君よ、止まってくれるな。振り向いてもくれるな。


 魔物が目覚めた。その魔物は百八の光となり散り、国には腐敗が広がった。
 東州。この国の都から東にある地域では戦が起こっていた。
 時の皇帝は税を跳ね上げ、民は苦しみ飢え、絶望の中にいた。国を動かす官僚は甘い蜜を啜る事に味を占め、苦しむ民を前に紙幣で出来た扇で仰ぐのだ。
 この国は腐敗している。
 誰かが変えてやらねば、民は死ぬまで働かされ、皇帝に搾取され続け、いっその事生まれて来なければよかった。と後悔の念を抱きながら骨と皮の身体で死んでいくのだ。
 皇帝を滅ぼさん。と立ち上がった男たちの中に紛れ、女の姿があった。女は自分の背丈よりも大きな槍を持ち、男たちに紛れて歩くその姿は、東州のどの女たちとも違う。貧相な体つきをしているわけでも、女性らしく着飾っているわけでもない。
 背中まで伸びている髪を持つ女は先頭を歩く隊長格の男に話を付け、隊の中から一人離れて歩き出した。

「戻って来るのか?」
「そのつもりです」

 女は体格のいい男からの掛け声に答えると、そのまま背を向けて歩く。迷う事のない足取りは歩き慣れた道だからだ。見慣れた風景を冷めた目で見詰める中でいつもと違うのは、家に帰る道すがらに廃墟になった家の壁に背中を預けて力なく座り込んでいる男がいる事だ。
 見るからにガラの悪い男。この時勢何があるか分かったものじゃない。圧政の所為で治安があまりにも悪いのだ。然し、女はなんて事はない。と進んで話しかけた。

「お前、行く所がないの?」
「……あんた、誰だ……?」
「行き倒れているの? だったら拾ってもいいよね。ついて来るといいよ」
「は?」
「私の名前は牡丹。今日からお前の……なんだろうね」

 地面に尻をつけて座る男に合わせるように、女はしゃがみ、眉尻を下げて困ったように笑う。男は女の持つ槍を見て警戒心を露にしたが、出で立ちを見て翡翠の目を細めた。
 身なりがいい事がわかる服装に、女の経済力を打算したからだ。

「さぁおいで。一緒の家に帰ろう」

女はそう言うと、翡翠の目をした男に向かって手を差し伸ばした。

 ──これは、のちに英霊となる二人の話しである。














「それで、お前の名前は?」

 牡丹は自分の後ろを付いて歩く男の方を振り返りながら聞くと、男は翡翠の目に何の感情を映さないまま口を開いた。

「あんたイイとこの人間だろ? なんで、んな物騒なもん持ってる。俺が護衛してやろうか」
「生憎と腕には自信がある。が、お前も腕に自信があるなら勝負して欲しい」

 先を歩く牡丹は振り返ったまま立ち止まり、翡翠の目を持つ男に槍の穂を向けた。血気盛んなのか、何らかの理由があっての行動なのかは、出会ったばかりの男には察する事は出来ず、ただ、牡丹と名乗った女の目には自信が漲っていて、負けるつもりはない。と口外に言っているのだけは伝わった。

「お前が負ければ私のものになって欲しいのだけど、どうだろう」

 どうだろう。と尋ねたわりに負ければ牡丹のものになるのは決定事項のようで、男はそれが気に入らなくて、牡丹が負けた時の条件を聞いた。

「あんたが負ければ……?」
「うーん。それは負けてから君が決めるといいよ」

 牡丹は視線を男から逸らしながら答えた。
 負ける事なんて端から考えてないその言い方に、甘く見られたもんだ。と男は静かに闘争心を燃やし、男の考え通り負ける事を考えていない牡丹は、男の目色が変わった事に気が付き口の端を上げる。
 相手は腕に自信があるとしても、獲物を持っているようには見えない。それに対し自分は柄が長い槍を持っていて、間合いの長さがまるで違う。それに何度も死線を潜ってきたのだ。負けるはずがない。と柄を握る手に力を入れた。

「一発勝負で構わないね?」
「あぁ」

 お互いに距離を取り何呼吸かの後、同時に飛び出した。
 男の動きは目を見張るもので、牡丹は想像以上の強さに驚きを隠す事は出来なかったが、それでも負けるつもりはない。と槍を男に向かって突き出す。隙を突こうとする拳には柄で防ぎ、間合いを取って穂で男を突こうとするも、男は素早い動きで突きを躱しては、四肢を使って攻撃を繰り出す。
 どちらも譲らない攻防に息が上がり始めたのは、牡丹の方が先だった。体力にだって自信があったのに。あれだけ戦場を駆け抜けて来たのに。と男の強さに牡丹の心は浮足立つ。

 ──この男が欲しい。
 この男を連れて行けば、父だって……!
 
 何が何でも負けられないのだ。と牡丹は上がる息に気が付かない振りをして、男の腹に向かって穂を突き出した。それでも男との勝負をつける決定打にはならない。

 ──強い。
 
 それは互いが武器を交えた末の評価。息を合わせた訳でもないのに、二人はほぼ同時に口角を上げる。
 男はまさかこんな身なりがいい少女がここまで強いとは思わなかった。もっと言えば、手に持っている槍だって金持ちの道楽だとさえ思っていたのだ。
 勝負は一瞬で決着がつくと思っていたのにも関わらず、牡丹と名乗った女は未だに槍を両手で握り、微かに笑みを浮かべながら殺さんとばかりに攻撃を繰り出して来る。
 
 何だ。何なんだ。
 どうしてこの女は……。
 
 興味本位で槍を振り回しているわけじゃない。そんな事、男にはすぐにわかった。少女とも呼べる女が狙う場所は心臓や臓腑がある腹、喉元……人間の急所と呼ぶような所ばかりなのだ。いい服を着ている割に、血みどろの戦いを知っている。その矛盾とも言えるちぐはぐな女に、男は興味をそそられた。負けてやってもいい。そんな考えが頭を過ったその刹那。牡丹が操る槍の穂の先が男の喉元目掛けて伸び、男はそれを避ける事はしなかった。従って、牡丹の槍は実際に男の喉を突いてはいないにしても、突いた事には変わりなく、拮抗していた勝負は牡丹の勝利という形で収まった。

「俺の負けだ。いやぁ、あんた強いなー」
 
 間延びした声で話す男は降参と言わんばかりに両手を上げて、溌剌とした笑みを浮かべる。その声色は何処か楽しそうなもので、牡丹は上がっている息をそのまま、白い目で男を見た。

「何を……最後の、明らかに手を抜いていたでしょう」
「いいやぁ? そんなつもりはなかったがねぇ」

 この間延びした喋り方が素なのだろうか。と牡丹は考える程にさっきまでと喋り方が違う。これは一体。と男を観察していると、男は何か閃いたように「おっと!」と声を上げた。

「俺は燕青。よろしくな」
「燕青か……どんな字を書くの?」
「燕が青いで燕青」

 燕が青いか。呟くと同時にその辺に落ちていた小石を拾った牡丹は、その石で地面に文字を書いた。
 そこには「燕青」と書かれており、燕青は牡丹が地面に書いた文字を見て、あぁ、そんな字だったな。と地面に書かれれた、童幼の頃に親から与えられた名前をぼんやりと眺めた。
 家が裕福でないと勉学を学ぶ事が出来ない時代。且つ燕青は気が付いた頃には頼れる身内がおらず、ありとあらゆる悪事をして生き抜いて来た。その中に勉学は必要なく、何度か自分の名前を見た事はあるが、書いた事はなかった。反対に牡丹は幼い頃から勉学を叩きこまれている為に、燕青の名前をすらりと書く事が出来る。

 はっきりとした身分の差がここにあった。

「牡丹は文字を書く事が出来るのか」
「ん? あぁ。父が豪商で跡を継げるように先生に師事していたからね」
「ほー。そりゃこのご時世でも将来安泰だな」

 この国の皇帝が変わり、悪政と名高い圧政が強いられている時世において、勉学が学べるのは立派な金持ちの証だ。然し牡丹は燕青の言葉に表情を曇らせ、深い溜息を吐いてから立ち上がった。

「だからお前を拾ったんじゃないか」
「はい?」

 話の流れがまるでわからない。と燕青は眉間に皺を寄せた。そんな燕青を置いて行くように牡丹は槍を持って家に向かって歩き出す。勿論燕青も置いて行かれないように、その長い足を前に出して牡丹に追いつき説明を求めた。

「話が全く見えねぇが?」

 石で塗装された道路に二人の足音が僅かに響く。耳を澄ませていないと聞こえないような音だが、燕青の耳にはよく聞こえた。然し、牡丹が口を開く事でその足音も聞こえなくなる。

「父は過保護でね、女の私に店を継がせたくはないようなの。まぁ弟もいるし、無理矢理継ぐ事もないとは思うのだけれど……私なりに思う所があってね。そこで用心棒として君を雇おうかと」

 話を聞く限り、牡丹が店を継ぐ事に拘らなくてもいいんじゃないか。とか、余程その弟に商才がないのか。とか燕青の頭の中に色んな疑問が浮かんでは消えていくが、横を歩く牡丹はその質問どれにも答える気はなさそうで、口をへの字に曲げて鼻から息を吐き出した。

「まぁ、なんだ。勝負に負けたのだから、大人しく私の好きなようにさせてくれ。悪いようには扱わないよ」

 実際、命張らないといけないような事があれば逃げればいいか。と隣を歩く自分より少しばかり若い女を見て燕青は頷いた。

 暫く歩き続けた頃。燕青を拾った街から少し離れた場所に牡丹の生家がある。広大な国の一部地域である東州は、首都の次に栄えていると名高く、牡丹の生家はまさにその象徴と呼べる造りで、燕青は思わず「うげぇ」と声を出してしまった。
 牡丹は知人を自宅に呼んだ事は数回あるが、その誰もが、この立派な家を見て目を輝かせていたのに、燕青の反応はまるで見たくもないものを見てしまった。というような反応で、それが新鮮に感じ、牡丹は小さく息を吐き出すように笑った。

 自分でも失言だとわかる発言をした燕青は、気分を悪くさせたか。と横目で牡丹を見るも、彼女は可笑しそうに笑っていたので、謝罪の言葉は言わなかった。牡丹も牡丹で謝罪を求めているわけではなく、一頻り笑った後、牡丹は燕青を見上げて「行こう」と声をかけた。

「ただいま戻りました」
「お帰りなさいませ」
「父様は?」
「自室にてお休みになられています」
「そう」

 石造りの門を抜けると、女の使用人が胸元で左手の握り拳を作り、それに右手を添えた状態、所謂拱手をしながら立っていた。牡丹はそれが当たり前のような態度で使用人に話しかけており、燕青はその光景に目を見張った。

「旦那様にご帰宅を知らせますか?」
「あー、先に部屋に行くから少し遅れると」
「畏まりました。牡丹様はまだお帰りになっていない。と言う事ですね」
「話が早くて助かるよ」

 目を伏せながら話す女使用人は、ちらりと燕青を見るも何も言わず、牡丹も燕青の事は特に話をする事なく、石造りの建物の中に入って行く。牡丹から何も指示されてはいないが、自然と燕青は牡丹の後を追いかける。牡丹は後ろをついて来る燕青の音に、口の端を僅かに上げて笑った。

「なぁ……」
「悪いね。父は今床に伏しているの。女の私が槍を振るうのはよくないと考えているみたいで、この格好だと嫌がるの」

 燕青の言葉を遮って牡丹は現状について軽く説明をしたが、燕青が聞きたかった内容全てを教えてくれるわけではなく、燕青は再び口を開いた。

「じゃあなんで槍を振るってるんだ? 父親に気に入られた方が良いだろ」
「女の私には店を継がせないと言うから、強くなってやろうと思ってね」

 あんたの親父さんは、そんな物理的に強くなって欲しいわけじゃなかったと思うぞ。とは燕青は言わなかったが、心の中でまだ見ぬ牡丹の父親に同情した。
 目的地である牡丹の自室に着いたはいいが、燕青は部屋の前で立ち止まった。それに対し、牡丹は立ち止まった燕青を気にも留めず部屋の中から声をかける。

「何を突っ立ってるの。入るといい」
「あんた仮にも女だろ」
「だから何。仮に君が私を襲ったとしても、槍の餌食になるだけだ」

 それに枕の下には短刀も忍ばせてあるが、切れ味を味わってみる? そう言い切った牡丹は実際に片手で槍を握った。部屋の外にいる燕青には見えてはいなかったものの、その言葉に溜息を吐いた音は、牡丹に聞かれる事なく空間に溶けて消えていった。

「何をしている。早く手伝ってくれる?」

 牡丹に急かされた燕青は意を決し、牡丹の自室に入ると、槍を片手にもう片方の手に菫色の裳を掴んだ牡丹が立っていた。信頼されているのか警戒されているのかわからない牡丹の立ち姿は、言いたい事だらけで、燕青は思わず深い溜息が零れる。

「あんた、なんで裳を着てないんだ……」
「私は生まれた時から使用人にやってもらっているのだけれど、先日その使用人に暇が出されてしまってね。代わりにやってくれないか」

 ほぼ下着姿と言っても過言ではない牡丹は恥ずかし気もなく、燕青の前に立つ。豪商のお嬢さんはもっと羞恥心のあるものだと思っている燕青は、現実と想像の温度差に頭を悩ませるが、いつまで経っても動かないでいる燕青に向かって、牡丹は挑発とも取れる台詞を発した。

「存外お前は初心なの? 女人の身体を見た事がないわけでもあるまいに」
「わかった、わかった。……ったく、豪商の令嬢は皆こんな男勝りなのかねぇ」

 独り言のように呟いた燕青は、牡丹の手から裳を受け取り、そのまま牡丹の背中に回り、素早く、且つ丁寧に裳を胸の下に巻き付けていく。その動きを見た牡丹は、腕が立って着付けも出来るとは、中々いい拾い物をしたと、内心喜びながらも、何故女物の服を着付ける事が出来るのか。と首を傾げた。

「お前、女装の趣味でもあるの?」
「……こういう服は何度も脱がせてきたんでねぇ」
「あぁ。そういう」

 燕青の顔立ちは確かに整っている。それは誰もが認める事実だろう。実際に牡丹も容姿が優れているとは思っていた。だから、女性関係に結び着くかと言われれば、男女の関係どころか、恋愛をして来なかった牡丹の発想では気が付かなかった。その回答を燕青がした事で、牡丹は急激に自分の背後にいる男の存在を意識した。異性としてではない。人として意識したのだ。
 するりと紐が掠っていくのが布越しに伝わり、背中でその紐がきつく締められる。その紐が今度は正面に回り、それに合わせて牡丹は燕青の正面になるように半回転した。燕青は器用にも裳に皺が出来ず、それでいて決して緩くはないその力加減に、脱がして来たからってここまで出来るわけがないだろう。と牡丹は燕青が持つ元来の器用さに舌を巻いた。

「出来たぜ!」
「君は器用なのね。驚いた」

 着付けの使用人に暇を出された時はどうなる事かと思ったが、これなら大丈夫そうだ。姿見の前で燕青に着付けてもらった自分を見て、牡丹は改めてお礼を言った。

「ありがとう」
「まぁ、槍持ってる人間に着付けするのは初めてだったがな」
「離す機会がなかっただけ。明日からはそんな事しないよ」

 牡丹は持っている槍を寝具の横に立てかけ、この部屋に来るまでと同じように牡丹は颯爽と部屋を出て行き、燕青もその後に付いて行く。行先は聞かなくともわかる。牡丹の父親の所だ。

 ──いくら勝負に勝ったからって、ここまでするかね。普通。
 だからと言って大人しく付いて行く俺も俺でどうなんだ。なんて燕青は遠い目をしている間に、辿り着いたようで、牡丹は部屋の前で立ち一度深呼吸をしている。
 会って間もないが、この女は心臓に毛が生えている部類の女だとばかり思っていた。緊張する事もあるのか……。と燕青は目を見張った。見知らぬ男に果敢に勝負を挑んだり、下着姿同然の姿を晒したりとしている女が緊張する父親とは一体、どんな男なのか。燕青はごくりと固唾を飲み込んだ。

「父様。牡丹です。只今戻りました」
「入れ」
「失礼いたします」

 牡丹はそっと足音を立てないように部屋の中に入って行き、燕青もそれに習って、足音を立てないように部屋の中に入った。
 天蓋付きの寝台で横になっている男が牡丹の父なのは、誰に聞かずともわかる。雰囲気とかそういう話ではなく、この男以外に誰もこの部屋にいないのだ。
 牡丹は寝台の上で横になっている自分の父親の枕元に行き、膝を床につけて布団から出ている皺が目立つ男の手にそっと触れた。

