邸から飛び出したディートフリートは真っ先にC.H郵便社に向かった。車を走らせ着いた建物の中に足を踏み入れると、思ったよりも人が多かったがアザレアの姿が探せない程でもなく、至る所に目を走らせるも一階にいる人の中から目的の人物は何処にも姿がなかった。
此処にはいないようだとすぐに郵便社から出れば、出先から帰宅したばかりであろうヴァイオレットの姿を見つけた。ディートフリートはあのアザレアの手紙が誰が代筆したものなのかを知りたく、水色の日傘をさして坂道を上がってくるヴァイオレットを待ち構えた。
足並みに合わせて揺れる毛先は柔らかく揺れている。目元まで隠している日傘がゆっくりと上に傾いた。
「…………ヴァイオレット」
「大佐……」
人形の瞳が僅かに揺れた。
その揺れを見逃すディートフリートではない。ヴァイオレットはあの手紙――アザレアが書いた手紙を誰が書いたのかを知っているのだと確信した。もっと言えば、ヴァイオレットがアザレアの手紙を代筆したのではないのだろうか、という疑問すらディートフリートの脳裏を掠める。
「アザレアを知っているか」
「……はい」
「あいつは今何処にいる」
若草色の瞳が真っ直ぐにヴァイオレットに向かっている。それは真剣みを帯びていて、ヴァイオレットは一瞬記憶が過去に飛んだ。果たして大佐に同じように真っ直ぐと目を見つめられたことがあっただろうか。と考えたものの、そんな記憶は何処にも見つからずヴァイオレットはディートフリートの問いに首を横に振った。
「昼間に郵便社を出て行かれました」
「何処に行った」
「わかりません。……ただ、大佐のお好きな街を見に行くとだけ」
なんだそれは。思わずディートフリートは脳内に疑問符を浮かべた。
街を見に行くと言っても、このライデンは中々広く、女一人の足で何処に行くと言うのだ。
小高い丘の上に立つ郵便社から街を見下ろしても見えるのは豆粒のような大きさの人ばかりで、アザレアの姿を見つけることは出来ないだろう。となれば、探すしかないのだ。自力で。何処にいるかもわからないような女を。
「わかった。それとアザレアが世話になった」
「アザレア様は震えてらっしゃいました。この手紙は迷惑なものかもしれないと、最後まで大佐のことばかりを――」
ヴァイオレットが話している最中でもディートフリートは車に乗り込んだ。話が聞こえていなかったわけでもない。ヴァイオレットの声が聞こえているにも関わらずディートフリートは車に乗り込んだのだ。
あの人形が今何を言ったところでアザレアを探すという行為は変わらない。アザレアが何を思ってあの手紙を書いたのかなんて本人に聞けばいいのだから。
否。違う。本人がもう雄弁に語っているではないか。幸せを願っているのだと。
それでもディートフリートはアザレアに会わなくてはならない。アザレアが心の内に宿している感情の名前を教えなければならないのだ。
それは言葉を教えた者としてなのか、一人の男としてなのかディートフリートはわからないでいる。
坂道を下り、大きな通りを走るもアザレアの姿は何処にも見当たらない。
行きつけだと手紙で報告していた花屋にも、絵画が置いてある喫茶店にもいない。邸の中にはいる訳もなく、一体どこに姿を消したのだろうかと考えた先に見つけたのは一つの可能性だった。
人通りの少ない道を走らせ着いた先は一人寂しく立つ高台に建つ灯台。太陽の半分以上が水平線に沈んでしまっている。もし此処が外れなのであれば、また違う可能性を考えなくてはいけないが、ディートフリートはこの場所が当たりのような気がしていた。
足場の悪い岩肌の上を革靴で歩く。白と赤の灯台は経年劣化で所々茶色く変色してしまっている。
光源が赤く染まる海に向かって真っ直ぐに伸びている。近くには船を停泊させる港があり、漁師も海軍もこの灯台の灯を目印にしてライデンに帰ってくるのだ。
潮風がディートフリートに頬を撫でて髪を攫っていく。
若草色の視線の先には木製のベンチが一つと、そこに座る女の影が一つ。
