そして、私たちの悦に浸る


 うつ伏せのまま床に倒れ込んでいたユウは、頬に感じる冷たさで目を覚ました。
 視界に入る景色の全てが真っ白で、ユウはうつ伏せになったまま、大きく目を見開き、ゆっくりと身体を起こす。

 最初に頭を触り、頬を伝って腕や肩を触る。トドメの最後は太腿を何となく触って、どこも異常がないことを確認すると、ユウは再び辺りを見回した。
 とは言っても、ただそこには真っ白な空間だけが広がっていて、眺めていれば、どっちが上でどっちが下。はたまた、左右も分からなくなりそうになるほど、影一つとしてない空間が限りなく遠くまで続いているようで、異質な光景に、ユウはくらりと目眩を感じた。

 ――ここは何処なのだろうか。

 少なくとも、自分が知っているところではない。
 幾ら既に見知らぬ世界に渡航経験があるからと言って、ユウに怖いものはない。と言えるわけもなく、底冷えするおぞましさにユウは顔を顰めた。

「誰か……いませんか……」

 今にも擦り切れそうなほど力のない声だった。情けないと叱咤する気合いすらない。ただ、奥底から這いずってくる恐怖がそのまま声色に現れたもの。
 そんなか細い声を誰か拾ってはくれないだろうか。
 望み薄い願いは、ユウの予想よりも案外早く拾われた。

「おんやぁ? 此処に来ちまったのかい」

 それは何処かで聞いたことのある女の声だった。何処からともなく感じる磯の匂いに、ユウは瞬間的に鼻腔を広げ匂いからより多くの情報を取り入れようとしたが、収穫は得られないまま女はユウに語り掛ける。

「なんでこっちの世界にいるのかねぇ」
「……あの、貴方は、一体……?」
「人間が気安く話しかけるんじゃないよ」

 何かを探るような口振りをする女の姿は何処にも見えない。ユウの視界には真っ白の空間しか広がってなくて、自分含めて影は矢張り一つもない。声が聞こえる。確かに女は同じ空間に存在すると言うのに、姿を視認することすら出来なくて左右に顔を動かして気配を探ろうとするも、なまじ平凡な人生を歩んできたユウは、微かな気配というモノを感じ取ることは出来ない。

「さてさて、なんで向こうの世界に帰らなかったのかねぇ」
「向こうってどこですか? 私はどうしてこの空間にいるんですか? 貴方は一体誰なんですか?」
「質問の多い餓鬼だねぇ。アタシは深海の魔女ウルスラだよ。なんだい? もう私のことを忘れちまった……って、そうか。深海の真珠の対価にあんたの記憶を貰ったんだっけな」
「私の記憶を?」

 深海の魔女、真珠の対価。何処かで聞いたことは覚えているのに、ぼんやりと薄い膜が記憶に蓋をしていて鮮明には思い出せない。どうして、自分のことなのに、薄っすらとしか覚えてないんだろう。他にも何か忘れているような気がしてならない。

 ……私は一体何を忘れてしまっているんだろうか。

「なんで、私の記憶を奪ったんですか?」
「お前はこの世界の住人じゃないだろう。それを正してやって何が悪い」

 この世界の住人。正す。意味が分からない単語が幾つも出てくるが、ウルスラの言っていることが理解出来ないユウは、俯き与えられる情報を手繰り寄せて整理するしかない。

「けどまぁ、何が原因か、アンタは此処に留まっちまっている」

 状況を上手く飲み込めないユウを置いてウルスラは話を続けていく。

「あんた、自分の名前は言えるのかい?」
「ユウ、です」
「他には? アンタが住んでいる国の名前は? 両親の名前、親しい人の名前。あぁ、あの人魚の名前は言えるのかい?」

