予期せぬ偶然を人が運命と呼ぶのであれば、この二人の出会いも運命なのだろう。
「あの、お手紙を書きたいのですが」
「お客様がお望みなら何処へでも駆け付けます。自動手記人形、ヴァイオレット・エヴァーガーデンです」
アザレアはライデンに数多くいる郵便社の中、C.H郵便社の門を開け、数多くいる自動手記人形の中でヴァイオレット・エヴァーガーデンに手紙の代筆を依頼した。
奇しくもそれはディートフリートが獣と称した少女たちだった。
衝立で区切られているスペースに向かい合って座るヴァイオレットとアザレア。一人用の机の上にはタイプライターと用紙が置いてあり、ヴァイオレットは文字盤の上に銀色の指先を乗せている。
さぁいつでもどうぞと準備が全て整っているにも関わらず、指先が動かないのはアザレアが俯いたまま肩を小さく震わせている所為だ。
「お客様、どうされましたか?」
何か並々ならない事情があることを察したヴァイオレットは普段よりも僅かに感情のこもったトーンでアザレアに話し掛けた。
「あっ、の……」
とはいえそれはヴァイオレットと普段よく関わっている人間が気付く誤差程度の違いであって、初めて会ったアザレアはその機微に気が付くはずもなく、大きく肩を震わせた。
「私、お手紙を、書きたいんですが、分からなくて……」
「お客様、私たちドールはお客様の気持ちを汲み取り代弁し、手紙に認めるのが仕事です」
「気持ちを汲み取る……それは、私には分からない感情でも汲み取って、くださるですか?!」
先程まで肩を震わせていた少女が突然机を叩き付ける立ち上がった。椅子の足が床と擦れて大きな悲鳴を上げた。何事かとカトレアが衝立の向こうから顔を出し数回瞬きをしている傍らで、ヴァイオレットは一ミリも表情を変えず人形のように整った唇を動かした。
「はい」
ただその一言がアザレアの重たい心を動かした。
アザレアは語る。己の半生を。親に捨てられ、商人にいいように使われ、僅かな給金すら奪われていたある日、ディートフリートに出会ったと。
「ディートフリート……もしかして、ディートフリート・ブーゲンビリア大佐ですか?」
「そうです! 知っているのですか?」
「幼少の頃にお世話になりました」
ヴァイオレットの過去を知る人間がこの場にいれば、お世話なんて単語お世辞にも言えないだろうと口に出すかもしれないが、唯一この郵便社で事情を知っているホッジンズは別室で雑務を行っている為誰もヴァイオレットの言葉に訂正を入れなかった。
「そうでしたか! 私も、旦那様……ディートフリート様にお世話になっているのです。昔からお優しい性格の方なんですね」
「はい。そうだと思います」
そんな訳あるか。と口にする人間はやはりいない。
戦闘人形、殺戮者としての教育をヴァイオレットに施したディートフリートが優しい人間なのであれば、詐欺師だって優しい人間になるだろう。
だがアザレアは己を拾ってくれたディートフリートを優しい人だと称するし、ヴァイオレットとも部下を殺した少女を戦場で使ってくれたディートフリートを優しい人だと評価する。
ディートフリートをそう評価する人間なんて極わずかであるにも関わらず、ここに二人揃ってしまったのだ。
「私、我儘なんです。旦那様が遠くに行ってしまうのが凄く寂しくて、悲しくて、片時も離れたくなくて、お声が届く距離にいたいのです」
「はい」
タイプライターの文字盤が動く音はまだ響かない。
「旦那様が私に名前を与えてくださったのです」
「はい」
無機質な返事の中に淡い熱が帯びた。それだけで目の前に座るヴァイオレットも名前を与えられた人間だと察したアザレアは「貴方も?」と小首を傾げると、ヴァイオレットは己の胸に付けている緑の石が填められているブローチを鉛色の指先で軽く触れるとほんの僅かに口元を緩めた。
「はい」
「その方は、貴方にとって大切な人、ですか?」
「愛してるを教えて下さったの方なのです」
愛してる。それはアザレアが初めて聞く単語だった。
それはどんな意味なのだろうか。どんな時に使うものなのだろうか。人に使うものなのか、物に使うものなのか。愛してるの意味を知らないアザレアはヴァイオレットに曖昧な笑みを浮かべた。
「……私はまだ知らない言葉が沢山あって、今、私がこの胸の中に抱いていることを正しく表現することが出来ないのです」
「教えて下さい。私たちはその為にいるのですから」
「でも、私のこれは旦那様にとって迷惑なものかもしれません。要らないものなのかもしれません。そう考えると……私は怖い、です」
此処まで来てアザレアは怖気ついた。俯き膝の上できつく握られている拳が小刻みに震えている。その握り拳を包んでくれた体温のない鈍い光を反射する無機質な手の先には、全てが人形のような少女があった。
「アザレア様、届かなくていい手紙なんてないのです」
「……私は、旦那様に――」
アザレアは己の胸の内に秘めていることを全て知っている言葉に変えてヴァイオレットに伝えた。自動手記人形はそれを正しい言葉に変えてタイプライターで思いを文字に変えていく。一つの想いも取りこぼさないように。
「……これは、何という手紙なんですか?」
「――恋文です」
アザレアはヴァイオレットに向かって何かを話しかけようとして、そのまま口を閉ざした。
その日の夕方、ライデンにあるブーゲンビリア家の別邸に一通の手紙が届けられた。
真っ白な封筒。封蝋は最近有名なC.H郵便社のロゴが入っている。あの郵便社に知り合いは二人いるがそのどちらもディートフリートに手紙を渡すようなタイプではない。揃いも揃って手紙で要件を伝えるよりは直接会いに来るような二人なのだ。
