俺を愛してくれ。置いて行かないでくれ。ただ、傍にいたいだけなんだ。


本編2
 次に牡丹が鏡でその姿を見た時、短くなった毛先を摘まみ納得したように笑い、その笑みを見た燕青は安堵の息を吐いた。

「綺麗な髪なのに勿体ないよなぁ」
「そう思うなら燕青が髪を伸ばせばいい。君――お前の髪だって綺麗だよ」

 既に長いと自負している髪を更に伸ばせと言うのか。さして気にしてもいない自分の髪を一房摘んで、髪の繊維を確かめるようにすり潰すような仕草をしてみせれば、牡丹が片眉をあげるもんだから、堪らず弄っている手を離した。

「男と女じゃ違うと思うがねぇ」
「そんな事はないよ……んん、口調も変えるか。うん、男らしく、ね」

 髪を短くした牡丹は、腕を伸ばし燕青の髪に触れた。愛おしそうに燕青の深い緑が混じった髪を眺める牡丹の瞳は優しいものだった。

 そうして女は男の姿になり、名を盧俊義と名乗るようになった。
 家族と別れる旅立ちの日は涙を流したが、牡丹の生活にいつまでも故郷を思い涙を流す時間はなかった。






「帰んな。子供を相手にしてる時間はないんだ」
「帰るわけにはいかない。私は此処を監督する立場の人間だ」
「先代なら兎も角、まだ若いあんたにゃわかりはしないさ」

 貿易業を父親から引き継いだ牡丹は、手始めに一番近い支社に行くも門前払いを食らい続けている。何処に行っても、若造が。と見下されている。立場的には勿論創業者の跡継ぎである牡丹が目上の立場になるのだが、そんな概念は現場の人間にはなく、中には迷惑だから帰ってくれ。とまで言ってきた人間もいた。

 さて、どうしたものか。と牡丹は頭を抱えた。
 全く想定していなかった事態に面を食らったのだ。

 支店が入っている建物を前に、牡丹は地面に尻をつけて座り、その後ろに燕青は立っている。うーん。と唸り続ける牡丹に向かって燕青が口を開いた。

「俺が行って黙らせるって手もあるぜ!」
「怖がらせてどうする。大事なのは人間関係を良くする事だ。支配する事じゃない」

 この支社の主な取引は硝子だ。欧州で作られた硝子が絹の道を通って大陸まで来ている。この国で一番輸入しているわけじゃないが、今期の成績次第ではいい所まで行きそうな気もするが……。

 そんな事を此処で考えていても状況は何一つ変わらない。牡丹は腰を浮かして立ち上がると歩き出した。その足取りは迷いがなく、後ろを歩く燕青は確固たる足取りの牡丹の後ろ姿を見て、何か考えがあるのだと確信した。

 二頭の馬を購入した牡丹はその一頭に跨り、また走り出した。燕青ももう一頭の馬に跨り後ろをついて行くがどうにも街から離れていく様子に、流石に首を傾げすにはいられない。常歩で歩く牡丹の馬と横並びになって問いかけた。

「何処に行くんだ?」
「港の方だ。少し距離があるから馬の方が早く着く」
「港ぉ? なんでまた」
「うちの会社の一部は硝子の輸入なのは知っているな。欧州の会社の貨物船が付くのがこの先の港なんだ」

 だからなんでその港に行くのだ。問題を解決するなら支店の方をどうにかしないといけないだろう。と燕青は声に出し顔を顰めるも、牡丹はそんな燕青を見て穏やかに笑った。

「確かにそっちも大事なのだが、手っ取り早く認めさせるには業績を上げる事が一番だと思わないか? 彼らが言うように私はまだ若いし、経営について何も知らないに等しいが、文句を言わせない方法なら知っている」

 戦場では強ければ女でも意見を言う事が出来る。女の癖にと罵倒していた奴らも強さの前に無力で、その内の何人かは戦場で帰らぬ人になった。会社だってそうだ。実績さえあれば黙らせる事が出来る。だったらそれを作ってしまえばいい。
 勿論簡単な事ではない事はわかっている。然し、やり遂げられないわけではない。
 港に行くのはその為の足掛かりだ。このままの速度だと、あと四日はかかるが、何も急いでいる旅じゃない。牡丹は常歩で馬を走らせ、燕青もその後に続いた。

 道中何事もなく、予定通りに出発してから四日後に港に辿り着いた牡丹の目論見は不発に終わった。貨物船の人間に話を聞こうにも、支店の人間と同じ事を言って話を聞こうともしないのだ。
 若造。親の七光り。金持ちの道楽。散々な言葉を浴びせてはその扉を閉め切って話を聞こうともしない。流石に牡丹も深い溜息が零れる。いい大人が……。と文句の一つを言わせてやりたいが、そんな時間の方が勿体ない。

 これからどうしたものか。そう頭を悩ませている牡丹の傍にとある老人がやって来た。牡丹の近くまでやって来たのに声をかけない老人に、牡丹は首を傾げるが、すぐに自分の後ろに控えている燕青が険しい顔をしている事に気が付き、牡丹の方から老人に声を掛けた。

「何か?」
「さっき、あんたたちの会話を聞いちまってぁ」
「それはお見苦しい所を」
「いや何、僕もこの船の一員なんでなぁ……気になってしまうってもんさ」

 見るからにもう体力がない老人の姿に、牡丹は本当に船員なのか。と疑問を持ったが、この船に関して知らない事の方が多いのだから何も言わないでおいた方が、当り障りがいい。そう判断した牡丹は老人に向かってお礼の言葉を口にした。

「そうか。社を支えてくれる事、感謝する」
「先代様には長い事使ってもらってるんだ。感謝するのはこっちの方さ」
「それで? 話があるのでは?」

 だから、こちらを見ていたのだろう。と牡丹が話を促すと、老人は「そうじゃった」とすっかり話を失念していたようで、酷く穏やかな口調で反省し始めたのだが、口調がそう感じさせるのか、反省している様子が伺えない。

「反省は良いから、さっさと話しの内容を教えてくれないかねぇ」
「燕青!」
「いいんじゃよ。それがここ最近昔と比べて硝子の質が落ちているようでねぇ。気泡が多く含まれているんだ」

 気泡か。態と気泡を入れた硝子食器だってあるから、一概に怪しいとは言えないが、この老人は長い事勤めているのだから、その判断は間違ったものではないだろう。

 ――調べてみるか。

 牡丹は顎に指を当て視線を下に向けた。その様子を見た燕青は最悪の事態を瞬時に想像した。それは、牡丹は欧州に行って現地視察をすると宣言する事だ。向こうの言語なんてわからない自分では牡丹に何かが遭った時対処に遅れてしまう。と男の服装をした女を後ろから見つめると、黒く短い髪が動き、牡丹の顔が燕青の視界に入る。

「行くぞ」
「……だと思ったんだよぉ……」

 燕青の声は弱々しく、意気揚々としている牡丹とは正反対だ。止めたって行くと決めたら行動に移す人間のだから諦めた方が早い。老人にお礼を言って馬を止めている所まで歩いて行く牡丹の後ろ姿を燕青は追いかける。

絹の道シルクロードに行くぞ」
「欧州に行くんだろ? わかってるってー」
「誰がそんな事を言った。先ずは絹の道で手当たり次第情報を集めてから行くかどうか決める」
「そういう事か」

 多くの商人が行き来する絹の道は情報の宝庫だろう。港から反対方向に向かって馬を走らせた。野宿を繰り返す事一週間。逆旅ホテルに泊ってくれと迫る燕青に全く聞く耳を持たない牡丹は、全ての日程を野宿で過ごした。

 絹の道を行き来する人の中に快く情報を教えてくれる人がいて、その人曰、大手硝子企業である牡丹の企業とも取引がある欧州の企業が、新しい事業を立ち上げたようだ。

「新しい……か」

気になるが、それを深く掘り下げた所で、仕方がないと他の人からも情報を聞いていた牡丹の目に、宝石商と思われる若い男の姿が目に入った。
 露天街の一角。石畳の地面の上に敷物を敷いて、四角い鞄に入っている色とりどりの商品は宝石ばかりで、その中でも金剛石ダイヤモンドが目立っていた。紅玉ルビー蒼玉サファイアも入っているが目を奪う程美しい輝きを放っているのは、金剛石だけで、育ちが良い牡丹の目から見てもその宝石は目を見張るものがある。

「主、欲しいのかい?」
「ん? そうだね……。こんなに綺麗に加工されている金剛石は初めてだ。家にある金剛石が霞んで見える。主人、こちらはどちらまで売りに行く予定で?」

 糸目の商人に牡丹が話しかけると、商人は気前よく返事をして聞いてもいない事までべらべらと話し始めた。例えばこの金剛石は遠くの大陸から購入してきた事や、後宮に売りに行く予定だとか、自分経由で買えば金剛石が安く買えるだとか。

 商人の話しに頷く牡丹を横目に燕青は首を傾げた。自分の知っている女は宝石に興味があっただろうか。花が綺麗だと女らしくはしゃぐ事もあるから、単純に知らないだけか。と腑に落ちないが、納得出来ない事もない結論を自分の中に立てて、商人が見せて来た箱の中の商品に目を向けるも、燕青の目には何の魅力を感じない。正直退屈な位だが、主が熱心に耳を傾けているのだから、確りしなければあるまい。と自分を叱咤し商人の話しに耳を傾けた。

「商人。一つ見てもいいかな?」
「どうぞ。お手に取ってくださいな」
「ありがとう」

 商人から手渡された手拭い越しに牡丹は、小指の爪程度の大きさの金剛石を手に取り、色んな角度からそれを眺め感嘆の溜息を漏らす。

「その商品であれば今ならかなりお安く購入頂けますよ」
「ほう」

 牡丹は徐に金剛石を指で摘まんで息を吹きかけた。その動作に商人は血相を変え牡丹から宝石を奪い返そうとするも、燕青が商人の腕を掴み捻り上げた事で、商人は痛さ故の呻き声を上げて地面に膝をつける。

「矢張りか」
「どういう事なんだ?」
「此処にある宝石は皆贋物だ。商人、覚えておくといい金剛石は息を吹きかけるとすぐに弾くが、硝子は暫く曇ったままなのだ」
「くっ……!」

 悔しさを前面に出して顔を顰める商人は俯いている。そんな商人の前にしゃがみ、俯く男の顎を持ち上げた牡丹は手に持っている贋物の宝石を見せつけた。

「それで、粗悪品コレはどこの会社で作られている?」
「誰が言うかよっ!」

 商人は両手を燕青に掴まれている状態だというのに、気丈なのか意地になっているのか、口を割ろうとはせず、手っ取り早く済ませたい牡丹は名前を呼んだ。

「燕青」
「はいよぉ」
「アァッ!!」

 濁った呻き声を上げる男の頭は燕青に押し付けたられ、顔面が石畳の地面に擦りつけられている。腕は当たり前の様に押さえつけられ、肩が人間の可動域ギリギリの所まで曲げられている。
 何処でそんな術を覚えて来たのだ。と牡丹は燕青を見るも、当の本人は商人を楽しげにいたぶって情報を吐かせようとしている。

 ――私はお前の過去を何も知らないのだな。

 出会ってからの事しか知らないのだから当たり前か。と考え直し、これ以上商人に何かしても商人は呻き声を上げるしか脳がないようだし、生産性が悪いと牡丹はもう一度燕青の名前を呼んだ。

「人目に付く。移動するぞ」

 絹の道は延々と続く道故に、発展している。商人が寝泊まりする逆旅を始め、様々な建物が立ち地域が出来た。そんな中で大事になれば今後の仕事に影響が出る。幸いな事に商人がいた露天街は時間帯故になのか、人の目は少ないが、用心する事に越した事はない。

 商人の頭を掴んでいる頭を上げると、皮膚が擦り剥け血だらけになっていた。その様子を見て心が痛まないわけではないが、やるべき事を前に余計な感情を裂いている場合ではない。
 牡丹は商人の怪我を見なかったことにして、左右に視線を走らせた。

 燕青は無理矢理商人を歩かせ、裏路地に連れて行き、牡丹は商人が店頭に置いていた四角い鞄を手に持ってその後に付いて行く。

 さて。と牡丹が呟くだけで商人は肩を跳ね上げ、歯がガタガタと音を立てている。

「お前に聞きたいのは一つ。この贋物を作った会社の事だが――」

 牡丹が自分の会社と取引がある企業の名前を上げると、商人の目が大きく開いた。

 ――当りか。

 牡丹が予想していた通り、男に贋物の金剛石を卸していたのは取引先の企業だった。贋作でも一粒が高く売れる宝石を量産した方が、金回りが良いに決まっている。本物だと見わけがつかないように熟練の職人を新しい事業に回した結果、今までの方を新しい職人で回し、ぞんざいな商品が出来上がったというわけだ。

 成程と感心しながら牡丹は手に持っている商人の四角い鞄を開いて、中のものを物色していき、宝石の一つ一つを確かめていく。その中には紛れもない本物もあり、どういう事かと商人を問い詰めると、恐怖心が上回っている商人はすんなりと口を開いた。

 曰、売りつける相手を見極めているというのと、本物を紛れ込んでいれば簡単に騙されると。
 とどのつまり、今回商人にとって牡丹は良いカモになりそうだった。と言っているのだ。

「この宝石の取引先を渡してもらおうか。勿論金は払おう」
「えっ……」

 思ってもいない言葉に商人は口を開いたまま呆けている。そんな商人に構う事なく牡丹は言葉を続けた。

「希望額でいい。但しその中には口止め料と顧客一覧。更に二度と詐欺行為はしないという制約が含まれている事を忘れるな。もし、この事が露見すれば……」
「お前を殺すって事だ。わかったかい? 糸目の大兄」

 顔の整っている燕青が凄めば迫力は倍以上あるもので、商人は何度も首を縦に動かして了承の意を示した。それを見た牡丹は本物の宝石を手拭い越しに持ち、色んな角度からそれを眺め、衣嚢の中にそれを突っ込み、手持ちの中でも高価な方である装飾品を商人の四角い鞄の中に入れた。

「この宝石と、あと贋物の方ももらって行くよ。この装飾品は君に上げよう」
「は、はい……」

 商人は終始肩を震わせていたが、牡丹も燕青も気には留めなかった。それどころか、牡丹は良い情報が手に入ったと喜び、取引先の新事業が本当に贋物作りなのかを確かめる為に、絹の道で情報収集を続け、牡丹がその情報に納得するまで丸一日かかった。

 牡丹の手元には贋物を売りつけた顧客一覧と、本物の金剛石を売った顧客一覧が書かれた巻物を見て牡丹はほくそ笑んだ。

「そんなもの何に使うんだ?」
「そんなものではないよ。これは貴重な情報だ」

 今日一番の収穫と言っても過言ではないそれに、牡丹は緩む頬を引き締められないでいる。その様子を見た燕青は不思議そうな顔をしているが、深く答えてくれない所をみると、今はこれ以上聞いても答えてくれないかも知れないと、話題を変えた。

「主も人並みに宝石は欲しがっているのかと思ったが、やっぱり違ったようだねぇ」
「宝石は好きだぞ。持っていればいつか困った時に金になる。が、率先して欲しいと思うわけではないな……宝石よりもこの国の行く末の方が気になって仕方ないさ」
「主らしいねぇ」

 一週間かけて来た道を滞在時間約二日で引き返した牡丹は、そのまま貨物船が寄港する港に向かった。道中、燕青は逆旅に泊って欲しいと、往路と同じ事を言っていたが、復路も往路と同じように野宿する事になった。往路と同じように一週間かけて辿り着いた港には、あの老人の従業員がいて、牡丹はその老人に近付くと真っ先にお礼を言った。

「貴方のお陰で何とかなりそうだ」
「それはよかった」
「港の方は変わりないか?」
「今のところは何もありませんとも」
「そうか。今日も元気に働いてくれ」
「旦那様のご意思通りに」

 用は済んだと牡丹は灰色の衣服を翻して、港に来ている商人に話を聞く事にした。
 その中には女主人でありながら、その敏腕を振るう女経営者の話しもあり、牡丹は気後れしたが、その口が回る商人から遠回しに聞きたい情報だけ抜き取った牡丹は、馬に跨り支店に向かって走り出す。

「まだ、あの情報は流れていないみたいだな」
「質が落ちている事にも気が付いていないようだったからなぁ」
「だが、それで丁度いい」

 支店に着いても門前払いされる事は考えるまでもないが、交渉次第では話を聞いてもらえるかもしれない。最初から諦めれば何も始まらないのだ。やれるところまでやってみる。牡丹は意気込んで馬を走らせた。

 東州の支店に着くと、牡丹を罵った男が丁度建物から出て来るところだった。運が良いと馬に乗ったまま男に近付いて馬上から話しかけた。勿論男は牡丹の存在に気が付き顔を隠す事なく顰めたが、立ち去るような真似はしなかった。

「久しぶりだな。元気にしていたか? 支店長」
「話ならしないぞ。此処は若造が来るようなところじゃない」
「いや? 私は経営者だ。中に入らせてもらうよ」
「おい! 待て!」

 馬から降りた牡丹は支店長が出て来た入り口に足を踏み入れた。昼間だというのに暗い室内に牡丹は首を傾げ、目を凝らして暗闇の中を窺った。外から支店長の男の声が聞こえてくるが、来ないところをみると、燕青に止められているのが容易にわかる。
 その隙に、と薄暗い室内に足を踏み入れると、視界の端に何かが動いているのが見えたのと同時に、殺気のような刺々しい気配を察知し、牡丹は反射的に襲い掛かって来た男の腹に回し蹴りを食らわせた。
 その一発で伸びた人物を放置し、足を前に進めるも多方向から武器を持った人間が襲い掛かり、構えた瞬間、その内の何人かが短い呻き声を上げて地面に崩れ落ち、牡丹は正面から襲い掛かって来た人間に対して、顎を目がけて蹴りを入れた。綺麗に決まったそれは相手の意識を奪い、襲い掛かって来た人間は地面に崩れ落ちる。

「燕青、あの男は?」
「落として縛って転がしてるぜ」
「わかった」

 本当はどうしてこんな事になっているのか。と本人の口から説明を求めたかったが、言い訳を並べられるだけなら先に室内を物色した方が早い。と牡丹は部屋を明るくさせる為に窓に近付き、窓に建てつけられている木の板を、襲ってきた人間が持っていた武器で壊していく。
 明るくなった室内を見渡せば、一人の女を人質に取る男がいた。
 男はやつれた女の首筋に短剣をあてがい、その恐怖で女は顔の色をなくし震えている。

「この女が死ぬところは見たくないよなァ」
「……くだらない」

 牡丹の言葉に女は息を飲んだ。今この瞬間女は雇い主である牡丹。基、盧俊義に捨てられたからだ。女は俯き涙が頬を伝い石畳の地面を濡らす。
 その様子を黙って見ていた牡丹は玄関口に控えている燕青を一瞥する。その動作を見た男は牡丹に向かって血も涙もない男だと評価し、人質に取った女の首筋にあてがっている短剣を僅かに離した。女は短剣が離れた事をいい事に藻掻いて男の腕から逃れようとするが、そうはさせまいと男が女に視線を向け、囲う腕に力を入れて牡丹を見た。その時間は僅かで、体感感覚一秒もなかった程。

 なのに――。

「――はっ?」

 男の視界に入ったのは、弓を構えている牡丹の姿で、男は目を見張った。いつの間に。こんな短時間で? いや、そもそもあの男は弓を持って等いなかったのにっ!

 だが、男はすぐに冷静さを取り戻した。腕の中にいる人質を盾にしてしまえば、男だって弓を撃てまい。切り捨てていて罪悪感からこの女を助けたいのだ。と結論付け男は人質の女を自分の前に立たせ盾代わりにした。

 さぁどうだ。
 撃てないだろう?