 ウルスラからの問いの意味が分からないユウは、怪訝に顔を顰めながらも何度も胸を苦しめ痛めてきている事実を口にした。

「――お察しの通りだと思いますよ。貴方が望んだ通りの結果でしょう?!」

 言葉尻にユウの語気が強くなる。それもそのはずだ。ただユウは学園長のおつかいを果たしに、深海の魔女に会いに行っただけだと言うのにこの仕打ち。考えれば考えるほど理不尽極まりない。
 湧き上がる怒りがユウの語気を強めたところで、万人が文句を言わないだろう。
 ――ただ、深海の魔女は例外だった。

「いいや。まだ足りないねぇ」

 少女の怒りを嘲笑うかの如く魔女は、ユウが受けている仕打ちを足りないと判断した。もう充分すぎるほどの対価を払っているはずだ、なのにどうして、まだ足りないとのたまうのか。
 ユウは脳の血管が沸騰するような感覚に人生で初めて陥ったと同時に、強い絶望に襲われた。価値観の違いとか、常識の違いとか、そんな言葉で片付かないような、決定的なズレがあって、それを修正しようにも、力の差が愕然とするほどあって、何も出来ないユウには覆すことも出来ない。

「アタシは親切だからねぇ。アンタを元の世界に返してあげようと思ったんだよ。泣いて喜んでくれると思ったんだが、どうやら邪魔が入ったようだね」

 両親の顔も名前も声も匂いも何もかもを思い出せないこの状況で、よくそんなことを口にすることが出来たな。と呆れを通り越して賞賛の拍手すら送りたくなってきたユウは、無言を貫き、深海の魔女の言葉に耳を傾ける。

「此処は世界の狭間。何もない――そうさな。始まりの空間、が相応しい名だろうね」
「どうして私は、元の世界に帰ることも出来ないんですか?」
「それは、アンタがツイステッドワンダーランドと繋がっているからだろうさ。それを断ち切る為に記憶を失くしたはずなんだけどねぇ」

 姿形は見えずとも、深海の魔女が小首を傾げているのだろう、というのは何となく想像がつく。だが、どうして記憶を失わないといけないのか。何の説明がないままじゃ話が纏まらないまま、何となくの理解をするしか出来ない。

「どうして、記憶、なんですか?」
「記憶は深く身体に刻まれた人生の証左であり、世界と自分とを繋げる大切な役割を担っている。現に記憶が無くなった今、簡単に世界を渡れてしまっただろう?」
「でも、私、元の世界の記憶を失くしていないまま、ツイステッドワンダーランドに来ました」
「例え世界に繋ぎ止めて置くための強固な杭だったとしても、それを上回る運命には抗えないってもんさ――そうか、アンタ“運命の赤い糸”を誰かと結んだね」

 魔女は一人で納得するも、ユウには何を言っているのかわからない。“運命の赤い糸”とは? 誰かと結ぶ? なんで?
 いくつかの疑問が浮かんでは頭の中をぐるぐると渦巻いてホバリングしている。赤い糸、結ぶ。そんな断片的な単語は聞き覚えがないはずなのに、どうしても、強く否定することが出来ない。記憶を失っているという事実が否定を許さないのか、本当に誰かと運命の赤い糸を結んでいるのか。

「世界を渡らせたかったのなら、どうして元の世界の記憶を消したんですか?」
「深海の真珠は人魚の魂とも呼ばれている。そんな大切なものを積まれたマドルで差し出すわけがないだろう? だからアンタの大切にしているモノを貰っただけさね」

 元の世界の記憶は真珠の対価として、ツイステッドワンダーランドの記憶は世界を渡航するのに邪魔だから。偶然にも重なってしまって全ての記憶が取られてしまったのだ。
 せめてどちらかの記憶だけでも残してくれていればよかったものを……と考えたところでユウは頭を左右に振る。どちらも欠けてはいけない大切な宝物なんだから、選択することは出来ない。だったら同時に無くなってくれた方はまだマシだ。