「久しいな牡丹」
「ほんの三か月ですよ」
「お前がいないこの家は隙間風が入っているように感じて仕方がないわ」
「弟が聞いたら泣いてしまいますよ」
「お前が揃って家族だろう。欠けていては隙間風だって通るものだ」

 家族愛に溢れた会話だ。お互いを大切に思い合っているのだろう。その証拠に二人の目つきは優しいもので、それを眺めている燕青は居場所のなさに落ち着かないでいる。
 そんな燕青に気が付いたのか、牡丹は燕青を一瞥すると、すぐに父親に紹介した。

「父様。紹介します」

 床に膝をつけていた牡丹は立ち上がり右手を何もない空間に置いた。それはそこに今から誰かが来ると思わせる動作で、燕青はゆっくりとした足取りで牡丹の隣に並んだ。燕青が立っていた所からでは、寝台に横たわる男の全てを見ることが出来なかったが、どうやら牡丹は母親似らしい。白髪の目立つ男の面立ちは牡丹の面立ちとはまた違う。

「名を燕青。道で拾いました。これは中々腕が立つ男で、私の用心棒に相応しいかと」
「……私の目には人に見えるのだが、お前は今拾ったと言ったな?」
「首輪も付いていませんし、雇用主もいないようでしたし、だったら丁度いいと思いまして」
「お前……犬猫を拾うみたいな感覚で人を拾って来るんじゃないよ……」

 白髪の目立つ男は深い、深い溜息を吐いた。
 内心、牡丹のような男だったら面白い。と思っていた燕青だったが、この娘の親にしては常識があるようで、額に手を当て首を左右に振っている。どこで育ち方を間違えたのか……。そうぼやく様は見ていて同情しかしない。
 そうなのだ。この女は少しおかしいのだ。と燕青は隣に立つ牡丹を横目で見下ろした。が、燕青の批難も父親の気苦労も何一つ察しない牡丹は、笑顔を浮かべながら今日の要件を口にした。

「腕の立つ男を手に入れました。これで父様が言う女の身では危険だ。と言ったあのお言葉を覆す事が出来ましたね」
「だからと言って道端で拾ってくる事があるか!」

 ごもっとも。
 牡丹の父親の発言に燕青は心の中で何度も頷いた。が、腐っても白髪の男は牡丹の父親なわけで、もっと言えば東州の経済の一端を担っている豪商の主だ。常識的な男の筈がない。

「まぁいい、好きにしろ。但し店に関して私はまだ認めていないからな。女のお前が口を挟む事じゃない」
「えっ!」

 驚きの声を上げたのは今まで人形の様に黙っていた燕青だ。これは完璧に追い出されると思っていたばかりに、まさか受け入れられるとは思っても見なかったのだ。それに対し牡丹は納得がいっていないようで、桃色の唇をへの字に曲げている。
 が、今此処でこれ以上話しても平行線で決着はつかない。と判断したのか、拱手で礼をすると父親に背を向けて部屋から出て行く。燕青もそれに続こうとしたが、牡丹の父親に引き留められ、すぐに視線を寝台に横たわる白髪交じりの男に向けた。

「あの子はすぐに無茶をする。だから何かあれば助けてやって欲しい。勿論金は出す」
「はぁ……お言葉ですが、娘さん、相当なじゃじゃ馬ですよ」
「はは、あれはコレと決めたら絶対に譲らんのだよ」

 ──あぁ。確かにそんな気がする。

 会ったばかりの燕青にもそう思われるのだから、長年家族として過ごして来た男にはわかり切っている事。それなのに、男は牡丹を後継者として育てないのは、男も牡丹と同じく譲らない性格なのだ。さっきは似ていないと評した燕青だったが、矢張り親子。そっくりだ。どうか振り回されませんように。そう願いながらそっと目を伏せた。

「旦那様。この燕青、お嬢様の助けになりましょう」

 右手で握り拳を作りそれを左手で包む。これも拱手の一つで、武器にもなる右手を左手で包むことで、貴方に攻撃するつもりはない。という意味になる。それを見た牡丹の父は頷いた。

「頼んだぞ」

 燕青は今一度頷いて、今度こそ男の寝台を後にした。
 部屋を出るとすぐに女使用人に話しかけられた。

「お嬢様は自室に戻られています」
「来いって事かい?」
「いえ、今日は貴方の世話をするように申し使っておりますので、先ずは身形を綺麗にして頂きます」

 女使用人の言葉に燕青は翡翠の目を大きくさせた。湯に浸かれるとは思ってもいなかったし、他人を世話する事があってもされる事はなかったのだ。浮足立つままに燕青は女使用人の後に付いて行く。

 燕青が湯に浸かっている頃、牡丹は寝台に寝そべって、枕に顔を埋め、叫び声を上げていた。

 ──あのわからず屋! 頑固親父! 意地っ張り! 嘘つき!
 
 思いつく限りの暴言を口に上げては、両足を忙しなく交互に動かしてバタつかせている。使用人にこの現場を見られたら注意されるが、今日はもう誰も部屋に近づかせないように言いつけたからその心配はない。ただ、余りにも叫び声が煩いと心配して来てしまう為に、枕に顔を埋めて不満を爆発させているのだ。
 何が女の私には危険だ。何が継がせるつもりはないだ。
 父様は何もわかっていない。父様が病で床に臥せてしまって直ぐに、この国の頂点は変わってしまった。東州だってその被害が少なからず出ている。圧政悪政。その言葉に尽きる。それに立ち上がる為に東州では義勇軍だって生まれた。他の地域だってもしかしたら同じような組織があるかもしれない。
 牡丹は枕から頭を浮かせ、のそりと寝台に尻を付けて座り、壁に立てかけた槍を見た。朱色の柄には細かい傷があり、穂に至っては暫く手入れが出来ていなかった所為で、切れ味だって悪くなっている。
 どうしてこんな使いこまれた槍を、豪商の娘である牡丹が持っているかといえば、その義勇軍に牡丹も所属しているからだ。最初は父親に自分の実力を認めてもらう為、女でも渡り合っていけると証明する為に義勇軍に入ったが、地元以外の地域の悲惨さを見て牡丹は強く心を動かされた。
 軍に入って初めて見た景色は牡丹が知りもしなかった景色ばかりだった。明日食べる食料も、働く場所も、寝る所だってない。そんな人間が溢れかえっていたのだ。
 国民がこんなに苦しんで今日を精一杯生きているというのに、皇帝を始めとした朝廷の連中は何もわかっていない。この国の行く末だってわからない阿呆ばかりなのだ。

「私が、私が変えてやる」

 あの日見た景色に誓った牡丹は、軍でこの国を変える事は難しいと考えていた。義勇軍は幾ら集まっても学のない腕だけが自慢の連中だ。皇帝、朝廷に頼り切っている経済のままじゃ、幾ら全てを変えた所でこの国は成長しないまま時と共に歳をとっていく。
 
 ──商人の手でこの国を変えてやる。今はその為の足掛かりにしか過ぎない。
 
 居ても立っても居られなくなった牡丹は、槍術で使う棒を手に持ち庭に出た。
 多少の手入れが施されている庭で一心不乱に槍を振るうその姿は、剣舞だと言われればそのように見えるが、牡丹の殺気とも呼べる勇ましい迫力が、女性特有の柔らかさと優雅さを殺している。

「少しはお嬢様に見えてたんだが、あの格好の方があんたには似合いそうだねぇ」
「もう戻ったの」

 壁に寄りかかり立っている燕青の肩には布がかかっている。濡れ烏の髪は名前の通りにまだ濡れていて、毛先から雫が地面に向かって数滴落ちた。牡丹は燕青に近付き、両手に持っていた槍を壁に立てかけ、燕青の肩にかかっている布を取ると、自分より背の高い男の髪を丁寧な手付きで拭いて行く。

「ぼ、牡丹さん?」
「燕青の髪は深い緑が混ざっているのね。光に当てると綺麗だ」

 まさか、こんな風に髪を拭いてくれると思っても見なかった燕青は、戸惑い、頭を後ろに引くも、自分の髪を掴んでいる牡丹がその動きを阻止し、抵抗を諦めた燕青はされるがままに牡丹が拭きやすいよう、頭を下げた。

「……疲れたな」
「終わったかい?」
「いや未だ。燕青そこに座ってくれないかな」

 牡丹は石段と地面の境目に指を差し、そこに座るように言うと、燕青は数回瞬きをすると「はいはい」と呆れたような返事をして大人しく牡丹の指示に従った。こんな小さな事でもやると決めたらやり通すらしい。
 燕青が座った事によって、上げ続けていた腕が下に下り、髪を拭き易くなった牡丹は引き続き燕青の髪を乾かしていく。実の所他人の髪を拭いたりするのは初めてだが、常日頃使用人にしてもらっていた為、初めてでも何となくする事が出来た。
 毛先から雫が垂れなくなり、まだ濡れている物の牡丹が満足のいく所まで仕上げ終わった頃、牡丹は満足したとわかるような声を無意識に出した。

「終わったかい?」

 そう問われるのは二回目だ。一回目は未だだ。と答えた牡丹だが、今度は頷き、床に座る燕青の横に腰を掛けた。庭は青々としていて季節の花が庭に色を添えている。毎年見て来た景色だが、少人数でこの屋敷を回している所為で、去年に比べて庭の作りが残念に感じる。あの悪政の所為で牡丹の生家でも使用人の何人か馘首になっているのだ。だから庭の作りが雑でもこの家の人間は誰も文句は言わない。悪いのは働いてくれる人間を馘首しないと経営が立ち行かない此方が悪いからだ。

「これからどうするんだ?」
「当てが外れたしなぁ……。まぁ、燕青は此処で暮らすといいよ。父の話し相手になって欲しいし、母や弟にも紹介しよう」

 伸びた草が、石段に座る牡丹が身に纏っている菫色の裳の裾に入り込み、素足に掠れて少し擽ったい。それは去年まで感じた事がないもので、虚無感のような、喪失感のような、何かが物足りなく、然しそれを受け入れないといけない。そんな感情から逃れるように、言葉を重ねた。

「私の友人になってくれると嬉しい。燕青は腕が立つのだから、私の槍の練習に付き合ってくれないか?」

 並んで座る燕青の顔を覗き込むように、牡丹は上半身を動かし、翡翠の目を目が合うと人の好さそうな笑顔を浮かべた。
 友人になりたい。その台詞は紛れもなく牡丹の本心だった。この家に生まれた定めというべきなのか、時代がそうさせたのか、牡丹に友人らしい友人はいなかった。周りにいるのは家族と、この家を支えてくれる大人たち。義勇軍に入っても一回りも年上の男たちばかりで、気の置けない関係ではあったが、友人と呼べるような関係ではなかった。

「見たところ歳も近そうだし。あぁ、でも、燕青の方が歳は上だな。敬語を使うべきか」
「あー……。あんたのその口調に慣れたからそのままで」

 見るからに敬語使うの苦手そうだしな。と燕青が付け加えると、牡丹は心外だと言わんばかりに眉間に皺を寄せた。
 そうしていると、年相応に見えるのだが、如何せん牡丹が育った環境が彼女を無理矢理にでも大人にしないといけないような所だった為に、大体の人には実年齢より年上に見られる事が多い。
こんな子供のような反応をする事が珍しいなんて、出会ったばかりの燕青には知りもしないもので、男は「不細工に見えるぜ」と笑っている。

「私はちゃんと敬語も使える。君の前で披露する機会が少ないだけだ」
「はいはい」
「馬鹿にしているな」
「してないですよ」

 燕青がわざと敬語で返事をすると、矢張り馬鹿にしている。と口をへの字に歪ませた。
 握り拳三つ分。それが今の二人の距離だ。お互い相手の事を模索しながら、然しあんな初めましてをした仲だけあって友人に会ったかのような距離感。波長が合うのか、片方が人に合わせるのが巧いのか。二人は使用人が夕餉の支度が出来た。と知らせに来るまで、途切れる事のない会話を繰り広げていた。
 のちにこの使用人は「あの時のお二人は、友人のようで、兄弟のようだった」と語るのを、この時の二人はまだ知らない。

 それからというものの、燕青は驚くべき速さでこの家族に馴染んでいった。牡丹の弟は「燕青大兄」と呼び慕い、彼が最も得意とする拳法を学んでいる。燕青の教え方がいいのか、弟はみるみるうちに上達していき、燕青はその内とんでもない奴になるかもな。なんて笑いながら成長を喜んでいた。牡丹の父とは話し相手から酒飲み仲間になっていて、体調が回復した父は夜な夜な燕青を捕まえては盃を交わしている。母も母で、新しい息子が出来たみたいだ。と喜んでいた。

「燕青は人誑しの才能でもあるのか?」
「此処の家の人たちがいい人なんだろ。牡丹を含めてな」

 果たして本当にそれだけなのだろうか。と牡丹は首を傾げるも、正解なんてあってないようなものだろう。と結論づけ小銭が入った財布を片手に玄関に向かった。何処かに行くのか。と燕青がその後に続けば、牡丹はそれに気が付き、後ろにいる燕青の方を振り返った。

「一緒に市に行く?」
「市場か……いいねぇ。ついでに酒場に行かないかい?」
「行かないよ」

 牡丹は燕青の提案をばっさりと切り捨て、淡い桃色の裳を翻しながら市場の方に足を向けた。風に裳がはためき、揺れ動く。燕青はその後姿を見るのが好きで、先日、牡丹が庭で剣舞を舞っていた時も大輪の花が咲いているようなのに、牡丹の剣舞は鋭さも相まって、胸に迫る何かを感じる。一言で言えば優美という言葉が当てはまる。
 内心絶賛していた事は一切本人には伝えていないが。

「置いて行くよ」
「せっかちだねぇ」
「燕青がのんびりし過ぎているの」
「はいはい」

 催促された燕青は、酷くゆったりした動作で玄関から足を一歩前に踏み出した。

 昼間の市は活気づいているのがよくわかる。何処の屋台も「ウチが一番安い」と声を上げて客引きをしている。何処も似たような値段なのに。と内心毒つく牡丹ではあるが、決まった店がある為に、どの客引きにも引っかかる事はしないで、目的の屋台までやって来た。

「小父さん、これと、それと……あぁ。あれもくださいな」
「よぁ嬢ちゃん! ここ最近見なかったが元気だったかい?」
「えぇ。小父さんも元気そうで何よりです」
「この辺はあんたの父さんと義勇軍のお陰で被害が少ないからなぁ」

 野菜を売っている中年の男は、溌剌とした口調で牡丹と会話をしながら、器用に野菜を牡丹が持って来た風呂敷の中に野菜を詰めていく。不意に視線を上げると、燕青の存在に気が付き、一度は目を大きく開いたものの、すぐに弓なりに目を細め、牡丹に耳打ちした。

「そこの浪子はお嬢ちゃんの良い人なのかい?」
「何の──、違いますよ」
「ほー」

 一瞬何を言われているのか、わからなかった牡丹だが、すぐに燕青の事を言われていると察し、屋台の男に首を振って否定するも、男はそれを鵜呑みにする事はなく、揶揄い半分の声色で納得したような返事をした。
 かくいう話の種である燕青は牡丹が敬語を使っている事に驚き、牡丹と屋台の男の会話は耳に入っていなかったが、意識を二人に戻した時、男が楽し気に笑い牡丹が深い溜息を吐いた事から、軽く事情を察しすぐに屋台の男に声をかけた。

「おっちゃんこの白菜美味そうだねぇ」
「お、目がいいな! どれ、おまけしてやろうか」
「おっちゃん気前いいなぁ!」

 風呂敷の中に買う予定のなかった白菜が追加され、四つ角をきつく結ばれた状態で牡丹の手元に戻って来た。ただで貰えるなら貰っておこうと、牡丹は笑顔を浮かべて屋台の男にお礼を言うと、男は「また今度な」と言って二人を送り出す。

 当初の予定よりずっしりと重たい風呂敷を牡丹は両腕で抱えて、次の屋台を目当てに歩き始めると燕青は牡丹が両腕で抱えている風呂敷を取り上げ、片腕で野菜が沢山入っている風呂敷を抱えた。
 持ってくれるとは思っても見なかった牡丹は、燕青の突然の優しさに数秒の間をおいてお礼を言うと、横並びに歩く男は翡翠の目を細め薄い唇の端を上げて笑った。

