
 だが、ディートフリートは「女」だから拾ってきたわけじゃない。その為に利用するつもりは、雀の涙程度にもなかった。その為、「女」には早急に名前が必要だった。

「おい女、名前はなんだ」
「花売りです」
「そうじゃない。“お前”の名前はなんだと聞いている」
「女、です?」
「……はぁ……屑が……」

 名前がないのならそう言えばいい。だが、この女には自身に名前が“無い”ことすら知らないのだ。

「なんか適当に名乗れ。それがお前の名前だ」
「…………」
「返事をしろ。俺の言葉には必ず返事をする。そう教えたのをもう忘れたのか」

 怒られてもなお女は口を開こうとせず、むしろ考え込む素振りを見せた。
 返事もしない。名前も決められない。とんだ駄犬を拾ったとディートフリートが後悔し始めた頃、漸く女は口を開いた。

「旦那様が、名前決めて、です」
「は? 俺が決めるのか? お前の名前を?」
「私は、旦那様のモノだから、名前は、旦那様が付ける、です」

 女の理屈はこうだ。
 モノに何かを決める権利はない。所有者ががモノに名前を付けるべきだ。と。実際ここまで強い口調でディートフリートに名前を強請っているわけではないものの、ディートフリートの耳にはそう聞こえた。

「はぁ……」

 面倒だ。
 適当な名前をつけようと適当に室内を見渡せば、花瓶に刺さっている白と紫の配色の花を見つけた。
 こんなものを飾った記憶がないが、見栄えの為に使用人が飾ったのだろう。

 花びらの先に色付く紫がやけにあの殺戮人形の姿を想像させる。鬱陶しいほどに。
 ヴァイオレットが殺すことしか出来ない獣から、心を持ち人になろうとしている。
 それが腹立たしくて堪らない。認められない――。

 俺の部下を殺したくせに。弟を守れなかった兵器のくせに。

 ディートフリートを見上げる紫の目も、花瓶に刺さっている白と紫の花も、ヴァイオレットを想像させた。

「お前の名前は……アザレアだ」
「アザレア……?」
「何度も反芻させて覚えろ。俺がアザレアと言えば、どこにいようと駆けつけて来い」

 わかったな。と言えば、女――改めアザレアはこくりと頷いた。
 小声で何度も「アザレア、アザレア」と新しい……もしかしたら初めての名前を反芻させる。

「アザレア」
「はい、旦那様。アザレアです」

 ディートフリートは別に何かを育て上げることに趣をおくような人間ではないが、自分がつけた名で返事をするアザレアを見て、一瞬何かが満たされた。
 一滴の雫が布地に染みていくように、ディートフリートの心に浅ましくも、アザレアという存在がディートフリートに滲ませた。






 ――ディートフリートは花を買った。名前すらなかった花に名前を与え、生かすのも枯らすのも自分次第だという優越感に浸れたのは初日だけ。それ以降は、花を生かすという行為に頭を痛ませていた。

「いいか、それは“服”ではない。“シャツ”だ」
「しゃつ、です」
「俺がシャツを持って来いと言えば、これを持って来い」
「これは服、です?」
「服は総称であり名詞ではない。何度言わせる気だ」

 アザレアは何も知らなかった。言葉は多少喋れても、接続語や名称、語尾に至るまで意味を理解してはいなかった。
 何も喋れない子供ならまだしも、外見上の歳だけは大人に近い。その落差にディートフリートは更に頭を抱えた。

 物覚えが悪い。動きも遅い。いいところといえば、外見だけだろう。
 月光のような柔らかい色をした絹の髪は長く、アメジストのような瞳。桃色の唇と、飾りのような小鼻。日差しを知らない白い肌。
 よく奴隷商に売り飛ばされなかったな。とある意味感心してしまう造形美は、ディートフリートの為に一所懸命働いている。

「おい駄犬、シャツはなんと言って渡すんだ?」
「旦那様、私の名前は“だけん”ではない、です」

 真っ白のシャツは折り目正しく畳まれていて、シワひとつとしてない。売り物のようなシャツを両手に持っているアザレアはディートフリートの前に立ったままで、何故かシャツを渡そうとしない。
 二人掛のソファに一人で座っているディートフリートは、深いため息を吐いた。アザレアは、与えられた名前以外で呼ばれるのを嫌がり、アザレア以外の名前で呼んでも返事をしないか、否定するのだ。

 何も出来ないくせに、自尊心だけは一人前、か。

 ディートフリートが与えた自尊心だということに気が付かない男は、再び溜息を吐いて「アザレア」と女の名前を呼んだ。

「はい。旦那様」

 僅かにはにかむアザレア。恐らく自分でも笑っていることに気が付いていない。それくらい小さな変化だったが、ディートフリートはアザレアの笑みに気が付いている。
 自分か名前を呼べば、何故かこの女は笑うのだ。
 知っているが故に、ディートフリートはアザレアの名前を呼びたがらない。呼べば望んでもいない笑みを見せられるからだ。あの紫の瞳が自身を柔らかく見つめるから。

「――アザレア。シャツは俺になんて言って渡すんだ?」
「旦那様、シャツです」
「そうだ。次もそう言って渡せ」
「はいっ!」

 別に褒めたわけではない。それなのにアザレアはさっきよりも分かりやすく笑った。褒められたのが嬉しかったのか、歳の割に幼い笑みを浮かべて頬を赤く染めた。

 それを横目に知ったことではないと、ディートフリートは渡された白いシャツに腕を通す。肌と擦れても不快感を感じない質のいい布地。乱れを知らない川のようなシャツを前に、アザレアは一度頷き、次いで命令されるだろう靴を先に持ってこようとクローゼットに向かった。

「少しは頭を働かせるようになったか」
「旦那様。靴でした」
「……言葉はまだのようだな」

 ディートフリートはアザレアに教育を施した。同じことを何度も何度も繰り返し、怒鳴り声を上げながらもディートフリートは知識のないアザレアに知識を与えた。知恵を与えた。
 言葉という知識を。価値観という基準を。時には武術も教え、別邸の仕事も教えた。
 煤で汚れた服が、ブーゲンビリア家に仕えるに相応しい使用人服に変わり、痩せた木のように細かった身体が、しっかりとした栄養を与えられ、重たいものを持ち上げられるようになった。

 ディートフリートが買った枯れた花は、栄養と綺麗な水を与えてやることで、綺麗な花に姿を変えたのだ。
 野に咲いている花よりも、花屋に並んでいる花よりもずっと、可憐で美しく、魅力的な花に変わった。