「その運命の糸、今すぐ切ってやりたいが――――――」
「あの? 魔女さん?」

 ウルスラの声が急激に遠ざかり、遂には聞こえなくなった。ユウが何度もウルスラを呼ぶが、なんの反応もない。再び一人になってしまったらしい。何処までも真っ白な空間が続く此処をウルスラは始まりの空間と呼んでいた。だが、ユウにとってこの空間は、終わりそのもののように思えて仕方がない。
 助けが来ることはきっとない。自分がこの世界から脱出することも出来そうにない。そうなれば、残された生き方としては、刻一刻と迫る死を受け入れることだけだ。

 だったら、自分と運命の赤い糸で繋がっている相手のことを思い出すことに徹しよう。ちゃんと思い出せるのかはわからない。でも、運命の糸で繋がりたいと願う人がいたのは間違いないのだから。好きになった人がいる証だから。目には見えない糸で繋がっている好きな人を考えた方が、ウルスラに怒りを向けるより、まだ心が穏やかでいれそうだ。

「私の好みのタイプの人かぁ。誠実で、真面目で、優しくて、裏表がない人、かなぁ? でも、そんな理想な人と出会えたのかな?」

 理想と現実は違うとわかっていても、理想を語らずにはいられないのが乙女心というモノではないのだろうか。ぽつりぽつりと零れるユウの理想の異性を上げていくその最中で、ユウは鼻で笑った。

「あの人はそんなんじゃなかったな」

 無意識に零れたその一言。誰のことを指して言ったのか、一瞬ユウですらわからなかった。でも、確かに今、ユウはたった一人の人を想像して、理想と現実の乖離に鼻で笑ったのだ。

「そうだ。そうだよ、あの人は、私の好みなんかじゃなかった」

 顔も姿も声も匂いも名前も思い出せないその人の影が、ぼんやりとユウの記憶の内海でぼやけて浮かぶ。
 淡い海の色を帯びる蜃気楼は、仄かに潮風の気配がした。

 ――知ってる。私は、その人を知っている。
 名前も姿もその声も温もりも思い出せないけど、それでも私は、知っている……!

 どんな声をしていた? どんな口調だった? 背は高かった? それとも低かった? どんな性格をしてた?

 ほんの些細なきっかけさえあれば思い出せそうなのに、どうして名前すら思い出せないのだろう。

 忘れてはいけない人。だって、私が彼のことを忘れてしまっては、きっとあの人は泣いてしまう。
 ……あれ? なんで、泣くと思ったんだろう。泣き虫ってわけじゃないのに。どうして、どうして……。

 ――慰めてあげないとって思ったんだろう。

「せ……ん、ぱ……い」

 そうだ。あの人は私よりも年上で、何を考えているのかよく分からない人だった。頬を触れると少しだけ冷たくて、淡い海の色をした髪をして……そして、そして……名前は……。

「ダメだ……思い出せない」

 さっきよりもずっと鮮明にあの人の輪郭を思い浮かべることが出来るのに、どうして私は彼の名前を思い出せないの?

 先輩、先輩と繰り返しユウは男の存在を口にした。震える唇で、何度も“先輩”の陽炎を追い掛けると、耳の奥で男の声が響いた。

 ――監督生さん。

 涼し気な立ち姿とは変わって、蜜を煮詰めたような酷く甘美な音で私を呼ぶ人だった。
 でもその人は絶対に私の“名前”を口にはしてくれなかった。私をいつも“監督生さん”と、まるで名前なんて知らないかのように、役職で呼ぶのだ。

 その役割に過分なほど甘さを乗せているのに、どうして名前で呼んでくれないのだろうか。と疑問に思ったこともあったユウだったが、それじゃあまるで、名前を呼んで欲しいみたいだ。と頭を左右に振って考えるのを止めたことがあった。

