玉牡丹

 ──誓いは胸に。空には自由を。大地には血を。己には杯を。
 ──我は聖杯を望む者。我は力を望む者。

 我は──。

 ──私は自由を求める者なり。






「……参加表明はもうした。後戻りは、しない」

 多分、チャンスはこの一度だけ。絶対に逃すことも失敗することも出来ない。
 やるしかない。全ては私の為に。

 明かりが灯る街並みを見下ろす女の瞳は空々しく、口にした言葉の割に諦めの色を宿している。長い髪が風に流されているのを気にも留めないで息を吐いた山の展望台で、深夜の人が眠る時間に空気と溶け込む少女の手には小型ナイフが握られている。
 足元の木板には焦げた魔法陣が一つ。躊躇いもなく少女が手に持っている小型ナイフの刃を掌の上に滑らせた。

 ぽたり、と赤い粒が足元に落ちる。

「これで最優良サーヴァントなんて引けたら幸運なんだけどな」

 ぽたり、二つ目の赤い雫が足元の木板を汚す。
 一文字に切れた掌を木板と平行にして腕を伸ばした少女は、一度、ぐっと唇を噛み締めて瞼を閉じた。

 ──「素に銀と鉄。礎に石と契約の大公。降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」

 焦げ目で描かれた魔法陣が一人でに光り出す。
 その光景はまるで少女の言葉と血に呼応したようだった。

 ──「閉じよみたせ閉じよみたせ閉じよみたせ閉じよみたせ閉じよみたせ。繰り返すつどに五度。ただ満たされる刻を破却する」

 少女の掌から滴る血が足元で小さな水溜りを作っている。
 傷口が痛むが、少女の口は寝物語を紡ぐ母親のように穏やかさを崩さないまま、足元から巻き上がる風を意にも返さない。
 否、気にしていられないのだ。この儀式に成功しないと折角の聖杯戦争への参加権だって剥奪されてしまうかもしれないのだから。緊張で背中に汗が伝っているも、口にその震えが伝わらないのは少女の精神が凪の海のように落ち着いているからだ。
 この場所に立つ前に何度も頭の中で想像を繰り返したその通りにやれば大丈夫。

 少女は大きく息を吸った。

 ──「告げる。汝の身は我が下に我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ。……誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天」

 掌から最後の赤い雫が落ちた。
 現実から目を逸らすように閉じていた瞳を開いた。視線の先には何も変わらない明るい街並みが地平線に広がっている。
 
 ──「抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ」

 一際強くなった風に少女は目を細めた。目が眩むほどの眩しい光にも負けじと目を閉じなかったのは、己が召喚したサーヴァントを一目散に確認する為か、意地だったのか。
 咄嗟に目を庇うように上げた腕の向こうに見える黒い服を来た男の存在。
 突然と姿を現した男は人間のような姿をしているが、この山は私有地で、今夜、少女以外の人間が立ち入ることは決して出来ないこの場所に、ただの人間が立っているわけがない。

 とどのつまり、男の存在が少女の儀式の成功を意味していた。
 少女は目を大きく開いて間抜けにも口に力を入れることを忘れたまま黒い男を呆然と見続ける。
 安心と期待と不安が入り混じる心境を敢えて言葉にするのなら喜びが近い。心の内でガッツポーズを決めた少女の目を刺激する光が収まれば、漸く男の全貌を捉えることが出来た。

「へぇー、あんたが僕のマスターちゃん?」
「……現代、人……?」
「は?」

 聞いていた話と違う。
 思わず口から飛び出した困惑は風に乗って男の耳に届き、一瞬目を細めると困ったように人差し指で頬を掻いた。

「まぁ確かに、座に登録されている英霊の中じゃあ、現代寄りだと思うけど、これでも僕日本じゃ結構有名どころなのよ」
「もっとなんか、こう……もっと、鎧着た人とか来るものだと……お兄さん中に着てるのスーツです、よね?」
「あー。これ? 晩年は公務員だったからこの服装の方がそれっぽいってもんさ」

