そして、私たちの悼に誓う


 七日。それがユウに残された最後の時間立った。
 八日目の朝にはユウは棺に入れられ、地面の中で眠ることになる。季節が巡ってこない土の中で一人眠るのは、どれだけ寂しく孤独なのだろうか。考えれば考えるほどジェイドは己の無力さに腸が煮えくりかえり、きつく握った掌から血が零れた。

 何か、何か術はないのか。縋る思いで賢者の島随一と名高いナイトレイブンカレッジの図書室でそれらしい文献を漁ってみるものの、収穫はまるでない。ユウが眠りに就いた日から、足しげく通うさまは何かに取り憑かれているみたいだと、一部の生徒が噂をするほどで、日に日に隈を濃くしていくジェイドの姿を目撃しているエースやデュースは、早く目を覚ましてくれと天に祈るばかりだった。

 ユウが眠ったその日の夜。学園長はグリムに向かって「このまま監督生が目を覚まさなければ、グリムくんを退学させるしかない。それが嫌なのであれば、誰かの使い魔になりなさい」と告げた。
 ユウと二人で一人の生徒としてナイトレイブンカレッジに入学を許可された身であるグリムにとって、ユウは半身も当然であり、ユウが死んだとなれば、自動的にグリムが中途退学することになるのも当然の摂理ともいえる。
 ナイトレイブンカレッジに残りたければ、誰かの使い魔になるしかない。
 三日目の朝。涙をいっぱい流し続けたグリムは、ハーツラビュル寮に引き取られることになった。

 五日目。学園に在籍する誰もがユウの異変に気付いていた。魔力がないのに名門校に通う生徒。度々起こる騒ぎの中心にいる人物。一匹だけで通う魔獣の存在。否応がなしに注目を浴びる有名人。
 ユウに何かがあったと思うのは、最早必然と言えるだろう。

 判断材料は他にもある。――ジェイドだ。
 ユウが眠りに就いてからと言うものの、見るからにジェイドの不調が続いている。授業も上の空、飛行術に至っては箒に股がってジャンプするだけだ。――バルガスにお叱りを受けたジェイドを見たリドルが、普段と何が違うのか分からなかった。と小首を傾げたのはここだけの話だ。
 “食べ盛りなので”。と理由をつけては、大皿料理をペロリと平らげていく、フードファイターも唖然とする胃袋までも調子が悪くなったのか、普段の半分程度まで落ち込みを見せている。――それでも、男子高校生の基準を大きく上回るのだが。
 モストロラウンジのシフトが入っていない日は、足繁くオンボロ寮に通い、目覚める様子が全く見えないユウに向かって語りかけている。
 その様子を見たゴーストたちが、痛々しいと、早く目覚めてやりな。と日中ユウに語りかけているが、これといった効果は現れない。

 日に日にやつれていくジェイドの姿を遠巻きに見つめるエースとデュースは、思い通りにいかない現実に、理想通りにならない今日に顔を顰めてジェイドから視線を逸らしていた。
 男の姿はまるで、鏡の中に映っている己のように見えて仕方がなかったのだ。

 七日目の夜。ジェイドは一人オンボロ寮に訪れ、勝手知ったる他人の家と言った具合にユウの寝室に向かった。
 扉の前に立ち三回ノックする。勿論中から返事が返って来ることはない。それでもジェイドは一縷の望みをかけてユウの返事を待つのだ。もしかしたら今日は、返事をしてくれるかもしれない。あの鈴を転がした声で名前を呼んでくれるかもしれない。
 暫く待っても返事は返って来ないのが現実だった。