 ――監督生さん。

 あぁ、まただ。またあの人の声がする。
 穏やかな響きが聞こえる度、ユウは男の存在を思い出していた。
 あの人はヘテロクロミアの瞳をしていた。切れ長の目はいつも涼し気で、必死だとか我武者羅だとか、そういう熱をどこかに置いてきて余裕綽々といった佇まいをしていた。

 ――監督生さん。

 黒い手袋をしていて、手を繋ぐときいつも布越しに先輩の温もりを探していた。でも、どこにも見当たらなくて、私一人の体温しか感じないと気落ちしていれば、手をぎゅっと握ってくれる人だった。
 どうして今、繋いだ手の感覚を思い出せないのだろう。

 先輩、せんぱい、センパイ。どんな風に呼んでいたっけ? 私が先輩を呼んだら、なんて応えてくれたんだっけ?
 先輩は、なんて応えてくれていたんだっけ。そうだ。“あなたのです”と紡ぐ音が酷く妄信的で盲目的で、自ら私の腕の中に収まりに来ているのに、呪文のようなその一言が、私の心をこれでもかというほど縛り付けてきた。
 私は一度だってあの人を自分のモノにしている気にはなれなかった。

 貴方の……貴方の……。もうすぐで思い出せそうなのに、どうして、こんなにも彼の名前に靄が掛かって何も出て来ないんだろう。あと少しなのに。どうして——!

 ユウはその両目から幾つもの涙を零し、真っ白な空間に小さな水溜りを作る。ジェイドという男を想うだけで、こんなにも胸が苦しいのに、愛おしいとも思うのだろうか。きっと今頃、あの人は泣いている。その涙を拭ってあげたい、止めてあげたい。笑顔にしてあげたい。他の誰もない、私の手で。

「あい、たい……会いたいよ——ジェイド先輩……!」

 左手を握り締めながら叫んだユウの口から飛び出した男の名前。すると途端にユウの中に掛かっていた靄が晴れ、奪われた記憶が色褪せた感情と共に蘇ってくる。
 触れた頬が私よりも体温が低かったこと。強引な性格をしているくせに抱き締める腕が存外優しかったこと。知らない世界、知らない知識を与えてくれた。この世界で一人だと思っていた私を求めてくれたこと。この感情の始まりは何処にあるのかはわからないくらい、小さな積み重ねの結果の上に今、立っているんだ。

 ——好き。私は、ジェイド先輩が好き。一番好き。

 会いたい。もう一度声が聞きたい。幻覚でもいい幻聴でもいい。少しの夢に浸らせて欲しい。もう二度と会えないのだから。

「ジェイド先輩。大好きです」

 そう言ったらあの人はどんな反応を見せるのだろうか。
 ユウは涙を流しながら口の端に小さな角度を付けた。元の世界に帰りたいが為に頑なに認めて来なかったジェイドへの恋心は、受け入れてしまえば存外心地よく、緩やかな死しか待っていないと言うのに、穏やかにいられる。
 いや、違う。ちゃんとあの世界で生きていた最後の瞬間に認めていた。そのことすら忘れてしまっていたんだ。

 ——こんなにも、胸が締め付けられるのに、幸せなことだったんだ。

 あぁ、出来るならこの瞬間、全てを失くして消えてしまいたい。

「——監督生さん!!」

 唯一の願いが叶ったのか、ジェイドの声がユウの耳殻を震わせた。穏やかに呼びかけていたあの声とは裏腹に、何処か緊張感があって必死さを感じる呼び声に、ユウはまるでジェイドがすぐ傍にいるような気がし、大粒の涙を流した。

「監督生さん!」

 肉声とも思える鮮明なその声にユウは弾かれたように俯いていた顔を上げ、辺りを見渡すも依然として真っ白な空間だけが広がっているだけで、ジェイドの存在を視認することが出来ない。
 どうして今、近くにいると思ったのだろう。と小首を傾げれば、再び己の名前を呼ぶジェイドの声が聞こえ、遂にユウは震える声で男の名前を呼んだ。

