織田信長の頭が無事に戻って来て、漸くいつもの穏やかな日常が戻って来た頃。所長補佐としての仕事も一段落ついた千尋はコーヒーでも飲もうと電気ケトルでお湯を沸かした。その片手間でマグカップにインスタントコーヒーの粉を適量入れれば、香ばしい匂いが鼻孔を通り抜けると同時に、張りつめていた気持ちに隙間が出来た。
白い湯気がゆらりと蜃気楼しているマグカップを片手に、お尻の跡がくっきりと付いているキャスター付きの椅子に腰をかけた千尋は、引き出しの中からメモを取り出す。
クリプターたちの騒動でカルデアを襲撃した時、奇跡的にポケットの中に入れていた斎藤からの後朝の文だ。
シャドーボーダーでの生活やら、ノウム・カルデアでの新生活等なにかと忙しい時間を過ごしていてすっかりとその存在を忘れていたが、今なら時間があるしゆっくり解読が出来そうだ。
「えーっと、なんて書いてあるのさ。文字崩しすぎじゃないの?」
細いミミズがのたうち回った文字の解読は最初から難航している。再召喚されている本人に聞くのが一番早いが、そんな情緒のかけらもないようなことはしたくないと、千尋はマグカップをデスクの上に置いて、適当なメモ紙とペンを取り解読出来た文字を書き連ねていく。「咎」「夢」「逢ふ」「ひとつ」。メモに書かれている内容が俳句なのだと気が付いた千尋は、背凭れに背中を預けて天井を見上げた。
そういうこと、するような人だとは思わなかったけど、案外違うのかな。
握っているボールペンを転がすように手放し、残されたメモと書き出した文字が散らばっているメモを手に取り、天井から部屋を照らすライトに透かしてみる。
透かしたところで解読が進わけでもないのに、どうしてか胸の内側が擽られる気がしてならない。疑問を抱かずとも千尋はその正体に気が付いていた。あの人が起き抜けにこの机の前で背中を丸めて、この俳句を詠んだのかと思うだけで愛おしさが募る。
きっと誰にでもするような人じゃない。過去に遊んだ女に対してこんなメモは残していない。残していたらそんな文献が残っているはずだから。だから、これは、特別な一枚。
細かい平仮名は略されすぎていてきちんと解読出来ていないが、これが俳句なのだというのなら何となく当てはめることくらいは出来る。
——ひとつ逢ふ 夢おどろかし 咎と知る。
——会う毎に夢なら覚めないでくれと願う。例え願うことが罪だと知っていても。
訳すとしたらこの訳し方がしっくりくる。まぁ、この逢ふが所謂一晩の行為を指しているのかもしれないが、そこは深く考えなくてもいいだろう。いや、ひとつ逢ふだからそっちの訳の方が正しい気がしてならないが、受け取り手の自由ってことでいいか。
「案外マメなところがあるんだぁ。んふふっ」
あの日、本当に手放さなくて良かった。千尋は今のいままで忙しさにかまけて忘れていたことを雲と同じ高さまで伸びる棚に上げ、解読したメモを緩む口元を隠すように引き寄せた。唇の先がメモに触れる。たったそれだけで斎藤に口付けをしたのかと思える高鳴りを覚えるのだから、いい大人が思春期もいいところだ。
この部屋には千尋以外の存在はない。いくら顔が崩れていようが構いはしない。だというのに千尋は己の失態に短く息を吐き出し、緩む頬を軽く叩いた。
気を引き締めないと。こんな姿を他人に見せるわけにはいかない。
そうは言っても頬は勝手に緩んでいく。
永年思い続けていた男と漸く気持ちが通じ合ったのだから緩まない方が可笑しいだろう。
──とはいえ、少し引っかかるところもあるのが事実だ。
出会うことが、この世界の中で顔を合わせることが、体を重ねるのが罪だと言うのか。──言ってしまうのか……。