 あっけらんと答えるサーヴァントに少女は呆然と立ちすくんだまま動こうとしない。
 想像していたサーヴァントとは全く違う男を前に、視線を左右に彷徨わせた少女は明らかに狼狽の色を隠せていない。

 頼りなさそうなマスターだ。
 そんなサーヴァントの視線にも気が付かない魔術師としての心持すら知らない少女を、緊張から遠ざけるように動いたのは召喚されたばかりのサーヴァントだった。

「ところでお嬢ちゃん。あんたの名前は?」
「……斎条、千尋です」
「そうかマスターちゃん。ま、短い期間だろうけどよろしくやっていこうや」

 オレンジ色の裏地が目を引く黒いコート。その中には質のいい生地を使っていそうな黒いスーツで、腰に刀を差し左手に刀が握られている。
 刀……刀ってことは。

「貴方、もしかして剣のクラスの人?」
「そうだけど……マスターちゃん、もしかしてだけど、魔術が使えた一般人ってこたぁないよな?」
「大体その認識で合ってると思ってくれていいです。この聖杯戦争の話しだって何となく参加権が回って来て、参加するように言われたからそうしてるだけで、内容とか詳しいことは殆ど何も知らないの」
「あー、そういう感じ?」

 まさか自分を召喚したマスターが聖杯戦争に関する知識を大して持っていないなんて、誰が想像出来ようか。
 こんな大掛かりな魔術の先、魔法の域に達する大掛かりな儀式にほぼ無知と言っても過言ではない少女が半ば巻き込まれたのかと思えば、頼りなさそうと評したさっきまでの自分とは違う感想を抱くというものだ。

 ──頼りなさそうではない。頼りないマスターの間違いだ。

 こんな少女。戦線に出れば間違いなく殺されて終わりだろう。
 運よく見つからなければ中盤、現実的に見て始まってすぐ死ぬ。このマスターの実力はわからないが、見たところ本当に間違いで魔術回路を持って生まれただけの一般人。

 黒いスーツを着たサーヴァント──クラスはセイバー。真名「斎藤一」は穢れのない瞳を己に向けるまだ幼さの残る女マスターを見下ろしながら短く息を吐くように蔑んだ。

 こりゃ、外れを引いたな。ま、願望器たる聖杯なんてもの眉唾物としか思えないから、俺としては何でもいいがね。
 ……が、こんな子供が何を叶えようとしているのかは、京で有名と噂が立っていた団子屋の味程度には興味があるのは確かで、斎藤は千尋の肩に右手を置いて目を細めて笑みを作った。

「今日はもう遅いから家に帰ったらいいんじゃない?」
「貴方はどうするの? 野宿するの?」
「野宿って……僕は霊体化するから大丈夫ですよって」

 心の底からの疑問を直球にぶつける千尋の視線を躱すように斎藤が少女の身体の向きを変えて軽く背中を押せば、微妙に納得した千尋は重たいながらも足を一歩前に踏み出した。少し歩いては斎藤の方に振り返る千尋に向かって手を振れば、また千尋は前を向いて歩き出す。
 完全に千尋の気配が消えた頃、斎藤は己が背にしている明るい街並みに鋭い視線を向けた。

「この感じ……敵さんは結構厄介な気がするんだよなぁ」

 足元の木板に焦げ目で描かれている魔法陣の近くには、召喚したかったであろうどこぞの英雄の触媒が無造作に落ちている。

「あーあ。こんなデカい忘れ物しちゃって、まぁまぁ」

 国宝級であろう触媒を拾った斎藤の視界に、小さな赤い水溜りを見つけて顔を顰めた。

「怪我、してるように見えなかったけどねぇ」

 ぽつりとさっきまでいたマスターの様子を零した斎藤はそのまま身体を宵闇へと紛らわせた。
 
 

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