 男は挑発交じりの笑みを浮かべ、男は弓を構えている牡丹を見るも、牡丹の表情は何一つとして変わらない。
 女は後ろからは短剣を、正面からは矢が飛んでくるかもしれない。生きた心地がしないこの状況に悲嘆し、息を殺して止めどない涙を流している。

「盧俊義さまよぉ、撃てないだろぉ? な――」

 男の挑発は叫び声に変わった。牡丹の放った矢は、人質になった女の後ろにいる男の肩を射抜いたのだ。女と男の体格はどう足掻いても違う。それこそ盾にしようとしても、体格的に何処かしらは、はみ出てしまう。その僅かを正確に射抜く事など牡丹には簡単すぎるもので、肩を射抜かれその痛みで動けない男を一瞥すると、人質に取られていた女に向かって手を差し伸ばした。
 女は一目散に牡丹に駆け寄り、その胸に飛び込んだ。安堵の涙を流す女の背中を何度か優しく撫で「よく頑張ったな」と労いの言葉をかけると、女は何度も首を縦に振って、牡丹に着ている衣服に大きなシミを作っていく。
 肩に矢が刺さったまま地面に蹲る男に近寄った燕青は、容赦なく男の腹を蹴り上げ、麻縄で締め上げた。
 その様子を一瞬目に入れてしまった女は、小さく悲鳴を上げると、その光景を隠すように牡丹の掌が視界を覆う。

「燕青」
「はいはい。わかってますよー」

 女の頭上から発せられる声は、男にしてはやや高いがそんな事を気にする余裕は今の女にはなく、ただ聞こえてくる呻き声に肩を震わせた。

「怖い思いをさせたね」
「……っ!」
「他の従業員は何処にいるのかわかるかい?」

 酷く優しい声だった。それもその筈。牡丹は努めて低く優しい声を出し、恐怖に怯える女を労わる様に何度も背中を撫で問いかけると、女は部屋の隅になる扉を指差した。

「あの部屋にいるんだね?」
「はい」
「燕青……頼んでも良いか?」
「はいよぉ」

 燕青が部屋の扉を開け、中を見ると頬がこけ生気を失った男女が数人いて、戸棚には沢山の硝子製品が収まっている。その光景に燕青は視線を明後日の方に向け、この状況をどうやって自分の主に説明するか……。と目算を立てていると、一人の男が燕青に向かって声を掛けた。

「今日は……一体何をするのでしょうか? 私たちにはもう、労働する体力が……」
「いやいやいや! 違うって! 俺はあんたたちを助けに来たの」

 成人男性なのに声に覇気はなく、蝋燭の火のように頼りないその身体つき。咄嗟に助けに来たと言った燕青は自分で言ったその言葉にむず痒さを覚えた。
 今まで悪事に手を染めた事はあっても、誰かに手を差し伸べる事はなかった。それが今自然と息をするように「助けに来た」と台詞が出て来た。

 ――やっぱり、眩しいなァ。

燕青は人知れず口の端を上げた。助けに来たと言ったまま動かない燕青に部屋に閉じ込められていた数人は、どうしたのか。とお互いに顔を見合わせると、二つの足音が聞こえて来た。その足音に燕青以外の人間が肩を震わせ、身を寄せ合った。その光景を見た燕青は眉間に皺を寄せる。

 室内に入って来たのは勿論牡丹で、その脇には目を赤くしている女がいる。

朱華しゅか、此処にいる人で全員だね?」
「はい」

 朱華と呼ばれた女は牡丹の言葉に頷いて、牡丹を見上げた。
 外で何があったのかも理解していない従業員は、何事だと目を大きくし食い入るように牡丹を見ている。その事がわかっている牡丹は、大きく足を一歩前に踏み出して燕青の前に立ち、やつれ頬かかけている従業員を見渡して口を開いた。

「此処で何が行われていたのか説明してもらいたい」
「……は、はい……支店長は――」

 従業員の話を要約すると、支店長である男は牡丹の父……つまり、社長が床に臥している事をいい事に会社の金を横領し、その挙句に従業員を奴隷の様に働かせ、社長には虚偽の報告をしていた。と、勿論そんな事をしでかす男が管理しているこの支店が黒字なわけがなくて、何年も赤字が続いているとの事だった。

 道理で牡丹の実家が寂れていくわけだ。この店以外にも虚偽の申告をしている家もあるのだろう。
 牡丹はいなくなってしまった従業員の顔が何人も頭の中に浮かび、怒鳴りたい衝動が身体の内から溢れる。然し、此処にいる者に怒鳴ったところで何も生まないと、喉まで迫っていた怒気を必死に抑え込み、戸棚に陳列されている商品に目を向けた。

「商品が綺麗だが……」
「これは私たちが手入れをしておりましたので」
「そうか。立派な行いだ」
「いえ」

 兎に角この部屋から出ようと、牡丹が従業員を誘導し、支店長と繋がりがある賊が伸びている広間まで移動した。
 改めてこの室内の有様だ。牡丹は思わず深い溜息を吐いてしまった。

 ――これからどうしたものか。

 まさかの赤字のこの事業をどうやって復活させるか。目下の課題はそれに尽きる訳だが、先ずは従業員の精神面や身体面の治療が先か。と賊に背中を見せていた牡丹に向かって短剣を握った男の手が伸びる。それに気が付いた朱華が視線を落とし考え込んでいる男の名前を叫んだ。

「盧俊義さま!」
「どうしたらいいものか」

 それだというのに、牡丹は朱華の言葉が耳に入っていないように、顎に指を当てて深く考え込んでいる。盧俊義の背中に短剣が刺さってしまう。そう思った朱華は両目をきつく瞑り、視界から入って来る情報を遮断した。

 視界がなくなり、代わりに敏感になった耳に入ってきた音は、カラン。と軽い金属が石畳の床に落ちた音で、朱華は恐る恐る目を開けた。

「今、主はおたくらの所為で頭を悩ませてんだ。静かにしてもらおうか」
「っく!」

 支店長の持つ短剣は牡丹の背中には刺さらなかった。男の手首が燕青に掴まれその痛さに支店長は手に持っていた短剣を落したからだ。

「燕青。先ずその男から金品を奪い取れ」
「主が刑に処さなくていいのかい?」
「私刑は好まない。ただ、役人に賄賂を渡されたら堪らないからな。伸びている男たちからも金品は奪っておけ。この支店の補填に充てる」

 沈思黙考。その表現が今の牡丹に当てはまる。支店長が背中を刺そうとしていたにも関わらず、牡丹は考える思考を止めるどころか、振り返りもせず支店長を掴んでいる燕青に向かって指示を出している。

「それと支店長。今日を持ってお前を馘首する。然るべき機関にお前の身柄を引き渡す」

 そう言われた男は悔しそうに顔を顰めて地面に唾を吐き捨てた。 
 その男は燕青が外に連れて行き、牡丹の耳に何も入らない位距離を取ったところで、燕青は有無を言わさず男の心臓を自身の籠手で覆われている手で一突きした。
 背中まで貫通させた手を引き抜けば、絶命した男の体がぶらりと揺れそのまま地面に崩れ落ちる。

「悪いねぇ。主は優しいからあぁ言ったけど、俺はあんたが更生するとは思わない。だから死んじまった方が良いし、俺が殺す」

 燕青は昔共に働いていたゴロツキに金を握らせ、男の遺体を山に捨てるように指示し、籠手を捨て何食わぬ顔で牡丹の所に戻った燕青は、店で伸びている賊にも元支店長と同じ目に遭わせたのだが、その事実を牡丹が知る事は先にはない。

 店に残った牡丹は、やつれている従業員を前に何故、もう少し早く此処に足を踏み込めなかったのか。と自分の愚かさに顔を顰めるが、行動を後悔したところで現状が変わらないのなら、必要以上の反省に意味等ない。

「問おう」

 従業員は何が起こったのかと、口々に推論が飛び交う中、牡丹の声に静けさが広がり従業員は牡丹の台詞に耳を傾けた。

 視線の先には真っ直ぐな瞳をした牡丹が立っており、その視線を逸らす事が許されない。そんな緊張感が場に広がる。

「お前たちに問う。此処は腐敗に満ちた場所だ。それは変えようのない事実であり真実だ。腐敗は広がりお前たちの心身を蝕んでいたに違いない。だからこそ問う。この店は放っておけばそのうち廃れるだろう。それを外から眺めるも、嘲るのも好きにしたらいい。お前たちにはその権利がある。だが、私はこの国をこの場所から変えたい。この事業を回復させる事を約束しよう。その策もある」

 牡丹は息を吸い込み、大きく口を開いた。

「この国が衰退の一途を辿るのだとしたら、私がそれを食い止めよう! 夢物語と罵るか? 現実を見ろと諭すか? 私は歩みを止めたりはしない。進み続ける事に価値があると信じている! お前たちはどうだ。悲嘆に明け暮れこの国に搾取されるか? それとも私と共に立ち上がり眩い明日に向かって歩み始めるか。勿論この店から出て行っても私は止めない。ただ、この店に残るというのであれば、私はその者たちを歓迎しよう。さて、君たちの意思は何処にある」

 静まり返った室内に牡丹の声は良く響いた。戸惑う従業員の中で一人だけ手を上げる。
 その手は朱華のものだ。

「私は、盧俊義様について行きます」
「……俺も、このまま国にいいようにされるのは嫌だ」
「私は仕事をなくしたら生活できないから……他に雇い口があるとは思えないし」

 朱華に続いて何人もの従業員が手を上げ、牡丹の声に賛同した。中には店を去って行く人間もいたが、牡丹は言葉通り出て行く人間を引き留めはしなかった。
 そんな中、戻って来た燕青は何人か減った室内を見渡し、何かあったのだろうと察し、音を立てずに牡丹の後ろに控えた。勿論、何があったかなんて言う事もしない。

「新しい支店長を誂えないと」

 自分の思い通りに動く支店長を。
 その時、牡丹の脳裏にとある男の顔が浮かんだ。彼には些か不釣り合いな役職だが立派に役目を果たしてくれるに違いない。と牡丹は衣嚢の中に入れた金剛石に触れ口の端を上げて笑った。

「それで旦那様、私たちは一体どうしたら……」
「手始めに、この部屋の清掃だな。次に通常通りの業務を。新しい支店長は私が連れて来るから心配しなくていい。後は……私は金策に走るから暫く戻らない」

 淡々と今後の事を話していく牡丹の台詞に驚きの言葉を上げたのは、朱華だった。

「えっ」
「なんだ? 何か用事でもあったか?」
「いえ……折角戻ってらっしゃったのに、もういなくなってしまうのですね」

 瞼を伏せ、下を向く朱華の前に牡丹が立ち、遠慮なく女の頬に掌を当て、顔を上に持ち上げた。
 朱華の頬は赤く染まっており、瞳には薄い膜をはり煌めいている。

「一所懸命働いていれば、またすぐに会えるさ。此処にいる者達よ、聞いてくれ。私はお前たちを見捨てない。だから信じて待っていろ」

 朱華の不安は雇い主が自分たちを捨てるのではいか。という恐怖心から来るものだと察した牡丹は、朱華以外の従業員にも聞こえるように声を発した。だが、そもそもの朱華の感情を察するところから間違っていた牡丹の台詞は見当違いではあるが故に従者が一名肩を震わせているものの、牡丹に注意する人間はこの中におらず、当の本人である朱華自身、盧俊義が自分の頬に触れているという状況に胸がいっぱいで何かもが満たされていた。

 今日は兎に角疲れたと従業員全員を家に帰し、牡丹も実家に向けて馬を走らせた。弟の方の事業も被害に遭っているかも知れないと確認する為だ。
 結論から言うと、引き継いだ事業全てに問題が何か所かあり、弟は弟で対策を講じているみたいだった。

「僕の方は気にしないで。母様も手伝ってくれるし、僕直々に制裁して回るから」
「おっ、いいねぇ!」
「燕青大兄から教わった武術が役に立っています!」

 頬を赤くして興奮したように燕青に話しかける自分の弟を見た牡丹は、かなり低い声を出して燕青の名前を呼んだ。

「……燕青?」

 まさかお前、人の殺し方までは教えていないだろうね。と言外に燕青を睨みつけるも燕青は明らかに明後日の方向を向いている。これは間違いなく教えたのだ。と確信した牡丹は声を荒げて燕青の名前を呼んだ。

「燕青!」
「違うんだ姉様! 僕が教えてって言ったの!」
「だからって……!」
「いざと云う時に使えるようなものしか教えてないから安心してくれ」

 二人の言葉を聞いてもまだ怒りが収まらない牡丹の背中を燕青は押し、牡丹の部屋まで連れて行くと、無理矢理寝台に横たわらせ掛布団を掛ける。

「疲れが溜まってるんだろ? そら、寝ろ寝ろ」
「私は、まだ……眠く、ない……ぞ……」
「おやすみ。我が主。いい夢を見てくれよ」

 おやすみ五秒だった牡丹は泥のように眠った。長旅で野宿続きの挙句に、事業を引き継いで直ぐにあの事件だ。身体的負担もさることながら、心労まで溜まっているに違いない。弱音を吐かずに頑張る己の主を労わるように燕青は静かに呼吸して眠る牡丹の短い髪を指で掬う。が、短いが故に直ぐに燕青の指から零れ枕に落ちる。男装する前は指で掬い、その髪に口付け出来る位長かったのになァ。なんて燕青は目を細め深く眠る牡丹の額に唇を寄せ、触れ合う寸前のところで動きを止めた。

 主従関係になる前ならいざ知らず、今この関係になってそれは駄目だ。と燕青の中の理性が動きを封じたからだ。
 男女の仲を知らないわけではない。来る者拒まず去る者追わず、燕青は男女の仲を楽しんでいたし、一時の快楽に身を委ねたりした。その中に恋しい人だっていたが、牡丹に向ける感情はその恋しいと云う感情に当てはまらない気がしてならない。
 彼女の隣は息がし易く、安寧が穏やかに広がる。それなのにどうしようもない劣情が心の蔵の中から込み上げてくる。圧倒的に敵わないと認めてしまえば、劣情は憧憬に姿を変え、強烈な、それこそ盲目的な心酔に心地よささえ覚えた。

 だからこそ、自分から両膝を地面に付け頭を下げて従者になりたいと志願したのだ。
 誰にも、何にも邪魔されず一番傍にいる為に。関係性を変えなければ傍にいられると信じて。

 いつだって彼女は自分には眩しいのだ。
 目が眩む程眩しく輝いている。そんな女に向かって手を伸ばす自分はなんて愚かな人間なのだろう。

「おやすみ」

 もう一度声を掛けると燕青はそっと立ち上がり牡丹の部屋から出て、与えられている自室で身体を休めた。

 翌朝、牡丹と燕青は身支度を整え、馬に跨りあの商人を探しに旅に出た。

 悪どいかの商人の事だ。贋物を売るなと言われていても、何かしらの悪事をしているに違いない。だとしたら、矢張り絹の道で捜索した方がいい。
 東州から絹の道までは時間がかなりかかる。だが、この一月の間に何度も行き来した道である。何処で身体を休めればいいのかを燕青がしっかりと把握していた。よって初めて往復した時よりも無理のない行動が出来、二人の負担も大幅に減ったのは言うまでもない。

「今日は此処で野宿だ」
「ん。見張りは誰がやる?」
「主は寝てくれ。あんまり身体を休めてないだろ?」
「それはお前も同じだ。時間で交代をすると言っても、前回どちらも起こさなかった前科があるしな」

 何度か野宿しているが、毎度の様に寝ずの番で話が詰まる。

 燕青は主である牡丹に身体を休めて欲しいと、寝るように言うも、牡丹はぞれぞれにかかる負担は均等に振り分けるべきだと考え、寝ずの番を譲ろうとはしない。時間になったら交代するという決まりを設けても、お互いその決まりを反故にした前科があるからいまいち信頼出来ない。
 そうなると結局お互いに譲らず、隣に座り、夜遅くまで焚火を焚いて喋り通すのだが、そうなると大抵牡丹の体力が尽き燕青の肩に牡丹の頭が凭れかかる。

 肩を規則正しく上下に動かしながら眠りにつく牡丹の表情は、出会った時に比べ幾分も大人になった。男装しているが故に燕青が牡丹の寝顔を見たところで特に何も思うところはない。
 立派に盧俊義という架空の男になりすますその姿を目にして、何度眩しさに目を細めた事だろうか。

「……む」
「どうしたい……ってあーあ。晒し巻いたまま寝ちまったのか。しゃーねぇなぁ主は」

 息苦しさ故に眉間に皺を寄せ、息をする牡丹の衣服の裾から手を入れた燕青は、男に偽装する為に巻いている晒しを緩め、息をし易いようにすると、牡丹は眉間に寄せていた皺をなくした。
 規則正しく肩を上下に動かし、深い眠りに身を委ねている牡丹の頭を燕青はそっと撫でた。

 その夜、牡丹の目は覚める事がなく、燕青は目を瞑り意識を手放す寸前まで、深く沈め身体を休めた。

 翌朝、牡丹が目を覚ますと随分と地面を視界が近い事に驚き上半身を起こして辺りを見渡すと、馬の鞍に荷物をぶら下げている燕青の背中が見え、牡丹が声を掛ける前に燕青が振り向き白い歯を見せ笑った。

「よぉ主! いい夢見れたかい?」
「夢の内容は覚えてないが、お陰で疲れが大分取れたよ。お前は休めたか?」
「あぁ」

 牡丹の身体の上にかかっていたのは、燕青の黒い上着だった。それを羽織っていない今、少し草臥れた白の服を着こんでいる。深い緑が混じった黒の燕青の髪色と対照的な色合いに無意識に視線がいく。

 身支度を整え、燕青が予め準備してくれていた馬に跨り、絹の道に急ぐ道中。目的の男を発見した。男の後ろ姿しか視界に入らなかった二人だが、その後姿を見ただけで例の商人だと判断した二人の行動は早かった。燕青が馬を走らせ商人の前に止まり、後ろに逃げようとした商人の退路を牡丹が塞ぎ、商人の逃げ道を完全に塞ぐと、糸目の商人は諦めたようにがっくりと肩を落とし項垂れた。

「商人。お前仕事は好きか?」
「楽して金が欲しいので、どちらかと言えば嫌いですよ」
「そうか、仕事は好きか。几帳面なお前の性格を見込んで仕事を託そう。先ずは馬に乗れ」
「人の話を聞いていましたか……?」

 糸目の商人は呆れたような表情を浮かべ、馬上にいる牡丹を見上げるも、牡丹はその視線の意味を気にもしていない。人の話が通じない。と反対側にいる燕青を見上げると、馬上の燕青は目を細めて笑い口を開いた。

「諦めた方がいい。俺の主はこうと決めたら頑固だからなぁ」
「……はぁ」

 商人は大人しく燕青の後ろに乗り、牡丹は絹の道を馬で走らせる。てっきり東州に帰ると思っていた燕青は前を走る牡丹の背中を追いかけながら、何処に向かっているのかと考えるも、目的地が全く思い浮かばない。

「アイツ何処を目指してんだ?」
「知らないねぇ」
「あんた従者だろ、なんで知らないんだよ」
「知る必要あるかい? 俺は主が行く所に付いて行くだけだからねぇ」
「そういうもんか?」

 燕青のお腹に腰を回している商人の顔に、燕青の髪が掠れ糸目の男は顔を顰める。然し、文句を言ったところで何も変わらないのであれば、言うだけ無駄だ。と商人は日頃つけている日誌に、従者の髪が煩わしい。と書いておこうと心に決め、無言を決め込むも、馬に乗り慣れない商人の腹筋が限界を迎え始めた。

 常歩でも初心者が乗れば四時間もしないうちに腹筋が痛み始める。普段歩いて移動している商人は足に自信はあっても、使わない腹筋は成人男性の平均位しかない。絹の道にある施設で夜を過ごす事にした牡丹は馬から降り、逆旅で手続きをしていると男の悲鳴が聞こえ、叫び声が聞こえて来た方を横目で見ると、馬から落ちるように降りた商人が痛みで唸り声を上げ、立ち上がろうにも腹筋と内腿が限界に達している商人は、生まれたての小鹿の様に足が震えまともに立てもしていない。そんな男の首根っこを掴んだ燕青は引き摺るように逆旅の中に入って行く。

「いたたたたた!」
「はいはい。あんたがもう少し使えるんだったらこんな事にはなってないんだがねぇ」

 糸目の商人の悲鳴もどこ吹く風の燕青は、適当に相槌を打ちながら無遠慮に引き摺って行く。それを見た逆旅の店主が牡丹に耳打ちした。

「あれ、あんたのお連れさん?」
「まぁな。心配しないでくれこの店で何かしようとはしていないさ」
「そうならいいんだけど……」

 二部屋取った。部屋分けは牡丹と糸目の商人が離れれば燕青はどちらについてもいい。今は盧俊義という男として生活していて、商人にその事がバレなければいいのだ。

 石畳の廊下を無言で歩く牡丹の後ろを、商人の首根っこを掴んで歩く燕青と、引き摺られている商人が続く。
 牡丹は、目的の部屋を通過し、その隣の部屋の扉を開く。その中に足を踏み入れると燕青たちもその後に続き商人が持っていた荷物を下した。

「お前はこの部屋を使うと良い」
「あんたは?」
「あ?」

 低い唸り声だった。燕青が商人を一睨みすると商人は恐怖で肩を跳ね上げ何度か咳払いした後に口を開いた。

「……旦那様たちはどちらに?」
「私は隣だ。燕青は好きな方を使うと良い。もしこちらに泊るのなら鍵は渡しておこう」

 そう言ったものの、牡丹は燕青の返事を聞かないうちに、この部屋と自分が泊る予定の部屋の鍵を渡して、さっさと部屋から出て行った。
 その様子を見た商人は思わず燕青を見るが、男は背を向けていて長い黒の髪しか視界には入らず、男がどんな表情を主に向けているのかは皆目見当もつかなかった。