「老酒な」
「買わないぞ」

 酒を強請るのは本日二度目。これ以上はかなわない。牡丹は淡い桃色の裳を風に靡かせながら早歩きをして、燕青から距離を取った。だが所詮は男女の体格の差がある。燕青はすぐに牡丹に追いつき「咯咯」と可笑しそうに笑った。

 全ての食材を買い終えて牡丹はそれを女使用人に渡した。これは去年までなかった行為なのだ。買い出しだって全て使用人がやっていたが、何人にも暇を出した結果、人手不足になり牡丹やその弟が買い出しに行くようになった。二人ともそれに対して文句は言った事がない。というのも、生まれた時から世話をされてはいるが、四六時中家にいる使用人たちは皆家族のように感じているからだ。
 余談だが、初めて買い出しに行く光景を見た牡丹の父は「いい子に育って……」と感涙したそうだが、牡丹に言わせれば、いい子に育ったと思うなら店を譲れ。と内心毒ついていた。

 夕餉は家族みんなで食べる決まりになっている。燕青は最初こそ使用人と同じ時間に食べようとしたが、牡丹の弟が燕青を気に入り、流れるがまま牡丹たちと同じ時間に同じものを食べるようになった。
 この家の人間は金持ちらしく所作が美しい。どの場面を切り取っても絵になる。特に牡丹にはそう感じる事が多い、と燕青は小籠包を口に含みながら、目の前で同じものを食べる牡丹を見た燕青は一度自分が箸で摘まんでいる小籠包に視線を落として、もう一度牡丹に視線を向けた。
 その視線に牡丹が気付く事なく夕餉を食べ終えた後、食休みをすると日課になりつつある庭で鍛錬をする為に、牡丹は立ち上がった。勿論、その練習相手は燕青であるので、食後で重たくなった身体を気合で動かし、立ち上がって深く息を吐いたが、毎度の事どうも食後特有の身体の重たさは変わる事がなく、燕青は頭の後ろに右手を回して、乱雑に掻き乱した。

「燕青?」
「あー……。いや、なに、何もないさ」

 牡丹はい立ったまま動こうとしない燕青を不思議そうに見て、男の名前を呼んだ。燕青は自室に向かう牡丹の後を追いかけた。足を一歩でも動かせば、あの気怠さもなくなるもので、さっきまでと打って変わり、燕青の足取りは軽く石造りの廊下に足音を響かせながら、目的地まで二人は酷くどうでもいい話をし続けた。

「その恰好でやるのかい?」
「あぁ。着替えるのが面倒だからな。燕青が着替えさせてくれると言うなら別だが?」

 揶揄かう口調で話す牡丹に向かって燕青は隠す事なく溜息を吐いた。この女は、自分の性別をいまいちわかっていない節がある。といつからか燕青は頭を悩ませるようになった。否、いつからではない。出会ったあの日から常々思っていた事だ。

「冗談も休み休みにしてくれ」
「ははっ、こんな事を言うのは君にだけだよ」

 それはどういう意味なのか。と燕青は牡丹に問いかけようとしたが、特に深い意味はないのだろう。と口を噤み気持ちを切り替える為に、身体を伸ばして柔軟した。
 壁に立てかけた槍術用の棒を手にした牡丹は颯爽と庭に向かって歩き出す。その隣には当たり前の様に燕青がいて、この数週間で牡丹はすっかり隣に燕青がいる事に慣れ、燕青も牡丹の隣に立つ事に慣れていた。

 夕日は沈み薄く月がその存在を現し始めた頃、二人は草が伸び切った庭で対峙していた。牡丹は得意の槍を、燕青は動きやすいように足を開き腰を僅かに落とし固定し、両腕を構えている。
 鍛錬にしては鋭い殺気が二人の肌を撫でる。一瞬でも隙を見せればすぐに突かれる。だが、動かなければ相手に勝つ事も出来ない。牡丹は槍を握る両手に力を入れ、燕青に向かって駆け出す。

 ──勝つ!

 駆け出す瞬間を読まれた牡丹に向かって、燕青が急接近し無骨の拳から繰り出される拳が頬を掠める。直撃を紙一重で避けた結果だが、肌に感じるジリッと鈍い痛みに牡丹は眉を顰めた。一旦距離を取ろうとするも燕青が詰め寄り強烈な回し蹴りが炸裂する。だがその攻撃を見切っていた牡丹は棒でそれを防ぐ。当りが悪かったのか、木製の棒はミシっと嫌な音を立てたが、牡丹はそれに気付かない振りをして棒の先を燕青の心臓目掛けて突く。燕青は掌でそれを受け流すと、牡丹は槍を回転させ、上から燕青の頭を殴るように槍の柄を振り下ろす。
 暫くの間攻防が続き、勝敗は立て続けに酷使された木製の棒が真二つに折れた事で決まった。
 荒い息を整えようと牡丹は折れた棒を地面に放り出し、両膝に手を付いて何度も大きく息を吐いている。その度に肩が上下に動き、燕青はその肩に視線を向けた。

 ──俺よりも細い肩……。

 当たり前であるが槍を持って戦場を駆け抜けているとはいえ、牡丹の肩は燕青に比べれば細い。それなのに、牡丹は燕青と渡り合える実力を持っている。矢張りこの女は強い。と燕青は息が整い始めた牡丹の頭に掌を乗せ、乱暴だと言われる手付きで牡丹の頭を撫でた。

「え、燕青?」
「やっぱり強いな」

 髪が乱れるのもお構いなしに燕青は一頻り牡丹の頭を撫でると、その手を離し腰に当て「咯咯」と軽快に笑う。一方牡丹は燕青によって乱された髪を手櫛で整え、軽快に笑う燕青を見て口元を緩めた。
 
──兄がいたらこんな感じだったのだろうか。

「牡丹?」
「なんでもないさ」
「そうか?」

 すっかり息が整った牡丹は左右に緩く首を振りながら、膝を伸ばして首筋に流れる汗を手で拭った。額にも汗が浮かんで、前髪が張り付いている。それが嫌で前髪も手の甲で拭うも、張り付いた髪が綺麗に整うわけがなく、依然として乱れたままだ。
 一度気になってしまえば、納得がいくまで整えたいもので、牡丹は視線を前髪の毛先に向け指先で前髪を弄る。その姿は女らしく、燕青は黙ってその様子を見ていたが、牡丹があまりにも気にするもので、その姿は燕青の目に新鮮に映った。
女らしい所もあるのか。失礼にも程がある感想を抱いた燕青は、不意に風が冷たくなっている事に気が付いた。
月だってその存在をはっきりと夜空に現わしている。夜風は汗をかいている身体を急速に冷やしていく。
 燕青は牡丹の前髪を乱して意識を自分の方に向けさせた。

「燕青、髪が乱れるから止めて欲しいのだが」
「家に入ってから整えるんだな」

 確かに家に入って風呂にでも入れば、気にならなくなるだろう。と牡丹は納得し、二つに折れた棒を地面から拾って、近くにいた女使用人にそれを渡した。

「今日も付き合ってくれて感謝する」

 牡丹は疲れを感じさせない、いや、それどころか、満面の笑みを浮かべていた。
 
 翌日、牡丹は燕青と共に街外れにある丘に来ていた。東州という土地は海がなく山に囲まれている。その所為か見渡せば遠くに連峰が見える。然し、この丘は遠くの山よりも足元に咲いている季節の花ばかり目に入る。今は咲き始めたばかりで色とりどりとは言えないが、それでも目を楽しませるに十分だ。有名な場所ではあるが、此処に来るまでに坂道を上り続けなければいけない。その為にあまり人がいないのがこの丘の特徴でもある。

 何で牡丹はこんな所に来たんだ?

 出かけてくる。と言った牡丹に燕青は何も考えず付いて来た為に、何でこの丘に来たのかがわからなく、今さら聞くのも如何なものかと、前を歩く牡丹を横目に見ていると、牡丹は足元に広がる花畑……畑と言うには数はないが、野に咲く花を見て感嘆の声を上げている。
 単純に、花が好きなのだろう。と普段の姿からは想像出来ない牡丹の好みに、女らしい所もあるのか。意外だ、と言わんばかりの表情で牡丹を見ていれば隣に立っている牡丹は、そんな視線を送られているとは露にも思わず、目的もなく小走りし始める。浮足立っていると言ってもいいその足取りの軽さに、年相応の幼さを感じた燕青はその場に腰を下ろして、動き回っている牡丹を見つめた。

「ぼたーん」
「ん? 何だい?」
「ちゃんと足元見ろよー」

 大声を出す程離れているわけじゃない。だが、声を張らないとはっきりとは聞こえないであろう二人の距離。燕青は口元に手を添えるように当て、牡丹に注意をすると、牡丹は「咯咯」と笑った。

「そんなヘマはしないよ……わっ!」
「言わんこっちゃない……」

 牡丹は自分の足でもう片方の足を引っ掛け、体勢を崩しそのまま地面に尻をついた。最初こそ何が起こったのか自分でもわからなかった牡丹だが、注意された傍から転んでしまいそれが可笑しくて声を上げて笑った。燕青が呆れたように自分を見ている事に気が付き、少しばかり恥ずかしさを感じた牡丹は眉尻を下げて困ったように笑い、燕青を見る。すると燕青は牡丹に何かあったのか。と立ち上がり慌てた様子で牡丹に駆け寄って来た。その様子に申し訳なさを感じつつも、牡丹は滅多に見ない燕青の表情に、嬉しさを感じ、内心首を傾げた。

 燕青は牡丹の目の前に膝を折って立ち膝をし、怪我はないか? と尋ねるも、牡丹は緩く首を左右に振って、右手を燕青に向かって伸ばした。燕青は横目で牡丹の右手を見るも動きが早く、赤い何かを持っていると言う事しかわからなく、直後、耳の上に何かが挿さる。針や、刃物で刺されているわけではなく、もっと軽い素材が耳の上に挿さっている。目の前にいる牡丹は悪戯が成功した子供のような笑顔を浮かべているのを見て、燕青は力なく笑った。
 燕青が膝を曲げる寸前、牡丹は手元にあった花を手折って、目線が近くなった燕青に向かって腕を伸ばし、赤い花を燕青の耳の上に挿した。思いの他似合うその姿。何が起こったのか、と目を白黒させている燕青は、今自分がどんな姿をしているのかわかっていないのだろう。それが面白くて口の端が自然と上がる。

「君は花も似合うね」
「あぁ、これ花か」
「私は花を見るのは好きだけど、種類には明るくないから名前は知らないが……可愛いものだね」

 濡れ烏色の髪に良く映える赤。名前も知らないこの花は、容姿が整っている燕青によく似合っている。女には見えないが、麗人には見える。本当は花冠を乗せたかった牡丹だが、牡丹自身手が器用ではない事を自覚している為、それは叶わなかった。
 耳に挿さっている花を指先で触る燕青の手付きは、壊れ物を扱うように繊細で丁寧で、その辺にあった花を挿しただけなのに。と燕青を見る牡丹の傍らで、燕青は辺りを見回し始めた。

「燕青? 何を探しているの?」
「待ってろよー。直ぐに出来るからな」

 何がだ? とは言わなかった。それは燕青の手元を見てすぐにわかったからだ。器用にも燕青はそこら辺に生えている花を幾度にも重ね、巻き付け編み込み色んな色、種類も大きさもばらばらの花冠が出来上がっていく。燕青は手先が器用なのか。と牡丹は燕青の手の中で完成されていく花冠を見つめていた。

「出来たぜ」
「凄い! 器用なのだね。燕青は」

 完成した花冠を前に牡丹が手放しに褒めると燕青は得意気に笑い、両手で持っている花冠をそっと……壊れ物を触るような手つきで牡丹の頭に花冠を乗せる。まさか乗せてくれるとは思ってもいなかった牡丹は、刹那の間をおいて自分の頭の上に乗せられた花冠に触れる。花の扱いは心得ている牡丹ではあるが、触れてしまえば壊れてしまうのではないか。と指先で掠める程度に止めた。

「ありがとう」
「どういたしまして」

 いい歳をした男女がやるには些か幼いやり取り。それでも二人には胸の奥を擽られるような温かさだけがあり、この時間だけは全ての世から隔離された酷く穏やかで、微温湯に浸かっているようだと形容出来るものだった。
          
 それから一つの季節が過ぎ去ろうとしていた頃、牡丹は忙しなく家の中を歩いていた。その両手には包帯やら傷薬やら干し肉やらと、とてもじゃないが良いところのお嬢さんが持つには相応しくないものばかりで、燕青は何事かと、足音を顰めて牡丹が消えて行った自室を覗くと、丁度振り返った牡丹と目が合い燕青は気まずそうに視線を逸らしたが、牡丹が燕青の名前を呼んだ事で燕青は大人しく部屋の中に足を踏み入れた。

 どうしてなのか、牡丹の声は優しかったのだ。

 父の体調も回復したし、そろそろ軍に戻るか。と、身支度を整え始めると、牡丹の部屋に入って来た燕青が不思議そうな顔をして、床に尻をつけて座る牡丹に近付き、後ろから牡丹の手元を覗き込んだ。
 そこには包帯や漢方、着替えや布等、先程まで忙しなく動き回っていた時に持っていた物が風呂敷の中に包まれていて、燕青はますます何事かと首を傾げた。

「旅にでも行くのか?」

 御尤もな質問に、牡丹は呆気にとられたような表情をしたが、後ろから女の手元を覗いているだけの燕青には、牡丹の表情までは見えなくて、返事のない牡丹に対して自分の右手を女の前で力なく振ってみせた。

「なんだ」
「お、意識はあったんだねぇ」
「当たり前だ」
「で? この荷物は何だ?」

 二度目の質問だ。今度こそ牡丹は答えてくれるだろう。と燕青は牡丹の正面に回って、目線が合うようにしゃがみ込んだ。

「私が義勇軍に所属しているって話した事なかったか?」
「してないな」

 初耳だ。と燕青が言うと、牡丹は「そうだったか? 言った気になっていたな」と眉尻を下げて笑った。燕青だって義勇軍の存在は知っている。街の人間は国と戦う勇者だとか、英雄だとかと騒いでいる位有名なのだ。然し、その勇ましき軍にこんな娘が入っているなんて誰が想像しただろうか。的確に人間の急所を狙うあの動きは、軍に所属しているからなのか。と初めて会った時の牡丹の槍捌きを思い出した燕青は、意識を目の前の牡丹に集中させた。
 すると一つの疑問が頭を過る。あの時、自分のものになって欲しいと言ったくせに何故連れて行かないのか。燕青は確かにあの日負けて、約束通り牡丹のものになったが、使用人として扱われた事など一度もない。初日こそ牡丹は裳を燕青に着付けてもらったが、友人になって欲しいと言った以降、一度も燕青を呼び付け使用人のように扱った事はない。ずっと、友人のように接しているのだ。

「俺を連れて行かないのか?」
「義勇軍は、義勇の心を持った武人の集まりだ。命の奪い合いに覚悟のない人間は連れて行けない」

 牡丹は知らない。燕青が過去にどんな事をして生きて来たかなんて。牡丹が思っている程、燕青の無骨な両手は綺麗ではない。然しそれは燕青にも言える事だった。牡丹は燕青が思っている程、白皙の両手が綺麗なわけではない。燕青が拾われて季節が変わろうとしていた。その間沢山の話をしたが、それでもお互い知らない事がまだ多いのだ。
 話している間も牡丹は荷造りする手を止めなかった。早々に荷造りを終えた牡丹はそれを背負って立ち上がる。自然と燕青は牡丹を見上げる形になり、今にもこの家から出て行きそうな牡丹に向かって燕青は問いかけた。

「あんたは、その覚悟があるのか?」
「この国を変える為、父に強さを認めてもらう為私は戦場に行く」

 誰にも言わずに行くつもりだったのか、この家の中で燕青だけが今日牡丹が出て行く事を知らなかったのか、それを今判断する事は出来ないが、少なくとも目の前に立っている女は何も言わずに出て行く予定だったのだ。
 それが無性に腹立たしくて、燕青は立ち上がり牡丹の二の腕を掴み乱雑に引き寄せた。抱き締める為じゃない。縋りつく為でもない。ただ自分という存在を牡丹の眼に映す為の行為にしか過ぎないが、燕青が掴んだ腕は細く頼りがいのない腕だった。
 
 ──だから、なんであんたは……!
 槍を振るっているんだよ! こんなに細い腕で、大人と呼ぶには僅かに幼さを残した顔で、男たちに混ざって血を流し血を浴び、普通の女の幸せを捨てて、それで何が手に入るって言うんだ。戦場で、もし、あんたが死んだら……。