「ジェイド先輩……?」

 ——この瞬間、確かに二つの世界が繋がった。

 ジェイドの姿は何も見えない。なのに声だけは聞こえる。ウルスラと同じ状況だとすぐに理解したユウは、何もない空間に向かって声を上げた。

「先輩! 私の声が聞こえていますか?!」
「聞こえています! 監督生さん! 今何処に……!」
「ウルスラという深海の魔女に元の世界に帰されそうになって、でも失敗したみたいで、今はウルスラ曰、始まりの空間だそうで、目が覚めてから暫くはウルスラと会話をしていたのですが、途中で切れてしまって……」
「……わかりました。まだあなたは元の世界に帰っていなくて、僕とも繋がっている距離にいる。そういうことですね?」
「はい。ウルスラは運命の赤い糸が邪魔をしたと言っていました」

 これが何を意味しているのかユウにはわからない。たかが売店で買った目には見えない糸にそんな力があるとは思えない。だが、ジェイドは違う。魔法がある世界で生まれて育っているジェイドならば、ウルスラの言っていることもわかるのかもしれない。

 ジェイドが何かを考えていた時間はおよそ三秒。ウルスラの時のように繋がりが途切れてしまったのかと不安になったユウが口を開いた瞬間、ジェイドが「なるほど」と頷いて見せた。何かがわかったらしい、と胸を撫で下ろしたユウの耳に珍しく困惑の色を隠しきれないジェイドの声が響く。

「全く分かりませんね。どうやったら監督生さんをこっちの世界に戻せるのか」
「そんなぁ……」

 ジェイドに姿を見られていないことを良いことに、大げさなほどがっくりと肩を落せばジェイドが「そこまで肩を落とさないでください」と小さく笑ってみせた。

「え? 見えてます?」
「はい。監督生さんから僕の姿は見えていないんですか?」
「はい」

 ジェイドの視界には凪いでいる海面にユウの姿を映っている。だが、ユウは何も見えないと言った。つまり、存在を映す道具の有無の差だろう。今は凪いでいる海だって、また大きな波が来れば、すぐにユウの姿を消してしまうかもしれない。
 姿を映すと言うのであれば、何も水鏡じゃなくともよい。ジェイドはヴィルがユウにあげた手鏡を胸ポケットから取り出し、左の薬指に魔力を集中させれば、小さな鏡の中にユウの顔が映った。

「鏡なら何でもいいというわけですね。監督生さん、なにか鏡になりそうなものはありませんか?」
「そんなもの持って——」

 ユウは制服の上から鏡の代わりになるようなものを探しながらも、持っていないと否定の言葉を吐きかけたが、制服のポケットの中に何かを見つけたらしく、言葉を詰まらせた。

「——持ってました!」
「それは——! いえ、では鏡に魔力を与えてください」
「ジェイド先輩? ふざけたこと言っていますか?」
「魔力がないのも困りものですね。では、イメージしてください」
「イメージ」
「はい。エルトン・ウィズァーが遺した言葉が魔法の全てです。知っていますか?」

 ——想像力を越える魔法はこの世にない。故に魔法の源は想像力イマジネーションである。

 魔法の父と呼ばれた男が遺した魔法の真理。でもそれは“魔力を持っている者に対する心理”であり、ユウのような“魔力を持たない者に対する心理ではない”。どう足掻いたって魔力がない人間が鮮明な想像をしたところで、絵空事の空想を越えはしないのだ。
 それは机上の空論であり、力ないものが夢を見る虚しい妄想。

「先輩、だから私、魔法は……」
「大丈夫です。僕を信じて。今監督生さんと僕は運命の糸を通して繋がっています。だから貴方に僕の魔力を流すことが出来ます。大丈夫、二人でサクラを咲かせることが出来たでしょう?」