 一方、牡丹は自分が泊る部屋に入るなり、服を徐に脱ぎだし胸や腹に巻いている晒を外し始めた。次いで下履きも脱いで手拭いで身体の汗を拭きとる。
 本当は川や湖にでも行って身を清めたいが、近くにそんなものはないから仕方がないと、溜息を深く吐いて腕や腋、腹や鼠径部に膝裏と汗が溜まりやすい部位を丁寧に拭き取ると、楽な服装に着替えて寝台にうつ伏せで横たわる。

 これから先の事を考えれば、どうしようもない不安が心臓を支配していく。香でも焚こうかと腕に力を入れて上半身を持ち上げるも、男が果たして香を焚くのだろうか。と疑問が頭を過り、最も身近な長髪の男の姿を思い出したが、焚いている所は見た事がないと、上半身を支えている腕の力を抜いて、またうつ伏せで寝台に横たわる。

 仕方がないと、牡丹は不安しかないこれからの事を考える事にした。

 ──先ずは、資金繰りから考えねばならない。……あぁいや。その資金がないのだから調達するところからか。

 手始めに契約を切る為に今の取引先に行って、違う違う。その前に新しい契約先を探しに行かないと。現地に行って見に行きたいがそれは中々に困難だろうから、軽くだけ見て目星をつけ後は違うものに任せよう。今回は数点製品を買えればそれでいい。
 契約を取り付けられる前に資金調達だ。あぁ、あと人材不足だってあるのだった。この辺りを一辺に解決出来ればいいのだが、そう上手くはいかないだろう。
 今の取引先と契約を切る機会を窺いながら店を切り盛りしていかないといけないのか。

「そんな事私に出来るのかな……」

 ぽつりと口から零れた弱音は誰にも拾われる事なく部屋の中に消えて行った。
 しっかりしろ。と叱咤する人間は今の牡丹にはいない。燕青ですら今の牡丹を叱咤出来る立場にはいないのだ。もう「前を向け、考え続けろ」と叱咤激励してくれる人間は自分自身しかいないのに、今の牡丹にはそれすらも億劫で煩わしい。

「疲れ……た、な」

 牡丹は一人部屋の中で意識を手放したのが夕方前。夕食も食べずにただ只管眠り続ける自分の主を心配しない従者は一体何処にいるというのだろうか。
 主の部屋の鍵を渡されていた燕青は夜、未だに筋肉痛に眉を顰めている同室の男を置いて主の部屋の前に立った。

「主ー?」

 扉の前で呼びかけるも返事はなく、手渡された鍵を使い中に入ると、床に散らばる晒と灰色の長袍に黒の下履きが乱雑に脱ぎ捨てられていて、燕青が更に奥に足を踏み入れると寝台の上でうつ伏せに横たわる女の姿があった。

 東州の牡丹の生家で泊まった時以来一度も目にしていなかった牡丹の無防備な姿に、燕青は溜息が零る。

「ったく」

 掛布団もかけないですっかり眠り込んでやがる。と燕青は剥き出しの手を頭の後ろに回してガシガシと乱雑に乱し、主の背中を見ると、何も巻いていない所為なのか普段目にしている後ろ姿に比べ細く見える。

 義勇軍として戦場にいた時は背中を任されていた。それが誇りでもあったし使命でもあった。何があってもこの女を守ってやる。そんな一方的な誓いは今もこの胸の中に住み着き、日々の行動の判断基準にもなっている。

 主の為にならないものは排除する。
 なんて簡単な基準だろうか。

 寝台に近付いた燕青は無防備な背中に手を置き、軽く揺すってみるもいつもの事ながら起きる気配がない。夕飯も食べずに寝続けているのだ。相当深い眠りなのだろう。と推測する一方、無理をさせてしまっているのか。と燕青は旅の道中の行程を振り返り反省した。

「だからあれだけ寝ろって言っているのになぁ。この主は話を聞きやしない」

 台詞は恨み節なのに、その声色は酷く優し気でまるで愛おしいものを前にしているようで。
 手がかかる主程世話し甲斐がある。と口元を緩めた燕青はうつ伏せで寝台に横たわる牡丹の身体を仰向けにし、背中と膝裏に腕を入れて持ち上げると、長椅子の座面に牡丹を一度横たわらせ、牡丹が上で寝ていた所為で皺くちゃになっている掛布団を足元まで寄せ、もう一度牡丹を寝台に戻してから、身体の上に布団を掛ける。

 その間一切起きる気配がなかった。それは珍しい事ではなく、燕青は溜息を吐きながらも口元は笑っていた。

 翌朝、早朝に目が覚めた牡丹は上半身を起こすと、散らかしていた部屋が綺麗になっている事に気が付き、ふと太腿の上で皺くちゃになっている掛布団に視線を向け、力なく笑った。

 ──来ていたのか。気が付かなかったな。

 最後の記憶は寝台の上で横たわった時のもので、身体の上に何かを掛けたという記憶は全く持ってなかった。晒も長袍もその辺に散らかしていたのに、畳んで小さな机の上に置かれている。

 流石に鞄の中を開けたりはしなかったか。とがさつに見えて繊細な性格が垣間見られる燕青の影にまた笑みが零れた。
 その後盧俊義としての形を整えた牡丹は、隣室にいる二人を連れてまた旅に出る。欧州に向かって旅をしている時、商人が何ヵ国語も話せる事を知った牡丹は、それを使わない手はないと、新しい取引先の軽い視察をする時に通訳を任せた。それに対し燕青が少し気に食わなそうな顔をしていたが、牡丹はそれに気付く事なく、商人だけが不貞腐れた燕青の顔に気が付いていた。いらぬ想像で何度か顔面が真っ青になり、更に牡丹が商人を気にかけるから燕青の機嫌は悪くなるばかりで、商人は早くも家に帰りたいと、金はどうでもいいから帰らせてくれと遠い目をするばかりだった。

 何点か商品を買い取り、それを支店まで持ち帰る道中、絹の道から逸れた場所で野宿をしている時の事だった。
 逆旅での事があり、燕青は牡丹に強く言って寝てもらうも、商人が動くだけで牡丹の目が覚めてしまう。焚いている焚火に枝を増やそうと、腕を動かした時の衣擦れ音を敏感に拾い取った牡丹は、ぱちりと目を覚まし、辺りを確認してからまた目を瞑る。そうした行為を何度か繰り返すうちに、商人の瞼が閉じた。

 漸く牡丹がゆっくりと寝られると燕青が安心した束の間、今度は商人の寝返りで牡丹の目が覚めてしまい、どうしたものかと悩んだ末に、燕青は牡丹を自分の足の間に座らせ、牡丹の耳を自分の心臓の上に当てた。

「燕青?」
「心臓の音でも聞いていれば眠くなんだろ」

 果たしてそうだろうか。と考えるよりも先に燕青の規則正しい心音に耳を傾けた牡丹は、すっと意識を手放した。それでも商人が寝返りをする度に、牡丹の意識が浮上し、その度に燕青が自分の腕の中にいる女の頭を撫で、耳を塞ぐ事で牡丹の目が開く事はなかった。

 そうした夜を数回経験し、遂に支店までたどり着いた三人を出迎えたのは朱華だった。

 従業員に糸目の商人を紹介し、次いでとばかりに新しい支店長だと従業員に糸目の商人を報告すると、朱華は露骨に顔を顰め不満を露にしたが、それを口にする事がなく、何も言わないのであればと牡丹は支店長の席に商人を座らせた。

「では私は出る」
「えっ、もう行かれるのですか?」
「あぁ」

 商人や朱華が引き留めようとするも、するりと躱し牡丹は燕青を連れて東州から離れた。

「良かったのかい? あのお嬢さん主と離れたくなかったみたいだったけど」
「そうだったか? どっちにしろ時間はないのだ。いつまでもあの店にはいれない」
「……まぁ、主はそういう人だったねぇ」

 港に向かった牡丹は、従業員である老人を見つけると、新しい取引先の一覧を渡した。

「貴方の審美眼に任せたい。語学は……聞くまでもないか。では頼んだよ」

 老人の審美眼は確かなものだ。誰も気が付かないでいた商品を粗悪品と見抜いたのだから。それに会社に対する忠義も厚い。彼になら任せてもいい。と牡丹は忙しなく馬に跨り、今度は中央の方に向かって駆け出した。

「話を聞いてください」

 会社の出納は滅茶苦茶で、これを立て直すにはまず資金が必要だ。その為には資金が必要で取引があった企業に援助してくれるように頼みに回るも、門前払いを喰らい続けている。

 それもその筈、取引のあった企業はあの支店に悪事を知っているのだから。
 その事を知っていて資金援助する企業がこの世の何処にいるのだろうか。

 中には牡丹が悪事を働いたと勘違いし、人格否定するような言葉を浴びせる人間までいた。その度に燕青は額に青筋を浮かべ殺気を漏らしていたが、牡丹の人格否定する言葉は止まらなかった。その言葉全てを黙って聞いた牡丹は肩を落とし、また違う取引先に。と足を向けた。

「主……主に言われた言葉じゃない。あれは主を表す言葉じゃない。わかってるよな」
「あぁ。わかっているとも。だがね……いや、何でもないさ」

 先程言われた言葉は確かに盧俊義に対する言葉ではない。が、わかっていても胸の奥深くに言葉の剣が突き刺さり抜けそうにない。だが、こんな情けない姿を従者に曝すわけにもいかない。

 ──大丈夫。大丈夫。
 そう自分に言い聞かせて次の企業に足を向けた。

 結局その日の成果はまさに惨敗。義勇軍では全戦全勝だった軍師の牡丹であったが、戦場が変われば結果も変わるというもので、慣れないとは理由にならない勝負に完敗、逆旅で壁に背中を預け力なく座っていた。
 東西南北何処に行っても聞こえてくる自分を否定する言葉と、女ながらに才能溢れる女主人の噂話。今日掛け合った場所では牡丹と女主人を比較し牡丹の事を貶してくる人間までいた。

 牡丹の吐く溜息は全て重く、そんな溜息を一人吐く日が何日も続いた。
 燕青はそんな牡丹を慰めようと試行錯誤したものの、自分の主がこういう時何に心を喜ばせるのかがわからなく、ただわかるのは、従者である自分には弱音を吐かない。と言う事だけであった。

 これが友人同士なら牡丹も弱音を吐いたに違いない。女の姿であれば泣いたに違いない。然し、今の牡丹は主人であり盧俊義という男でもある。盧俊義は部下に弱音を吐かないし泣かない男。そう決めているからこそその鎧を身に纏い気丈に振る舞うのだ。

「主、晒、取らないのかい?」
「ん? あぁ。今日はこのままでいようと思う」

 普段だったら真っ先にとる鎧を今日も付けたままだ。もう何日も牡丹≠フ姿を見ていない。一体どうしたらこの人は泣いてくれるのだろうか。と燕青が沈思黙考している最中、牡丹も考え込んでいた。

 お前のような人間がいるから∞罪を償えこの罪人が∞お前のような人間二度と会いたくない∞何も出来ないくせに口先だけは立派だな∞お前は信用出来ない∞従者を連れて歩くとは、一人前だな。そんな器でもなかろうに∞女を誑かした方がお前には似合うんじゃないか
 思い出すにもキリがない。それ程の言葉を牡丹はこの数日間浴び続けたのだ。それだけ言われ続ければ、自分は上に立つ立場の人間として相応しくないのではないか。人を導く事など自分には出来ない。迷惑ばかり周りに掛け続けているのでは。そんな思いばかりが浮かんでは心の中に鉛を落していく。

 自信があればそんな思考には陥らない。だが、今の牡丹は普段抱えている自信すら手折られ、人格を否定する言葉を浴びせられ続け、思考がどんどん消極的になっていく。前だけを見て突き進む足が止まり、真っ暗な中、何処に向かって歩けばいいのかわからない迷子の子供のよう。
 
 ──このままでは、燕青にだって迷惑をかけてしまう。
 否、もう既に迷惑をかけているに違いない。
 
 だったらこれ以上迷惑をかける前に、手放してしまった方が良いに決まっている。
 この先、本当に経営が回復する見込みなんて何処にもない。我武者羅に頑張った所で結果が付いて来るわけでもない。何もわからない未来に燕青の人生を巻き込んでも良いものなのか。

 傍にいたい。いて欲しい。それがどんな時であろうと。横に立ってくれなんて贅沢は言わない。友人としての燕青を失い、従者としても燕青を失えばきっと目も当てられない。だが、たかがそれだけの為に燕青の人生を棒に振るのは間違っている。

 大切な人だから。愛した人だから。
 こんなに素晴らしい従者は世界中どこを探してもいないだろう。きっと直ぐに貰い手も見つかる。
 それこそ、あの噂に名高い女主人に雇ってもらえば、この先給金に困る事なく生活出来るに違いない。今月の給金を払えるかどうかもわからない私とは、天と地ほど違う。

 牡丹は立ち上がり、床に置いてある鞄の中を探り一つの巾着を掴んで取り出し、中身を確認した。そこには実家から持って来た貴金属宝石類が入っており、どれも値が張るようなものばかりだ。

「燕青。これを受け取ってくれ」
「はい?」

 突然の事に燕青は首を傾げながらも、牡丹から渡された巾着を受け取りその場で中身を確認した。

「主! これは――」
「お前の退職金だ」
「あ?」

 地を這うような低い声だった。盧俊義と生活してから幾らか低い声を出すように心がけている牡丹だが、元の性別的に男性ほど低い声が出ない。然し、目の前の男はいとも容易く低い声を出せる。
 幾ら男装したところで元々女なのだから、だからこんなにも上手くいかないのだ。そう思いたいのに、女主人の噂が牡丹の甘い考えを否定する。それは牡丹にとって二重の苦しみでもあった。

「私はこれ以上お前を雇わない。それは退職金として支給する。お前の好きなように使え」
「そうじゃないだろ! なんで、急に……こんな……」
「私はお前に相応しくない」

 その台詞にまた燕青は首を傾げる。
 なんだ、相応しくないって。どういう意味だ。
 あんたの何処が俺に相応しくないと言うのだ。俺があんたに相応しくない。の間違いじゃないのか?

「この先、経営が回復する見込みもない。今月お前に支払う給金すらないかも知れない」
「それがなんだよ」
「お前ならもっといい主人が見つかる。だから、もう私の後ろになくていい。お前は自由だ」

 それは死刑宣告のようなものだった。唐突に酸素を奪われたように燕青は何も言わずにただ口を開閉するばかりだ。
 そんな燕青に背を向けた牡丹は、用は済んだとばかりに床に置いてある鞄を手に持ち出入口に向かって歩いて行く。その後姿を見た燕青は床を強く蹴って駆け出し、有無を言わさず牡丹を持ち上げ寝台に押し倒した。

 貴金属が入っている巾着は口が開いたまま投げ出された所為で、床に宝石が散らばっているし、牡丹が手に持っていた鞄も床に投げ捨てられている。さっきまで綺麗だった部屋が一瞬にして散らかり汚い。

「なんであんたがそんな事を言うんだ」
「燕青……」

 寝台に押し倒された女は困惑した表情で男を見上げる。男は眉尻を吊り上げ眼光を射抜く。その顔は誰がどう見ても怒気を露にしており、どうしてこんな表情になっているのか牡丹には理解が出来ない。
 自分といても苦労ばかりで、挙句、燕青の能力を存分に生かす事は出来ない。だったら早いうちに離れてどこぞの主人に仕えた方が良い。それこそ、かの有名な女主人にでも仕えれば燕青の能力だって生かされる。

 然し、燕青にとって自ら仕えたいと願った主人に切り捨てられようとしているのだ。黙って受け入れられるわけがない。
 知らないのだ。この主は知らないのだ。牡丹という存在に自分がどれだけ傾倒しているかを。だから簡単に切り捨てられるのだ。だってそうだろう。この身、全てを擲ってでもいいと初めて思えた主なのだ。あの日牡丹の中に理想の主人を見出したその瞬間から、全てが牡丹のもので、その全てで守っていくと決めたのだから。だから今更手放そうなんて許しはしない。

 ──その為だったら手段は選ばない。

 怒気を孕んだままの燕青は、自分の下で困惑に色を染める牡丹が身に纏う、灰色をした長袍の飾釦を器用に片手で外していく。何事なのだと牡丹が牡丹を外していく燕青の手首や腕を掴んだ。然し、その手は一回りも大きな手によって寝台に縫い付けられる。押さえつける手を払おうにもビクともしない。

 どうしてこうなったのだ。と頭を悩ませるよりも状況が素早く変わっていく。牡丹が身に纏っている衣服ははだけ、身体に厚みを出す為に巻いている晒が解れ始める。
 盧俊義という架空の男を作り出す為の鎧。その鎧がなければ牡丹はまだ年若いただの女で、その女は生まれながらの勝者であり、初めて劣等感や憤りを感じた。それは生まれて初めての敗北であり、敗北からの立ち上がり方を知らないのだ。盧俊義という殻を被らなければ、涙を流してしまう程の敗北感に似た絶望。それを知っているからこそ、燕青は牡丹の鎧を剥ぐ。

「止めろ……止めろっ!」

 制止の声をかける牡丹の言葉さえも届いていない燕青は、牡丹の晒を解き肌を露にしていく。衣服が乱れ晒が解ければ解ける程、虚勢が剥がれていく。虚勢が剥がれれば剥がれる程牡丹の感情を抑える為の理性がなくなり涙が零れる。

「止めろっ、燕青――止めて!」
「あんたは、こんなにも弱いのに、どうして剣を手放せるんだ!」
「弱くなんて――」
「弱いだろ!」

 こんなにも弱いだろ。
 力なく、弱々しい声。それは震えていてどちらが弱いのかわからなくさせる。

 捨てられる事に怯える男。初めての劣等に打ちのめされている女。そのどちらも弱々しいものだった。それでも手放さないと藻掻く、男の声に反応するよう女を守る為にある最後の虚勢が剥がれた。

「だって仕方がないでしょう! 私は弱いのだから!」

 瞳から涙を流しながら、半ば叫ぶように牡丹は感情を露にした。

「あの女主人は女の身でありながら成功し、片や私はというと性別を偽っているにも関わらず立ち行かない! 何なの! どうしてなの! 私では駄目なの。私は、私は……お前に何もしてあげられない。お前の主人に相応しくない」

 ──どうしたらいいのかがわからない。

 如何に自分が夢物語を語っていたのかが身に染みた。自分のもの一つ守れないこの手で何が国を変えてみせるだ! 片腹痛い。そんな事本当に出来るわけがないのに。

「はは、ははははっ」
「主……?」

 唐突に肩を揺らし笑い出した牡丹に燕青は怪訝な表情で見下ろした。さっきまで泣いていたのに今度は唐突に笑いだしたのだから。

「主とお前は呼ぶのだね。この私を? 片腹痛い。夢物語を語る時間はとうに過ぎた事に今、気付いた愚かな私をお前は主人とまだ慕うのか? 愚かだ。実に愚かだ。お前も私も可哀想だ」
「……それはどういう意味だ」
「だってそうだろう? お前はこの国を変えると夢物語を語る私の中に主を見出したのだろう? その私はたった今死んだのだ!」
「違う、違う。そうじゃないんだ主!」

 そうじゃない。俺があんたに惹かれたのは――。
 あんたの横顔があまりにも綺麗だったからだ。
 確かにこの国を国民に力で変えてやろうという牡丹の強い意思に惹かれたのも間違いではない。だがそれ以上に、燕青は牡丹の精神に心惹かれたのだ。敵軍にも優しさを示し、四面楚歌でも俯かない不屈の心。己が信じた正義を貫こうという気高いまでの誇り、それの全てが輝かしく眩しい。

「俺があんたに仕えたいのは、この国を変える人間だからじゃない! あんただからだ!」

 ──だからどうか。どうか捨てないでくれ。

「あんたがこの国を変えようという意思がなくなろうとも、俺はあんたの傍にいる。あんたを支え守り続ける! ……けど、あんたはそういう人間じゃないだろ」

 ──こんな所で潰れるような人間じゃないだろう。

 確信を持つ声色に、牡丹は目を見開いた。

 なんて情けない。どうしてここまで慕ってくれている人間に弱音を吐けようか。強くあれと願うのは私だけではない。私≠強くあれと望むものが他にもいるのだ。その声に応えないで何が出来ようか。
 牡丹は最後の涙を流し、口元を僅かに上げて笑った。

 ──矢張り君はもう牡丹わたし≠受け入れてはくれないのだね。

「退いてくれ。燕青」
「主」
「もう、大丈夫だ。ありがとう。お前のお陰で目が覚めた」

 翌日、牡丹が国の首都である向江に行くと、大通りをきょろきょろ見て歩く、簪を髪に刺した女の姿を見つけた。その姿を見た牡丹は、斜め後ろを歩いている燕青に声をかけた。

「席を外してくれないか」
「は?」
「男二人では彼女が警戒してしまうだろう」

 怪訝そうに顔を顰めた燕青だったが、しぶしぶ牡丹の傍から離れ、それを見届けた牡丹は、何度か「あ、あー」と低い声を出し、大通りをきょろきょろと見ている女に後ろから声をかけた。