 燕青はそう考えるだけで、苦しさのあまり奥歯を噛み締めた。
 何故自分を連れて行こうとしない。と燕青は震える声でもう一度訪ねた。怖いから震えるのではない。怒りを無理矢理抑え込み、気を抜くと自分よりも幼い牡丹に向かって怒鳴ってしまうからだ。
 そんな心境を知りもしない牡丹は燕青の二度目の問いに対し、きっぱりと答えた。

「くどい! ……これは私がやりたくてやっている事。それに燕青は関係ない」
「けどあんたは──っ!」

 無理矢理閉めている蓋の隙間から漏れた、感情任せの声を遮るように、落ち着いた声が石造りの部屋に響く。

「苦しめられているのは男だけではない。女子供も同じく苦しんでいる。ならば立ち上がるしかあるまい。大丈夫、私は強い。それはお前だって知っているだろう」

 牡丹は自分の二の腕を掴んでいる燕青の手に、自分の掌を重ねた。自分よりも大きく骨ばっている手に、どうしようもない男女の差を思い知らされるが、今はそんな事は関係ない。誰が何と言おうと、覚悟のない燕青を連れて行く事は出来ないし、そもそも、友人である燕青を連れて行きたいとも思っていない。
 死なない保証は何処にもないが、待ってくれる人がいるのであれば、意地でも帰りたいと思うのだから。
 一度決めたら譲らない性格なのは、この数か月で……否、出会った時から知っている燕青は、そっと牡丹の腕を離した。

「この家を頼んだよ」

 翌日、燕青は朝日が昇る頃に牡丹の部屋に行くとそこはもぬけの殻で、寝台に手を当てたが冷たく、大分前に牡丹はこの家を出て行った事を知った。

 早朝に家を後にした牡丹は一つにくくられた長い髪を左右に揺らしながら早馬を走らせる。休憩を取らずに走らせていれば見知った後ろ姿が見えた。馬上にいるがっしりとした体格の男は義勇軍の頭領で、軍の中で唯一牡丹が敬語を使う相手だ。

「頭領! 只今戻りました」
「おう。親父さん大丈夫そうなのか?」
「えぇ……体調は回復したのですが、まだ何とも。それに友人が出来たので、任せて来ました」

 お互い馬に揺られながら話していると、斥候の一人が馬上の頭領に近付き、戦況について報告した。どうやら国軍が近くまで接近しているようで、数日で戦になるとの事だった。義勇軍は普段から軍として戦いに明け暮れているわけではない。給金の出る国軍とは違い、この軍は義勇の志を同じくして集まった軍なのだ。普段から行動を共にしているわけではない。

「先ずは、今いる人員の中から早馬を走らせて、仲間を集めます」
「あぁ。その後戦の準備に入る。斥候部隊は引き続き国軍の動きに注意せよ。些細な事でも見逃すんじゃねぇぞ」
「はっ!」

 斥候の男は踵を返して来た道に戻り、牡丹は集落に向かって馬を走らせた。
 確かにこの軍は普段から行動を共にしているわけではないが、拠点がないわけじゃない。軍の人間しか入れない拠点があるのだ。牡丹はそこまで馬を走らせ集落と言ってもいい拠点に着くと、すぐに斥候の知らせを教え他の軍の人間を呼ぶように指示を出した。

「急げ、時間はないぞ」

 幼さを残した顔は戦人の顔つきに変わっている。牡丹の言葉に従わない人間はこの場に誰一人としていない。それは、まだ幼い牡丹が自力でもぎ取った地位があるからであり、牡丹の実力を義勇軍が認めているからだ。
 人員を呼ぶ人材と、作戦を立てる為に残した人材を分けた牡丹は、何よりも先に人の徴集する事を優先し、準備が整い次第すぐに向かわせた。次いで作戦部隊と名付けられている部隊で、斥候が報告した場所を周辺地図で確認し、何処が戦場になるのかある程度の予測を立てる。地形を知らないと戦は出来ないからだ。

 そうして何日もかけて戦の準備をし、牡丹たち義勇軍は国軍と血で血を洗う戦いとなった。東州のこの地域は義勇軍がいるお陰で皇帝の圧政の影響を最小限に収まっている。然し国はそんな義勇軍が目障りで仕方がない。だからこの東州では頻繁に戦が起こるのだ。

 両軍が雄叫びを上げながら勇ましくも進軍していく。見知った顔以外は全て殺すと言わんばかりに歩兵どもが武器を交える中で、一際目を引く存在があった。この戦場において唯一の女──牡丹だ。
 牡丹の槍が、国軍の兵士の心臓を貫く。最初こそ不快でしかなかった肉を裂く感触に慣れてしまい、今では顔色一つ変える事はない。何人もの人間の急所を狙って槍の穂で突いては無力化させていく。それでも人数は減ったようには見えないし、この戦いに終わりが見えない。我武者羅に頑張った所で、この世の中は変わらないのかも知れない。それでも見て見ぬ振りは、どうしたって出来ないのだ。
 返り血で衣服は汚れてしまっているし、返り血を柄まで流さないようにと巻いている蕪巻きはもうその役目を果たしていないくらいに、血に染まり柄にも流れてきている。それでも牡丹は槍を振るう腕を止める事はなかった。
 敵軍からは悪鬼と恐れられる実力を持つ牡丹は、淡々と目の前の敵を無力化していく。

 太陽が沈みかけ漸く国軍は部隊を引いた事で、牡丹たちも拠点に戻る事が出来た。
 今朝までいた顔が今はいない。この義勇軍に属していれば当たり前にある光景で、明日は我が身なのかもしれない。といない顔に気が付くと牡丹は顔を俯かせた。然し、自分が顔を俯かせては軍の士気が下がる事も理解している為、無理矢理顔を上げて、生き残った軍の人間に労いの言葉をかけた。

「お前たちよくやった」
「牡丹こそ、相変わらず強いな」
「まだ死にたくないからね」

 頭領も労いの言葉を送り、そのまま身体を休める事になった。酒盛りといきたい所なんだろうが、明日も戦になるかもしれない身で深酒は出来ないのだろう。お酒を嗜まない牡丹にはわからないが、軍の男が「勝利の一杯を早く飲みたい」とボヤいていたから、そう云うものなのだろうと、父と老酒を酌み交わす燕青の姿を思い出した。

 最後は納得させることも出来ず半ば家出のように燕青の前から姿を消した牡丹は、眉間に皺で渓谷を作り眉尻を上げて大きく口を開く男の表情を思い出し、もしかしたらと一つの答えを出した。

 ──あれは、きっと心配してくれていたのだろう。
 やっとの事燕青の心情を察した牡丹は、珍しく燕青に文を書く事にした。
 
 私は元気だ。君は元気? 家族は元気? そんな内容だ。鳩に括りつけて飛ばせば、数日後案外あっさりとした返事が返って来た。
 
 ──元気にしているならいい。
 それだけが書かれた文に牡丹は、小さく笑った。
 手本より僅かに乱れている燕青の字。最初出会った時燕青は文字が読む事も書く事もしなかった。だが、牡丹はそんな燕青に文字を教えたのだ。態度に反して地頭が良いのか飲み込みは早かった。
 毎夜、一通だけの手紙が七日続いた頃、牡丹はそろそろ戦が終わりそうだ。という内容の手紙を燕青に向けて送った。
 燕青はそろそろ牡丹が帰って来ると、人知れず不安な感情のまま牡丹の帰宅を待ったが、あの文が送られて五日は経つが、まだ牡丹は帰って来ない。市場のおっさんの話しでは今義勇軍が戦っている場所は、この街から一日走れば着くと言っていた。幾らなんでも遅すぎる。と痺れを切らした燕青は、早馬に乗り牡丹たちがいるであろう戦場に急ぐ。
 予め義勇軍の拠点は聞いていた燕青はそこまで馬を走らせた。見えて来た集落には門番が立っており、燕青は中に通してもらおうと馬を止め門番に向かって馬上から声をかけると、門番は両手に持っている槍の穂を燕青に向けた。

「何者だ!」
「我が名は燕青。此処に我が主人、牡丹がいると聞いてやって来た。面会させてもらいたい」
「牡丹は……」

 言い淀む門番の男は僅かに肩を落とし、燕青に向けた穂を下げた。その様子に燕青は牡丹に何かがあったのだと察し、馬の腹を強く蹴って集落の中に入って行く。門番はそれを止めようとするも、馬の足に人間の足が叶うわけがなく、燕青は人だかりが出来ている場所を見つけると馬から降り、人をかき分け、人だかりの中心に辿り着いた。

「……牡丹!」

 そこには身体の至る所から血を流し、体格の良い男の腕の中でぐったりとしている牡丹がいて、燕青はすぐさま牡丹に駆け寄り、何度も牡丹の名前を呼んだ。

「牡丹! 牡丹!」

 包帯が巻かれているのに、その包帯は血に染まっている。目を瞑り睫毛の影を落している牡丹の肌は色白く、血色が悪い。男の腕の中にいる牡丹の頬に触れると、まだ体温が残っている。

「おいあんた……」

 牡丹を支えている男が燕青に向かって声をかけるも、翡翠の目は牡丹しか映っておらず、何の反応をしない牡丹に向かって叫ぶ。

「牡丹! おい……目を、目を開けてくれ!」
「嬢ちゃんは……」

 体格の良い男は燕青の肩を掴み落ち着かせようと、左右に首を振る。漸く男の姿を映した翡翠の目は、眉間に皺を寄せ苦し気に顔を顰める男に向かって腕を伸ばして胸ぐらを掴み噛み付く様に叫ぶ。

「何でこいつはこんなになっているんだ!」

 怒鳴る燕青の気迫に周りを取り囲んでいた男たちの息が止まった。それでも、説明をしないと濡れ烏の男はこの怒りを止めはしない。いや、理由を聞いたら今以上にこの男は怒り狂うだろう。その恐れが想像しただけでも怖く、牡丹たちを取り囲む男たちは皆一様に視線を逸らす。
 その中で、一人の気弱そうな少年が足を一歩前に踏み出した。

「牡丹さんは……僕を庇って敵に背中を……」

 少年の姿を見た燕青は目を見開いた。義勇軍に所属しているというのに、身は細く女のように肩が薄い。牡丹の弟と同じような歳なのに、体格がまるで違う。

「あんたは──」
「ぁ……っ、……えん、せ……」
「牡丹!」

 か細い声が燕青の耳に入った。耳を澄ませないと聞こえない程の小さな声だったが、燕青の耳にはその音以外はまるで初めから耳に入っていなかったような、小さな、小さな声以外初めから無音だったみたいに。
 男の腕の中で横たわる牡丹は震える腕を燕青に向かって伸ばした。その指先は燕青の頬を掠め、精一杯力を込めた腕が、急激に力をなくしだらりと地面に向かって落ちる。然しその手は燕青が掬った事で地面と接触する事はなかった。
 掬った小さな手。その指先が僅かに湿っていて、それを感じた燕青は初めて自分が涙を流している事に気が付いた。

「牡丹……」
「泣、な……ぃ、で……ぁ、私は、……っ死な、ない」

 やるべき事。成し遂げるべき事がまだあるのだから。といつもの牡丹なら続けていただろうが、今の彼女にはその言葉を言う気力も体力の何処にもなく、ただ、今にも瞑りそうな瞼を開けて、涙を流す燕青を見ていた。

 ──泣かなくていい。
 泣くなんてことをしなくてもいい。私はまだ死なない。

「え、せ……」
「もう喋るな……!」

 自分よりも一回りも二回りも小さな手を掴み、燕青はそれを自分の頬に当てた。体温が少しでも移ればいい。そんな思いで燕青は男の腕の中にいる牡丹の脇腹に向かって手を伸ばした。体格の良い男は燕青が何をしたいのかがわかり、牡丹を支えている手を僅かに伸ばし、燕青が牡丹を抱えやすいように促した。
 燕青は牡丹を抱えると立ち上がり、体格の良い男に牡丹の部屋を案内させた。燕青は牡丹が実家を出る時着替えを入れていなかったのを確認している。戦慣れしている牡丹が持って行っていないという事は、部屋がありそこに着替えを用意しているからだと踏んだのだ。その考えは当たっていたようで、男は立ち上がると燕青を案内するように歩き出した。取り囲んでいた男たちは、左右に分れ自然を道が開かれる。皆一様に満身創痍の牡丹と、彼女を抱えている燕青が気になっているようだったが、声をかける事はなかった。

 痛む背中。どくどくと脈を打っているのがわかる。
 血が止めどなく流れているわけではない、が、かなりの激痛に意識を飛ばしそうだ。だがここで意識を飛ばしてしまえば、二度とその目は明かないような気がしてならない。
 牡丹は燕青の腕の中で揺られながら、必死に意識を繋ぎとめていた。然し、それも僅かな間しか持たず、霞む視界の中、最後に見たのは眉間に皺を寄せ苦しそうに顔を歪めている燕青だった。








 ──暖かい……?
 
 手放した意識は知らない間に浮上した。二度と目が覚めないような気がしていたが、案外しぶといのか、果たしたい事があるからなのか、案外呆気なく目を覚ました牡丹は、自分が今寝台の上で横たわっているのを理解した。鎮痛薬でも飲まされたのか、背中の痛みが鈍くしか感じない。
 首が動ける範囲で見渡せば、見覚えのある景色で、此処は集落の方の家の中だという事がわかった。燕青が連れて来てくれたのだろう。その燕青は何処にいるのか。と牡丹は視線を至る所に彷徨わせるが、燕青は何処にもいなくて、牡丹は瞼を伏せた。

 ──私に呆れてしまったのだろうか。
 それもそうだろう。私は強い。と豪語していたにも関わらずこの有様なのだから。呆れて家に帰ってしまったに違いない。

 自然と胸が締め付けられる。牡丹は何故胸が締め付けられるのかわからないが、燕青が近くにいない事に、寂しい。と感じている。どうして寂しいのかがわからない。どうしてこんなにも胸が締め付けられ、切なくなるのかがわからないが、これが寂しいという事なのだろう。と牡丹は自分の胸ぐらを掴んだ。
 感情の欠如があるわけでも、最近になって喜怒哀楽を学んだわけでもない。ただ、燕青を拾ってから時折感じた事がない感情が芽生え出す。これもそのうちの一つ。
 近くにいない事が寂しい。呆れられた事が悲しい。

 ──傍にいて欲しい。

 今まで他人に甘える事が少なかった牡丹が初めて甘えられた存在。兄のようで良き友人の燕青は、牡丹が何の隔たりもなくただの人間として接する事が出来る数少ない人間だ。

 もし、燕青が私に呆れてしまい、口も利いてくれなくなったらどうしよう。
 過去に下着姿同然の格好で燕青の前に出た事があるにも関わらず、牡丹は制御出来ない不安に駆られた。傷の痛みが牡丹の思考回路を狂わせていく。
 この軍に所属した以上戦場で死ぬ覚悟は出来ている。然し、燕青に嫌われるというのは想像もした事がない事態で、牡丹の目尻に熱い涙が溜まり、睫毛を濡らしている。
 声に出して泣く事はしないものの、牡丹は枕を濡らしていく。

 ──嫌われたくない。傍にいて欲しい。呆れないで。離れていかないで。

 纏まる事を知らない感情が、牡丹の胸の奥から這い出て呼吸をする毎に身体を支配していく。否、蝕んでいくと表現した方が正しい。
 必死に声を出さないように唇を噛みながら涙を零す牡丹の目尻は焼けたように熱く、痛い。眉間に皺を寄せきつく瞼を瞑って泣いている姿は、誰も見た事がないものだろう。それが例え肉親でも。

「牡丹……?」

 耳馴染みのある声がじんわりと脳内に響いた。この声は紛れもなく燕青のもので、牡丹は流れる涙をそのまま上半身を起こして、声が聞こえて来た方向を向くと、驚き駆け寄ってくる燕青を目にした。

「急に動いたら傷口が開くだろっ!」
「私の事、嫌ったのではないの……?」
「は?」

 何の話だ。と言わなくても燕青の顔には書いてあった。
 寝台に腰をかけた燕青は、掛布団の上のある牡丹の手を包んだ。彼女の小さな手は自分より大きく骨ばっている手に包まれている。嫌われているなら触られもしないだろう。だが、牡丹は掴まれていない方の手で燕青の腕を掴み、上半身を曲げて、顔を燕青の顔に近付ける。反射的に燕青が上半身を逸らすと、その行為が目についた牡丹は眉尻を下げ瞼を伏せた。

