遣らずの雨をご存知か


 ――それは全くの偶然だった。

 監督生はたまたまナイトレイブンカレッジの中庭を散策していた時、妖精が手入れしているのであろう花壇の前に膝を立てしゃがんでいるシルバーを見つけた。
 寡黙で剣を握っている姿が良く似合いそうなシルバーと、花壇に咲いている彩り豊かな花々は監督生の目にミスマッチに見えた。

「……先輩?」
「! あぁ、監督生か」
「どうしたんですか? こんなところで」

 もしかしてこの辺に何かを落としてしまったのかもしれない。シルバーが花を眺めているよりも、落し物をしてしまったという可能性の方がうんと高いように思えた監督生は、シルバーと少し間を開けて隣にしゃがんだ。

「花を、見ていた」
「……先輩、お花好きなんですか?」

 意外過ぎる返事に思考が停止した監督生は無理矢理口を動かしてシルバーに問うた。
 するとシルバーは緩く首を左右に振り、再び花壇を見つめる。動作だけ見ていれば、花が好きだと言っても過言にはならないような気がするが、シルバーの中ではそうではないようだった。

「あの方が好きそうだと思った」
「あの方?」
「俺はあの方が何が好きなのかがわからないから、こうして彼女が好きそうなものを見つけては立ち止まって考えている」

 このナイトレイブンカレッジには美形が揃っている。有名所はあの人気モデルのヴィル・シェーンハイトだが、第二王子のレオナ・キングスカラーだって顔立ちがいい。隣にいるシルバーだって二人に負けじと顔が整っている。
 シルバーの寝顔を見た男があまりの綺麗さ故に新しい道を開いたとか何とか……なんて噂まで耳にした。

 そんな男がじんわりと頬を赤く染め笑っている姿を間近で見れば、否応がなく心臓に負担が掛る。
 監督生は心臓の上に手を当て深呼吸を四回した。

「――ふぅ……直接聞くことは出来ないんですか?」
「俺の立場だと難しいな。直接お目にかかることも出来ないだろう」
「ツノ太……マレウス先輩の従者なのにですか?」
「ツノ……? 在学中のマレウス様の警護の任は、歳が近い故に選ばれただけだ。俺の実力や地位で決まったものではない」

 さっきまでの表情とは打って代わり、いつもの無表情に近い顔に戻ってしまい、監督生は聞く質問を間違えたと一瞬後悔した。
 もう一度、あのご尊顔を見ることは出来ないものかと“彼女”の話題に切り替えた。

「その人はどんな人なんですか?」

 そうして監督生は強烈な後悔をしたのだった。

 直接見ることも出来ないっていってたじゃん! どんな人かなんてわかんないに決まってる!

 また顔を曇らせてしまうと、両手で頭を抱えているとナイトレイブンカレッジでは珍しくも落ち着いたシルバーの声が後悔の呻きの中に届いた。

「あの方は……照れ屋な方だ」
「どうしてそう思うんですか?」

 照れ屋だと思う、ならまだ分かるが、照れ屋だと断言するくらいなのだから何かエピソードがあるはずだろう。シルバーの横顔を見つめながら問えば、何処か懐かしむように目を細め緩く口角を上げたシルバーが形のいい唇を動かした。

「俺が親父殿の勧めで木刀を使った演習に混ざった時、視線を感じて北の塔を見上げれば、あのお方がいらっしゃったんだ。その時の俺は見たこともない人の姿に驚き見続けていれば、あのお方はすぐに窓から離れていってしまったんだ」
「だから、照れ屋なんですか?」

 正直シルバー先輩に見つめられれば誰もが恥ずかしがるだろうに。なんて自分のことは棚に上げて“あのお方”の心情を察していれば、シルバーは緩く頭を左右に振った。名前と同じ色をしている毛先が動きに合わせてふわりと揺れる。

「翌日もあのお方は北の塔の窓から演習場を眺めておられた。俺と目が合うとすぐに何処かに消えてしまい、少しの間を開けてまた演習場を覗いている。その繰り返しだ」
「目が合うと隠れてしまわれるんですか」
「あぁ。他にもある。毎年誕生日に必ず差出人不明のプレゼントが届くんだが、メッセージカードには“貴方が万人から愛されますように”と。然し差出人が不明で父に聞いても答えてくれず、子供だった俺は差出人を特定したくて、考えに考え知恵熱を出して三日三晩魘されたんだ。これに懲りたのか、父が差出人の正体を明かしてくれたんだが……」
「あのお方だった、のですね?」