「お嬢さん。何かお困りで?」
「へっ!」
「あぁ。驚かせてしまってすまない。困っているように見えたので、つい、ね」

 小柄な女は、牡丹より少し幼く、人を疑う事を知らないのか、牡丹をその視界に収めると、ヘらりと笑って口を開いた。

「実は外に出たのが久しぶりで……迷子になっていたのです」
「どちらに行かれる予定なのだ?」
「これと言った予定はありませんの。ただ、街を見てみたくて」

 そう言った少女はちらりと屋台の方を見た。それは果物が売っている屋台で、あぁ。食べたいのだろうな。と初対面の牡丹がすぐに察してしまえる程に、少女の表情はわかりやすかった。

「では驚かせた非礼に、あちらの屋台の商品を買わせてくれないか?」
「いえ! そんな! 勝手に驚いたのは私なのですから」
「……私も食べたいと思っていたのですよ。一緒に如何かな」

 牡丹がそう言うと少女は嬉しそうに笑い、大きく頷いた。
 数種類の果物を買い、それを歩きながら食べ会話していると、女は気を許したようで身の上話をぽつりぽつりと話し始めた。

「私初めて護衛を撒いたのです」
「それはそれは……。今頃貴方を血眼になって探しているに違いありませんね」
「そうかもしれませんね。ですが私、今とても楽しいのです」
「あぁそれははよくわかります。実は私も護衛を撒いて此処にいるのですよ」

 口元に人差し指を立て、あたかも秘密事かの様に少女にしか聞こえないような大きさで話すと、少女は驚き両手の指先で口を覆い隠し、目を僅かに見開いたが、すぐに悪戯な笑みを浮かべた。

「盧俊義さまこそ、護衛の方が今頃血眼になって探していらっしゃいますわ」
「どうでしょう。お互いの護衛に見つかるまで私が貴女の護衛になりましょう」
「素敵な提案ですね」

 実際牡丹は燕青を撒いてはいないし、お互いが目視出来る距離にいる。だが、少女はそんな事は知らない。そして、この少女は箱入り娘で少し悪さをしたい年頃でもあったのだ。
 二人は所謂観光名所を巡りながらお互い事を深く知ろうと試みた。沢山の会話をした。普段は何をしているのか、何処の生まれなのか。どうして此処に来たのか。今までどんな生き方をして来たのか。少女は盧俊義という異分子に興味が注がれ、ゆったりとした会話ながらも、色んな質問を盧俊義にぶつけた。
 その度に牡丹はいもしない盧俊義という男の過去を話しては、少女を楽しませた。

 そんな時だった。少女が髪に挿していた簪が後ろから唐突に奪われてしまった。
何が起こったのか少女は理解するよりも早く、悲鳴を上げるも簪を奪い取った男の足は速く、仲間が乗っている馬に跨り更に速度を上げていく。

「どうしましょう! あれは家の宝なのに!」
「お任せください」

 混乱し焦っている少女の目には弓を構える盧俊義の姿があった。
 いつの間に……。いや、そんな事よりも今から矢を放ったって届きはしないのに!
 然し、少女の目に映る盧俊義は口元を上げて笑っている。狙いを定めすっと呼吸を止めると、矢を放った。何処までも真っ直ぐに飛ぶ矢は馬の尻に当たり、その痛みで馬が前足を高く上げ暴れだす。次いで牡丹はもう一度矢を構えて二回連続で放った。一本は簪を取った男の肩に。もう一本は予め馬に乗っていた男の太腿に当たり、二人は痛みで落馬し、地面に膝をつける。燕青はすぐさま男たちを麻縄で縛りあげ、牡丹は少女を連れて男たちの所まで走り、肩を射抜かれた男が握っている簪を抜き取り、透き通る透明な石の装飾に息を吹きかけた。

 ──あぁ矢張り。

「ありがとうございます! これは父様が私に買ってくださったものなのです。大枚をはたいて買ってくださったものなので」
「──もう帰りましょうか。お父上も心配されていますよ」
「え? えぇ、そうですね」
「ところでお嬢さんのお父上は、向江警備職の克羽大臣で間違いないですね」

 牡丹の台詞に少女は驚き目を大きく開いた後、頬を赤く染めて口元に笑みを浮かべた。

「えぇっ、えぇ! そうです! 私話していませんのに、どうしてお分かりに?」

 謎解きをせがむ子供の様に、少女は透明な石が装飾されている簪を持ち、盧俊義を見上げる。その姿が故郷の幼い日の弟に重なり、牡丹は少し困ったように笑って口を開いた。

「少しばかり頭を使いまして。お嬢さんは久々に外に出たと仰いました。と言う事は普段は家の中で過ごす事が多い。なのに、この街の事は護衛を撒ける程に知っている。そしてその金剛石を所持出来るだけの財力とあれば、この首都の顔役とも呼べる克羽大臣かと」
「お見事な推理です! はい。確かに私は向江警備職大臣克羽の娘です」

 少女は胸を張り、得意気に言った。それは習慣づけられているのだろうと感じる程自然で、何度も口にして来た言葉で、牡丹は少女に気付かれないように口の端を僅かに上げた。

 立派な邸宅が少女の住まいだった。その豪華さや、広さ等の全てが東州の牡丹の生家より上をいっている。流石は代々続いている家だけある。が、それまでなのだろう。と内心牡丹はこの家の主である克羽大臣を馬鹿にした。

 立派なのは外面だけか。流石中央は腐っているだけあるな。
 顔に出さず、克羽大臣を馬鹿にし続ける牡丹の耳に、少女の名前を呼ぶ老婆の声が聞こえた。

「婆や」
「お嬢様! 護衛の者をまた撒いたのですか! あれ程……」

 また、と言う事はこれが初めてではなかったのか。と隣に立つ少女を僅かに見下ろした。その視線に気が付いた少女は少し困ったように笑う。
 成程。肝が据わっている。
 老婆が少女の肩を掴み、何処か怪我をしていないか。と心配そうに、そして矢継ぎ早に質問している最中、老婆の視線が牡丹に向いた。今の今まで牡丹の存在に気が付いていなかった老婆は、見知らぬ男が少女の隣に立っている事実に驚き、少女の腕を無理矢理自分の方に引き寄せ、威嚇するように目を鋭く尖らせ、牡丹を睨む。

「何者ですか!」
「私は……」
「衛兵! 衛兵! 不審者です!」

 自己紹介しようとした牡丹の言葉を遮り、怒鳴り声に近い声で衛兵を呼ぶ老婆に、牡丹は呆れ、どうしたものか。と人差し指で頬を掻くと、老婆の腕の中に収まっている少女が老婆に向かって大きな声を出した。

「やめて。この方は私の恩人です!」
「ですか……」
「貴方たちもやめなさい」

 老婆の声に反応した衛兵たちが、牡丹を取り囲む。その手には槍が握られており、穂は牡丹に向けられている。今にも牡丹を刺しそうな緊張感の中に少女の凛とした声が響き、護衛たちはしぶしぶ穂を下げ、牡丹を一睨みすると持ち場に戻った。
 まだ家の敷地にも入っていないのにこれか……。と思わず出そうになった深い溜息を飲み込んで、牡丹は笑顔を作り、少女に向かってお礼の言葉を口にした。
 その様子を訝しげに見ていた老婆であったが、少女が牡丹を中に入れると言うと、怪訝そうに顔を顰め何度も牡丹の立ち姿を下から上、上から下と舐めるように見て、牡丹が飲み込んだ筈の溜息を吐いて敷地の中に案内する。

「すみません、盧俊義さま」
「気にする事はありませんよ。お嬢さんは大事に育てられているのですね」
「──えぇ。まるで鳥籠の鳥のように。もしくは池の魚のように」

 ──池魚篭鳥。それぞれの生い立ちや立場があり、それは貴族であればある程重くのしかかってくるのだろう。豪商の家に生まれた牡丹でさえ息苦しいと感じる事があったのだ。まだ若く、遊びたい盛りの少女には息が出来ていないと感じるのも不思議な事ではない。

「自由は寂しいものですよ」
「そうかしら」
「お嬢さんが考えるよりも自由は……寂しくて、寒くて、一人だ」

 今の私がそうであるように。

 少女は牡丹の言葉の意味が理解出来ないようで、牡丹を見上げるも、牡丹は敢えてその視線に気付かない振りをしてやり過ごし、老婆に案内されるがまま談話室の椅子に腰を掛けた。その正面には少女が座り、老婆が硝子で作られた最近見慣れた茶器に茶葉と湯を注ぎ、牡丹と少女の前に一つずつ茶器を置いた。

 湯気が立ち茶葉のいい匂いが二人の鼻孔を擽る。少女は出されたものを疑いもなく口元に近付け、上品に口に含む。
 一方、牡丹は匂いを楽しむだけに止めた。普段、燕青に毒見されていないものを気安く口にしてはいけないと口煩く言われ、牡丹の耳にはタコが出来ているのだ。だからか、無意識下で自然と燕青が確かめていないものは口にしないようになっていたのだ。そんな事を露とも知らない少女は「飲まないのですか?」と勧めるも牡丹はのらりくらりと躱した。

 そんな中、克羽大臣が帰宅した知らせが入り、牡丹と少女は立ち上がり、談話室入り口に向かって拱手をした。少女は左手で握り拳を作り、牡丹は右手で握り拳を作っている。視線を下に下げて、今か今かと大臣の到着を待っていると、靴音が近付き、談話室の前でピタリと止まる。この家の主のお出ましだ。

「お帰りなさいませ。お父様」
「うむ。して、お前が娘の恩人だな」
「はっ、名を盧俊義と申します」
「何用だ。娘を助けたお礼に金を寄こせと言うのであれば秘書に言え」

 顎髭を蓄えた貫禄のある男は、興味なさげに牡丹を一瞥すると談話室の椅子に座った。そこは少女が座っていた椅子の隣で、主人しか座れない席でもあった。

「礼金は要りません。その代わりお話をお聞きください」
「話だと?」
「お嬢様の簪に使われている石の事です」

 金子をはたいて買った簪の話しであれば流石に聞くだろうと、大臣と交渉する為に牡丹も椅子に座った。大臣は立ち上がる様子を見せず、椅子に座ったままで、牡丹は静かに息を吐く。

 少女の簪に使われている金剛石が贋物だと知った牡丹は、とある計画をずっと頭の中で組み立てていた。それは半ば博打に近く、乗り気はしないがこれが成功すれば事業が回復するに違いないと踏んでの計画。
 その為に必要な鍵を今、同じ席に着かせたのだ。緊張なのか高揚なのかわからない震えを深呼吸で沈め、真っ直ぐに大臣を見つめる。

「お嬢様の簪に使われている金剛石は贋物で御座います」
「なっ!」
「そんな……っ!」
「そんなわけがありません! 旦那様が信用出来るところから買い付けた一品なのですよ! 出鱈目を言うのはおよしなさい!」

 大金を出して手に入れた宝石が実は贋物だった。と言われれば誰もが信じられないし、何より信じたくない。老婆は牡丹の言葉を否定し、肩を落とす少女を慰めている。

「一体何の証拠があって……っ、大体お前のようなものに何がわかる!」
「本当の金剛石を見分ける方法は御存じですか?」

 牡丹の質問に大臣は無言を貫いた。大方普段鑑定しているのは部下で、この大臣自身はそういった知識は何もないのだろう。察するに娘に良いところを見せようと部下に相談もせず、商人の手から直接購入したのだろう。
 少女の口ぶりから、この大臣は娘に相当甘いのがわかった。牡丹は簡単な推論を組み立てた。
 まぁ、商人にとって良いカモだったに違いない。

「簡単な話です。ところで、大臣は、本当に、知らないのですか?」
「! 二人とも席を外しなさい」

 ゆっくりと、そしてしっかりとした口調で大臣に問いかけた。大臣はその意図がわかり少女と老婆を一瞥し、この部屋から出て行くように言うと、心配そうに顔を歪めた二人は顔を見合わせたものの、大黒柱の命には従うしかないようで、しぶしぶ「……わかりました」と言うと、老婆と少女は席を立ち、部屋の外に向かって歩いて行った。牡丹は二人の後ろ姿が完全に見えなくなると、椅子に座り直し、大臣を見つめた。

「私は以前、ただの硝子を金剛石だと偽り売りつけていた商人をこの目で見ました」

 その時の商人のやり口を牡丹が口にすると、大臣は苦虫を潰したような顔をした。その表情を見た牡丹は、支店にいる糸目の商人の肝の据わりように、内心称賛を送った。
 よくもまぁこんな大物を引っ掛けたものだ。

「その男は何処にいる」
「大臣の名を汚した悪党を虱潰しにするより、生産している大本を潰した方が早いと思いませんか?」
「どういう意味だ」
「簡単な話です。大臣、貴方が英雄になるのです」

 他にも被害に遭っている官僚貴族がいる事。自分は偽りの金剛石を製造している企業を知っている事。恥を世間に曝さなくていい他、周りの大臣を切り離す事が出来る事。仕事が出来る、出来ないで務まる政治ではない今の時勢。大事なのは地位と外聞だ。今、この克羽大臣はその両方が崩れ始めている。

 牡丹はそこに付け込んだのだ。あの簪を買った金を大枚だといい、少女が簡単に護衛を撒ける程人員が少ない現状。老婆と数人しか使用人がいない邸の中。それらを鑑みての発言だった。

「さぁ。どうされますか? 私はこの話を他に持って行っても良いと考えています」
「……お前に何の利点がある」
「私はその製造元と取引をしていたのですが、そんな一面を知ってしまい、切り捨てようと思いまして――それなら立ち直れない位がいい。と思いましてね。貴方にはその力がある」

 大臣は深い溜息を吐いた後、大きく肩を揺らして笑い出した。その声に老婆が慌てて部屋に入って来た。大臣は大きく頷くと、あくどい笑みを浮かべた。

「交渉設立、ですね」










「よくあの大臣があの糸目の男の被害者だってわかったな」
「ん? あの支店長は小まめな性格だからな。カモにした人間……基、顧客一覧に名前が書いてあった」
「あぁー。あの時の……」

 牡丹は衣嚢から紙を取り出し、それを燕青に手渡した。燕青は受け取った一覧を見ると、克羽大臣の名前と、その時に買った商品とその金額が書かれていた。その下にも違う大臣の名前が記載されていて、燕青は斜め前を歩く主の背中に、感嘆の息を吐いた。

 ――よくもまぁ。
 この出来事が偶然なのか、必然なのか。それとも、先を見据えての行動だったのか。

 どちらにしても、牡丹が望んだように事は動き出している。この女にはそれを動かすだけの力があるのだと、燕青は自分の心臓に手を当てた。

 先を見据える力。時勢を動かす事を臆さない精神。揺るがない意思の強さ。慈愛の心。

 燕青は胸の奥が暖まるその速度を愛おしく感じ、思わず微かに笑みが零れる。

 そうして、金剛石を製造していた大企業は外国からの外部圧力で倒産し、その煽りを受けた国内企業は立て続けに成績を落し、予め情報を掴んでいた牡丹は既に取引先を変えており、その煽りを受けずに済んだ。更に言うと、牡丹は自社で硝子製品の生産を開始し、その界隈では右に出る者はいないとまで成長し、一大企業になった。尚且つ、大臣の口利きで後宮にも硝子製品を卸す事になり、その勢いは止まらないと専らの評判だった。

 この時、牡丹は思い知ったのだ。
 情報は武器になると。

 一大企業の頭でありながら、牡丹は情報屋としての顔も持つようになった。牡丹と燕青の手腕により、大国一番の情報屋となった牡丹の元には様々な人間が来るようになった。巨額の金で情報を買っていく。

「いやぁー。主の手腕は流石だねぇ」
「……お前の刺青には負けるさ」
「そうかい? 中々綺麗なもんだろう」

 暫く目を離した隙に燕青の身体には刺青が入っていた。それも身体の一部ではなく、全身に、だ。

 その刺青を自慢するように見せつけて来る燕青に対し、牡丹は何かが身体の中から下がっていくような、そんな感覚に見舞われた。
 知っている男だとわかっていても、全身に刺青は威圧感があり牡丹は時折知らない人といるみたいだと感じる時もあった。

 ――それに……。

 深く言及するのは止めておこうと、燕青を一瞥した牡丹は困ったように眉尻を下げて笑った。









 華やかな衣装は女としての魅力を底上げし、露出の多い服装に男たちは頬を緩めている。牡丹と燕青がいるのは妓館だった。情報を引き抜くのは酒の席が一番早い。その点から牡丹はよく妓館を利用していた。その場には必ず燕青もいて、妓女たちは、今日こそは。と息巻いている。

 いつも大金を落してくれる二人は、決まった妓女以外買った事がない。何度か克羽大臣が牡丹に女をあてがうも、牡丹はそれを燕青に譲っていた。
 曰く、従者の働きがあってこそ。と耳触りの良い言葉で躱しているが、盧俊義という男の姿で生活している牡丹の本来の性別は女であり、妓女と一晩共に過ごす事が出来るわけがない。よって体よく燕青に流しているのだが、燕青も燕青で、主にあてがわれた妓女を従者の自分が抱くわけにはいかないと、これまた従者としての矜持を見せつけ躱していた。

 然し、そんな二人だったが、たった一人だけ妓館に来る度に買っている女がいた。

「猫。おいで」
「はい、盧俊義さま」

 猫と呼ばれた女は、頬を赤く染め恭しく視線を下げて牡丹に近付くと、牡丹は猫の頬をするりと撫で、その背中に腕を回して部屋に連れて行く。燕青はその背中を睨むように目を鋭くさせるも、ぴたりと牡丹の後ろに張り付き部屋の中に入って行く。

「さて、今日あった事を教えてごらん」
「はい。盧俊義さま。本日いらっしゃったお客様に付いた大姐の話しでは――」

 部屋に入ると、牡丹は猫に今日何があったのかを聴き出した。本当は一番の妓女に聞きたいのだが、この妓館で一番の妓女はお手付きで、しかもその相手が少々厄介なのだ。二番目では意味がない。然し、妓館にまで来て情報が手に入らないのは来るだけ金の損。そこで目をつけられたのはまだ幼い猫であった。芸名は違うのだが、牡丹は猫と呼び可愛がり、猫は牡丹が自分を買ってくれる事に感謝し、耳にした情報をなんでも話した。

 一通り話し終えると、牡丹は猫に幾つかの質問をし、その全てに答えると牡丹は燕青の名前を呼んだ。

「今日は碁を教えてやれ」
「はいよぉ」
「大兄! よろしくお願いします!」

 牡丹の用事が済むと、猫は燕青に何かしらの芸を教わった。それは妓館で生き抜く為には必要な能力で、猫は何度も何度も躓きながら燕青に様々な芸を教えてもらっていた。
 碁や音楽、詩に舞。燕青はそれらを懇切丁寧に猫に教えた。それは一重に牡丹が教えろと命じたからで、命じられなかったら猫には目も向けなかっただろう。

「今日はここまでだな」
「はい。ありがとうございました」
「気を付けて帰れよ」
「また今度会いに来るから待っているように」
「はい盧俊義さま」

 猫は入って来た時と同じように恭しく頭を下げて部屋を出た。気配が完全に消えた頃、牡丹が灰色の長袍についている黒の飾紐で出来た釦を外していき、向う脛まである長袍を乱雑に脱ぎ捨てた。それを見た燕青は、鞄の中から着替えを取り出し、それを空気に曝されている牡丹の肩にかける。
 胸や腹に巻いている晒を黙々と取っていき、牡丹は肩にかけられた衣服に腕を通していく。下履きも履き替えた牡丹は、燕青に断りをいれて寝台の上で横になり目を瞑った。

 ここ最近、満足に寝る事が出来なくなってきている牡丹は、ここぞとばかりに今迄満足に寝れなかった分を補給するように深く眠りに入った。
 顔や名前が売れればそれだけ狙われる可能性が高くなる。当たり前の様に野宿する事がなくなった。逆旅に泊っていても刺客に狙われる事が多く、よっぽどの事がない限り、刺客が侵入して来る度に牡丹の目が覚め燕青と共に屠る。そんな生活を繰り返し、やっと見つけたのがこの妓館なのだ。

 盧俊義として生きていくと、髪を切ったあの日以降牡丹の髪は伸ばしっ放しになっている。枕に散らばる髪は黒く艶があり、男と生きつつも矢張り、女としての誇りのようなものもあるのだろう。燕青は時折、牡丹が大事そうに髪に椿油を付けているのを知っている。

 寝台に腰を掛け、随分長くなった髪を手に取り指先で遊ぶ。安心しきって寝ている牡丹は起きもしない。燕青は自分がどれだけ牡丹に近付いても目が覚めない事を知っている。故に、こうして寝ている時に、牡丹の安心しきっている寝顔を眺めるのだ。