「やっぱり、私に呆れているの? 嫌われてしまったの?」
「だから何の事だ」
「君は私の事に呆れて嫌いになったのでしょう? だから傍にいてくれないのでしょう?」

 燕青の腕を掴んでいる手は弱々しく小刻みに震えている。力を込めなくても、動いただけでも振り払えそうな力しか入っていない。一度近付いた距離は燕青が上半身を逸らした事に精神的打撃を受けた牡丹が、離れた事で空間があるが腕の長さ一本分もない位だ。

 顔を俯かせ、肩を震わせている牡丹は誰がどう見ても泣いていると言うだろう。白い布地をぽつりぽつりと濡らしている。
 彼女の中で何があったか何もわからない燕青だったが、涙を流し泣いている牡丹はとんでもない勘違いをしている事だけはわかった。どうしたものか。と牡丹の手に掴まれている腕を動かし、泣いている彼女の頬に触れようとするも、振り払われたと勘違いした牡丹が、勢い良く燕青の顔を見上げた。
 その瞳は涙で濡れ、目尻は赤くなり、眉間に皺を寄せながらも眉尻が下がっている。いつも燕青を見る顔つきとはまるで違っていて、男は内心溜息を吐いた。

 ──馬鹿だなぁ。

「嫌ってないから泣くなって。ほら、んな泣くと頭が痛くなるぞ」
「だって、呆れたって言ったでしょう……」
「言ってない、言ってない」

 燕青は牡丹の頬に触れ親指で目尻に溜まっている涙を拭う。大粒の雫が燕青の指先を濡らすが、男はそんな事気にも留めていない。眉尻を下げ翡翠の瞳を細めて笑う燕青が気にかけているのは、肩を震わせ声を殺し、不安という感情に支配されている牡丹の事だけだ。

「此処にいるだろ」
「ん……。私の傍にいてくれる?」
「俺は牡丹のものなんだから、当たり前だろう」

 冗談めかして言う燕青の台詞に、牡丹は小さく息を漏らして笑った。
 それは、二人が出会ったあの日、牡丹が燕青に勝負を仕掛けたあの約束にも満たないナニカ。牡丹は店を引き継ぎたくて燕青を拾った。弱ければ鍛えればいい。強ければそのまま使えばいい。そんな打算で燕青を求め、勝負に勝った。然し、店は譲られず、護衛にと連れて来た燕青の役割がなくなり、二人は良き友人。もっと親しい、兄妹のような関係をこの一つの季節の中で築いた。

「そうだね。燕青は私のものだ」

 懐かしそうに笑う牡丹を見て燕青は力が抜けたように笑った。

「痛みはどうだ?」
「鈍い痛みがまだあるけど、斬られた時よりは痛くはないよ」

 背中に手を回そうとするも、大きく動かせば斬られた背中が痛み顔を顰めた。燕青は牡丹の肩に腕を回して、もう一度寝台に横になるように促し、牡丹はそれに従い横になった。牡丹の肩に回っていた燕青の腕が離れ、掛布団の上に出ている、小さな手を包む。

「此処にいるから安心して寝ろ寝ろ」
「はは、もうあんなに動揺する事はないよ」

 ──君が戻って来てくれてのだから。
 その事実がどれだけ安心と安らぎをこの心に齎したかなんて、君は知らないのだろうね。
 
 牡丹は気が抜けたように意識を手放した。

 背中の傷が塞がり、問題なく動けるようになるまで一か月は要した。その間牡丹は燕青の甲斐甲斐しい世話を受けており、集落に住む義勇軍の人間は、燕青という異物を異物として感じなくなっていた。簡単に人の懐に飛び込む燕青は、あっという間に義勇軍に受け入れられていて、牡丹が再び槍を持ち戦場に立った頃には、燕青は立派に義勇軍の一人だった。

 一か月ぶりの槍はしっくりと掌に馴染む。何度か素振りをしてみても、身体の何処かに違和感を覚える事はなく、強いて言えば背中の皮が突っ張っているような気がする。が、完治しているわけではないのだから仕方がない。と牡丹は割り切り、穂を壁に向かって突いてみたり、振り下ろしてみたりして、この一か月で鈍ったカンを取り戻そうと動き回った。

 その様子を見ている燕青は、牡丹が動く度に椅子から立ち上がったり、座ったりを繰り返している。横目にその様子を見た牡丹は、深い溜息を吐いた。

「いい加減にしたらどうなの」
「牡丹こそそんなに身体を動かして、大丈夫なのかい?」
「あぁ。寧ろ身体を動かさないと鈍って仕方がないくらいだよ」

 頭領にはまだ戦場に復帰するのは早いと言われたが、この感じではあと二週間もしないで、戦場に復帰出来るだろう。と牡丹は槍を持つ手に力を込めた。床に臥せていた間、燕青が甲斐甲斐しく世話をしてくれた挙句に、生家の方に「元気だ」と、手紙を出してくれていたようで、家族からは「何より」と返事が届いていた。
 それは燕青を拾う前にしていた仕事が関係しているのか、この男がマメな性格をしているのか。と牡丹は未だにソワソワしている燕青を見るが、この男は食えない所があるし、と思考を放棄した。どっちにしろ助かったのだから、深く考えれば燕青に悪い。と牡丹は薄く笑って槍を壁に立てかけた。

「何か軽く胃に入れようかな」
「お! だったらいいのがある! さっきそこで桃を貰ったんだ」

 燕青は義勇軍に入る前は知らなかったが、国軍を押し止めているお礼としてこの辺の人間は不定期に食べ物をくれるのだ。それを知っている牡丹は、桃と言えばあの人か……。と頭の中で桃を届けてくれる老婆の姿を思い浮かべた。

「いいね。早速頂こう」

 桃を捌こうと牡丹は燕青に近付くも、牡丹の両肩に手を置いた燕青が牡丹を後ろに向かせ、椅子がある所まで連れて行き座らせた。

「病み上がりなんだから、大人しくしとけって。な!」

 そう言って燕青は台所に向かって行き、残された牡丹は背凭れに頭を預け、天井を見上げた。
 
──過保護。過保護にも程がある。

 お前はさっきまで私が槍を振り回していたのを見ていただろう。と詰りたくなる程に過保護だ。生家にいた時はそんな事はなかったのに。と牡丹は肺の中に溜まっている空気を全て吐き出すような溜息を吐いた。

 然し、牡丹は知らない。寝台に横たわりいつまでも目を覚まさない牡丹を見て、燕青がどれだけ自分を責めていたのかを。後悔をし、自責の念に駆られ、信じてもいない神にさえ願ったりもした。食事は喉を通さず、ただ呼吸の度に僅かに上下する牡丹の胸を見て僅かな安心を得ていたなんて、牡丹は知らない。
 その時、燕青は誓ったのだ。自分が牡丹を守るのだと。もうあんな辛く苦しく、這い寄る死に怯え震える。そんな恐怖を味わいたくはない。その一心が燕青の全てを支配した。

「お待たせぇ」
「そんなに待っていないけど……燕青は本当に手先が器用だね」

 ──花といい、字といい。

「そうかい? いやぁ、照れるねぇ」

 皿の上に乗っている白い桃は、どれも美味しそうで、見た所少しも皮が付いていない。見事に剥かれているのだ。それを感心したように褒めると、燕青は本当に照れているのだかいないのだがわからない表情で笑った。
 桃には楊枝が刺さっていて、牡丹は迷う事なく刺さっている楊枝を指で摘まみ、桃を口の中に含んだ。瑞々しい果実が噛む程に溢れ、甘さが喉を通っていく。
 牡丹は落ちそうになる頬を空いている手で押し上げ、至福の笑みを自然と浮かべる。その様子を正面の椅子に座って眺めている燕青の口元も緩んでおり、牡丹はその視線を受けて小首を傾げた。

「燕青は食べないの?」

 皿の上に乗っている桃は沢山あるのに、楊枝は一つしかない。その一つは牡丹が摘まんでいる為に、今皿の上に楊枝は一本もない。至極当然の疑問だった。然し燕青は一瞬牡丹から目を逸らし、木で出来た柱に視線をやるも、牡丹に名前を呼ばれしぶしぶ牡丹と視線を合わせた。

「あー……」

 間延びした声しか出て来ない。こういう時の燕青は何か面倒な事を考えているか、説明出来ない、したくない時だ。どうせ、見た目に反して義理堅い男の事だ。義勇軍に送られた品を食べるわけには……と面倒な事でも考えているのだろう。と牡丹は考え、皿の上の桃に楊枝を刺し、それを燕青に向け腕を伸ばした。

「え……?」
「食べるといい。美味しいよ」
「けど……っ」

 まだ何か言いたそうにしている燕青の口に桃を突っ込むと、男は大人しく咀嚼し始めた。もう一度燕青の口元に桃を持って行けば、今度は自ら口を開いた。そこに桃を入れるとまた大人しく咀嚼し始める。小動物、否小鳥に餌を上げているような感覚になった牡丹は、燕青の口の中から桃がなくなるのを見計らって、次々に燕青の口の中に切り分けられた桃を入れていく。
 然し、燕青とていつまでも食べているわけにはいかない。桃は牡丹にと切り分けたのだから。手先の器用は燕青の方がずっと上で、牡丹の指から楊枝を奪った燕青は、皿の上の桃に楊枝を刺して、それを牡丹に向けた。果実で濡れている白桃が牡丹の目の前まで迫り、一瞬困惑した牡丹だったが、すぐに差し出された桃を口に含み、また落ちそうになる頬を下から押さえつけた。
 至福の笑顔を眺めていたい燕青ではあったが、ずっと疑問に思っていた事を燕青は包み隠さず問いかけた。

「なぁ、なんであの子供を庇ったんだ?」

 義勇軍なら死を覚悟すべきと言った。それじゃなくとも武器を持った人間と戦うのだ。散々見知った顔だって死んできたに違いない。それなのに、なんであの少年を庇って傷を受けたんだ。子供だったからか? 弟と重なったからか? だったらどうしてこの軍に入れたんだ。
 疑問が次から次へと思い浮かんでは、頭の中で渦になり留まる。どうしてなんだ。教えてくれ。女の口から答えを聞きたい燕青は真っ直ぐに牡丹を見つめた。

「……似ていたから、だろうね。あの子は、路可と言ったかな。美丈夫というわけではないし、特別強いわけでもない。けど……似ていると思ってしまったら、それ以外に見えなくなる」

 一度遠くを見た牡丹は、薄く笑って燕青を見た。その視線を受けた男は一つの可能性を見出してしまう。そうであってくれたら嬉しい。然し、そうであって欲しくない。矛盾した感情のまま燕青は口を開いた。

「…………誰と、似てたん、だ?」

 牡丹の言葉を確かめるように震える声を叱咤し、ゆっくりと問いかけ牡丹の唇が形を作る。
 紡ぎ出される音を聞き漏らさないように耳を澄ましたいのに、どうしようもなく心臓が騒ぎ立ててうるさい。

「燕青に」

 ──あぁ、なんて事だろう。どうしてお前はそんなにも……。
 こんなに嬉しくて、悲しい事があるだろうか。

「あの子、戦争孤児で兄妹二人、この集落に住んでいるのだ。兄であるあの子が妹の為に必死に恐怖心を抑えて戦に出ているのだって。国軍の持っている装備は高く売れるから」

 何処が似ているというのだ。と燕青は無言で牡丹を見つめるも、牡丹は酷く優しげな表情をしたまま口を開く。

「まぁ、君が戦争孤児なのかは知らないし、あの子と違って燕青は強いけど、あの子が妹を見る視線が、君が私を見る視線と似ていたから。どっちも兄であろうと努めているでしょう」

 ──なんだそれは。

 それは燕青が率直に抱いた感想だった。
 燕青は牡丹の兄であろうと努めた事など、ただの一度もない。ただ、優しくあろうとして来ただけだ。明日、どうやって生きて行こうか。クソったれ。そう世の中を批判していた暗い谷底から牡丹は救い上げ、屋根と暖かい寝床に食に着る物と疑似的な家族の温もりを与えてくれたのだから。感謝してもしきれない。だからこそ、牡丹が生死を彷徨った時、あれ程取り乱したのだ。命の恩人だとは思ってはいない。あそこで牡丹と出会わなくとも、何かしら生きていく自信はあったから。だけど、誰かと共に過ごすのはこんなにも暖かいもので、安らぎを与えてくれるものだと、燕青の知らない事を教えてくれたのは紛れもなく牡丹なのだ。

 家族とも思っていない。よき友人……否、今はこの感情に名前を付けるのは止めておこう。
 燕青は呆れたように息を吐き出し、正面の椅子に腰を掛ける牡丹の頭を乱雑に撫でた。
 俺に似ているから、だから庇ったと聞いた時、牡丹の中で庇護しないといけない対象なのだ。と言われたような気がしたが、そういう事なら仕方がない。と燕青は牡丹の頭を撫で続けた。

「なにを……っ」
「んじゃ、俺があんたを守ってやりますか」
「はぁ?」

 その言葉の意味を知るのはそう遠くはない先の話しだ。

 それから一週間経ったある日、国軍が近くまで来ているという情報が斥候から入り、集落の空気が一気に張りつめたものとなった。そんな中、牡丹は藍色の籠手を身に着けている燕青に向かって、もう何度目になるのかわからない質問を問いかけた。

「本当に行くの?」
「しつこいぜ。俺も行く。牡丹は異論がない。そうだろう?」

 異論がない。とは一言も言ってはいないが、異を唱えたところでこの男の口先の前ではなんの役にも立たないのだろう。目に見えてわかっている未来に向かって行動する時間はどこにもない。建設的に話を進めたいのなら異論を胃の中で消化させるしかないのだ。

 着々と準備を進める燕青を尻目に牡丹も準備を進めていく最中、定刻を知らせる銅鑼の音が響き渡る。集落の広間には腕を組んだ頭領が立っており、皆が頭領の前に立ち体格の良い男の口が開くのを待っている。

「時は来た。何度負けても学習しない国軍に、我々がいる限り東州は支配できぬとわからせてやろう!」

 男の言葉に賛同するように、勇ましい雄叫びが上がる。あるものは武器を鳴らし、あるものは足で地面を叩いて音を出し、あるものは自分の胸を叩いて音を出している。その中には牡丹が庇ったあの気弱そうな少年ですら戸惑いながらも声を上げている。
 その様子を初めて見る燕青は突然の事に驚き、牡丹に向かって耳打ちした。

「おたくらいつもこうなの?」
「まぁ……。血の気の多い連中が多いの」
「ふーん」

 周りの様子に引き気味の燕青だったが、順応力も高く、すぐに平然とした顔つきに変わる。

「牡丹」

 そんな中でも、頭領の声はよく通るもので、名前を呼ばれた牡丹は槍を持って前に足を踏み出した。

「はい」
「お前さん。もう体調はいいのか?」
「はい。ご心配おかけしました。もう大丈夫です。戦えます」

 気合を見せる為に手に持っている槍を軽く持ち上げ、石突を地面にぶつけると、それを見た頭領は豪快に口を大きく開けて笑い、ちらりと燕青の方を見た。

「その男も行くのか」
「はい」
「そうか」

 それだけ言うと頭領は自慢の愛馬に跨り、牡丹も馬番の男が連れてきた愛馬に跨った。
 馬を連れて来た男が、燕青を一瞥すると、不安気に牡丹に話しかけた。

「あの人強く見えないけど、大丈夫なの?」
「あぁ、確かに。筋肉が足りてないよなぁ」

 そりゃ、筋肉隆々のお前に比べれば、皆、筋肉が付いていないように見えるだろうよ。と内心牡丹は呆れたが、すぐに燕青にも聞こえる声でこう答えた。

「燕青は、私よりもずっと強いよ」

 男二人はその台詞に首を傾げたが、戦場で燕青の姿を見た時に牡丹の台詞に納得した。強い。鮮明に目に焼き付けられる強さ。武器は己の拳だけだというのに、確実に、着実に敵を無力化させていく。

「燕青! 少し見ぬ間にまた腕を上げたね」
「そうかい? あらよっと!」

 戦場だと言うのに二人は世間話でもするかのように軽口を叩き合っている。隣に並び目の前の敵を一人でも多く無力化させていくその姿は、国軍から見れば化け物……否、魔物そのものに見えるのだろう、二人の前に立つ敵は引け腰になり、中には腰を抜かし命乞いをする人間までいた。牡丹はそうなった敵は見逃しているが、燕青は違う。殺さなければ、またいつ敵になって向かってくるかわからない。だったら殺しやすい今が最大の機会だ。と命乞いをする敵を容赦なく無力化させていく。