名前を呼べば女は振り返るのだろうか。それとも聞こえなかったことにしてこのまま沈みゆく太陽でも眺めるのだろうか。
――そんなくだらないことばかりを考えるから、アザレアが涙を流すのだ。
いつだって俺はアザレアを試していた。俺の側にいてくれるのか、それとも離れていくのか。何度も何度も試して振るいにかけて、そうしてついに涙を零させた。
なんて愚かなのだろう。
でもそれでしかアザレアに必要とされていることを実感出来なかった。
ギルベルトがいれば大人げないよ、とでも言ったに違いない。もう、この世にはいない希望の弟を思い出しては刹那的な感傷に浸ったディートフリートはゆっくりと肺に酸素を取り込んだ。
「アザレア」
女の肩がピクリと跳ねた。答えを探すように左右に視線を走らせ、この簡素な景色の中に答えがないことを悟れば、アザレアは首をもたげた。
髪の隙間から見える項が、アザレアの孤独を印象付けた。
「アザレア」
ディートフリートはもう一度女の名前を呼んだ。
今度はさっきよりも優しく。意識してそうなった訳じゃない。自然と穏やかな声が出てしまったのだ。
「こっちを向け、アザレア」
ディートフリートは必要以上に人の名前を呼んだりはしない。それなのに今は、必要以上にアザレアの名前を呼んでいる。一度、命令をするように呼べばいい、そうすればアザレアは小さく細い身体を更に小さくしながらディートフリートの前に立つだろう。
でもそれでは駄目なのだ。意味がないのだ。
「アザレア、頼む、こっちを見てくれ」
それは間違いなく懇願だった。
アザレアは弾かれるようにベンチから立ち上がり、その場で振り返りディートフリートの若草色の瞳を見つめた。
今のは本当にこの男から出た言葉なのだろうか。あの人が、誰かに懇願するのか。
アザレアは混乱に陥っていた。声は確実にディートフリートのもので、そこに立っているのも間違いなくディートフリートしかいないのに。
「アザレア、こっちに来い」
ゆっくりとアザレアの足が動いた。ディートフリートに向かって足が歩き出す。まるで操られているかのようにディートフリートと会わす顔がないと困惑している己の意思とは別の意思が足に宿っているようだ。
遂にディートフリートとアザレアは向かい互いの瞳が交差する。
「どうして此処に?」
「旦那様は、海がお好きでしょう」
「別に好きでも嫌いでもない」
「え?」
アメジストの瞳が大きく開き、驚きの声を小さく上げた。
アザレアはディートフリートは海が好きだから海軍省に所属したのだと思っていた。実際は家のしきたりが嫌で父親に反発し、陸軍ではなく海軍に所属することにしただけなのだが、そんな事情をアザレアが知るわけもなく、勝手にディートフリートは海が好きなのだと認識していた。
それを察したディートフリートは一瞬遠くを見つめて、もう一度視線をアザレアに戻した。
ポケットに入れていた白い封筒を取り出せば、アザレアは軽く小首を傾げたものの、それが自分が出した手紙だとわかると頬を僅かに紅を彩らせ忙しなく視線を左右に動かして最後は俯いた。
「すみません、突然お手紙を送ってしまって、迷惑でしたか?」
「そうだな。この手紙の所為で俺はお前を捜し回る羽目になった」
「あ、え? なんで……」
弾かれるようにアザレアがディートフリートに視線を向ければ、すかさずディートフリートはアザレアの頬に手を当て再び俯くことを阻止した。
「お前が教えてくれと言ったんだろ」
「え?」
「いいか。アザレア。お前が俺に抱いているその感情は――」
――愛してる。だ。
僅かに屈みアザレアの耳元でそう呟けば、どうしてか己の胸の内に開いた穴にその言葉が綺麗に収まった。
そうして漸くディートフリートは気が付いたのだ。
――愛されたかったのだ。
家族からでもない、部下からでもない。ましてやあの獣でもない。間違った環境で育ちながらも心を壊さなかったこの女に愛されたかったのだ。
正しい環境で育ちながらも壊れた自身を、肯定して欲しかったのだ。