「ゆっくり寝てくれよ」

 寝台に散らばる髪の一筋に口付けをした燕青は、静かに寝台から離れ自分の身体を休める為にもう一つある寝台で横になった。

 朝一で妓館を出た牡丹たちは、克羽大臣の娘に会いに行った。牡丹に入れ込んでいる少女が良く茶会に牡丹を招くのだ。その茶会は他の令嬢も来るもので、牡丹はここぞとばかりにやんわりとそして確りと中央の情報を引き抜いていく。

「玉麒麟さま。お待ちしておりました!」
「お待たせしてすみません。これ、手土産です」
「玉麒麟さま! この間の茶器、茶会でお披露目したのですが、凄く評判でしたの」
「それは! ありがとうございます。違う製品も作ったのでそちらも是非」

 商売根性逞しい牡丹は、人の良い笑みを浮かべて新商品を薦めると少女たちは頬を赤らめ吐息を漏らす。牡丹の従者である燕青はその目立つ刺繍を理由に邸には近寄れないが、気配を消して庭にある大きな木の枝の上に座り、茶会の様子を眺めている。
 それを知っている牡丹は燕青の気配を常に意識しながら、克羽大臣の娘の隣に腰を掛け、お茶を飲むふりをしながら少女たちの話しに耳を傾けている。そこでの話題は自分たちの父親の職場の話しだ。政務室で仕事をしている人間なら誰もが知っている男がいる。つい先日その男が皇帝に褒美を賜ったとの事で、立派だと褒めていたとか、そこに嫁ぐように言われただとか、少女たちらしい話合いだ。

「玉麒麟さまにだったら喜んで嫁ぎますのに」
「はは。私なんかではご令嬢たちと身分が釣り合いがとれませんよ」

 玉麒麟とは、この茶会を主宰している克羽大臣の娘が牡丹に付けたあだ名だった。

 随分前に剣舞や弓、二胡を披露し、その多彩さから尊敬の念を込めて玉麒麟≠ニ呼ばれるようになったのだ。それが広まり、今では令嬢たちの間では盧俊義よりも、玉麒麟と呼ばれる事が多くなった。

「そうそう。高俅さまがまた褒美をもらったって」
「流石皇帝の寵臣ですわね」
「今度はどんな働きをしたのかしら?」
「なんでも東雲の反乱軍を抑えただとか」
「その話、父からも聞きましたわ。高俅さまは美貌もあって武の心得もあるなんて素敵な御仁ですこと」

 扇子で口元を隠しながら、厭味ったらしく高俅を評価している少女はこの場に集まっている誰よりも宮廷に近い存在である。少女の一族は宮廷の政務室で働いており、その歴史は古いものだ。
 然し少女は開け隔たりなく接する人間で、こうして首都向江を守護している克羽大臣の娘の茶会にも顔を出している。
 高俅という男の名前はこの茶会に参加した時から聞く。なんでも出来る男と評判で年頃の女たちはこぞって高俅に嫁ぎたいと話していると聞く。

「あ! でも、玉麒麟さまの方が素敵ですわよ!」
「えぇ勿論! 玉麒麟さまは素敵な御仁ですから、人気なのですよ」
「ありがとうございます」

 お茶会で情報収集した牡丹は、笑顔を浮かべたまま克羽大臣の邸を出た。邸が見えなくなった頃に、燕青が牡丹の前に姿を現す。音もなく現れた燕青に対し牡丹は、驚きはしなかったものの、相も変わらず刺客向きの性格をしていると感心し、今日の収穫について話し始めた。

「また話に上がっていたぞ。高俅殿が」
「ホント一体何者なのかねぇ。その寵臣は」
「東雲の反乱軍を収めたと聞いたが、私の耳にはそんな話は入っていない」
「と、言うと?」

 燕青は翡翠色の目を丸くして小首を傾げた。するりと艶のある濡れ烏の髪が揺れる。

「そもそも、東雲で反乱など起こっていないのだ。あそこは東州に近く、義勇軍からもそんな情報は入っていない。それに今、反乱軍として勢いがあるのは、反対側の西州だ」

 西州はそこを収めていた大臣が反乱を起こし、激戦地区となっている。そこを収めて褒美をもらうのなら兎も角、起こってもいない反乱軍を収めて褒美をもらうなど笑止千万。

「やはり、中央は腐っているな」
「どうするんだい?」

 その問いかけに牡丹は目を細め、口元は上げられていて、まさに自信に満ちた表情である。

「勿論。決まっているだろう」

 ――潰さ。

 その音は酷く軽く、然し強い意志を感じるもので、揺るぎない決定事項のそれに燕青は目を細めた。

 ――またこの感覚だ。

 逆光なわけでも、まして牡丹から後光が指しているわけでもない。それなのに燕青の翡翠の瞳には、牡丹の存在が眩しく映り目を開ける事が困難のように思える。向かい風の突風が吹き、砂埃が入らぬように燕青が両目を瞑り、再び目を開けると、牡丹はもう前を向いていた。

 もうあの眩しさは感じなかったが、燕青はその眩い衝動をもう何度も味わっている。その度に自分とは違う人間なのだと思い知らされ、それと同時に求めてしまう。それは執念であり執着でもあった。

 旅をしながら商売している牡丹たちは、知り合いに会う事もある。例えば、義勇軍で一緒に戦っていた仲間を遠目で見る事もあれば、顧客に会い世間話に花を咲かせる事だってある。

 とある都市に着いた時、たまには休息を取らないといけないと、牡丹は自ら逆旅に引きこもり燕青を外に追い出した。主に部屋を追い出された燕青は、後ろ髪を引かれる思いで街に繰り出した。
 果物や野菜、食器や干し肉にこの地方で食べられている料理の屋台がずらりと並んでいる市に、ふらりと足を向けた燕青は屋台の客引きの声を浴びながら、何をする。と見ていた。
 すると、とある青年の後ろ姿を見つけた。燕青はその後姿を凝視しながら、何か引っかかるものを感じていた。

 ――どこかで会った筈なんだがねぇ。

 それが何処でなのかがわからない燕青は、暫く青年の後をつけた。感づかれないようにつけるのは、燕青にとって朝飯前であり、まさか青年も自分が誰かに後をつかれているなんて思いもしない。
 じっと。それは獲物が罠に嵌る瞬間を見ている捕食者のように、青年を見る燕青の視界に、青年の横顔が映りその顔を見た瞬間、燕青は目を細め口元を上げて笑った。然しその表情は純粋な笑みではない。あの時の報復を果たせると確信した喜びの笑みだった。

 人目がある往来で青年を殺す事は困難だ。だとすれば、人目につかない所に行くしかない。燕青は青年が感づけるように態と音を立てて青年に近付いた。すると青年は違和感を覚え、後ろを振り向くも人混みしかなく、何かの気の所為かとまた歩き出した。然し、僅かに感じた違和感は意識すればする程、膨れ上がり立派な恐怖を生み出す。

 誰に? どうして? 何処から? その全てがわからない青年は無意識に足を速めた。
 追いかけて来る人間を撒こうと、人混みを利用するも、燕青はずっと青年の後ろ姿を追い続ける。寧ろ人気のない所まで誘導している。

 走り続けた青年が肩で息をし、壁に手を付いた。当りを見れば人気がなく漸く何者かを撒けたのだ。と安堵の息を吐いた時。不意に自分の背中に誰かが立ったような気がした。

「誰だ!」
「久しいねぇ。名前はー、確か――路可、だったかい」
「――燕青さん」

 路可と呼ばれた青年は燕青をその視界に入れると、目を大きく開き驚き、表情を硬くした。そうして、義勇軍に所属していた頃の事を鮮明に思い出しつつあった。
 牡丹という名の副頭領隣に立つ得体の知れない男。籠手で覆ったその両手で武器を持つ敵を倒していくその姿は、路可の記憶の中で鮮明に蘇ってくる。

 彼らは常に背中合わせで戦っていた筈だが。と傍に牡丹の存在がない事に気が付いた路可は内心首を傾げるも、そんな事を目の前の男に尋ねる事は出来ない空気だった。

「えっと……燕青さんはどうして此処に?」


 何とか絞り出した声で当り障りのない事を言うと、最後の見かけた時よりも随分髪が伸びた男は嬉しそうに笑って明るい声を出した。

「いやぁ、懐かしい顔が見えたからねぇ。つい追いかけちまった。忙しかったかい?」
「……いえ」

 路可は顔を青くした。追いかけられているとはわかっていたが、それが燕青だとは思いもしなかったのだ。安堵なんて程遠い。恐怖で路可の身体を支えている足が笑い始めている。

 燕青が一歩足を前に踏み出すと、路可は一歩足を後退させた。それを何度か繰り返していると路可の足が絡まり尻もちをついてしまった。両掌が地面にぴったりと付いて、張り付けたように動かない。言い知れぬ恐怖を隠す事も出来ない路可は、自分の目の前で立っている男を恐怖に顔を歪めたまま見ることしか出来ないでいる。

「……!」

 男は笑ってもいなかった。ただ感情のない顔で見下ろしていたのだ。殺気を隠してもいない。
 奥歯が震えガチガチと不快な音を鳴らし、思考機能が停止していく。

 どうしてだ。どうしてこの男に殺されそうなんだ。

「妹さんは元気かい?」

 そんな路可を前に、燕青は人の良い笑みを浮かべ、路可と視線を合わせるようにしゃがみ、まるで世間話でもするかの様に明るい声色で路可に尋ねると、路可は顔を青くしたまま切羽詰まった様子で口を開いた。

「妹は昨年漸く嫁に行ったんです! だからどうか……妹だけは!」
「へー」

 さして興味もない路可の話に、燕青は適当に相槌を打った。
 この状況に全身震えているくせに、自分ではなく妹の命乞いをする路可の姿に、何年も前に牡丹が燕青に言った言葉を思い出した。

 ――似てるかねぇ。こいつと俺。

 深い溜息を吐いた燕青は、さっきまでの人の良い笑みを捨て、氷のように冷たい視線を路可に向けた。

「なぁ。あんたに教えてもらいたい事があるんだ」

 路可は震える身体を叱咤しながら、首を縦に何度も振った。

「自分の命を救ってくれた人間を、窮地の中捨てるってどんな気持ちなんだい?」

 その台詞に、路可の疑問が答えと繋がった。
 そうか、この男はあの時の復讐をしに此処に来たのだ、と。あの戦いの事を知っているのは自分と牡丹だけで、上手く行けば言い逃れる事が出来るかも知れないと、ありもしない一縷の希望を路可は見出した。

「牡丹さんが、僕を、逃がしてくれたんです……。戦力外だからって」
「だから?」
「だから……、僕が悪いわけでは……」
「ふーん」

 まぁいいか。と続けた燕青の声は路可の耳には入らなかった。籠手で覆われた右手が路可の心臓を貫いたからだ。口から血を吐き出す路可は瞬きの間に絶命した。

 窮地の中牡丹が救った命は、ものの数年で散ったのである。

「恩人を殺す心情なんて知りたくもないからねぇ」

 立ち上がった燕青は、近くの川で籠手を洗い、次いでと言わんばかりに身を清めた。衣服に返り血が付かなかったのが不幸中の幸いだ。

 そうして燕青は市の屋台で適当な食べ物を買って、素知らぬ顔して逆旅に戻り、牡丹に市で見かけた沢山の屋台の事を面白可笑しく話し、牡丹はその話を聞きながら燕青が買って来た桃に口に含んだ。

「主は何をしていたんだい?」
「特に何も。一人でいる時間がなかったから楽しめるかと思ったが、お前といる時間に慣れ過ぎていて……そうだな。退屈をしていたよ」

 燕青を追い出した後、牡丹は一人の時間を満喫しようとお茶を淹れ、椅子に腰を掛けるも、特にやる事がなくちらりと燕青が出て行った扉を見た。次いで部屋の内装や窓の外の景色を見るも、代わり映えのないそれらは時間を潰すにしてはあまりにも退屈で、槍を持っていれば違ったのだろうが、あの日から槍を持っていない牡丹の手元にはその槍もなく、いよいよやる事がなく、かと言って部屋から出て何かあれば燕青に怒られるのは目に見えている為、それも叶わず、寝台で横になり目を瞑った。

 そうしてもう一度目を覚ました後に燕青が帰って来たのだ。

「燕青といた方が楽しいと痛感したよ」
「そりゃ嬉しいねぇ」

咯咯と肩を揺らして笑う燕青の頬には薄っすらと紅がさしている。それに気付かない牡丹はまた桃を口に含み穏やかに笑ったのだった。

「燕青。こっちに来い。髪梳いてやろう」
「え?」
「さ、早く来い」

 櫛を取り出した燕青は息を吐いたように笑い、牡丹が座っている寝台に腰を掛けた。すると牡丹は燕青の手から櫛を受け取り、深い緑が混じる、濡れ烏色の長い髪に櫛を通した。

「お前の髪は綺麗だな」
「主の髪も綺麗だよぉ」
「ありがとう」

 久しくなかった穏やかな時間が二人の心を癒していった。

 牡丹が助けた路可が死んだ事を知らないまま、牡丹は高俅という男の事について情報を集めている中で出会った飯店の店主が牡丹に耳打ちした。

「盧俊義の兄さん……あんたどうしちまったんだよ」
「……何がだ?」
「あんた地元に妻子を置いて、この街で女遊びに浸ってるんだって?」

 やっぱり英雄色を好むって奴かねぇ。と店主自慢の顎髭を指先で弄る。

 何故そんな噂が流れたのか。と牡丹が固まり、燕青は店主の発言に哈哈と肩を大きく揺らして笑っている。そんな燕青を横目に店主は首を傾げながらも、固まっている牡丹の肩に手を置いて厨房に戻って行ってしまった為に、その誤情報の出処を聞き出せないまま、牡丹は右手に掴んだコップの底をテーブルに叩きつけた。

「私はいつの間に結婚していたんだ……」
「ぶはっ! 止めてくれ主っ、ヒッ、笑い死ぬ……っ!」
「しかも妻子がいて、私は浮気をしているらしい」
「哈哈哈!」

 真顔で燕青を見つめる牡丹に耐え切れなくなった燕青は、遂に片手で腹を抱え、もう方手で食卓を叩きながら大声で笑いだす。その様子を見ていた周りの客は何事かと、牡丹たちを見るも、とうの二人はそんな視線など気にもせず片や呆然とし、片や腹を抱えて大笑いしている。

 然し、どうしてそんな根も葉もない噂が流れたのか。と原因を考えるも全く思い当たらない牡丹は、益々頭を抱えた。これが策略なのはわかっている。だが、こんな噂を流して何になるのか。と溜息を吐いて天を仰いだ。

「何がどうしてこうなったのだ」
「哈哈哈!」

 情報を収集しようにも、牡丹の頭の片隅には飯店の店主の言葉がこびりついている。

 高俅の事は一度置いておいて、自分の置かれている状況を整理しようと、草原の中寝転んだ。その傍には燕青もいて牡丹のように寝転びはしないものの、牡丹の隣で草原に腰を掛けている。

 ――先ず、私は結婚していない。

 願望がないわけでもないが、まぁ、無理だろう。一番大切な人とはそういう関係にはなれないのだから。

 隣に腰掛ける燕青を見上げると、遠くを見ていた燕青の翡翠の瞳が牡丹の姿を捉えた。

「なんだい主」
「……はぁ……今日は天気がいいな」
「そうさなぁ。どれ、俺が膝枕をしてやろうか!」

 溌剌に笑う燕青は冗談でそんな提案を牡丹にしたが、牡丹はそれを良しとし遠慮なく燕青の膝の上に頭を乗せた。

「うおっ」
「なんだ。提案したのはそっちだぞ」
「まぁそうなんだがねぇ」

 擽ったそうに指先で頬を掻く燕青を真下から見上げた牡丹は、じっと燕青の整った顔を見つめる。その視線が恥ずかしいのか、籠手に包まれた手で牡丹の視界を覆うと、牡丹は静かに目を閉じた。真っ暗な中、僅かな暖かさが牡丹に微睡を与える。顔に感じている籠手の重みは既になく、それでも牡丹の目は閉じたままだ。

 眠っているわけではないが、燕青は癖のような無意識さで牡丹の髪を梳く。伸びてきた毛先を指で弄り、顔にかかっている前髪を横に流し、丸みのある頭を大きな手で触れるか触れないかの距離で撫でる。

 ――いつもそうやって撫でてくれているのだね。

 普段眠っている間に感じていた安らぎの正体を知った牡丹は、無意識に笑みを浮かべる。
 それを見た燕青は、戸惑いながらも今度はしっかりとした手つきで牡丹の頭を撫でる。燕青に擦り寄ると、男は一瞬肩を跳ねらせたが、口角を上げた燕青は翡翠の目を細めて何度も牡丹の頭を撫でる。

 いつ背中を襲われるかもわからない生活を続けている中で、唯一の拠り所がお互いの傍なのだ。二人はお互いが傍にいないと安心して息をする事すら出来なくなっている。それを依存というにはあまりにも命懸けで、共存というにはあまりにもお互いを必要とし過ぎた。

 束の間の微睡から目が覚めた牡丹は起き上がり、遠くの空を見上げた。そして身体を解す為に両手を空に向かって伸ばして、背中を逸らして深く息を吐いた。

「誰か来る」
「ん?」

 低い声でそう告げる燕青の台詞に反応するように、翡翠が向ける視線の先を牡丹も見た。そこには以前に見た事がある男が立っていた。

「何用か」

 鋭い視線を浴びせながら燕青が男に問うと、男は拱手し無言で挨拶をした。

「お久しぶりでございます」
「確か名は、呉用と言ったか」
「えぇ。遠くから盧俊義さまの姿が見えましたので、ご挨拶にと思いまして」
「律義な事だな」

 牡丹が立ち上がり、呉用と向き合うと男は少し困ったように笑った。

「盧俊義さまの良からぬ噂を耳にしまして。国に帰った方がいいのでは?」
「……貴殿も聞いたのか。然し心配はない。根も葉もない噂だ。直ぐに消えるだろうさ」

 この時はまだ知らなかった。呉用の助言を聞き入れなかった牡丹の身が拘束される事になるとは。

 呉用が去った後、牡丹は根も葉もない噂を流した正体がわかった。それは紛れもなく呉用本人だったのだ。牡丹は、以前呉用にとある誘いを持ち掛けられた事を思い出した。

 ――あの男、相当根に持つ人間だったのか。

 梁山泊に入山して欲しいと言われ、牡丹は即答で断った。取り付く島もない勢いで断った為に、もう二度と誘いには来ないと踏んでいたが、存外しぶとかったらしいと、牡丹は面倒なことになったと溜息を大袈裟に吐くも、処理せねばもっと根も葉もない噂を流されるに決まっている。

 さて、どうしたものかと、頭を悩ませていると、一つの可能性を見出した。それは梁山泊を利用し宮廷を壊す事が出来るのではないか、というもので、燕青にその事を話すと苦虫を潰したような表情をしたが、最後は「主が決めた事なら」と首を縦に振った。

「さて、こちらは一度向こうの面子を潰しているからな。気持ちよくなってもらうには、向こうの策略に嵌ったフリをした方がいいな」
「俺が一掃して来てもいいんだよぉ?」
「それはそれでいい案だが、流石に面子丸潰れはいけないさ」

 それから、二人はあの手この手を使って梁山泊の事について調べ回った。元々さして興味もない集まりだったが故に、持っている情報量が少ないのだ。知っている事と言えば、梁山泊は逆賊の集まりで、その中に呉用という参謀がいると言う事だ。

 それだけしか知らない相手にどうやって罠を仕掛けようか。と思案している牡丹の元に情報が入って来た。それは、呉用の部下と思わしき人物が役人と接触したというもので、牡丹はすぐに宿泊している逆旅に戻り、燕青に指示を出した。

「恐らく、彼奴らは自分の組織を逆手にとって私を捕まえる気だ」
「こう言っちゃなんだが、本当に入山する意味あるのか? 殺してきてもいいんだぜ」
「利用価値があるかどうかは、入ってからわかるさ。それで、私は向こうの策に乗り掴まろうと思う。恐らく懲罰房に入るだろうから、お前は変装して面会に来い」

 燕青はこれまでに様々な人間に変装してきた。その腕前は見事なもので、初めて変装している燕青を見た時は、牡丹ですら本当に燕青かどうかもわからなかった位だったのだ。他の人間に分るわけがない。
 だから、その目立つ刺青さえ隠せば、誰も燕青が牡丹の従者だとは思わないだろう。

「頼めるな」
「わかったが、それ以外の道はないのか?」
「そうさな。燕青、お前抵抗してみるか? あの拳法の達人が敵わない役人だなんて箔が付くだろう」

 幸いな事に、此処は向江。つまり、懇意にしている首都向江警備、克羽大臣の膝下だ。予め話をつけておけば手荒な事はされないし、燕青ですら敵わない屈強な役人が揃っていると評判も上がる。