「……燕青」
「牡丹の言いたい事はわかるが、これは戦だ。いつ背中を狙われるか、わかったもんじゃないんだ」

 此処に、この場に、この戦いに良心は要らない。そんなモノがあれば心が病み精神が壊れていく。幾ら東州の民の為と、これは正しい戦なのだ。と志を高く持っていても所詮は人殺しなのだ。これはまさに人道から外れた道。英雄と讃えられる傍ら、罪悪感に塗れ自ら命を絶つ者もいた。

 優しさは心の弱さに繋がるのだろうか。
 その疑問は軍に入ってから今迄、一度も解決した事がない。

 牡丹は淡々と目の前の敵を無力化させていき、燕青もその後に続いた。作業のように淡々と、邪魔するものを排除するように。白魚の手は赤く染まり、新しく柄に巻いた蕪巻きも赤く染まってしまっている。
 戦場に咲く赤い花と言えば聞こえは良いが、その実態は敵の返り血を浴びて衣服が赤く染まっている。その女は己の肌や衣服が汚れても気にも留めず、槍を振り回して戦場を駆け抜けている。

 勝敗がついたのは、矢張り日没間際だった。
 国軍は此方に背中を向けて中央に帰って行き、義勇軍は国軍が完全に見えなくなった事を確認してから集落に戻る。
 集落にある牡丹の家に着くと、一人の男が牡丹に近付き一通の手紙を手渡した。

「故郷の弟さんからみたいです。それと今日は宴があるみたいなので、是非参加してください」
「おっ、それはいいねぇ」
「燕青はそういうの好きそうだね」

 これは勝手な印象でしかないが。と牡丹が付け加える暇もなく、燕青が頷き口を開いた。

「拳闘も酒も食事も音楽も好きだねぇ」
「あぁ、何となくわかるよ」

 思うに、燕青は人が好きなのだろう。拳闘は一人では出来ないし、その一人では出来ないものを最初にあげると言う事は、酒も食事も音楽も、一人ではなくて他の人間と楽しむ事が前提で話しているのだろう。

「では楽しい夜を」
「後でなー」

 手紙を届けてくれた男は、牡丹と燕青に背中を向けて何処かに向かって歩いて行き、残された二人は、その背中を見届けると家の中に入って行った。
 ごく自然な流れで、牡丹の家に入る燕青だったが、じっと目で自分を見上げる牡丹の視線に気が付き、すぐさま視線を逸らした。この流れがおかしい事など燕青は気が付いていた。それでも口には出さずにいたのだが、牡丹はなんでこの家に入って来るのだ。と言わんばかりの表情で燕青を見上げている。

「いやぁー……」
「燕青、君部屋を与えられていたと思っていたのだけど」
「……燃えた……?」
「吐くのならもう少しまともな嘘を吐くのだね」

 甲斐甲斐しく牡丹を世話していた燕青であったが、四六時中家にいたわけではない。 それを牡丹が知らないわけじゃないし、集落が狭いからと言って、男女同じ家を与える程、この義勇軍の皆も能無しではない。

「そんなに私が心配?」
「今日は、特にな……敵を一人逃がそうとしていただろ」
「あぁ」
「敵を逃がしても背中を向けた瞬間襲い掛かって来るかも知れない」

 牡丹はわかっている。とは言えなかった。わかっていたらあの時、命乞いをして来た国軍を殺したのは燕青ではなく、自分だった筈だからだ。

「……だったら、私の背中を守ってよ」
「は?」

 きっとこの先、何度も選択肢を間違える。その度に背中が狙われるなら、いっその事背中の心配をしなければいい。そう考えた牡丹は今日の行動を反省せず、寧ろ開き直って燕青に背中を託した。

「私は今日の事を反省していない。優しさは不必要だとも思っていない。散らなくていい命だってある筈だと考えている。だけど、そのままだと背中を斬られると燕青は言いたいのでしょう」
「あぁ。だから何で俺に託すって話になるんだ」
「燕青が私の背中を守ってくれたら、話は解決するでしょ。私も君の背中を守るよ」
「だからって……良いか? 戦場ってのはそんなに甘いものじゃ」
「わかっているよ。何だ、君は私の背中一つ守る事の出来ない弱い男だというの?」

 暖簾に腕押し。こうと決めた牡丹は何があっても譲らない。そんな事言われなくともわかっている燕青は、牡丹の顔を見て牡丹の考え方を改めてもらう事を諦めた。これ以上言ったところで挑発される事はあっても、話が変わるわけじゃない。

「わかった、わかった。まぁ、元々そのつもりだったからな」
「だからついて来たのか……過保護め」

 家の中でも世話をされ、今しがた戦場でも世話をされる事が決まった。これではまるで使用人のようだ。と内心呆れた牡丹だったが、当の本人である燕青は気にも留めていないようで、椅子に座りこれでもかという程に寛いでいる。

──あれが使用人だったら今頃馘首にしているな。

 一瞬とはいえ従者だった男の有りもしない姿を想像し、口の端を上げて牡丹は笑い、燕青の座っている椅子の正面にある椅子に腰を掛けた。その頃には、何故自分の家に燕青がいるのか。という至極真っ当な疑問など頭から抜け落ちていて、燕青が淹れてくれたお茶を片手に語り合っていた。

 夜も更けると、外が騒がしくなり二人は家を出て広場を目指した。
 行燈に明かりが灯り、様々な楽器が音色を奏で、大男たちが酒を呑み交わしている。

「おぉ、やってるやってる!」
「屋台も出ているのか。夕餉は此処で済まそう」
「俺、ちょっと見て来るわ!」

 集落総出で開催される宴の規模は集落の規模の割に大きく、何処かの祭りか? と疑う程だ。出店が出て酒も振舞われる。そうなれば飲み比べ大会や、脳味噌までも筋肉で出来てる男たちによる即席武道会が開催されるわけで、男たちの宴は盛り上がる一方だ。
 この集落は牡丹以外の女性もいるが、それはごく僅かで、大体はこの集落を拠点としている軍の人間の奥方だったりする。そういった人たちは、この宴では舞を踊ってくれたり、酒を振る舞ってくれたりと忙しく、休む暇がなさそうだが皆、勝利に笑っている。

 牡丹が暢気に遠くから広場の様子を眺めていると、集落に帰って来た時に弟からの手紙を預かったのを思い出し、その場で手紙を開いた。
 内容は元気に暮らしているか。とか、父の容態が回復し、今では仕事に励んでいるとか、母が心配している。と、家の近況報告が主な内容で、じんわりと暖かいものが牡丹の胸の中に広がった。
 明日、手紙の返事を書こう。と手紙を胸元に隠し、両足を伸ばして明かりが灯る広場を目にすると、一際盛り上がる集団があり、罵声や雄叫びが上がっている。中には燕青の名前を叫んでいる男の声まで聞こえた。
 此処からだと、何が起こっているのか人垣が邪魔で目視出来ないが、燕青が関わっている事だけがわかり、拳闘か飲み比べか大食いか、兎に角楽しそうな事をしているのだろうと、牡丹は暗い空を仰いだ。
 普段より星の数が少なく見える夜空は、宴が盛り上がっている証拠でもあり、牡丹は息を吐き出した。寒い季節は随分前に通り越したが、薄い生地に夜風は冷たく感じ、だがその冷たさが頭の中を清浄していくような気がして、肌寒さを感じながらも、牡丹はその場を動こうとはしなかった。

「何見てんだい?」
「……燕青か。その手に持っているのは何?」
「戦利品だ。こっちが武道会で、こっちは飲み比べだろぉ」

 両腕に幾つかの戦利品を手にした燕青は、その内の一つを手に取った。それは細長い木箱で、燕青はそれを牡丹に差し出し、細長い木箱を受け取った牡丹は、その場で蓋を開けて中身を確認した。

「これは、耳飾りね」
「綺麗だから貰ってきた」
「確かに綺麗だけど、燕青は耳に穴を空けてないでしょう」
「いやいや、俺じゃなくてあんたに」

 手渡されたのにも関わらず牡丹は、贈り物をされたという認識がなく、燕青は細い木箱の中に入っている耳飾りを手に取り、牡丹の耳元に近付け少し顔を離して、視界に顔全体が入るようにした。

「やっぱり似合うな」
「そう? 私にはつける機会があまりなさそうで、貰っても申し訳ないけどね」

 牡丹の耳元で揺れている赤いトンボ玉が印象的なそれに、燕青は自分の想像通りで何度も小さく頷いている。そして、牡丹の耳元に顔を近付け、両手で耳朶にある小さな穴に耳飾りの金具を通した。それを両耳にすると、燕青は翡翠の目を細めて笑った。

「綺麗だ」
「ありがとう」

 牡丹は軽く左右に首を振って、耳朶が揺れる感覚を楽しむと、不意にある疑問が頭に浮かんだ。

「よく耳に穴が空いていると気が付いたね」
「ん? あー……」
「言い難い事なの?」

 間延びした回答をしてくる時は大概そうで、答えない事の方が多いのだが、今回は違ったようで、燕青は頭の後ろに手を回し、乱雑に髪を乱した後、口を重たく開いた。

「いつだったか、牡丹が昼寝している時にちらりと、な」
「そう」

 それを覚えていたのか。
 牡丹には寝顔を見られて恥ずかしいという感情はなく、ただ素直に記憶力が良い。と燕青に感心した。一方燕青は、女性は寝顔を見られるのは恥ずかしいと思う事を知っていて、最初こそ言葉を濁そうかと思ったが、反応を見る限り、牡丹にその概念がないようで安堵の息を吐いた。








 それから何年かの月日が経った。生家に帰ったり戦場に出たり、と充実と言えば充実した日々を送っていた。
 戦場において、二人は背中を預けて戦い、日常生活において二人は隣に立って過ごした。それが当たり前で、息をするのが当然の様に二人はどんな時も側を離れなかった。
 然し、珍しくも、燕青と牡丹が別部隊に振り分けられた戦で、国軍が迫り来る中、頭領が前回の戦で負傷し指揮権が牡丹に移動した戦で、事件──陰謀に巻き込まれた。部隊を分け国軍と戦っている最中、斥候から報告が入った。それは、国軍に陣営を囲まれたという最悪の知らせで、牡丹が率いている部隊に動揺が走る。
 陣営は敵にバレないようにするのが鉄則であり、敵に見つかればすぐにでも攻め込まれてしまう。見つかってから直ぐに攻撃を仕掛けてくるわけがない。作戦を立ててから攻めて来るに決まっている。だからこそ、今牡丹の部隊は国軍に囲まれているのだ。

「どうする……」
「相手の人数がどれくらいいるのか、わかんねぇなら話になんないだろ」
「俺たちこのまま死んじまうのか」
「この部隊は五十人程度だろ……勝てるわけがねぇ」

 情けなくも、男たちの口から零れる声は全て悲嘆に暮れているもので、皆一様に座り込み頭を抱え足元を見ている。誰一人顔を上げてはいないのだ。

「敵の数は?」
「ざっと四百人程度かと……」

 斥候の報告を聞いた男たちは深い溜息を吐いた。もう終わりだ。どう足掻いても俺たちは死ぬ運命なのだ。誰も言わなかったが、誰もが生きては帰れないと悟っただろう。その悲しみを怒りに変えた男が怒鳴り声を上げた。

「裏切者がいたんだ! じゃねぇと話が付かねぇだろ!」
「そうだ! この中に裏切者がいる!」
「俺たちの事を敵に売った人間がこの中にいるんだ!」

 男たちは次々に怒りに任せ、隣に座る人間や目が合った人間に向かって指を差し罵声を浴びせ、疑いをかけていく。何とも醜い争いなのか、と牡丹は冷める感情で腕を組み溜息を吐いた。これが義勇軍なのか。と。然し、今この場にいる人間で四百人の敵に打ち勝たねばならない。その為にこの時間は必要ない。牡丹は槍を握り石突を地面に向かって振り下ろした。

「いい加減にしろお前たち!」
「けどっ!」
「いい加減にしろ、と私は言ったのだ。聞こえなかったのか?」

 酷く冷え切った声に、何かを言おうと口を開いた男はそのまま何も言えずに口を閉じた。

「仲間内で争うのは止めろ。今はそんな事をしている時間はないだろう」

 陣営の中にいる全員に響き聞こえる牡丹の声に、怒鳴り声を上げ胸ぐらを掴む男はその手を離し、悲嘆に暮れ顔を俯かせ足元を見るしか出来ない男が顔を上げた。絶望と困惑と僅かな期待を含む目で牡丹を見つめている。何が出来る。この状況で何が出来るのだ。そんな言葉は誰も言わなかった。言う事が出来ない迫力を孕んだ声で牡丹が再び口を開く。

「下を向くな。仲間を疑うな。悲嘆する必要など何処にもない。武人たちよ! 我ら義に厚く勇ましい戦人なり! 敵は我らが失意の底にいると高を括っている。見返してやれ! 誇り高き我らの手で、明日を変えてやろう。さぁ、武人たちよ、武器を持て、前を見ろ。奴らの屍の上に勝利の旗を飾る為に!」

 槍を空に向かって掲げると、それに賛同するように男たちの雄叫びが上がる。戦の前は決まって声を上げ、武器を鳴らし、足を地面に叩きつけて音を出し──皆一様に顔を上に向けている。そんな中、牡丹はいつまでも顔を俯かせている人間を見ていた。

「私たちはどうしますか?」
「手紙を書く。それを燕青がいる部隊に渡してくれ。道は私たちが作ろう」
「畏まりました」

 近くに紙がなく、また筆もなかった為に牡丹は、槍の穂で袖口を裂き、小刀で指先を傷つけ切り裂いた衣服の布に文字を書いた。

 ──来い。

 その一言だけ書かれた布を斥候に持たせ、燕青の所に向かわせる為に層の薄い所を目指して少人数で駆け出した。残りの人員はおとりの為に反対側の敵と戦うように仕向けてる。
 少数で駆け出した牡丹たちは、斥候、牡丹ともう一人、燕青に似ていると牡丹が称した少年の三人だけで、牡丹を先行にして進んでいる。少年を最初から戦力として数えていない牡丹は、次々と一人で国軍の人間を倒していき、斥候を無事に送り届ける事が出来た。
 今もなお戦ってくれている仲間のもとに帰ろうと、路可が震える足で踵を返し、牡丹に背中を向けた。その背中は牡丹の目に普段よりも小さく見え、酷く頼りないその背中に向かって声をかけた。

「それで、我々を幾らで売ったのだ?」
「……え? なんの事ですか、牡丹さん」
「嘘を吐く必要はないだろう。此処には私とお前しかいないのだから」

 男たちが雄叫びを上げている時、この路可だけが顔を俯かせていたのだ。いつもなら、戸惑いながらも精一杯声を上げているというのに。路可は決して目立つ人間ではない。大勢の中にいたらその存在は大多数に飲まれ消えてしまうような、牡丹のように大勢の中でもその存在を発揮するような存在ではない。影が薄く、態々探さないと紛れてしまうようなそんな存在である事を、路可が一番理解していた。だから、国軍に情報を売った所で、今の今迄誰にも気が付かれなかったのだ。運がついているとさえ思っていたのだ。これからも、国に義勇軍の情報を売っていれば金が手に入り、妹に苦労を掛ける事なく暮らしていけると。
 路可の運の尽きは、牡丹に燕青と似ている。と思われた事だ。燕青と似ていると思ったあの日から、牡丹は気弱な路可に何度か視線を向けていた。それは戦の前であったり、集落に帰還する時であったり、宴の時であったり。と実に様々な時であったが、路可と目が合った事はただの一度もない。

「いつから、ですか……?」
「今日、お前の様子がおかしかったからカマをかけてみたが、矢張りそうだったのか」
「っ!」

 知らぬ存ぜぬを貫き通せば、情報を売った事がバレなかったかもしれない。と路可は言われて初めて気が付いた。今からどうやって言い逃れをしたらいいのだ。と焦る頭で考えても何も浮かんで来ない。視線を彷徨わせても、鬱蒼とした草と、茶色の地面が見えるだけで、言い訳が浮かびもしない。何か言わないと殺される。その一心で路可は意味のない言葉を途切れ途切れに漏らすが、その全てに意味はない。

「私の目を見て話せ」
「……お金が、欲しかった……妹に楽をさせてあげたかった! 国からなら大量の金が手に入ると思ったんだ!」

 視線を彷徨わせる路可に向かって、牡丹が目を合わせるように言うと、路可は暫く牡丹の視線から逃れるように、顔ごと逸らしたが、ぎゅっと目をかたく瞑り、意を決したように牡丹に視線を向けた。意味のない言葉しか吐き出さなかった口が、言い訳とも呼べる動機を話し始める。正しい事を言わねばならない。牡丹の視線はそう思わされる。
 恐怖で支配されているわけでもない。後ろめたさはあるが、それともまた違う。どうしてなのか、あの目を見ると言わないといけないような気がしてくるのだ。