「失礼します」

 ドアノブを回して部屋に入り、ベッドで横になっているユウの近くに寄り手の甲で頬を撫でるも、なんの反応を見せない。期限まで残り一晩。朝を迎えればユウは埋葬される。その前に少しでも綺麗にしてあげようと、ジェイドがマジカルペンを振るってユウの衣服を脱がしていく。皺を作らないように制服を軽く畳んでいれば、制服のポケットの中に何かが入っていることに気が付き、無遠慮に手を突っ込んだ。
 指先に硬いものがぶつかり、引っ張り出せば手鏡が見えた。意匠が凝ったその手鏡。記憶の中では確かヴィルが所持していたはずだ。明日の朝埋葬されるユウに持たせるよりは、本人に返した方がいいだろうと判断し、手早くユウに寝間着を着せ終えると、ジェイドは足早にポムフィオーレに向かった。
 勿論、道中で今から会いに行くとヴィルに伝えている。快諾の返事をもらったジェイドの足は更に加速した。他寮に比べても華美なデザインの寮を訪問すれば、ヴィルが出迎えた。

「早かったじゃない。それで? 何の用?」
「これをお返しに参りました」

 ジェイドは掌に乗せている手鏡をヴィルに見せれば、一瞬目を大きくさせたあと何かを考える素振りを見せ、ゆっくりと首を振った。グラデーションが映える髪が綺麗に揺らめく様は、海面から見上げたオーロラのようだと何処か遠いところに意識を刹那の間飛ばしていれば、手入れが行き届いている指先が手鏡に触れた。

「これはあの子にあげた物よ。もうアタシのものじゃないから、監督生の側に置いてあげて。もしかしたら、あの世でも使えるかもしれないでしょ? それに、アタシがあげられた唯一の物だから」
「……ありがとうございます」

 少し顔を俯かせれば、何も気付かないフリをしているヴィルがゆっくりと唇を動かした。

「あと数時間ね」
「はい」
「でも貴方、諦めてないって顔しているけど」
「はい」

 ジェイドはヴィルも目が見張るほど綺麗に微笑んだ。その直後足早に背を向けて来た道を引き返したジェイドは、無心のままオンボロ寮に戻り、寝間着を着ているユウを白い衣装に着せ替え。横抱きにし持ち上げオンボロ寮を後にする。ユウが纏う衣装がだらりと床に垂れ引き摺っているが、気にもしないジェイドはこの一週間の中で一番穏やかな表情を浮かべていた。

「何処に行くんだい?」
「海に行ってきます。大丈夫です、また戻ってきますので」
「何をしに? それ、ウエディングドレスだろう?」
「挙式を挙げに行ってきます。それでは」

 何時ぞやに桜の花を咲かせプロムの練習と称して踊った大木の横を通り抜け、正門からではなく裏門から海を目指す。寒くないようにと小舟を用意させ、飾り気がないといけないからと色とりどりの花を用意した。小舟に敷き詰めた花の上にユウを横たわらせ、ジェイドは制服のまま海に足を鎮めていく。
 生地が海水を含んでどんどん重たくなってきているが、気にする素振りをまるで見せないジェイドの身体がゆっくりと形を変えていく。本来の姿に戻りつつあるジェイドは、マジカルペンを取り出して制服を遠いオクタヴィネル寮の自室に送り飛ばす。何も身に纏っていないジェイドの身体の色は、海の色に姿を変えていた。

 月明かりの道が海面に出来ている。淡い光に誘われて道の上を進んだら何処に行けるのだろうか。なんてジェイドは一瞬思考を鈍らせた。
 どこにも行けるわけがないのだ。何処に行ったってユウの目が覚めることはない。この少女が目覚めないのであれば、何処にいようが関係ないのだから。

「失礼しますね」

 ジェイドが小舟の縁に手をかけ上半身を海面から抜け出し、小舟に腰を落ち着かせた。月明かりに照らされているユウの頬を濡れた手で触れるも、拒絶はなく、掌に焼けるあの熱を感じない。女の体温がごっそりと落ちたままだという事実にジェイドの胸が痛んだ。
 ユウから与えられる痛みは全て愛おしいと、慈しめると思っていたが、どうやらこの息苦しさと張り裂けそうな痛みは愛せそうにないと薄く笑ってみせるものの、ジェイドの切れ長の瞳に薄く水の膜を張っている。