 牡丹は早速克羽大臣に向けて書簡を書き、それを燕青に持たせ至急大臣の所に向かわせた。刺青が所狭し、と入っている燕青の身体は、邸に相応しくないと立ち入りを禁じたのは、大臣本人なのだから、燕青の刺青を覚えていないわけがない。

「俺が帰って来るまで此処にいろよ」

 窓台に足をかけた燕青が窓辺に立つ牡丹に声をかけた。

「約束は出来ないが、努力はしよう」

 いつ役人がこの部屋にやって来るかなんてわからないのだ。努力のしようもないが、少し笑いそう言うと、燕青は口角を上げて笑みを浮かべ、窓から飛び出していった。長い髪が最後まで窓の外に出て行った事を見届けた牡丹は、身支度を整える。武器である弓は見つからないように隠し、いつもより念入りに晒を身体に巻いた。その時に小刀を仕込み、何時でも役人に捕まってもいいように準備を整えた。

「あぁ、これも持って行こうか」

 鞄から赤いトンボ玉を取り出し、それを衣嚢の中に無造作に突っ込んだ。

 ――大丈夫。上手く行く筈だ。

 何度も何度も自分に言い聞かせ、緊張感を無理矢理和らげていく。今まで自分が主体で動いていたが、この時初めて自分が罠に掛かるのだ。成功する確率だってわからない。そもそも、梁山泊の人間がどうやって懲罰房に入っている人間を助けるつもりなのかもわからない。最悪自分で出る事が出来るが、それだとまた梁山泊の面子を潰してしまう事になる。

 鎖骨の下を指先で何度も軽く叩いて平常心を保つ。

 燕青の前では気丈に振る舞ってみせても、中身はまだ年若い女なのだ。全く恐怖がないというわけではない。しかも、今回は燕青が傍にいないのだから尚の事不安にもなる。

 ――私は盧俊義。燕青の主なのだから、確り役割を果たしなさい。

 牡丹はずっと謎だった。どうしてあの男は私の中に主を見出したのだろうか。と。然し、それを聞いた事もない。聞こうとは何故か思えないのだ。

 聞いてしまえば、牡丹≠否定されているような気がしてくるから。燕青に必要なのは盧俊義≠ナあって牡丹≠ナはない。と言われたあかつきには泣かない自信がない。泣くだけで済めば御の字だろう。

 知りたい気持ちと知りたくない気持ちが入り交じり、正しい判断がつかない。この先も一緒にいるのだから変な蟠りを作らない方が良いのだが、こう思っている時点で既に蟠りがあるようなもので。なんて思考が鼬ごっこをしていると、複数人の足音が牡丹の耳殼を震わせた。

 ――もう来たのか。燕青は間に合わなかったようだな。

 窓から出て行った従者の横顔を思い出しながら、牡丹は開けっ放しの窓台に腰を掛けた。正面には扉があり、数秒もしないうちに役人が入って来るに違いない。何度か深呼吸した牡丹は真っ直ぐと扉を見つめる。

 勢いよく開いた扉は大きな音を立てながら、武装した役人が数人部屋の中に入って来た。正面にいる牡丹を視界に映すと、怒鳴り声のような大きな声を上げる。

「お前が盧俊義か!」
「如何にも。私が盧俊義である。皆さん揃って何用かな?」
「梁山泊と内通していると密告があった。お前を連行する」
「おや、何かの間違いでは?」
「ふざけるな!」

 大股で牡丹に近付いた役人は、大きな手で牡丹の腕を掴み無理矢理立たせ、牡丹の両手を背中に回し麻縄で縛り連行する。逆旅から出る頃には何事かと野次馬が集まっていた。燕青は遠くからでも見える人だかりを見て、全速力を出して走り、人垣を無理矢理抜け牡丹に向かって叫んだ。

「主!」
「悪い。暫くの間一人に――ぐぁっ!」
「何を喋っている!」

 役人が牡丹の髪を鷲掴み後ろに引っ張る。その痛みに牡丹は顔を顰め、燕青はその光景を見て居ても立っても居られず、役人に襲い掛かる。頬を強烈に殴られた役人は言葉にもなっていない呻き声を上げて地面に膝を付けた。

「何をする!」
「あんたらこそ俺の主に何してんだ!」

 更に襲い掛かる燕青に対し、役人が数人手に棒槍を持ち対抗するも、燕青の前にそれらは余りにも無力で、牡丹は咄嗟に燕青の名前を叫んだ。

「燕青!」

 それは助けを求める声に聞こえただろう。然し、燕青の耳には攻撃を止めるように、と命令しているように聞こえ、振り上げた拳を力なく降ろす。それを隙だと役人は棒槍で燕青の動きを封じた。

「彼の今の行動は私が罰を受けよう。どうか、彼の忠義に免じて見逃してくれないか?」

 克羽大臣や向江の為にと働いている貴方にその忠義がわからないわけじゃあるまい。と続けて言うと、役人は渋々燕青を解放した。

 解放された燕青の翡翠の瞳には薄い膜が張っていて、眉間に皺を寄せながらも眉尻が下がっている。
 籠手に包まれた右手を牡丹に向かって伸ばすも、その手は誰にも取られず、力なくだらりと地面に落ちた。

 牡丹は限界まで首を後ろに捻り、視界の端に燕青の姿を収め、パクパクと口を動かすと、前を向き役人に誘導されるがまま大人しく連行された。

 昼は梁山泊の情報を掴む為に東奔西走し、夜は役人に変装した燕青は、牡丹に昼間のうちに集めた情報を役人姿で渡していた。それを繰り返す事三日。遂に梁山泊が動き出す事がわかった。

「殴り込みしてどさくさに紛れて主を救出ねえ」
「……本当に何を考えているのだか」

 少々どころか大分荒々しい手段だ。何を考えたらそうなるのか。それとも何も考えていないのか。その答えは今の二人にはわからず溜息が零れる。

「兎に角克羽大臣に文を書くよ」
「それがいい。お騒がせしますって知らせとかないとなぁ」
「そうだね」

 筆を取り克羽大臣に手紙を書く牡丹の耳に燕青の手が触れた。正確には牡丹の耳にぶら下がっている赤いトンボ玉を摘まむように触った。

 義勇軍の集落で開かれた宴の催し物で勝ち取った賞品であるトンボ玉。男装するようになってから一度も付けた事がなかったのを燕青は知っていた。寧ろ東州の家に置いて来たものだとばかり思っていたのだ。

「何でこれを付けてんだ?」
「今は人目がないからな」

 だからと言って盧俊義ではないのか。と聞かれればそうではない。此処に牡丹はいないが、女の心がないわけでもない。単純に燕青の存在を傍に感じたかったからだ。だが、そんな事盧俊義の口から出る筈もない。

「付けないと勿体ないだろう」
「そういうもんかね」
「そういうものだ」

 薄く笑った牡丹の耳にぶら下っている赤いトンボ玉が僅かに揺れた。

「よし出来た」

 出来立ての書簡を燕青に持たせ、燕青はそれを片手に姿を消した。それから四日。梁山泊の人間が本当に殴り込みに来たのを知った牡丹は、あまりの無謀ぶりに目眩を覚えた。
 その日は最低限の役人しか見張りに立っておらず、檻の中で大人しくしていた牡丹は易々と梁山泊のねぐらまで連れて行かれ、その後を燕青が気配を殺しながら追いかけた。

「盧俊義殿、手荒な真似をしてしまって申し訳ない。僕は宋江、貴方にお願いがあって此処に来てもらった」
「……だとしたら手荒にも程があるのでは?」
「だって君誘いを断るんだもん」

 誘いを一度断っただけでこんな目に遭うのであれば、あの時の自分に断らない方が良いと耳打ちしてやりたい。そんな事を考えた所で過去には帰れないのだから、どうする事も出来ないのだが。

 子供のように無邪気で屈託ない笑顔を牡丹に向けている。自分が仕掛けた事の重大さに気が付いていないのだろう。
 役人への虚偽に、収容された人間を騒ぎに紛れて拉致、挙句に現在進行形で誘拐している。克羽大臣に書簡を書いて事前通知しておいたこっちの身にもなってもらいたいものだ。と、瞼を落して溜息を吐いた。

「盧俊義殿! 僕たち、梁山泊の頭領になってもらいたい!」
「断る」
「何故だ!」

 断られるなんて微塵にも思っていなかった宋江は、驚き目を開いた。どうしてなのか、とおろおろし何がいけなかったのか、と一人ぼやき始める。そんな中、宋江の腹心であろう屈強な肉体を持った男が、牡丹に詰め寄り大きな声を上げて怒鳴る。

「もう一度言ってみろ貴様!」
「断ると言ったのだ……そうだな、もし、私に頭領になってもらいたいのであれば、私に勝ってみてくれないか」

 ぐるりと牡丹と宋江を囲むようにずらりと並び立つ、百人を超える梁山泊という組織の幹部たちとその部下。見た所その面々に統一性はなく、男女の括りすらない。が、往々に血気盛んな人間が多いようで、牡丹の軽い挑発に対し怒りを露にし、武器を構え始めている。
 対し、牡丹は武器一つなく、それでも強気に笑って見せている。

「あまり舐めた口を利くなよ小僧!」
「ハッ、吠え方だけは立派と見える」

 穏便に入山したかった牡丹だったが、ここで一つ梁山泊の人間の実力を試してみるのもいい気がして来た。
 牡丹の目の前に立つ屈強な体格をした男の顎を目がけて牡丹は殴りかかった。間一髪で躱されたその攻撃を皮切りに、囲むように立っていた人間が牡丹目掛けて走り出す。

「燕青!」
「はいよぉ!」

 近くで気配を殺していた燕青は、牡丹の呼び声と共に現れ牡丹に弓矢を渡し、その背中を守るように立つ。武器が手に入った牡丹は素早く矢を構えて射る。その矢は太腿や肩に当たり、呻き声を聞いた人間は戦意が下がり走る足が遅くなる。
 牡丹の背中を守っている燕青は目にも止まらぬ速さで、目の前の敵の意識を奪っていく。その速さは残像しか見えなかった。とのちに語られるようになる。
 落ちる木の葉を正確に射抜く事が出来る牡丹にとって、動き回る人間は大きな的でしかなかった。百人以上いた筈なのに、牡丹と燕青の前にどんどん数が減って行き、それを見た宋江は、やはり頭領に牡丹が相応しい。と目を輝かせる。

「やはり貴方の強さが欲しい!」

 両手で握り拳を作り、興奮しきっている宋江の頬は薄っすらと赤い。そんな熱い視線を送られている牡丹は無表情で、宋江の熱意が届いていないのかと疑うものである。

「って、言ってるけど、主どうするんだい?」
「なるわけがないだろう。面倒でしかないぞ」
「ははっ! 主はもう二足の草鞋を履いてるからなぁ」

 貿易商に情報屋、それに加えて賊である梁山泊を懐に入れてみろ。過労死するぞ。と、燕青に向かってぼやくと、燕青は乾いた笑いを浮かべた。休む暇もなく国内を駆け回っている事を知っているからだ。常に先の事を考え行動し、自分の思うがままに周りを動かしている。

 全体の四割が戦意喪失し、三割が戦闘不能。残りの三割が傍観を決め込んでいたこの戦いは、牡丹たちと、屈強な男の二対一の勝負になった。然し、それでは公平ではないと牡丹が言い、燕青と屈強な男の一対一の勝負になった。
 義勇軍にいた時も十分に強かった燕青は、慢心する事なく鍛錬を続けて来た。

「主どうする?」
「わかりきった事を……。私に勝利を捧げろ。出来るな?」
「はいよぉ!」

 燕青は自分よりも背の高く、屈強な男と向き合ったが、その口元には笑みが浮かんでいて如何にも余裕そうな表情だった。それが癇に障った男は額に青筋を浮かべ目を鋭く尖らせる。両者腰を落として構えた。観客と化した梁山泊の人間は勝利の行方に固唾を飲んで見守る中、牡丹は燕青の後ろ姿を見て、薄く笑った。

 ――お前の後ろ姿を久しぶりに見たな。

 私の前には何もなく、私の後ろにこそ求めるものがいる。然し振り返る事は許されず、先に進むしか道はない。

「あぁ……やっぱり」

 ゆっくりと瞼を閉じた牡丹の脳裏には焼き付けられたように、燕青の後ろ姿が浮かぶ。胸の奥が圧迫されるような、締め付けられる感覚は前にも味わったものがあるもので、目頭が熱くなる。

 苦しい、寂しい、切ない。恋しい、嬉しい、愛おしい。

 伸ばせばいいと言った艶のある濡れ烏の色をした髪は光に当てられ、深い緑にも見える。そこら辺にいる女よりも長い髪を左右に振り回し、自分より大きな男に攻撃を仕掛ける燕青のその後ろ姿を見ていたいが、その時間は砂埃と共に終わりを告げた。
 屈強な男は燕青の前に倒れ、砂埃をあげる。それを見届けた燕青は牡丹の方に振り返り、満面の笑みを浮かべて近付く。

「見ててくれてたかい? 主!」
「勿論だ」

 お前なら勝利をもたらしてくれると思っていたさ。

 事の全てを見ていた宋江は、小走りで牡丹に近寄りその肩を掴もうと両腕を伸ばすが、その手は燕青に捕まれた事によって、牡丹の肩に触れる事は叶わなかった。

「っ! すまないね。あまりの強さに驚いてね。君もとても強いなぁ」

 両手を掴まれているというのに、宋江は燕青に向かって笑顔を浮かべている。人を疑う事を知らないその笑みを向けられた燕青は一瞬たじろいで、宋江の手を離した。
 梁山泊の面々を倒したにも関わらず、屈託のない笑顔を浮かべる男に対し不快感と不信感を抱いたのだ。元々裏表のない人間を得意としていないという事もあるが、それ以上に怒りや哀しみと言った感情が見えない男に対し、強い警戒心を抱いた燕青は牡丹を一瞥した。

「何を言われようと、私は頭領になるつもりはない。それに、此処にいる人間は貴方が頭領になる事を望んでいるのでは? 先程の戦闘、手を抜いているように見えたが」

 梁山泊の者は牡丹の言葉に大きく頷き、宋江に頭領になるように声をかける。百人を超える組織の意見を無視は出来ないと、宋江は恥ずかしそうに笑い頭領になる事を宣言し、補佐役として牡丹を置きたいと言った。

「……断ったら男が廃りますね。わかりました。盧俊義、その任に喜んで仕えましょう」
「ありがとう!」

 正直、宋江の補佐役なんて金を払ってでもなりたくもない牡丹であったが、これ以上断るのは良心の呵責を感じ副頭領になる事を受け入れた。
 燕青は最後までいい顔はしなかったが、牡丹が良しとするのであれば、何も言う事はないと言った心持で無言を貫いた。

「これからの事について話がしたいのだが――」

 そう話し始めた宋江の頭上には影が出来ていた。雲の影ではない。木漏れ日でも鳥でも虫でもない。火の玉が文字通り梁山泊を目がけて落ちて来たのだ。
 あまりの出来事に唖然とした面々だが、巻き込まれたら堪らないと、逃げるように火の玉に背を向けて走り出す。
 燕青は牡丹を横抱きにし、長い髪を左右に揺らしながら走り火の玉の被害が来ないだろう所まで逃げると、振り返り火の玉の行方を目で追いかける。それは牡丹も同じで、燕青に横抱きにされたまま、火の玉が落ちていく方向を見た。

 あれはなんなのだ。と誰に問うても一様に「わからない」と口にするだろう。

 火の玉は、地面に近付くにつれて速度が落ちていく。あまりにも不可解は現象に牡丹は興味を持ち、燕青の腕の中から脱出し火の玉が落ちたであろう地点に近付く。そこには粘土板が落ちていて、石版には文字が彫られていた。

 ――魔星により刻まれし名を此処に記るさん。

 牡丹は石板を手に取り、煤を手で掃い石板に刻まれている文字を見つめる。後ろから覗き込むように燕青が見るも、宋江が牡丹の名前を呼んだ事で燕青の意識は宋江に向いた。

「盧俊義、何が書かれているんだ?」

 小首を傾げ近付く宋江に視線もくれず、牡丹は独り言のように言葉を漏らしていく。

「魔星により刻まれし名を此処に記るさん。宋江、天魁星。盧俊義、天罡星。呉用、天機星――」

 牡丹が次々に名前と魔星を告げていく。最初こそ何を言っているのだと誰もが思ったが、次第に石板に書かれている事は天命なのだと感じ始めた者たちが、拱手し膝を地面について頭を下げる。

「燕青、天巧星。以上が天罡星三十六星。朱武、地魁星。黄信、地煞星……――以上、地殺星七十二星」

 この場にいる百八人全員の名前を読み上げた瞬間石板は崩れ、砂塵となって牡丹の手から地面に向かって落ちていく。完全に牡丹の手から消えたのを確認し、残りの塵を叩く様に掃った牡丹は、宋江に向かって拱手した。

「天罡星盧俊義。拝命致します」

 抑揚のない、感情の籠っていない声で淡々と告げる牡丹に対し、宋江は盧俊義の名前を呼んだ。

「盧俊義! これから頼むな!」

 その言葉に対し、牡丹は困ったように笑い右手を胸に当てた。

「宋江。私の事は玉麒麟と呼んでください」
「わかった」

 こうして魔物が生み出した百八の星が集結した。
 それから、宋江はこれからの事について語り始めた。賊ではなく官軍になりたいと言った時は、周囲がざわついたものの、牡丹の鶴の一声で静寂さを取り戻し、宋江は照れたように笑いながら夢を語り出す。

「英雄になりたいんだ。この国を変える英雄に。その為には賊でいるよりは、官軍になった方が良いと思ったんだ」

 皆はどう思うだろうか? と問いかけた宋江の目は、輝いており誰も自分の意見に真っ向から否定しないだろうという考えが、牡丹には手に取るようにわかった。が、実際、牡丹は否定しなかった。目的が同じであれば利用しない手はないのだから。
 官軍に入る事が必ずしもこの国を変える手段というわけではないだろう。然し、この国の悪を知るにはまたとない機会だ。

「然し、賊として大分名が知れ渡ってしまっていますが……」

 梁山泊と言えば賊の集団。これは、牡丹が梁山泊を本格的に調べる前から知っていた情報だ。それを呉用が懸念し宋江に話しかけると、宋江は唸り始めた。

「そうなんだよなぁ……賊ではないですよって言えたらいいんだが」

 頭を抱えて悩みだす宋江を見て周囲の人間も頭を抱え始めた。その様子に軽い溜息を吐く牡丹。その後ろには燕青が控えてて、周囲の人間に聞かれないように、燕青はそっと牡丹に耳打ちをした。

「本当に大丈夫なのかい?」
「……どうだろうな。揃いも揃って考えるのがあまり得意ではないらしい」

 伝手でもなんでも使えばいいだろうに。百八人もいるのだから、中央に近しい人間との伝手だってある筈だ。と牡丹は周りの人間を見てみる。その中には女の姿もあり、燕青に女の事を尋ねると、花街で見たとすぐさま答えた。

「この辺の花街だったような気がするが」
「その情報だけで充分だ。この辺の花街と言えば、李師師がいる店が有名だろうな」
「そういやあの美姫は……」

 李師師という女は国一番の美女と名高く、顧客の中にはこの国を蝕んでいる皇帝もいるのだ。顧客というよりは、あれは最早外に置いている愛人と呼ぶに相応しいだろう。李師師は猫が働いている店に在籍していて、梁山泊の中では一番牡丹たちが李師師に近い存在と言えるだろう。

「宋江。私に案があります」
「ん? なんだ?」
「この燕青を使って李師師と接触を図り、賊ではないと李師師に伝えるのです」
「李師師ってあの妓女だろ?」

 どうしてあの女に? と言外に宋江は尋ねたが、新入りの武力以外の実力を見てみたい気持ちが勝った宋江は周囲の反対を押し切って、牡丹にこの事を一任した。そうして梁山泊の面々は解散し、牡丹は疲れた体を引き摺るように逆旅に戻った。

「主」

 部屋に入って早々、燕青は咎めるように牡丹を呼んだ。その声は棘をも孕んでいて、これは本格的に怒らせたかもしれないと、牡丹は大きく肺を動かして瞼を少し瞑った。

「お前の意見を聞かなかったのは悪いと思っている」
「それは構わないんだがねえ」

 それは。と言う事は他に何か気になる点でもあったのだろうか。と今日の事を考えるも何も思い当たる所がない。李師師に接触しろと言った事以外思い当たらないのだ。

「わからない。お前が何を不快に感じたのか教えてくれ」
「二点ある。先ずは一点目。どうしてあの石板を受け入れた」

 あの時牡丹が誰の手にも石版を触らせなかった理由は、あの石版に書かれていた名前が盧俊義≠ナはなく牡丹≠セったからだ。何かの悪戯であれば盧俊義と石版に刻むだろう。だが燕青以外知らない筈の牡丹という名前が石版に刻まれていたのだから、信じる他あるまい。

「成程なぁ」
「何がどうなっているのか、調べる必要がありそうだが、その前にお前の不満二つ目だ」

 椅子に腰掛け燕青を見る牡丹はさっきまでと違い、既に反省の色が失われている。そんな事は構わないと燕青は牡丹の前に片膝をつけ、下から牡丹を見上げる。

「俺があの美姫を買ってもいいのかい?」
「……それはどういう意味だ」
「そのままの意味だけど? 主は、俺が女を買ってもいいのかい?」

 克羽大臣からあてがわれた女を、牡丹は何度も燕青に横流しし、その度に燕青も女と一夜共に過ごす事を躱して来た。だからこそ牡丹は今回も買いはしないと踏んでいた。

「金の心配ならする必要がない」
「そうじゃない。わかってんだろ」

 わかっているからこそ、回答を躱しているじゃないか。と寸での所まで出かかった言葉を無理矢理飲み込んだ。
 女を買うなと言えば我々が男女の関係になってしまう。その関係を最初に拒んだのはお前だろう。と言葉にならない叫びを心のうちに上げる牡丹に対し、燕青は翡翠の目を真っ直ぐに牡丹に向けている。

 男は唯一無二の居場所を手に入れた。それは誰にも邪魔されない、誰の手も届かない安らぎ。それは男としてなのか、従者としてなのかわからない感情であった。その二つはどちらも自分の中に存在し、心臓の更に奥で絡み、結び合っている。

 女を買う事を止めて欲しいと願うのは強欲なのだろうか。そう願うのはどちらの感情なのだろうか。

 目が眩む程に眩しい存在。腕を伸ばし掴んだその手を握って欲しいと願うのは、愚かな事なのだろうか。傲慢で我儘で身勝手で浅はかだ。その権利がないと知っていても願わずにはいられない。自分だけを見て欲しいと願わずにはいられない。

「……困らせたな。忘れてくれ」
「忘れるなんて……」

 出来るわけがないじゃないか。
 忘れてしまったら、そうしたらお前の気持ちは何処に消えてしまうのだ。

 ――何を望んでいるのだ。どうして欲しいのだ。私は……何を君に言えるの?