「義勇軍に入れば、金が手に入ると思ったのに、これっぽっちも入りはしない! 国軍の装備を売るにしたってこの両手で持てる量はたかが決まっている! だったら、義勇軍の情報を売った方がずっと簡単にお金が手に入る! 妹の為にも必要な事なんだ!」

 全てを出し切ったのか、路可は両手で握り拳を作り、肩を上下に動かしながら何度も大きな息を吐き出している。

「………言いたい事はそれだけか?」
「ッくそ!!」

 死刑宣告を待つ囚人の気分だ。路可は諦めたように自ずと首を牡丹に向かって差し出した。どうせ今から死ぬのだ。せめてその槍の軌道が見えないように。と俯く路可の耳に牡丹の不思議そうな声が聞こえた。

「何の真似だ」
「心臓を一突きですか……?」
「何の話かは分からないが、お前は此処から立ち去るがいいよ」

 まさに寝耳に水。路可は自分の耳を疑い、何かの聞き間違いに違いない。と首を左右に振るも、では、目の前の悪鬼と呼ばれる恐れられる女性は、今、何と言ったのだ? と首を傾げた。
 恐る恐る牡丹を見ると、女は斥候が走って行った方向を指差してこう言った。

「あそこからなら逃げ切れる筈だ。そしてもう二度と我々にその姿を見せるな。妹も必ずお前の元に送らせよう」

 聞き間違いではなかった。本当に逃げろと言ったのだ。
 路可は胸の中に大きな疑問を残しながらも、牡丹に背を向けて走り出した。ここから一番近い町を目指して。
 路可が走り出してから直ぐに牡丹も、路可に背を向ける形で走り出した。そうして牡丹が部隊に合流すると、義勇軍に勝利の女神が来たと言わんばかりの歓喜の声が上がる。その声は国軍には不幸の知らせの他ならず、牡丹一人の投入で国軍の士気が下がっていく。

「敵は多勢に無勢、数で押し通せ!」
「勝利の旗を此処に! 我に続け誇り高き義勇軍! この戦いに勝利を!」

 両軍の指揮者が鼓舞する為に声を張り上げる。義勇軍五十人に対し、国軍は四百人。牡丹の登場に一瞬怯んだ国軍だったが、指揮官の鼓舞に数の前には無力だと気合を入れ直し、確かな足取りで義勇軍に迫ってくる。それに対し、義勇軍は投石機を動かし始めた。

「一投、放て!」

 牡丹の合図の元、十台の投石機の石が次々に国軍に向かって放たれる。投石機の籠の中には一杯の石が入っていて、それが扇状に広がりながら敵軍の頭上に向かって落ちていく。それでも敵に当たるのは放った石の半数もなく、多少の足止めにはなるが、迫り来る敵に対し、次弾装填にはあまりにも時間がかかり過ぎる。

「弓兵前へ! 投石機、次弾装填急ぎ後退せよ!」

 牡丹の合図で、弓を持った男たち六人が前に立ち弓を空に向かって構える。その間にも、投石機を二人がかりで後退させていく。

「構え! 放て!」

 矢は真っ直ぐ放つよりも、雨の様に空から降ってきた方が殺傷能力は高い。弓兵は何度も何度も弓を空に放ち足止めをしている。敵の速度が落ちたとみた牡丹は、槍を握り指示を出した。

「敵を誘き寄せる。この先は此方に地の利がある。弓兵は投石機の装填に急げ、盾役は投石機を守れ。準備出来次第笛を鳴らせ。残りは私と共に来い!」

 牡丹は残りの部隊を連れて駆け出した。近距離での命の奪い合いに自然と頭が冷えていく。
 向かって来る敵の急所を突き、最短で無力化させていく。燕青たちが来るまでの辛抱だと、数で勝る国軍を前に牡丹は勇ましく立ち塞がる。返り血を浴び、衣服が赤く染まっても止まる事を知らない牡丹のその姿はまさに悪鬼。だが、義勇軍の全員が牡丹のように強いわけではない。当然仲間が目の前で斬られ動かなくなる。それを目の前で見せつけられ、数が多い相手に恐怖を感じないわけがない。

「ひっ!」
「狼狽えるな! 前を見ろ! 我々の手で明日を切り開く為に!」

 牡丹の叱咤が怯む身体に鞭を打つ。やるのだ。ここの為に此処にいるのだから。
 肩で息をし始めた頃、戦場に甲高い笛の音が響いた。国軍はなんの音だと、一瞬動きが止まり、牡丹はその隙を突いて返り血を浴びた。そして、周りにいる義勇軍に向かって叫んだ。

「後退しろ!」

 その命令通り、義勇軍は後退していき、牡丹はその最後に続いた。殿を務める為だ。
 後退していく義勇軍の息の根を止めようと、国軍は容赦なく攻め入り、牡丹は苦戦を強いられる。腕や足、脇腹にも切り傷が出来ていて、痛みを意識してしまえばその痛みに動けなくなってしまう程だ。

 ──早く。早く来い!

 一番近くの部隊にいる燕青に送った手紙はもう届いているのだろうか。
 殿を務めている今が牡丹にとっての一番の窮地だ。殿が一番死亡率が高く、ここを突破されれば義勇軍に勝利はない。死ぬ事も突破される事も許されない状況に、牡丹は息を飲む。

「此処から先、一歩も足を踏み入る事を許さない!」

 幼い子供に言われ憤る国軍だったが、多勢に無勢の筈なのに、その子供相手を未だに突破出来ていないのが事実で、牡丹を前に男たちは苦渋を飲んでいる。然し、牡丹の台詞が見栄である事もまた事実であった。正直此処まで一人で殿を務めている事を、今すぐ誰かにでも称賛してもらいたい気分である。

 当に槍を握る力は弱まり、今は気力だけで握っている。勇ましく振るっていた槍も勢いをなくした代わりに、急所を的確に突く。
 そんな中、牡丹の視界の端、それも遠くの方から土埃を舞わせながら近付いて来る集団があった。敵の増援かと牡丹は盛大な舌打ちをしたが、その土埃は真っ直ぐにこちらに向かってやって来る。仲間である国軍を目にもとめずに。

 ──そうか。あれは……。
 あの土埃は待ちに待った人たちだと、牡丹は口角を上げた。増援も増援。自分たちを救いに来てくれたのだ。と槍を握る手に力を入れた。安堵が心の平安をもたらし、思考が冴え渡る。目の前の敵を無力化させ牡丹は声を上げた。

「遅いぞ!」
「──っ悪い、悪い」

 背筋を伸ばして敵を見る牡丹の背中が暖かいものに触れる。その温もりはこの戦場で何度もこの背中に感じたそれと全く同じで、その温かさを感じただけで、牡丹は心浮き立つのがわかった。

「さぁ、目の前の敵を倒していくとしようか」
「背中は任せた!」
「応! あらよっと!」

 燕青が引きて来た部隊が殿に加わり、国軍を足止めする勢力に勢いが増した。十分に時間を稼げたと牡丹は感じた直後、甲高い笛の音が鳴り響く。その音色が国軍に動揺を走らせ、その笛の音を聞いた牡丹は周りに義勇軍に向かって声を上げた。

「準備は整った! 後退しろ!」

 牡丹の掛け声に、義勇軍が一斉に後退し始める。背中を見せ後退する義勇軍に対し、国軍は追いかけるも、馬に乗って現れた燕青の部隊はその速度を上げ後退していく。然し、燕青の乗っている馬は他の馬に比べ速度が遅く、国軍はその馬目掛けて歩みを進めると、何かが叩かれる音が僅かに聞こえ、次の瞬間には頭上から石が降ってきていた。
 道は狭く馬を四頭並べればいい方だ。そんな中頭上から降ってくる石を避ける手段は、一瞬では導き出せず、大多数が雨の様に降る石に倒れていく。

 ──そうして、この戦いは終わった。牡丹が十八の時の出来事である。そして、この戦い以降、戦士として牡丹の名は出て来る事はなかった。




「怪我の具合を診せろ!」
「……しているが、気にする程ではないよ」
「血だらけで何言ってんだ!」

 陣営の中に入ってすぐに、燕青は牡丹を医務室のような空間が確保されている場所に連れて行く。人目を避けるように衝立が置かれているその空間に押し込められた牡丹は、自分を押し込めた男を見上げる目は自然と訝しげになる。

「治療しよう」
「自分で出来るから燕青は……」
「後ろの傷はどうやってするつもりなんだ」
「……」

 自分の目で見える範囲は治療する事が出来るが、此処は鏡がない為に後ろを確認出来ない。身体の至る所が痛む。その所為で最早何処が怪我をしているのかわからない位だ。確かにこれは、燕青に手当してもらった方がいいか。と判断した牡丹は徐に上着を脱ぎだし、素肌を燕青に曝した。
 その行動に燕青が、がっくりと肩を落としたのは牡丹に女性としての羞恥心がなかったからでも、日頃から注意しているにも関わらず、素肌を晒されたからでもない。ただ、異性としての自覚が未だにないからだ。
 剥き出しの肌は細かい傷が幾つもあり、血玉が浮かび、それが瘡蓋になってしまっている。
 強く打たれたのか青痣になっている箇所もある。その姿に異性の肌を見る、というよりも目を逸らしたくなる光景に、燕青は息を詰まらせた。
 まだ、幼い女の子が、身体を……もっと言えば命を張って戦場に立っている。今日に関して言えば、義勇軍の男たちを助けようと、殿まで勤めてみせたのだ。
 白皙の肌が変色し。陶器のような肌にヒビが入ったように赤い線が走っている。背中の傷に塗り薬を施し、包帯で巻くも、腕や腹にも傷がある為、牡丹の大半が包帯で覆われてしまう。
 痛々しいその姿に燕青は包帯を持つ手が震え、顔を俯かせた。

 ──もう……これ以上は。

「なぁ、戦前に出るのを辞めないか……?」
「辞めないけど、何か思う所でもあったの?」
「あんたこのままだと死ぬぞ」

 その予定は今の所ないが。とは言えない雰囲気だった。後ろに立っている燕青の表情を見る事は出来ないが、声色で真剣に言っているのがわかり、牡丹は上半身を捻って後ろにいる燕青の顔を見ると、自分より背の高い男は顔を俯かせていた。

「燕青?」
「今日、あんたを、牡丹を失うかもと思うと、耐えられなかった。あの布切れを見た瞬間、息が止まった……」

 斥候から衣服の切れ端を受け取った燕青は、深く親しくもない斥候でもわかる程に顔色を変えた。只事ではない様子は牡丹が身に纏っていた布切れから伝わる。書いている文字は“来い”それだけが書いてあったが、その書かれていた文字の色は紛れもなく血色で、乾燥した為か、赤黒くなっていた。

 一人国軍と戦う牡丹を見た燕青の息が止まり、その刹那どうしようもない怒りが燕青の内側に駆け巡った。どうして、何で、何があってこうなったのだ。何故こんなにも傷付いているのだ。槍を握るその両手すらもう力が入っていないのが見て分かった。

「もうあんな思いはしたくはない」

 ──背中を守ると誓ったのに……。
 
 俯く燕青の頬に、小さな手が触れる。その手は暖かくも僅かに皮膚が硬く、苦労している手だと、肌越しに伝わる。その小さな手に促されるように燕青が、俯いていた顔を上げると、目を細めて笑う牡丹と目が合った。

「ごめん。それと、ありがとう」

 ──私以上に私の事を心配してくれて。

 槍は誇りだ。この槍で男だらけの義勇軍で頭領の隣に立つ事を許された。この槍で何度も東州を支配しようと襲い掛かってくる国軍を排除した。この槍で燕青に勝てた。手放したいと思う事はこれから先もない。勿論今だって手放そうという気にはなれない。
 そう思っていたのに。

 牡丹は翡翠の瞳に浮かぶ涙を見てその考えを改めた。この男は自分の事でもないのに、知り合って三年も経っていないというのに、こんなにも親身になっている人間の願いを叶えられないようでは、燕青の友人として彼に顔向け出来ない。

「燕青。私にどうして欲しいの?」
「後方に回って欲しい。勿論あんたは嫌がるだろうが、それでも俺はこれ以上あんたに傷付いて欲しくはないし、無理矢理にでも──」
「いいよ」
「後方に下げ……て……?」

 燕青は信じられないものを見たかのような目で牡丹を見た。牡丹はこうと決めたら絶対に曲げない性格の持ち主で、燕青も牡丹の性格をわかり切っているからだ。だからこそ、嫌がってでも、無理矢理後方に下げさせようとしたのに、燕青の考えに反して牡丹はすんなりと受け入れた。
 目の前にいる女は本当に牡丹なのだろうか。と目尻に溜まっている涙もそのままに、燕青は牡丹の頬を両手で挟むように包み、色んな角度に変えて観察している。然し、何処からどう見ても目の前の女は牡丹そのもので、ますます燕青は首を傾げた。

「本当に牡丹、なのか?」
「それ以外の何に見えるの」
「いや、だって……なぁ?」

 気まずさに燕青は視線を逸らし、牡丹を視界の端に追いやった。あからさまな行動に牡丹は冷たい視線を燕青に送ると、彼は未だ顔を逸らし続けたままで、牡丹は小さく溜息を吐くと、ボロボロになってしまった衣服に袖を通した。

「だが、武器を取らないとは言ってないよ」
「今回の事で軍師として活躍したんだ、武器を持たなくても……」
「何を言う。敵の動きを把握し動かすのも軍師の務め。燕青は弓は得意?」
「まぁ」
「そうか。では私の怪我が治り次第練習に付き合ってよ」

 流石の牡丹も完治するまでは大人しくしているようで、燕青は安堵の息を吐いた。そう云う事ならと快諾した燕青は牡丹に向かって拱手した。

「俺があんたの矛にも盾にもなる」

 ──今度こそ、あんたを守ってみせる。
 人知れず誓ったその言葉を、燕青は実行していくようになる。

 怪我が治り、本格的に燕青に弓を教えてもらうようになった牡丹の成長速度は目を見張るものがあった。ものの数時間で動かない的に矢を射る事が出来るようになり、その後すぐに山の中に入り狩りまでしてみせた。当然の如く戦場では軍師として活躍する事が多く、殆ど弓兵としての活躍はしていないが、ひとたび矢を放てばそれはどんな大男が放った矢よりも遠くに飛び、必ず敵に命中した。
 軍師としての活躍は頭領に期待された以上の働きを見せている。

 牡丹は地形を使った戦法を得意としていて、谷間の底にいる敵に向かって上から矢や石を撃つゲリラ戦法や、態と逃げ道のない狭い道に誘導し、左右から敵を挟み込んだり……と、様々な作戦を成功させ、軍師としての才能を開花させ、その名を再び国軍に轟かせた。
 なかには四面楚歌で危機的状況に追い込まれた時もあったが、牡丹は味方を鼓舞し士気を上げ、何度も窮地を乗り越えて来た。

 その様子を傍で見ていた燕青は、この人なら。と期待を膨らませた。

「義勇軍に牡丹在り! ってな感じだな」
「やめてよ。作戦を立てるのは簡単だもの。実行してくれる勇敢な戦士がいてこそだよ。燕青を始め皆には感謝しているよ」
「俺はあんたが立ててくれる作戦なら、大丈夫って確信があるぜ」

 得意気に笑う燕青を見る牡丹は、何処か気恥ずかしそうに笑った。持ち上げられても何も出ないよ。と軽口を叩けば燕青は態と肩を落としてがっかりした表情を作った。

「酒の一本でも出て来ると思ったんだがなぁ」
「昨日も盛大な宴があったでしょう」
「それとこれとは別なんでね!」

 呵呵呵と笑う燕青は、急に笑うのを止め牡丹を見た。さっきまで集落の牡丹の家の中に響いていた笑い声が、壊れたおもちゃのようにピタリと止まった事に驚いた牡丹は、目を大きくさせたまま燕青を一瞥し、困ったように笑った。

「どうしたの?」
「そういえば、彼奴最近見ないが死んだのか?」
「彼奴?」

 誰の事だ? と牡丹は寝台に腰を掛けたまま首を傾げる。牡丹が軍師として作戦を立ててからは死亡率が僅かに下がったとはいえ、必ず死者は出ているのだ。目の前の男が指している彼奴が誰なのか見当もつかない。