 その言葉でユウの頭の中に共に咲かせた桜色の光景を思い出した。淡いピンク色の大木を前に二人で踊ったあの景色は、確かに二人で作り上げたものだ。
 あの時もジェイドは、同じことを言って、実際にこの世界にはない、ジェイドが一度も見たことがない花を咲かせたのだ。

「先輩……私、の、話を、聞いてもらってもいいですか?」
「……勿論です」

 ジェイドが言うのだから、あの時のように想像さえ鮮明に出来れば、この鏡にジェイドの姿を映すことだって出来る。でもそれは、ユウにとって罪を犯しているかのような罪悪感を伴う行為でもあった。

「私は、先輩のこと今の今まで忘れていたんです。名前も顔も声も匂いも全部忘れて、元の世界に帰れないことに嘆いていたんです」
「――はい」
「好きな人なのにっ! 先輩のことが好きだと思っていたのに、私はあっさりとそのことを忘れてしまって……。それでも、私っ、は! 先輩に会いたい! 何を捨てても、先輩と一緒にいたいっ!」

 例え、元の世界を捨てることになっても、私は――。

「ジェイド先輩の隣にいたいんです!」
「はい、はい! 僕の所へ戻ってきてくださいっ!」

 ユウは手鏡を握り締め、力の限り叫んだ。この選択は、今後の人生を狂わせると知りながらも、ユウはジェイドと共にあることを願ったのだ。

 掌の中にある手鏡が強烈な光を発し、ユウは反射的に両目をきつく瞑り、その一部始終を映していたジェイドの鏡も光を放つ。月明かりにも負けないそれは、太陽柱サンピラーと見紛うほどよ強烈な光。
 ジェイドは咄嗟に無垢なるユウを抱き寄せた。
 空に向かって伸びる光が、星よりもうんと近い、手を伸ばせば届く距離で天の川を作り出す。
 ジェイドが半ば無意識に、産まれたばかりの星に指先で触れれば、弾けて消える。その様は、か弱くも懸命に生きる星の息吹で、ジェイドは人形に成り果てたユウに向かって語りかけた。

「ユウさん、見えていますか? とても、綺麗です」

 返事が返ってくる確率は五分五分だった。“始まりの空間”から帰って来れたとして、ユウの心の底からの本心があの言葉通りとは限らないからだ。
 それでもジェイドはユウに語りかけずにはいられなかった。

 ユウさん。ユウさん。と、普段呼ばない名を何度も繰り返して。自分の所に帰ってきて欲しいと、ユウの名前に乗せて、産まれたばかりの星に何度も願う。

「はい、見えてますよ」

 それはジェイドが生み出した幻聴でもなければ、星が見せた奇跡でもなく、ただそこにユウが存在していた。

「ユウ、さん?」

 ジェイドは、震える唇を隠すこともせず、ただ呆然とこの瞬間に起こった奇跡を眺めることしか出来ない。
 己の中で息をしているユウは、確かな温もりも纏っている。唇が赤く熟し、頬にも血色が戻っている。そして何よりも、頑なに閉ざしていた瞳が、柔らかく孤を描いている。

「はい。貴方のユウですよ」

 口の端を緩く上げたユウは、ゆっくりと腕を動かし、ジェイドの目元に人差し指を持っていくと、白い手袋に暖かい水が染み込む。

「貴方の涙を止めに来ました」
「はい……はいっ」

 星の子供たちが見守る中、二人の影が強く重なった。今度こそこの腕から零してなるものかと、離れまいと力いっぱい抱きしめ合う。これでもかと、喜びの涙を流した二人は、祝福の光の中で己の瞳の中に一番愛おしい人の姿を焼き付け、そうして二人の唇が重なった。

「愛してます。僕の唯一の人」
「愛してます。何よりも一番に」

 二人を繋いだ全ての奇跡に見守られながら。

 ――こうして二人は産まれ持った運命の糸に導かれながら結ばれ、いつまでも幸せに暮らしました。