 絡まなくなった視線。視界の端にお互いの存在が映っているものの、そこに意識を向ける事は出来ない。
 燕青が立ち上がろうと足に力を入れると、牡丹の手が燕青の肩を掴み、動きを阻止した。

「主……?」
「女と寝るな。とは言えない。私にそれを言う権利はない、と思う。だが、お前は李師師と一夜寝所を共にする事なく、梁山泊の意思を伝える事が出来ると信じている」

 本当は寝て欲しくないに決まっている。私以外を見ないで。と素直に言えたらどれだけ楽だっただろうか。然し、そんな事言えはしないから。だから牡丹は、盧俊義と言う男の言葉に思いを託した。

 震える小さな手、眉間に眉を寄せ眉尻は落ち苦し気に目を細めている。牡丹は気が付いていない。今、自分がどんな表情をしているか。その目に映る翡翠の目しか映っていない。懇願するように、今にも泣きそうな表情で燕青を見ている事は、男にしかわからない。

 ――あぁ、その顔が見れただけでもいい。

 眩しい光の中、伸ばした手は繋いでくれはしないのかも知れない。だが、伸ばし掴んだ手を払われる事はないのだ。

「天巧星燕青。主の信頼に応えてみせましょう」
「信じているぞ」

 そうして一夜を過ごし、昼間盧俊義の噂を聞いた令嬢たちが牡丹の為の茶会を開き、牡丹もその席に呼ばれた。牡丹の顔を見た瞬間、無事でよかったと涙を流す令嬢や、ほっと息を吐く令嬢と実に様々な反応を見せてくれたが、共通して皆牡丹の心配をしていた。

「何事かと思いましたわ」
「えぇ。私も父から聞いた時は何かの間違いだと主張しましたが、父が心配いらないとだけ……」
「何かのお仕事でしたの?」
「お体に大事ありませんか?」

 矢継ぎ早というには少しだけ遅いが、令嬢たちは自分たちの聞きたい事を片端から牡丹に尋ねる。その度に牡丹も答えようとするが、他の令嬢の質問が飛んできて、答える隙が全くない。

「皆さま、玉麒麟さまが困ってらっしゃいますわ」
「あ! 私ったら……申し訳ございません」

 頬に薄っすらと紅を浮かべ照れたように謝る令嬢たちの姿に、牡丹は言い知れぬ罪悪感を覚え、焦ったように気にしないでくれ。と言った。

「それよりも、君たちに謝らなければならない事がある」
「何でしょう?」
「新しい仕事の関係で、君たちに付けてもらった玉麒麟という名を使う事にしたのだ」

 賊に入山したのであだ名を使用しています。なんて正直に言えるはずもなく、ぼんやりと誤魔化しながら伝えると、令嬢たちは嬉しそうに笑い、良かった。と口にした。

「玉麒麟さまのお役に立てたのなら嬉しい限りですわ」
「えぇ。玉麒麟さま、今度はどんなお仕事を?」

 無邪気に尋ねる令嬢の視線をさらりと流し、牡丹は口元に一本だけ立てた人差し指を当てた。

「秘密です」

 その真実を知っている燕青は、いつもの様に木の上からその様子を見ていたが、牡丹の台詞に肩を小さく揺らして笑った。牡丹は燕青が潜んでいる木に向かって一睨みすると、燕青は可笑しそうに笑いつつも、申し訳なさそうに眉尻を下げながら、謝罪の意味を込め右手を顔の前に立てるも、牡丹にはその姿が見えないから何の意味もなかった。

 その日、夜までに時間はあるが、支店に行くにはあまりにも時間がない。そんな中途半端な時間をどう過ごそうか。と市の露店を見ていると、一冊の本が牡丹の目に留まった。

「店主。これをくれないか?」
「はいよー」

 牡丹が手に取った一冊は全ての頁が白紙で、好きなように書き込めるものだった。

「主それをどうするんだい?」
「折角梁山泊に入山した事だし、日記でも書こうかと思ってね」
「それはいいねぇ」
「勿論お前の事も書くよ。私の傍にはお前がいるのだから」

 本の表紙を指先で撫でる牡丹の表情を窺い知る事は出来ない燕青だが、言葉の端々から穏やかな優しさを感じる。だから、今の牡丹はあの穏やかな笑みで笑っているのだろう。と、いつだったか東州の花畑で見た牡丹を思い出した燕青は、ふっと力を抜いて笑った。

「然し、うちの硝子を使う店も多くなったな」
「そりゃそうだ。主があんだけ頑張ったんだからな」

 潰れる寸前の貿易商を誰にも負けない大企業に成長させた牡丹は、今や富豪の仲間入りだ。
 そんな牡丹に対し政略的な結婚を望む人間もいる。例えば、宮廷に仕えている人間の娘。その中の一人が牡丹に甘く蠱惑的な誘いをして来た事がある。自分と結婚すれば中央に口を出す事が出来る、と。だから婚姻を結ぶ事に価値があると。その話を聞いた牡丹は笑って断ったのだが、燕青はその限りではなかった。

 予感が的中したからだ。

 燕青は知っていた。牡丹が富豪になる事を、その器があると言う事を。生まれ持った超人的な魅力を。その魅力に引き寄せられて今があるのだから。だからこそ従者の道を選んだというのに、それでも求めてしまうのだ。

 その場で断った牡丹にどれだけ安堵した事だろうか。微かに見える一縷の光に縋る気持ちがどれだけ醜く愚かな事なのか。

 夜、牡丹と燕青は李師師がいる妓館に行った。李師師を買うのに必要な金の倍の額を支払うつもりだった二人であったが、李師師が燕青の身体に彫られた見事な刺青を気に入り、思ったよりも安く李師師を買う事が出来た。
 妓館で一番華美な部屋に消えて行く李師師と燕青を見送った牡丹は、猫を呼んで慣れたように部屋に行く。いつもなら燕青も側にいるのに、と猫は小首を傾げて口を開いた。

「燕青大兄はどうされたのですか?」
「今日は仕事でいないのだよ。私だけでは不満かい?」

 隣を歩く牡丹よりも、僅かばかり背の低い猫の視線に合わせるように腰を折った牡丹。その距離は近く猫は心臓を大きく跳ねらせる。刺青と顔立ちが目立つ燕青の影に埋もれているが、盧俊義の顔立ちは目を引くものがある。そんな顔が近くにあるのだ、猫は目を回さずにはいられない。

「あのっ、旦那様……ご容赦を」
「容赦? 猫を責めているつもりはなかったのだが。怖がらせたのならすまない」
「いえ、怖かったわけでは……その、旦那様の顔があまりにも美しくて」

 顔を真っ赤にして言う猫の台詞に牡丹は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

 浪子と常に呼ばれるのは燕青であって自分ではない。鏡を見ても顔が整っていると思った事はない。無意識に傍にいる燕青と比べているからかも知れないが。
 初めて顔が整っていると言われた牡丹は、気恥ずかしくなり猫から視線を外し、軽く折った腰を元に戻し、照れた顔を隠すように口元に手を当てた。

 一方その頃、李師師の蠱惑的な誘惑を燕青は冷や汗を背中に流しながら躱していたが、そんな事を露とも知らない牡丹は、身体を休める為に長椅子に腰掛け、猫が淹れたお茶に舌鼓を打っていた。

「さて、今日は何を聞かせてくれるのかな」
「はい、旦那様。それでは――」

 長椅子に腰を掛け肘掛に肘をついて頬杖する牡丹の正面に座る猫は、事細かに何があったのか、どんな話を聞いたのかを桃色の小さな唇で語っていく。
 猫が淹れた温かいお茶の湯気がすっかり姿を消し、器まで冷めきった頃猫の唇は動く事を止めた。

「ありがとう。君は随分と話し上手になったな」
「旦那様のご指導のお陰です」
「違うさ。私は何もしていない。君の努力の賜だ」

 正面に座る猫の頭を撫でると、少女は嬉しそうに笑い頬を赤く染める。いつもであれば燕青が碁や芸を教えているのだが、その燕青がいない今、手持ち無沙汰だ。と顎に指を当て何をして時間を潰そうかと考えていれば、猫は自分の手を落ち着かない様子で触りながら、大きな瞳で牡丹を見上げた。

「あの、旦那様。お時間があれば是非、踊りを見て欲しいのですが」

 睫毛を震わせ、恥ずかしさと緊張が混ぜ合った表情で牡丹を見上げる猫のお願いを、断る筈もなく、牡丹は二つ返事で頷くと猫は一度頭を下げて、扇を取り出しゆったりと動きだす。
 猫の舞踊は素晴らしいと手放しに褒められるものではなかったが、見ない間に随分と成長したようで、目を見張るものがあった。

「随分と良くなったな。驚いた。このまま励みなさい。お前はこの妓館で一番の妓女になるよ」
「ありがとうございます!」

 その後、猫に舞や詩を教えながら時間を過ごしていると、猫が船を漕ぎ始めた。完全に寝てしまう前に猫を持ち上げた牡丹は、部屋の寝台に連れて行くと、猫は牡丹が身に纏っている長袍の裾を掴み、離れる事が出来なくなった牡丹は、寝台に座り、太腿の上に猫の頭を乗せた。寝難そうに眉間に眉を顰める猫の髪に刺さっている簪を取ると、猫の眉の皺がなくなり、肩を上下に動かして静かな寝息を立てている。
 簪を蝋燭の火で明かりを照らし、その趣向を眺めた。

 ――何故だが、こういう簪を身に着けたいとは思わなくなってきたな。

 元々身に着けたいと思うような性格ではなかったように思えるが、東州の家の中には沢山の装飾品があった。その日の気分で飾りを選び身に着けていた。然し今、手元にあったとしても付けはしないだろう。

 片膝を立て猫の髪を指先で梳くように撫でつけていると、足音が牡丹の耳を掠めた。その足音は牡丹がいる部屋の前で止まり、わざとらしく響かせていた足音に牡丹は小さく笑い。扉の向こうに向かって声をかけた。

「おかえり」

 静かに扉が開き、髪の長い男が部屋に入って来る。寝台付近しか蝋燭の明かりがない為に、ぼんやりとしか男の姿を見る事が出来ないが、それでも馴染みのある気配に牡丹は口元を緩めた。

「ただいま。主」
「お疲れ。守備はどうだ?」
「ちゃんと李師師の姉さんに伝えて来たぜ」

 寝台に近付いて来た燕青は、牡丹の太腿の上で眠る猫を視界に入れた。
 全身の力を抜いて眠っている猫の頭を撫でながら、片膝を立てている牡丹を見て燕青はポツリと声を零した。

「本当に男みたいだな」
「何をおかしい事を言っている。私は男だぞ」

 息をするように、それが恰も当然のように言い放った牡丹に対し、燕青は違和感を覚えたが、実際今の牡丹は盧俊義なわけだから何も言わないまま、猫を持ち上げ枕の上に少女の頭を置いた。

「猫は可愛いな」

 寝台で横になっている猫を、牡丹は目を細め愛おし気に見つめている。その視線は東州の弟を見つめている時のようでいて、それ以外の感情も孕んでいるように見え、燕青は牡丹の心情を察する事が出来ないでいた。

 そんな燕青に気付く事なく、牡丹は猫を起こさないように静かな声で話し始めた。

「今日初めて猫に顔が良いと言われたよ」
「お茶会の令嬢たちも言ってるがねぇ」
「あれはお世辞交じりだろう。猫は顔を真っ赤にして言ってくれたのだ。可愛いだろう」

 牡丹は猫に近付き頭を撫でると、立ち上がり明かりを持って文机まで移動した。
 昼間のうちに買った白紙の本を取り出し、備え付けの筆を取ると、昨日の出来事や今日あった事を書き始めた。その中に燕青が登場しないわけもなく、牡丹は李師師とどんな話をしたのか燕青に聞くと、籠手に包まれていない剥き出しの指先を顎に当て、宙を見ながら何があったのかを語り出す。

「それで、義兄弟の契りを交わして来たと」
「まぁな」

 しつこく誘われた事は牡丹に伝えず、ただ義兄弟の契りを交わして来た。とだけ伝えた燕青に対し、それだけではなかったのだろう。と推測したが、本人が伝えたくはないのだから深く聞かないでおこうと、決めて筆を走らせた。

「上手くやってきたようで何よりだ」
「あぁ、あと、皇帝にも会ったぜ」
「――は?」

 突然の告白に牡丹の日記を書く手が止まり、目を大きくさせたまま燕青を見上げた。

「皇帝と……会った、だと?」
「ん? あぁ。そんで皇帝が偉く梁山泊の事を気に入ってくれて、会いたいとの事だったぜ」

 どうしてこの男はこういう大事な話を、日常会話のように伝えるのだ。
 どうにかならないのかと牡丹は頭を悩ませたが、そんな事をしている時間も惜しい位に牡丹は今後について頭を働かせなくてはならない。

 いずれ官軍になりたいと宣言した宋江の願いを叶えるなら、この先官軍になる準備をしなければならないし、その機会を作らないといけないと思ってはいたが、こんなに早く機会が訪れて来るなんて思ってもみなかった。
 これもそれも、この燕青は有能な所為なのだろうか。と半ば睨みつけるように燕青を見上げた牡丹だったが、燕青を睨みつけるのもお門違いだ息を吐き謝ると、燕青は呵呵と肩を揺らして笑った。

「兎に角、この話を梁山泊にも伝えるぞ」
「はいよぉ」

 持っている筆で書簡を書き始めた牡丹は、それを仕舞い猫が寝ていない寝台に横になった。燕青はというと壁際に移動し床に尻をつけ背中に壁を付けて目を瞑る。その寝かたでは取れる疲れも取れないだろうに。

「こっちに来て一緒に寝るといい」
「は?」

 心底驚いた声が部屋に響いた。それに対し寝台の真ん中に横になっていた牡丹は、もぞもぞと動いて端に寄り、燕青が寝られる空間を作った。

「早く来い」

 半ば命令するように燕青を呼ぶ牡丹の声に反応するように、燕青は立ちあがり寝台に近付いた燕青は、寝台に寝そべる牡丹の頭の横に手を付けた。横たわる牡丹の上に燕青の上半身が覆い、解いている男の長い髪が白い布の上に垂れ、その内の一房が女の頬を掠めた。

「こういう事、想像出来なかったのかい?」

 燕青の整った顔が驚き目を見開いている牡丹の顔に近付く。男の長い前髪が額に落ちて牡丹は目を細めた。ゆっくりと燕青の薄い唇が動き、翡翠の瞳が牡丹の瞳を熱っぽく射抜く。燕青が紡ぐ言葉を待つように、熱を受け止めるように牡丹はじっと翡翠を見つめる。

「俺は男で主は女だろ」
「何を言う。お前も私も男だ」
「主!」

 頑なに自分の性別を偽る牡丹に向かって燕青が怒鳴るも、それを気にしていないようで牡丹は呆れたように燕青を見上げる。
 布団の中に潜っていた牡丹の手が燕青の胸を押し上げるも、男はビクともせずそこにいる。

「盧俊義。そう決めたのはお前だろう」
「そうだが、そうじゃないだろ!」
「何も違わないだろ」

 胸を押し上げる牡丹の手を取り、寝台に縫い付けた燕青は眉間に皺を寄せて怒鳴るが、そんな燕青に牡丹は淡々と言葉を紡いでいく。
 燕青が掴んでいる牡丹の手首は自分より細く、目下にある首も細い。何よりも体格が違う。幾ら晒を撒いているといっても牡丹の体格と燕青の体格は圧倒的に違う。

 それだというのに牡丹は同じ男だと言い張る。

 それが堪らなく嫌で、嫌悪感すら抱くこの感情に名前をつけるとすれば、苛立ちだ。
 それは女の牡丹を男にした過去の自分にではなく、例え今、盧俊義だという男だとしても、女である事に変わりはない筈なのに、男と言い張る牡丹に対してだ。

「いい加減に寝ろ。私は眠たい」

 牡丹は話が終わったと言わんばかりに、燕青の腕の中で寝返りを打った牡丹は燕青に背を向けて目を閉じた。

 これと決めた事を覆さない事を知っている燕青は、自分の腕の中で目を瞑っている牡丹を見て深い溜息を吐いた。勿論完全に眠っているわけではない牡丹の耳にその溜息は届いていたが、気にも留めず目を瞑り続け、燕青は大人しく牡丹の隣に横になり落ち着かないまま視線を牡丹の背中に向けた。

 細い肩は呼吸に合わせて動いている。その気になれば、女の全てを暴く事だって出来るのに、背中を向けて寝ている牡丹はそんな事を考えていないかのように振る舞う。

「主……」

 そっと牡丹を呼んだ燕青だったが、それに対して返事が返って来る事はなかった。










 皇帝に拝謁する為に集まった梁山泊の面々。勿論百人を超える人数で押しかける事は出来ないので、天罡星三十六の面子で拝謁した。
 悪政圧政と名高い皇帝はまだ年若く、李師師や燕青を気に入ったのか、はたまた燕青から聞いた梁山泊の活躍を気に入ったのか、溌剌と笑い、官軍に入るように言うと傍に仕えている中年の男が皇帝にすぐさま意見するも、皇帝はそれを退ける。中年の男が苦虫を潰したような顔をし、梁山泊の頭領である宋江を睨みつけた。

「高俅、軍の事はお前に任せる。これまで通り、俺を楽しませてくれ」
「はっ、陛下のご意思のままに」

 陛下の前で頭を上げる事は許されない。牡丹はこの腐敗している政治の根源である高俅がすぐ傍にいるというのに、その顔すら見られない事に憤りを感じながらも、皇帝が高俅に任せると言ったのだから、顔を見る機会くらいはあるだろう。と心を落ち着かせ、耳から入って来る情報を必死に拾い上げた。

 梁山泊は官軍に入った為に、軍の規律に従い宮廷の外には出られない事。高俅の直属の部下になる事。反乱軍を抑える為に今からでも出発して欲しい事。
 それらを皇帝が高俅に指示すると、高俅は戸惑いながらも「陛下の意のままに」と口にした。

 ――確か高俅はない筈の反乱軍を作りだし、その手柄を皇帝に報告しているような奴では。

 牡丹が高俅の情報を頭の中に浮かべた。これもその偽りの褒美の一つになるのだろうか。
 勘繰りを入れるも、皇帝の命令に逆らうような愚か者でもない筈だ。そう結論づけ、何処の反乱軍を抑えに行くのかと、最近耳にしている戦場を幾つか頭の中に思い浮かべた。

 今一番激しいのは、確か……南櫂だった筈。

 牡丹のその予想は的中し、梁山泊の面々は南櫂に送り込まれた。

「これで僕たちも正式に官軍だ! ありがとう、玉麒麟、燕青!」
「何を言いますか。大変なのはこれからですよ」
「わかっているさ!」

 念願だった官軍に入れたというだけで浮かれている宋江を尻目に、今の戦力でどうやって戦っていくかを牡丹は頭の片隅で考えるも、何の解決策も思い浮かばなかった。せめて訓練する時間があればよかったものの、高俅はそんな時間を与えてはくれなかった。