夢なら覚めないでと願う口で、罪の意識を捨てきれずにいるのか。
そう考えるだけで千尋の胸が締め付けられる。
好いた女を、白い服に付着したカレー汚れの方が可愛く見えるこの世界に縛り付けたことに後ろめたさを感じているのだろう男の葛藤と、咎を受け入れるという覚悟が見えるメッセージに心揺さぶられないわけがない。
会いたいな。
悲しいことに仕事が立て続いている今、斎藤と会う予定が全く立っていない。いくらノウム・カルデアで新所長が据えられ、シオンが技術的に協力してくれ、マリーンズが艦内の仕事を請け負ってくれてるといっても、それでも仕事は何かしらあるものなのだ。
真っ暗な部屋にぽっと灯る蝋燭みたいな淡い感情が千尋を急かすが、とはいえ、仕事が片付かないとゆっくり会えないのだから、今は我慢時。
丁度間抜けな顔を晒さなくても良いと考えれば、この時間も悪くはない。
「よし、先ずは設備周りの確認をしに行こう」
いい加減冷めたコーヒーを一気に煽り、意識をメモから仕事に切り替え部屋を出た。旧カルデアの施設でどうせ使わないだろう、とタカを括っていた謹慎室。いざ使った時、ものすごく使い勝手が悪かった記憶が植え付けられている。
もう少し手を加えてもバチは当たらないはずだ。
この施設の奥まった場所を目指して千尋は歩を進めた。タブレットとレトロにもバインダーとペンを脇に抱えてだ。
目的地まであと半分。人通りが多いエリアを横切っている最中、目に入った桃色の髪を自然と目で追えば色素の薄い瞳と目が合った。
「斎藤さんのお孫さん! お仕事ですか? 精が出ますね」
「ありがとうございます。沖田さんは何を?」
「私は今からノッブたちに会いに行くところです。あの人ったらまた首がなくなるかもしれんって言って、私たちに首があるかどうか確認させてるんですよー? 復刻にはまだ早いのに」
とはいえあの首は騒動としては一回だが、その実二回首が紛失している。不安になるのも分からなくはない……首が無くなるってどういう現象かは分からないが。
「ボイラー室の隣は暑いので体調に気を付けて──」
「おー、お二人さんー、奇遇だねぇ、どっか行くのかい?」
「斎藤さん! そちらこそ何を?」
「やること特にないし、巡察っていう体の散歩。いやぁ、こんな平和なら必要ないんじゃ……って言いたいところだけど、大小関わらず英霊なんてのは人格破綻者ばっかだからねえ」
「あはは! 斎藤さんそれじゃあ特大ブーメランですよ」
「うーわっ、沖田ちゃんってば辛辣ー」
卓球のラリーのようにテンポよく進む会話を前に千尋は息を殺す。
存在ごと消してしまわないと、この緩む口元を隠せそうにない。これは拙い。
「んでぇ? 千尋は何してんの?」
「仕事です。失礼します」
いくら千尋が息を殺したところで、存在そのものが消えるわけではないし、そもそも千尋に気配遮断スキルがあるわけじゃない。いい仲になった斎藤に声をかけられるのは必然のこと。
即刻立ち去ろうと無理にでも話を断ち切った勢いのまま、早足で目的地に向かう千尋の背中で残った二人が瞬きを三度繰り返し、お互い顔を見合せた。
「お孫さんと何かあったんですか?」
「吃驚するほど思い当たらないのよ。これが」
「気付かない間に癪に障るようなことをしたとか」
「そもそも、前回の小特異点以来まともに会ってないんだけど。おかしいよね? 俺たち本当に同じ施設の中にいるの?」
「まぁ、お孫さん、いつも忙しい人ですからね」
苛立ちをそのままに斎藤が乱雑に髪を乱す。その様を横目に沖田が、入れ込んでいるのはこっちですか。なんて小さく笑い斎藤の肩にポンと手を置いた。