「ほら、俺に似てるって言ってた少年が――」
「そいつは死んだよ。大分前の戦で。妹も何処かに引き取られたと聞いているけど」
「ふーん」

 自分から聞いておいて、酷く興味のなさそうな返事をした燕青に一瞬腹を立てそうになったが、興味がないならないに越した方が良い。そう思い直し「それよりも」と話を逸らしたが、その行動が燕青が抱く疑惑を確信させるものになった。

 牡丹が前線から退いて数年。槍を握って戦場にいる時間と、弓を握っている時間が丁度同じくらいになった頃事態は一転した。牡丹の父があまりにも早い眠りについたのだ。

 遺言状。牡丹には貿易の仕事を任せると書いてあり、家族は生前の父の頑なな態度を見ていた為に驚いた表情を浮かべていた。
 というのも、敵軍に囲まれ身体の至る所に傷が出来たのをいい事に、牡丹は動けるようになると、すぐに実家に帰り、痕が残るような傷が出来たと父に話し、それを鵜呑みにした牡丹の父は、嫁にいけないのなら、とせめてものの慈悲で自身が経営している貿易業を牡丹に譲った。それ以外にも幾つかの事業に手を付けていたが、その全ては牡丹の弟に相続させた。

 頭領に、義勇軍を抜ける意思を伝えると、案外あっさりと送り出された。頭領には家業を継ぎたいと前々から話していた事だからだが、引き留められないのは、それはそれで寂しいのだと、牡丹はこの時初めて知った。

 代わりと言わんばかりに、牡丹と燕青が抜ける事を理由に盛大な宴が催され、朝までその宴が続いた。牡丹はキリが良いところでさっさと寝入ったが、燕青は最後まで宴に参加し、揺れる馬上に顔を顰めている。

「飲み過ぎだぞ」
「あー……なんだかんだ言って楽しかったからねぇ」
「燕青、今からでも遅くない。君だけでも義勇軍に残ったらどう?」

 戦場で敵をなぎ倒す燕青は、水を与えられた魚のように生き生きしている姿が牡丹の記憶に焼き付いている。無理に自分に付き合う必要はない。牡丹が言うと、燕青は口の端を上げて笑った。

「俺はあんたの傍がいいんだ。だから、気にする必要はないぜ」
「ありがとう。こんな所まで付いて来てくれて」

 たまたま道端で拾った男は、いつ死ぬかわからないような戦場まで来てくれた。その事が嬉しく牡丹は、自分でも気が付かない程自然と口角を上げた。

 実家に着き、慌ただしく父の葬儀を終え、一週間もしないうちに牡丹は実家を出る事を決め、見納めに。と、赤いトンボ玉の耳飾りを付けた牡丹は丘の上の花畑に向かって歩みを始めた。勿論その隣には燕青が歩いていて、お互い武器も何も持っていない。

 燕青を拾った年に来た時は時期が早かった所為で、ぽつりぽつりとしか花が咲いていなかったが、今回は時期が良く丘の上には色とりどりの花が咲き誇っている。柔らかい風に揺れながらも、美しさや可憐さを損なわず、時折やって来る人間に存在を見せつけようと言わんばかりに力強く咲いていて、牡丹は感嘆の息を漏らし自然と足を一歩前に踏み出す。

 その隣には燕青もいるものだと横を向くも、燕青は立っておらず、後ろに振り返ると、眩しそうに目を細め笑う燕青がいた。

「燕青……? どうしたの? この先にも花が咲いているの。前回は見られなかったから見に行かない?」
「牡丹。俺の話を聞いてくれるかい?」

 改まってなんだ? と牡丹は燕青の台詞に首を傾げ、言葉の続きを待った。然し、燕青は続きを口にするのではなく。両膝を地面に付け右手で握り拳を作り、左手をその右手の握り拳に添え頭を下げた。
 最上級の礼に牡丹は動揺し、それを隠す事もせず狼狽える。普段冷静な牡丹が狼狽える程の礼を燕青は牡丹に向けて行っている。

「あんたはこれから親父殿の事業を継ぐんだろ」
「それと燕青の礼に何の繋がりがあると言うのだ……これじゃまるで――」

 ――従者のようだ。

「俺はあんたに仕えたい。今まで数々の主と呼ばれる人間を見てきた」

 ――やめて。それ以上言うな。言わないで。

 言い知れぬ不安が足元から這い寄り、心臓に手をかける。牡丹の唇は縫われたように動きもしない。
 その間にも燕青は牡丹が耳を塞ぎたくなるような台詞を口にする。

「あんた程の人間はいなかった。俺が最後に仕えるならあんたが良い」

 ――止めて。そんな言葉聞きたくない!

「貴方に仕えたい。どうか、どうか……この俺を――」
「燕青!」

 堪らず牡丹が燕青の台詞を遮り、自分の視線よりも下にいる男に詰め寄った。その表情は怒るでも笑うでもなく、かと言って悲しそうでもない。ただに全てを諦めた表情で笑っている。

「どうして……」

 ――このままじゃ駄目なの?
 良き友人、良き相棒のままじゃ駄目なの? 二人の関係性を変えないといけないものなの?

 そんな疑問が牡丹の全身を駆け巡る。震える手で、燕青の握り拳に触ると男は、下げていた頭を上げ今にも泣きそうな牡丹をその視界に入れた。左手を牡丹に向けて伸ばし、赤く染まる頬をするりと撫でる。

「そんな泣く事じゃないだろう。傍にいる事には変わりないんだ」

 ――何もかもが違うじゃないか。

 そう訴えたいのに、牡丹の喉は乾いたように引っ付き、音が出ず、顔を俯かせた。

 友人関係と主従関係では何もかもが違う。
 今まで横を向けば燕青がいた。その関係は対等で気兼ねなく接する事が出来ていた。でも主従関係になれば、横を向いても燕青はいないのだ。そう考えると怖くて堪らない。
 父の事業を受け継がなければ……? そうすれば対等でいられたのか? 否、この国を商人の手で変えると決めたあの時から道は一つしかないのだ。

 ……何に怖がっているのだ。こんなに暖かい掌に触れられているのに、何に怯えているのだ。燕青が隣にいない事か? 傍にいてくれると言われているのにまだ不安なのか? 関係性が変わる事が怖いのか?
 そうだ。対等でなくなるのが堪らなく嫌なのだ。対等な関係でい続ける限り関係性は変わっていく。良き友人から変化していくだろう。然し、主従関係はその関係から何も変わらない。

 ――あぁ。そうか……私は……。

 心臓の奥で何かが弾けた。その衝撃は酷く小さいもので、然し、その鼓動は全身に駆け巡り牡丹に新しい感情を与える。
 顔を上げ、燕青を視界に入れると、彼は笑っていた。満面の笑みではない。無理矢理笑っているわけでも、呆れたようにでもない。ただ、ただ、穏やかに笑っているのだ。

 そうか。そうなのだね。
 君は、私たちの関係に終着点を設けたいのだね。

 嫌だとこの身体の全てが言っている。慟哭したい衝動に駆られるも、みっともないと理性で押し止める。それでも漏れる感情が涙として瞳から溢れ出す。その涙を燕青は親指で拭ってくれるが、次から次へと溢れ出て止まらない。

 きっと、君はもう気安く名前を呼んではくれなくなるのだろうね。
 今此処で君に縋りついても君は困ったように笑うだけで、受け入れてはくれないのだろうね。
 君の声も、温もりも、その身体も、心も私の知らない人に向けられるのだろうね。そんな未来など欲しくはない。そんな未来なら私は……!

 ――苦しい。苦しいよ。燕青。

 心臓の奥で弾けた何かが、ずっと心を締め付けている。初めての感情に牡丹は苦しみボロボロと涙を零し、肩を震わせる。

 感情のままに嫌だと口に出来たらどれだけよかっただろうか。

 牡丹は自分の手で涙を拭い、唇を一の字に結び湧き出る感情に蓋をした。隣を歩いて欲しい。それは我儘だから……。この関係の終着点。これより先には進む事はない。

「……燕青……もう一度言ってくれる?」

 燕青はもう一度右手で握り拳を作り、左手を添え、頭を下げた

「何度でも言おう。この燕青、全て使い貴方を守り支え、仕える事を此処に誓う」

 目を瞑り、下を向く燕青は気付かなかった。牡丹が眉尻を下げ、声を殺してまた泣き始めた事を。

 ――これが切ないという感情なのか。

 燕青と接して初めて知った感情。
 皮肉にもその感情は燕青が初めて牡丹に教えた感情でもあった。

 俯いていた顔を上げて空を見上げる。皮肉な程に雲一つない空が恨めしく感じ、内心くそったれ。と罵倒した。

 迷うな。逸れるな。俯くな。戸惑うな。お前の進む道は一つしかなく、お前の行く道にその感情は不要なものだ。

 牡丹は震える唇を強く噛み、叱咤し間を開けて口を開く。

「君を……お前を従者として認めよう」
「はっ」

 燕青が顔を上げると、目を赤くさせ無理矢理笑っている牡丹の姿がそこにあった。その女の姿を見て心が痛まないわけがない。それでも燕青は隣に立つ事ではなく、従者として仕える事を選んだのだ。

 男にとって女はあまりにも眩し過ぎたのだ。
 必要とあらば、否、最適解ではなかったとしても平気で悪事に手を染める。その手は目に見えていないだけで真っ黒に染まっているだろう。然し牡丹は違う。東州の人間の為に進んで自分の手を血に染めている。その深い愛情は敵軍だろうが関係なく向けられている。戦意がない敵を殺さないのが何よりの証拠だろう。

 確かに血に染まっているが、それでもその存在までは何にも汚されていない。
 この国を変えようと、救おうと勇ましく戦場を駆け抜ける姿は、燕青の目に眩しく映り、同時に怖くもあった。
 強い憧憬であり、狂気だった。
 この輝きはいつか失われるのかも知れない。そう考えると、堪らなくなる。

 だったら、その全てを守り切ってみせよう。
 憧れてしまえばもう止められない。自分はあんな人間にはなれない。そんな事一番良く分かっている。だからこそ憧れ追い求めてしまう。認めれば隣になど立てはしない。
 だから、この曖昧で不確かな関係に終わりを設けよう。
 守る為に自分ですら偽ってみせよう。

 こうして二人は主従関係になり、翌日には父親の事業を引き継いだ牡丹は旅をする事になる。
 これは良き友人であった二人の最期の時間であり、名前のない二人の関係に終わりを迎えた日でもあった。

 牡丹が二十一の春の出来事だった。








 翌日、寝台で寝ている牡丹に忍び寄る影があった。この屋敷の警備は全盛期に比べれば劣るが、簡単に外からの侵入を許すような警備をしていない。更に付け加えると、戦帰りの牡丹は気が立っていて、見知らぬ気配に目を覚ましてしまう。然し、今だ牡丹は寝台で横になり目を閉じ、深い眠りについている。

 掛布団を肩まで掛け規則正しく胸を上下に動かしている。枕には黒い艶のある髪が散らばっているが、その光景すら目に楽しいと、侵入してきた男は短く息を吐き出して笑った。
 深い緑が混じった濡れ烏色の髪を持つ男は、牡丹の寝台に腰を掛け、横になっている女の肩に手を乗せ、僅かな力を入れて揺らす。

「起きろ……主」

 なんて呼べばいいかわからず、辺り触りがないように「主」と口にすると存外それは牡丹にぴったりなような気がして、燕青はさっきよりも大きく揺さぶりながらもう一度声をかけた。

「主、朝だ。そろそろ起きないと不味いんじゃないかねぇ?」
「……んん……まだ、寝ていられる」
「いや、主は寝れるかも知れないが、支度に時間がかかるから、起きてくれると有難いんだがねぇ」

 世話のかかる主だ。と燕青が口元を緩めると、布団に包っている牡丹が、芋虫の様にゆったりとした動きで動き出した。
 先ず、身体を縮こませ背中を丸める。次いで眉間に深い皺を作り口をへの字に曲げている。
 あと少しで起きると確信した燕青は、その目覚めを確かなものにする為に牡丹が包っている布団を勢いよく剥いだ。

「っ!」

 今の今迄暖かいものに包っていた牡丹は、急激に襲ってくる冷たい空気に一気に目を覚ました。
 こんな起こされ方をすると思っても見なかった、と牡丹は最初目を白黒させたが、すぐに感じ慣れた気配を察し、寝台に腰を掛けて笑う燕青を睨みつける。

「燕青!」
「さっ、支度の時間だぜ。主!」

 主と聞き慣れない単語が牡丹の脳内に反響する。そこで自分は昨日、この男の主になったのだった。と昨日の記憶を思い出した。

 ――なんだ。夢ではなかったのか。

 愕然……否、矢張りか。と牡丹は燕青に気付かれないように肩を落とし、もう一度燕青に視線を向けた。何故、こんな朝から君は此処にいるのだ。と言外に視線だけで尋ねると、燕青は立ちあがり近くに設置している椅子の背凭れに掛かっている布に手にした。
 寝る前にはなかったその布は、燕青が来た時に持って来たものだろう。と牡丹は無言のまま、燕青の行動を見ていると、男は手にしている布を牡丹に差し出す。

「本日のお召し物です」
「なんだ、らしくもない。気持ち悪い」
「ひっでぇなぁ。まぁいいか、今日からこれを着て生活してもらおうと思ってな」

 手渡された布を両手で持ちあげると、男物の衣服だった。普段着ているのは父の意向に合わせた女物の衣服で、こんな服、家にはなかった筈だが……。牡丹が小首を傾げると、燕青は男物の衣服を指差して「念の為にな」と口にした。

「念?」
「女で商売をやっていると何があるかわかったもんじゃないからな」
「その為に君――お前がいるのでしょう」
「主への被害を最小限に止める為に動くのが従者ってもんだ」
「そういうもの、か……? 私は何でもいいけど、燕青がその方が安心するのなら、これを着て過ごそう」

 灰色の落ち着いた長袍で黒い飾り紐で出来た釦が三連、心臓の上を通って脇の方まで流れている。左右の切れ込みが深く入っている裾は長く脛の真ん中まであり、その剥き出しになる足を隠す為に飾り紐と同じ黒の下履きがある。手首の所は折り返しが出来るようで、折り返すと、黒い布が顔を出した。

「燕青が選んだのか?」
「ん? まあな! 中々のもんだろう」
「あぁ、気に入った」

 牡丹は早速新しい衣服に袖を通そうとするも、燕青がその動きを止めた。

「時間がないのだろう?」
「男の身体にしては主の身体は細いからな。詰め物をしないと」

 そう言って燕青は下着姿同然の牡丹の身体に布を巻いていく。勿論大きくも小さくもない胸を潰す為に、息苦しくはない程度に胸元にも巻いていく。どちらも成人済みの男女ではあるが、どちらも羞恥心が欠如している所為で、頬を赤らめる事もない。

 燕青に手伝ってもらいながらも牡丹は与えられた服装に腕を通し、その身を男に変えた。が、鏡の前に立つ自分の姿はどうも女らしく感じ、牡丹は背中まで伸びている自分の髪を一房摘まんだ。

「髪を切るか。燕青、適当な長さに切ってくれないかな」
「えっ!」

 牡丹は脱いだものを片付けていた燕青の耳に、衝撃的な台詞が飛び込んできた。
 髪は女の命……とはまでは思わないが、女にとって髪は大事なものだろう。現に燕青と共に夜を過ごしてきた女は、長い髪に気を使っているように見えた。だからこそ、燕青は牡丹も同じだろうと、敢えて髪の事には触れなかったのだ。
 だが、牡丹は鏡に映る自分の姿が気に食わないと、どの長さまで切ってもらおうか、人差し指と中指で髪を挟んで想像している。

「髪って一朝一夕で伸びるもんじゃないんだが、本当にいいのかい?」
「それくらい知っている。馬鹿にしているの。いいから切れ」

 髪が長い男だっている。然し、それは全て男の体格をしている為に髪が長かろうが短かろうが、男に見えるのだ。鏡越しに見える燕青だって髪が長いのに、立派な男性に見える。だが、牡丹の目に鏡に映る己の姿は男の服装をしている女でしかなく、これでは燕青の危惧する問題を解決出来ているわけではない。
 本当に切ってしまっていいのか。と狼狽える燕青を尻目に、牡丹は枕の下に隠している短刀を取り出しそれを後ろ髪に当てた。

「この辺かな?」
「うわぁ! 待て待て待て! わかった! 俺がやる! 早まるな!」

 今にも自殺しようとしている人間を止めるがの如く、単語の羅列を並べる燕青の慌てぶりに牡丹は笑みを零した。






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