 こくりと頷いたシルバーの頬に一滴の雫が落ちた。雫は瞬く間に滝のように地面に降り注ぎ、濡れ鼠のようにびしょ濡れになった二人は走って四阿に向かった。
 雨のカーテンで四阿と外が遮られてしまい途方に暮れる二人は、突然のことに驚き屋根の下からどんよりとした分厚い灰色の雲を見上げるばかりだ。
 このまま何も話さないで雨が止むのを待つのは少し気まずいかもしれない。とはいえシルバーとの間で盛り上がる話題などあまりないわけで、どうしたらいいものかとバケツをひっくり返したように降る雨を見つめていれば、「すまない」とシルバーが謝った。

「俺が長話をした所為で、監督生まで雨水に当たってしまった」
「いいえ。私もあのお方のお話を聞きたかったので仕方がない……あ、確かこういう雨のことをなんて言うんだったかな」

 国語の授業で先生が何か言っていたような気がするとこめかみに人差し指を当てて思い出そうとするも、最初の言葉が出て来ない。なんだっけな。そう言いながら「うんうん」と唸る監督生を前にシルバーは全くと言っていいほど表情を変えない。
 何かを思い出そうとしている人に声を掛けるわけにもいかずに、シルバーは監督生が思い出すのをただ待っている。

 一分近い沈黙が流れて遂に監督生は思い出した。

「遣らずの雨だ!」
「ヤラズノアメ……?」

 聞いたことがない単語を聞いたシルバーの頭の上には沢山の疑問符が浮かんでいる。きょとんとするシルバーを前に監督生は小さく肩を揺らした。

「遣らずの雨。そうですね意味は確か……帰るのを引き留める時に使われるものですね」
「それはお前がいた世界の言葉なのか?」
「世界というか、国ですね。少し昔の言葉ですけど、綺麗な音で何となく覚えていたんです」

 シルバーは監督生が言った遣らずの雨という単語を覚えるように何度か小さく口にして疑問を浮かべた。

「例えばどういう時に使うんだ?」
「今みたいなシチュエーションの時とかですかね。きっと私がシルバー先輩ともっとお話がしてみたいと思ったから、雨が降って来たんですよ」
「そうか、だったらもう少しだけ共にいよう。とはいっても俺は口下手だから監督生が楽しい思いをするとは思えないが……」
「そんなことありませんよ。もっとお話ししてください。シルバー先輩のあのお方の話を」

 雨のカーテンが開くまでシルバーはあのお方の話をし続けた。
 何かしらの行事の度にプレゼントをもらっていること。メッセージカードには決まって万人から愛されますように。と締め括られていること。親父殿の計らいで一度だけ会ったことがあること、その時は終始無言で大変気まずかったこと。遠くから見かける時はいつも黒い服装でいること。一人でいる時間が多いように見えること。不意に見える顔が寂しそうで胸が痛むこと。

「父の話しでは、内政が得意で茨の谷の問題を次々と解決に導いたこともあるらしい」
「素晴らしい方なんですね」
「あぁ、そうだな」

 そう言って微笑むシルバーはやはり端正な顔つきをしている。
 ナイトレイブンカレッジには珍しく常識人で――居眠りが多いのは偶の傷だが――信念があり、堅実で優しい。そんな男がここまで惚れこんでいる人は一体どんな人なのだろうか。
 名前も知らない、もっと言えば性別だって知らない人物を想像するのは監督生には難しく、代わりに同意を求めるような口振りで「好きなんですね」と言った。

「――は?」
「シルバー先輩ってその人のこと、好きなんですよね?」
「好き……?」
「え? 話を聞いている分にはそうなのかなって思ったんですけど」

 違いましたか? と小首を傾げる監督生を前にシルバーは激しく動揺した。
 いや、そんなわけがない。自分はあのお方にそんな感情を抱いて良い身分ではない。自分はあのお方を傍で守りたいだけであって、そういう浮ついた気持ちなわけでは……!

「マレウス先輩の従者じゃなくて、ですか?」
「口に出し……!! 失礼する!」
「あ、ちょ、先輩?!」

 顔を真っ赤に染め上げたシルバーは、土砂降りの中走って何処かに行ってしまった。
 遠く小さくなっていく濡れている背中に一瞬手を伸ばすも、既に遠くにいるシルバーには届くわけもなく、何も掴むことが出来なかった監督生の手は虚しくもだらりと下に垂れる。

 遣らずの雨でもどうやらシルバー先輩を引き留めることが出来なかったか。と四阿の中から雨雲を見つめていると、次第に雨が止み、重たい雲の隙間から一筋の光が地上に差し込んだ。

 多分、シルバーにとってあのお方はあの光のような存在なのだろう。
 何処にいても自分を見つめてくれる、温かいあの光のような……。

 そう考えるとあのお方もシルバーに気があるのでは? と考えてしまう監督生だったが、会ったこともない人の心情を勝手にはかるのはよろしくないか。と頭を振って思考を振るい捨てた。

 ぽろりと口にした言葉が、この先何年もシルバーの頭を悩ませることになるとは、この時の監督生は知る由もなかった。