「なんにせよ仲直りは早くした方がいいですよ」
「仲直り、ねぇ?」
その原因は一体どこにあるのやら。じくりと鈍い痛みか胸に走ったことを見て見ぬ振りし、随分遠くに行った背中を一瞥した斎藤は来た道を引き返した。
それから長針が二週した頃、タブレットと紙に必要項目を書き出し、備品の在庫管理をし終え千尋は息をついた。
在庫管理の傍らで行ったベッドメイキングは千尋の力作と言ってもいい出来で、我ながら頑張った。と自画自賛していれば、不意に扉がひとりでに開いた。
こんな辺鄙な区間に一体誰がいるというのだろうか。逢い引きにしては色気がなさすぎるし、まだ幼いサーヴァントの遊び場としては盛り上がりに欠ける。
堅苦しく、重々しい。それが謹慎室が醸し出す雰囲気だった。
使用するような人間も英霊もいない今、誰がここに用があるのだろうか。
タブレットを脇に抱えたまま首を廊下にだせば、視界に影が落ちる。上を見れば見知った顔が一つ。男の名前を呼ぼうと口を開くよりも先に斎藤の手が千尋の視界を奪い、そのまま後ろへ押し付ける。何事か理解出来ぬまま千尋は、促されるままに壁に向かって四歩後退したところで視力を奪っていた手が離れた。熱が離れた所為か物寂しさを覚えたものの、それを口にする必要はないだろう。むしろ、仕事中なのだから気を引き締めないといけない。
仕事の邪魔をしないで貰おうか。緩む口元を叱咤しポーカーフェイスを装った千尋が斎藤を見据える。
薄暗い部屋の中、男の目が獲物を捕らえた猛禽類みたいに一瞬鈍い光を放った。
威圧、それとも牽制。何に対してかはわからないが、少なくともこの部屋には私しかいないのだから私へのモノだけど、全く身に覚えがない。一体何事なのだろうか。内心小首を傾げる千尋の薄い肩に斎藤の厚い掌が触れる。じんわりと熱が衣服越しに伝わり、ゆっくりと心臓の鼓動を狂わせていく感覚に酔いを覚えた。
微睡を誘う手付きで肩から項に指先が伸びる。その誘いは悪魔の契約にも似ているくらい今の千尋には甘美なものに思え、震える息を短く吐き出し生唾を飲んだ。目を逸らすことも出来ないくらい射抜かれる身体が限界を訴え、足がもう一歩後退した。
「さい、と……さ、」
「俺のこと避けてる? 気の所為ってことはないでしょ。さっき明らかに目ぇ逸らしてたし」
「ちがッ!」
「違うことないですよねぇ? 明らかに沖田ちゃんとの態度も違ったし」
「だって……!」
だって、それは……!
左右に視線を彷徨わせた千尋は観念し、下唇に歯を立てる。すると斎藤の親指が下唇を撫でるから、余計に早鐘を鳴らす羽目になり、千尋は両手をきつく握って瞼を伏せた。
ある種の現実逃避でもあった。
「メモ、読んだの」
「はい?」
「斎藤さんが退去する日、メモに書き残していたでしょ。それ今日読んで、嬉しくて、そうしたら自然と顔がにやけちゃって。こんな、仕事に支障出るから、だから暫く会わないでおこうって思ったの。なのに、こんな早く会うなんて思ってもみなくて……冷たい態度を取ってごめんなさい。でも、嫌いになったとか、そういう理由で避けたわけじゃないから勘違いはしないで」
斎藤の顔を見るのも恥じらいを覚える千尋は、視線を横に逸らしつつも指先はしっかりと斎藤の黒いスーツの裾を掴んでいる。
暗がりでもわかる程頬を赤くさせている姿を前に、流石に嘘を吐いているとは思わない斎藤は大きく溜息を吐いて千尋を軽く引き寄せた。トン。と質量のあるものが胸元にぶつかると同時に、千尋の腰に腕を回して緩やかに小さな身体を拘束し、旋毛に顎を乗せた。