となれば、自動手記人形サービスを使った誰かがディートフリートに手紙を送ったことになるが、そんな人物、見当もつかない。ディートフリートは社交的な人間ではないのだから。
一体誰が……。ディートフリートは封蝋を指先で剥がし手紙を取り出した。
一枚だと思っていたそれは数枚入っているようで、益々ディートフリートは首を傾げる。
それもこれも目を通せばわかることだと、二つ折りになっている白い手紙に綴られている文字を目で追った。
“ディートフリート様”
突然のお手紙お許しください。きっと驚かれたことでしょう。直接旦那様とお話が出来ればよかったのでしょうが、私にはその資格も権利もないように思えたのです。
ですが、旦那様にはどうしても私の気持ちを知って欲しいのです。知りたくないと仰られるかもしれません。それでも私は伝えたいのです。それが罪ではないのなら私は伝えることしか出来ないのです。
誰も私の声なんて聞いてくれない道で私の声を拾ってくださりありがとうございます。貴方だけが立ち止まってくださったことを私は昨日のように思い出せるのです。
私は幼少の頃より人よりも耳が発達していた為、要らぬことを良く聞いていました。大人たちにはそれがあまりにも面倒だったのでしょう。実の親にも捨てられ冷え切っていた私を旦那様は温情から拾ってくださりました。
私にはそれはまるで奇跡のように思えたのです。
貴方様に拾われて私の人生の全てが変わりました。仰々しいように聞こえるかもしれません。ですが、本当に全てが変わったのです。
学のない私に旦那様手ずから言葉を教えてくださったこと、本当に感謝しています。ありがとうございます。
沢山の言葉を知りました。邸にいる方と沢山のお話が出来るようになりました。世界はこんなにも暖かい音で溢れているのだと生まれて初めて知ることが出来たのです。
ですが私にとって一番の喜びは旦那様、貴方に名前を付けてもらい、その名を呼んでくれたことです。
適当に付けた名前なのかもしれません。ですが私にとってはどんな宝物よりも美しく価値のあるものに思えたのです。
そうして私は初めて自身の耳に感謝しました。何処にいても旦那様が私を呼ぶ声が聞こえるのです。アザレア、と私の名前を呼ぶ旦那様のお声がとても心地よく、私の全てを暖かくしてくださるのです。
長いようで短い時間を一緒に過ごしました。
旦那様が朝に弱いことも、好みの紅茶の銘柄も、着る服の順番も、趣味も、性格も少なからず知っていき、そうして私はその時間が幸せだったのです。今までの惨めで苦しいだけの人生は全てこの幸せを享受する為にあったのだと思ってしまうくらいに、私は旦那様を知ることが出来て泣きたくなるくらい暖かいもので包まれるのです。
全身が温もりで満たされ、胸の奥が切なく息を止めるのです。
旦那様の側にいたいのです。旦那様の笑っている顔が見たいのです。旦那様に嫌われたくない、私を置いて行かないで欲しい。
この感情が一体どういう名前なのか私は知りません。誰も教えてくれませんでしたし、私も誰かに聞いたことなどありませんでした。自分勝手な我儘がこの心情などどうして旦那様に言えましょうか。
そんな恥しくも浅ましい独り善がりの切望の中に一つ、他には代えられない一番大切な想いがあるのです。
旦那様が今日も幸せであって欲しい。
私のどんな願いよりも大事な思いです。
旦那様、私は旦那様が幸せなら、私は旦那様のお側にいれなくともいいのです。
この感情が何という名前なのか、知ることはきっと叶わないのでしょうが、私はそれでも構いません。そんな些細なことどうだっていいのです。
時折私を見て顔を苦し気に顰める旦那様。どうか、どうか幸せを求めてください。蔑ろにしないでください。そしてどうか忘れないでください。
何処でどんなことが起こっても、私はいつだって旦那様の幸せを願っています。
アザレア。
あれはこんな文章を書くような女じゃなかった。
もっと端的で、必要最低限を手紙に書き留めるような女だ。
これはアザレアが筆を取って書いた手紙じゃない。それでも間違いなくこの手紙は、アザレアが書いたものなのだ。
タイプライターで印刷された文字が次々に歪んでいく。
喉の奥が張り付き息が詰まる。容赦なく胸座を掴まれているように苦しいのに、どうしてか腹の底がじんわりと穏やかな熱を帯びているのだ。
吐き出す息は短く頬を伝う雫は熱い。
くしゃりと手紙がディートフリートの手で握り絞められた。
――貴方だけが立ち止まってくださった。
違う、俺の進む先にお前がいたんだ。立ち止まったわけじゃない。拾ったのだって温情じゃない。あんなのただの気紛れだ。
――私の全てを暖かくしてくださるのです。
偶々思いついたような名前なんだ、お前を考えて決めた名前じゃない。それなのに大事にしないでくれ。
――私はいつだって旦那様の幸せを願っています。
そんな男の幸せを願うな。忘れてしまえこんな男のことなんて。
なんで、なんでお前は、俺を求めてくれるんだ。俺がお前に何をしたっていうんだ。
なんでこんなにもお前は、“俺”を好いてくれるんだ。
アザレアには必要のない単語だとディートフリートは考えていた。――アザレアどころか己にも必要のない単語だと思っていたのだ。生まれてこの方使ったことなど一度もない。使ったことのない言葉を教えることなど出来るわけもない。
アザレアにそんな気持ちを教えていない。教えていないのにも関わらずあの少女は自力で生み出し見つけてしまった。
そしてそれはディートフリートが無意識下で求めているものでもあった。
アザレア。きっとそれを人はこう言うのだ。
――愛している、と。
ディートフリートは邸から飛び出した。目的地は一つしかない。