「監督生さん。僕のお願いを聞いてもらえませんか?」

 黒いメッシュの毛先から垂れる海水が、ユウの首筋を濡らした。

「僕、嫉妬深いんです。ヴィルさんに“あの世”と言われて気付かされたんです」

 ――僕はあの世なるところを良くは知りません。一度も行ったことはないですから。どんな世界なのか、そんな簡単な想像しか出来ない。あぁ、ゴーストたちにでも聞いておけばよかったですね。あ、でもゴーストたちはあの世に行けなかった存在ですから、話を聞いたって無駄でしたね。
 話が逸れてしまいました。えぇ、つまり僕が何を言いたいのかと言うとですね。

「僕と結婚してくださいませんか? 僕にとって貴方だけのように、貴方にとってだけの僕にしてください」

 人形の如く無反応のユウの背中に腕を回して上半身を起こし、後ろに倒れてしまわないように胸にユウの頭を押し付け、無防備に垂れている左手を取り薬指に口付ける。そこには数日前に運命の赤い糸を結んだ指であり、かつて心臓に繋がっている血管があったと言われていた指だった。

「あの世に行っても僕だけの貴方でいてください。死んでもなお、監督生さんを手放せない僕を許してください」

 結婚指輪なんてものを用意していないジェイドが出来る精一杯と言えば、執念をさめざめとユウにぶつけることだけだった。

「愛しています。愛しているんです。……僕を、置いていかないで。監督生さん、愛してます」

 呪詛かと紛うほどおどろおどろしく、熱に浮かされた戯言のように何度もユウに向かって愛を囁くジェイドのヘテロクロミアの瞳から、海水とは違う雫が幾つも流れている。
 明日さえ来なければ、時間が止まってしまえば、この月が海に帰ってしまわなければ。そうしたらこの少女は生き続けられるのに。どうして刻一刻と時間は進み、望んでもいない明日がやって来て忌々しくも太陽が顔を出すのだろうか。

 胸の内側で乱雑に紙を千切る凶悪な痛みが、感情に烈火の如くに激痛を与える。そこに心という器官が確かにあるのだと、ジェイドは長い爪で肌が裂けることも気にせず、ひっきりなしに軋む心を肌の上から握り締めた。
 どうしたらこの痛みから解放されるのだろうか。と助けを求める一方で、このまま痛み続ければいいと願う気持ちもある。そうしたら、ユウがいなくなった後も、愛した女の存在を強く思い起こせるから。

 何度も涙を流したとて、消えない痛みは確かにあって、ジェイドはヘテロクロミアの瞳を歪ませながら、一瞬口を噤んだ。

「嘘つき。僕が泣いたら慰めてくれるって言ってたじゃないですか。……もう僕、何度も一人で泣いてるんですよ」

 ――例えばあの日、中庭に貴方がいなかったら。
 ――例えばあの日、貴方が駆けつけてくれなかったら。
 きっとこんな苦しい思いはしなかったでしょうね。
 それでも、やっぱりこの痛みですら愛おしいと思うから――。

「愛しています。僕の唯一」

 静かに水面に波の子供が泳いでる。水鏡にユウとジェイドの愛の誓いが――最期の口付けが映ると、途端に死と生の境界線がぼやけ、この一瞬だけはユウの息が吹き返すようだと、ジェイドは薄く笑って見せた。

 ゆっくりと時間をかけた三秒。生と死の境界にはっきりとした線が再び引かれた。
 神父も誓いの言葉も、祝福してくれる観衆すらいない結婚式は月明かりだけが見守っていた。
 忌々しいとも感じる月を見上げ、ふとした拍子に海面を見れば、月明かりの中に何か映像のようなものが浮かぶ。何が映っているのかと小舟から上半身を出して、海面をよく見れば腕に抱いているユウと同じ顔をしている少女が、今にも泣きそうな顔をしている。

「……監督生さん?」
「――、――ッ」
「監督生さん!!」

 海面に向かって叫んだジェイドの叫び声に反応するように、海面の中のユウが大きく目を見開き、ゆっくりと唇が動いた。

「“ジェイド先輩……?”」

 その瞬間、確かに生きているユウがそこにいたのだった。