「急に冷たい態度を取るのはどうかと思うけどねぇ。子供じゃないんだからさ」
「わかってるけど、でも、恥ずかしさが勝っちゃって」
「はいはい。うちの子は恥ずかしがり屋ですねー」
軽口を叩きながらもしっかりと千尋の身体を抱き締める斎藤の腕の中で、千尋は唇を小さく尖らせるが、それも子供っぽい行動だと気が付き無理矢理笑ってみせるが、当然見ている人間は誰もいない。全く持って意味のない行動をしたことに苦虫を潰したような表情を浮かべた千尋が、雑念から逃れる為に斎藤の胸元に頬を擦り寄れば、男は「なんだ?」と聞いたことがないくらい甘ったるい声色に耳殻がひりつく。
こんな甘い吐息を零す人だっただろうか。熱の上がる頭でぼんやりと斎藤を見上げれば輪郭を指の背で撫でられる。何かの合図にも思えるそれに瞼を下ろせば唇に柔らかいものが触れる。
そう言えばあの夜もこの人は熱を孕んだ甘い吐息を漏らしていた。鎖骨に口付けし、胸の飾を弄り、空洞の中に埋まるモノの場所を教え為か大きな掌が下腹部を圧迫し、その度にちゃんと繋がっていることを実感させられたあの日も、男は何度も快楽に戸惑う女に向かって甘い言葉を囁きかけていた。
肌に落ちる雫も、吐息も、本能から求める視線も全て火傷しそうなくらい熱を孕んでいた。
——それでも隙間風が二人の間を通り抜けるように、寂しさが常に付きまとっていたあの夜。
二度目の別れがすぐそこまで迫っているとわかっていながら、どうしても求めずにはいられなかった。人が、斎藤がそれを罪だとか、咎だとかと言うのなら——。
「斎藤さんが、私を想うことを罪だというなら、私に斎藤一の心を頂戴」
「うん? どういうこと?」
「藤田五郎には奥さんがいるじゃない。でも斎藤一には奥さんがいないんでしょ? だったら私に頂戴。霊基に刻み込んで、私の召喚には必ず応じて」
それが私への許しになるのだから。
「あー、成程。それってかなり難しくない?」
「そうなんじゃないの? もし来なかったら、浮気者って罵ってやるから」
だから今度こそ、私だけのセイバーでいてね。
耳元で囁きかければ、斎藤は観念したとばかりに肩をすくませる。
「そういうことね。千尋ちゃんはそれで満足なわけ?」
今度こそ千尋の隣を譲るつもりは無い。心だってくれてやる。でも、本当に、それで本当に満足なのかと。この世界に縛り付ける咎の贖罪になるのかと首を傾げた斎藤の双眸が大きく開いた。
目の前の女は目を細め、これでもかと言うほど笑ったのだ。
「すっごく! これ以上のものはないよ!」
それは積乱雲の浮かぶ青々しいほど澄み切った夏の陽射しとも思える笑み。一瞬のうちに斎藤の胸の奥に懐かしさと愛おしさを連れてくる。
「ありがとう」
これから先の人生、どれだけ生きることが出来ることが出来るかはわからないけど、多く見積もって三年。その間、少しでも長くこの人と一緒にいれるだけで私の人生は幸せだったと言えるから。だから、それだけでいいの。
私に幸せを、夢を見させてくれてありがとう。
私に諦めない気持ちを与えてくれてありがとう。
私に本当の意味での愛情を教えてくれてありがとう。
——私を一時でも愛してくれてありがとう。
──「巡り逢ふ 君が為ある 玉の緒よ」
またいつか時代を越えて巡り逢うことが出来るでしょう。私たちの間にある命の糸が運命であるのなら。
願わくば次に彼を召喚する時、繋がる糸がこの身体に流れる血ではなく、二人が共に紡いだ縁でありますように。
血に勝るゑにが貫く殺人刀
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BAMBI