必要とされたかったのも、それを試したもの全部、認められたかったのだ。
でも怖かったのだ。真綿のようなアザレアの傷のない心で暴かれることを。
何も持っていない。それどころかディートフリートは歪んでいる。それはもうきっと治りはしない。それでも受け入れてくれるのか不安で堪らなかった。
試して突き放してもう一度手に入れて、また試すのだ。
そうしないとディートフリートは何処までも安心出来ない。
――例えそれが、初めから受け入れてくれた女だったとしても。
ディートフリートの手がアザレアの背中に回った瞬間、小さくも白い手がディートフリートのシャツを掴んだ。その手が小刻みに震えていて、腕の中から涙を無理矢理塞き止めるような息が聞こえた。
「私、知っています。旦那様が私を見る時、苦しそうにされていることを、知っています」
「……お前は、彼奴に似ているんだ」
「ヴァイオレットさんに、ですよね?」
ディートフリートのアザレアの背中に回している腕に一瞬力が入った。知られているとは思わなかったからだ。何も知られていること事態恥ずべきことではない。ただ、アザレアが知る時は己の口から語るものだと疑っていなかったのだ。
「お前も彼奴もまるで獣だ」
片方は人とは思えぬ耳の良さを持ち、もう片方は平気な顔をして人を殺す。それぞれ違う獣たち。
「俺は、あの女が苦手だ。俺から部下を奪い、弟を奪った」
それでも彼奴は生きている。過去のことなんてまるでなかったかのように。
でもそれは違った。彼奴はずっと過去に囚われたままだったのだ。ギルベルトという今は亡き亡霊の遺した言葉に囚われ縛られ、現状に足掻き藻掻き、そうして他者の明日を奪ったことに自責の念に駆られ、ギルベルトの想いだけを持って生きて死ぬのだろう。
「あれはもう一人のアザレアだ」
亡霊を追いかける哀れで美しい少女。
だから生きる。何処までも生きて、そうしてアザレアを獣ではなく人として生かす。
それがディートフリートに出来るアザレアへの最大の責務なのだから。
か細い女の背中に回している腕にそっと力を入れて身体を密着させると、アザレアはディートフリートに投げかけられる言葉の意味も分からぬまま、しかし、ディートフリートに必要とされていることだけを感じとったアザレアはおずおずと男の腕の中で、今しがた教わったばかりの感情の名前を精一杯の言葉を口にした。
「旦那様、愛してる、です」
「愛してます、だ」
「愛してます」
宵闇に近付く中、歪んでいた二人の影が一つの生き物のように繋がっている。
「お前は俺が必要か?」
「はい、愛してます」
「俺がお前を捨てても愛してくれるのか?」
「はい。変わりません。ずっと愛してます」
まるで言葉を覚えたての子供のように同じ言葉を繰り返すアザレアはディートフリートの背中に腕を回して抱き締め返した。
どんな俺でも受け入れてくれるのであれば……――。
「じゃあ側にいろ。捨てられても側にいろ」
「はい」
遂に闇が二人の姿を隠してしまった。
胸の内に蠢いていた感情がアザレアの手で溶かされいくのを感じた。朝日のような光で消してくれるわけじゃない。ただ夜の闇の中に溶かしてくれる。その瞬間だけは確かに歪んだこの身も光の方へ進めるのだ。何も太陽だけが照らすわけではない。月明かりだって導いてくれるのだから。
――ライデンにあるブーゲンビリア家の邸には、ブーゲンビリア家長子のディートフリートと、ディートフリートが連れて来た娘が住んでいる。
使用人の服を来た娘はディートフリートを世話をするのが仕事である。
「旦那様、リボンの色は何色になさいますか?」
「……水色にしろ」
「タイの色は紺になさいますか?」
「あぁ」
紺色のタイを締め軽く皺を伸ばすように両肩を軽く叩いたアザレアは、ぐっと背伸びをしてディートフリートの顔に近寄った。
「愛してます。ディートフリート様」
「――ッ!」
顔を赤く染めるディートフリートを見たアザレアは、愛情を沢山込められ咲いた満開の花の笑みを見せたのを、窓辺の花瓶に飾られた頬染めのアザレアが眺めていた。