 ――単純に、証言者が増えるのが嫌なのだろう。

 無を有に、有を無にして来た男は、隠ぺい工作や証言を合わせる為に金で関わった人間を買っていたに違いない。然し、それは数人だから出来た話で、梁山泊のように何百人ともなれば、支払う金がなくなり、褒美を貰っても意味がなくなる。だったら手っ取り早く激しい反乱軍の中に投入して戦死させてしまえばいい。そうすれば元通りになるのだから。
 が、高俅の考えを読めた所で、梁山泊の戦死まっしぐらという状況は何一つ変わらない。
 百を超える組織であっても、手合せをした時に感じた実戦経験のなさ。個々の能力は高いのだろうが、協調性がまるでない。賊として活躍していたから、複数人での協力は経験しているのだろうが、それも少ないのだろう。その証拠に、梁山泊に入山した時の戦闘の際、個々で攻撃を仕掛けて来る人間が殆どだった。

 まぁ、全員の腕を調べたわけではないが。
 あの時様子見を決めていた人間は多くて、血の気の多い人間としか戦闘していない。

 先ずは、組織としての動きを叩き込むしかないな。
 戦は集団戦だ。個々の能力が秀でていても組織の能力の前にそれは無力でしかない。

「宋江、南櫂に着く前に話があります」
「なんだ?」
「戦闘の事ですが――」

 何処が駄目なのか、どう改善すればいいのかを呉用を交え話し合い、牡丹は軍師として戦場の指揮権を授かった。戦まで時間がない今使える手は少なく、高俅から与えられたのは古びた投石機と僅かなお金だけ。これだけで何が出来るのかと牡丹が頭を悩ませた結果、貰ったお金で古く安い油と小麦粉を買う事だった。

 部下にそれらを買ってくるように指示し、更なる作戦を組み立てていく牡丹は、燕青に槍を握りたいと言おうかギリギリまで悩んだが、後方にいないといけないのであれば、必要もないか。と砂埃が舞う戦場で弓を強く握った。

「いよいよだな」
「あぁ。勝つぞ」

 初めての戦場に不安や高揚感を隠せない面々。十人十色様々な反応を見せる梁山泊の人間に牡丹の声が響くように大きな声を出した。

「聞け、戦人たちよ! 我らは朝廷に仇なす愚か者に鉄槌を下す官軍なり! 皇帝の裁定を此処に見せつけん!」

 男たちは雄叫びを上げた。その光景は義勇軍で見続けた光景に少しだけ似ていて、牡丹は小さな笑みを零した。

 義勇軍にいた時よりも戦力は少ないが、梁山泊はよくも悪くも数が多い。それこそ幹部を百八人置かないといけない位には。戦力を期待できない分、数にものを言わせるしかないのだ。何も城攻めをしているわけじゃない。勝ち筋が見えないわけでもない。

 戦闘開始の銅鑼の音が鳴り響く。

「騎馬隊構え。投石機装填用意!」

 木で出来た投石機が前に出る。牡丹が得意の戦法の一つ。歩兵の数を減らす為の投石機だ。だが、投石機の出番は精々一回か二回。次に必要となって来るのは弓兵だ。

「一投、放て!」

 牡丹の合図で投石機が動きだし。勢いよく飛び出した石が接近しつつある歩兵の頭上に降り注ぐ。然し歩兵はまだまだ迫りくる速度を緩めない。

「弓兵一段目構え! ――放て!」

 弓兵が弓を放つも先頭にいる盾役がそれを弾いてしまう。牡丹程の実力があれば盾役の隙間を縫って攻撃する事が出来るが、先日までただの賊だった奴らにそんな事は出来ない。

「弓兵ニ段目上に構え! ――放て!」

 今度は真っ直ぐではなく、斜め上に構えた矢が弧を描くように飛んでいく。それでも止まらない敵の勢いに、牡丹は用意していた騎馬隊に小麦粉の入った袋と、油の入った新品な木箱を持たせそれぞれ別方向に走らせた。
 盾役を先頭とした騎馬隊は、二手に別れ敵軍の中を突っ切って行き、歩兵隊を三つに分ける。牡丹たちから見て右側の歩兵隊には適当な間隔で油が入った木箱を落としていく。
 真ん中の歩兵隊を飛ばし、牡丹たちから見て左の歩兵隊に向かって、小麦粉が入った袋を持った騎馬隊が袋の口を開け視界を妨げるように、袋の中に入った小麦粉を散らしていく。一方、適当な間隔に置かれた箱を不審がり歩兵隊が持つ槍で木箱を刺すと、中から黒い油が漏れ地面に広がる。
 歩兵隊が三つに分断されたのを見計らった牡丹は、投石機を油が置かれた歩兵隊目掛けて発射させ、木箱を壊していく。石の威力で壊れた木箱からは黒い油が飛び散り、地面を濡らしていく。牡丹は素早く矢先が燃えている弓を構え、漏れている油を目がけて放った。黒い油に燃えている矢が刺さり一瞬にして炎が広がり、あっという間に炎の海が出来上がる。
 その中にいた人間や、それを目撃した歩兵隊が我先にと逃げるも、牡丹は素早くまた矢先が燃えている弓を構え、小麦粉と砂埃が舞っている所を目がけて矢を放った。すると、空気中に舞っている粉に引火し、誘発されるように粉から粉に次々と燃えていく。それは爆発したかのように勢いを増し広がっていく。
 左右には逃げられない。勿論後ろには騎馬隊がいる為に下がる事も出来ない、敵の歩兵隊は進むしかなく、三つに分けられた真ん中の隊が走って突撃してくる。

「盾役前に! 槍兵構え!」

 我武者羅に左右に燃える炎の恐怖から逃れる突進してくる歩兵を正面切って槍で刺して無力化させていく。

「歩兵隊進め!」

 地面に倒れていく敵の人間を踏み台にして突き進む歩兵隊。そこに属しているのは戦闘に自信がない人間ばかりだ。だが、今牡丹の戦略が上手く填まり、信頼が寄せられている。
 牡丹の指示に従っていれば勝てるかも知れない。その希望が槍を持つ手に力を与える。

「全軍、進め!」

 牡丹を含め全軍が前に進み出す。数にものを言わせた戦闘は見事に梁山泊に勝利をもたらした。軍を指揮し自ら戦う牡丹の視線の先には長い髪を持った男の背中があった。

 後日、勝利の報告を持って帰えると、高俅は一瞬顔を顰めたがすぐに笑顔を作り報告書を受け取った。梁山泊の幹部は妓館に繰り出し、自分たちの武勇を妓女に語った。それを聞いた李師師は梁山泊の活躍を皇帝にも伝えた。
 それは、高俅が皇帝に反乱軍を収めた報告をする前の事で、皇帝は嬉しそうに高俅に話しかけた。

「高俅。梁山泊の連中が活躍したそうだな」
「っ! え、えぇ……意外と使えるようで……」
「褒美を取らせよう」

 皇帝の機嫌の良さと梁山泊の活躍に、高俅は危機感を覚えた。

 今、皇帝の寵臣は自分だけであり、自分だけがその信頼を勝ち得ていた。だからこそ宮廷内を好きに出来ていたし、この国を後ろから支配する事も出来ていた。
 甘い蜜を啜り、紙幣で出来た扇で風を浴びていた。
 それが今、崩れかけている。ぽっと出の梁山泊という下等な人間な所為で。
 高俅にとってそれは耐え難い事であった。このまま行けば梁山泊は皇帝の寵臣になってしまうかもしれない。例えならなくても梁山泊は皇帝の目にかけられ、自分が受ける筈だった褒美を与えられるかも知れない。

 自分の知らない所で繋がっているのは非常に危険だ。

 高俅は急ぎ、梁山泊を戦地に送り出した。だが、そこでも梁山泊は軍師である牡丹の指示のもと官軍に勝利を与え、無事に帰還した。それを聞いた皇帝は褒美だと言い酒を振る舞った。
 皇帝から振る舞われた酒は滅多に見かけない銘柄の物で、梁山泊の面々はそれを喜々として飲み漁った。顔を真っ赤にし、酩酊している者もいれば、酔いが回って宮廷内に与えられた部屋で寝転がっている者もいる。その中には頭領である宋江の姿はあったが、牡丹と燕青の姿はそこにはなかった。

 頭領と副頭領には個室が与えられており、副頭領の部屋には当たり前のように燕青が寝泊まりしている。戦場でも傍にいる二人に梁山泊の人間は、主従とはそういうものなのだろう。と納得し、宮廷の人間に話をつけていた燕青は、牡丹の部屋に寝台を二台置いてもらうよう話を纏めていた為に、一人部屋だが寝台が二台あり、燕青はそこで寝泊まりをしている。

 ただ、一人部屋に寝台が二台だと狭くて机は置けても椅子が一脚しか置けず、二人は皇帝から与えられた高価な酒を寝台に腰掛けながら嗜んでいた。
 滅多に酒を嗜まない牡丹は、ごく僅かの量を口に含んで喉に流していく。付き合いや妓館で酒を呑む事はあるが、それでもほんの僅かだ。情報収集に妓館に来て酒に溺れるなんて目も当てられないと、頼んだ酒は燕青に飲ませている。

「主とこうやって酒を呑むのは久しぶりだねぇ」
「そうだな……まだ野宿をしていた頃、以来かもな」
「あの頃は主もたまに酒に付き合ってくれてたが、今は滅多に飲まないからねぇ」

 硝子で出来たお猪口片手に笑う燕青は、本当に嬉しそうで、牡丹は少しだけ付き合いが悪い事を反省した。もう少し付き合ってやってもいいかも知れないが、燕青程強くはないからなぁ。なんてぼんやりと今迄の燕青を思い出しながら、盃を仰いだ。

 決して強くはない牡丹に褒美の酒は強すぎた。
 燕青の半分も口にしていないのに、牡丹の顔が赤くなり思考がゆったりと低下していく。

「燕青」
「どうした? 主」
「なんでもないさ」
「そうかい?」

 ただ、名前を呼んだだけ。それなのに燕青が反応してくれた事が嬉しくて、牡丹は笑みを浮かべる。そこでふと回らない頭で考えた。

 ――この嬉しいという感情は一体誰のものなのだろうか。

 盧俊義のものなのか牡丹のものなのか。今の自分はどちらなのか。

 軍師としての、経営者としての盧俊義しか求められていなくて、この国を変えようとする牡丹は誰にも求められていないのではないか。それこそ。目の前で笑っている男にさえも。

 身体が熱くなり思考が正常なものでなくなっているのがわかっていても、考えるのを止められない牡丹は、桃色の唇をゆっくりと開く。

「燕青。私の名前を呼んでくれないか」
「どうしたんだい。主」

 困惑した表情を隠しもせず燕青は牡丹を見つめた。籠手が外された右手で持っていた盃を机の上に置き、首を傾げる燕青に向かって牡丹は、酒が回り上気した頬で男を半ば睨みつけるように見つめる。

「私の名は主≠ネのか?」

 ――君ですら、牡丹を必要としていないのか。

 裏切りとも違う。期待外れも違う。牡丹は漠然と込み上げてくる涙に名前を付けられないでいた。ただ腹の底が震え胸の奥が軋み瞳に薄い透明な膜が張る。

 悲しいのだろうか。苦しいのだろうか。切ないのだろうか。

 燕青と関わった事で牡丹は一人だと知りえない感情を知った。愛おしさを知った。新しい幸せを知った。無情なまでの切なさを知った。ではこの感情は何なのだろうか。

「牡丹」

 ぽっかりと何かを失った胸の奥を満たす声だった。

 翡翠の瞳が真っ直ぐに牡丹を見つめる。正面からその視線を受け止めると燕青は力を抜いたように笑い、刺青が刻まれた逞しい両腕を広げた。
 その動作の意味が分からなく、牡丹が首を傾げると燕青は軽く手を動かし笑って見せる。厚い皮の手に誘われるように、牡丹は自分が腰を掛けていた寝台から立ち上がり燕青が胡坐をかいている寝台に膝を立て床から足を浮かせた。
 向かい合うように座る二人には微妙な隙間があり、尚且つまだ燕青の両腕は広げられたままだ。更に近付けばいいのかと、牡丹が腰を浮かして膝を足代わりに前に少し進むと、燕青の大きな手が牡丹の腕を掴み引き寄せた。

「わっ!」
「牡丹どうした? ったく、しょうがねぇなぁ!」

 突然の事に牡丹は目を白黒させるも、そんな事は知らないと言わんばかりに、燕青は牡丹を抱えるように抱き締め大きな手が乱雑に牡丹の頭を撫で、髪を乱していく。
 男として振る舞う牡丹の肩は、燕青のものに比べて細く薄い。片腕で包めるくらいに小さな身体は、男の胡坐の上に腰を下ろしてもまだ少し余裕がある。

「何に泣きそうになっているのかは知らないが、あんたはあんただろ」

 他の何者でもない。此処にいるのはただの女だ。
 言い訳を並べて盧俊義という男の皮を何も知らない牡丹に被せた。それが牡丹を悩ませる事になるとは考えてなかったわけじゃない。まさか自分を見失うまでだとは思わなかったが。この姿を知るのは自分だけ、それ以外の男も女も本当の牡丹の姿を知らない。性別を偽る事で牡丹を見失わせた事は、悪い事をしたとは思うが罪悪感はない。寧ろ愉悦感すらある。それが燕青という男だった。

「燕青。もっと呼んでくれないか」

 もう一度、自分を取り戻す為に。
 その願いに応えるように燕青は何度も牡丹の名前を呼んだ。その度に牡丹は微かに笑う。
 牡丹。その名の響きが耳殻を通して胸をじんわりと温める。もうずっと誰にも呼ばれていない本当の名前はどこか懐かしくて、安心感を覚えるものだった。どうしようもなく緩む口元を叱咤しながら、燕青の声で呼ばれた己の名前を反芻させて噛み締める。

「牡丹。牡丹」

 耳元で柔らかく空気が揺れる。
 その揺めきが蜜のように甘くて心が落ち着いていくのと同時に思考に靄がかかり始め、酔いが回った牡丹は穏やかな心地の中、瞼を瞑り意識を手放した。

「寝ちまったのかい?」

 その問いかけに牡丹は答える事が出来なかった。代わりに燕青の耳には穏やかな寝息が聞こえ自分の上半身に凭れかかるように眠る牡丹の寝顔を見て、翡翠の目を細めた。
 他人の前で弱点を見せない女が、こうして己の腕の中で眠ってしまっている。この腕の中は安心なのだと、安全なのだと言葉にしなくとも態度で伝えてくれている。それがどれだけの満足感を与えているのかなんて考えたこともないのだろう。
 ゾクリと背中が粟立つのを感じながら燕青は、ゆっくりと唇を動かした。

「おやすみ。いい夢を見てくれよ」

 燕青はそのまま背中から寝台に倒れ込み、牡丹と共に横になった。普段感じない人の温かさに自然と口角が上がる。翌日、目が覚めた牡丹がどういう反応をするだろうか。と想像しながら燕青も眠りについた。








 梁山泊が宮廷に召し抱えられてから、何度も戦を経験した。幸いな事に東州の義勇軍と戦う事なく済んでいる。梁山泊が出陣すれば必ず勝利出来ると言われるまでに知名度を上げた組織を皇帝が気に入り、梁山泊が寝泊まりしている宮廷の一画によく酒を運ばせている。

 皇帝の唯一の寵臣であった高俅は酷く焦った。自分の地位が揺らぐかも知れないという不安が、形となり目に見えるようになったからだ。梁山泊として軍部にある筈の盧俊義が知らない間に政務室にいる。大した後ろ盾がない癖に大きな面をしているのは、玉麒麟さまと黄色い声援を送る令嬢たちの親族が政務室にいる所為だ。と能力を買われ政務室に呼ばれている牡丹を内心で罵った。

 ここ最近金の収穫量が落ちていると言えば、牡丹は欧州に画期的な収穫方があると言って助言し、他国の貿易が……と言えば、相手の国の文化を教えた。
 それは全て牡丹が様々な情報を取り入れて来たからこそ助言出来るものだった。
 皇帝は金や他国との貿易が上手くいった事を喜び、牡丹に褒美を遣わすと言葉にしたものの、主上から下賜されたものが届くことはなかった。

「主……」
「燕青、どうした?」
「おかしくないか? なんで主が助言したのに、高俅が褒美を受けてんだ?」

 それは牡丹にもわからない事だった。梁山泊を管理する人間だからだろうか。それらしい理由にはなるだろうが、正しい理由にはならない。
 そもそも、盧俊義が褒美を受けていないと言う事を、周りの人間は知らないのだ。自然と、必然と情報が集まる牡丹だからこそ知っている。
 大した事ではない。と牡丹は気にも留めていなかったが、燕青は自分の主が正当な評価をされていないと、眉間に皺を寄せるも牡丹が何も言わないのであれば、と燕青からは強くは言わなかった。

 それよりも梁山泊として、貿易商として働く時間に加え政務室に引っ張られる時間が増えた事で、忙しく多忙な日々を過ごしていたが、そんな中でも耳に入るのは何処で反乱軍が反旗を翻しているのか。という知らせが牡丹の耳に入った。
 それは高俅の耳にも入り、牡丹たち梁山泊はすぐに反乱軍を沈める為に派遣された。

「玉麒麟がいれば負けるわけがない」

 そんな言葉が梁山泊の内輪で囁かれるようになった事も牡丹は知っていたが、その件に関しては何も口にはしなかった。
 いつもの様に牡丹は戦場になるであろう地形を把握し、無理のない作戦を立てていく。一週間に及ぶ戦いの最中、事件は起こった。
 反乱軍を沈めたその日。完全勝利とは言えないものの敵の大多数を打ち倒す事が出来たと、喜びに浸る梁山泊の中から牡丹の姿が消えたのだ。

「主は何処に行った 」
「えっ、いないのですか? おかしいな……」

 今回の戦、燕青と牡丹が離れる瞬間があった。それは燕青が殿を務めた時だ。軍師である牡丹は先に陣に戻り、それに続くように軍が陣に向かって走る。だが、燕青のように腕に覚えがある人間は、殿を務め敵の追撃を阻むのだ。本来なら勝ち戦には必要ない事だが、完全勝利ではない今回の戦には必要なものだった。しぶとい部隊がいたら強い者が殿を出さなければならない。
 先に陣に戻った牡丹は燕青の保護下から離れ、挙句に中遠距離の武器である弓しか手元になかったなら、何人かの兵で誘拐するのは容易かっただろう。

 燕青は牡丹が何処に連れて行かれたのか。と躍起になって探した。その姿を見た梁山泊の人間は口を揃えて「人を殺す目だった。殺されるかと思った」と後に語った。

 その頃牡丹は頭から冷水を被っていた。

「そちらさんの事を話してくれるだけでいいんだけどねぇ」
「……」

 誘拐され知らない土地に運ばれてから、もうどのくらいの時間が経ったのだろうか。体感時間的には長すぎる時間なのだが、恐らく体感時間程攫われてから時間は経過していない筈だ。

「ずっと無言を貫かれたら、どうなるかわかってんだろうな」
「もう少し痛い目を見ればわかるかい?」

 どんな脅し文句を言われても、口を割ることなんてしない。情報という武器がどれだけ鋭く攻撃力の高いものなのかを知っている牡丹は、どれだけ冷水をかけられようが、どれだけ暴行されようが口を割らなかった。
 それよりも、今目の前で残虐にも口元を歪めている男たちの正体を推測した方が建設的だ。
 体格からして武官だろう。服装もバラバラで、なんの集まりなのかが把握しきれそうにないが、このタイミングで盧俊義を攫うとなると、高俅か敵兵だろう。高俅が誘拐して情報を吐けというのはあまりにもおかしな話だ。となると敵兵の仕業ということになる。

 軍の脳味噌を誘拐するのは中々悪い手ではないな。
 おすすめはしないが。特に私という存在を誘拐するのは。

 両手を縛られ顔や腹に何発も喰らい、口の中が切れて唇の端から血が流れている。打撲で皮下出血を起こし肌の色が変色している。痛みで身体は疲れ果て残っているのは気力だけだ。

「俺たちあんたの所為で食い扶持が減ってんだよ。なぁ!」
「コイツ何も言わないならいっその事殺しちまおうか」

 その言葉に牡丹の肩がピクリと動いた。それを見た敵兵の残党が「死ぬのが怖いか?」と牡丹を煽り首筋に短刀を当てる。その表情は悦に浸っていて、無抵抗な人間を嬲り殺す快楽を知っているようだった。
 同じ戦場に同じ志の人間がどれだけいるのだろうか。少なくとも牡丹は嬲り殺す悦に浸る為に戦っているわけではない。国を変える為に身に血を浴びているのだ。

「黙れ下郎が。あまり図に乗るなよ」

 漸く口を開いた牡丹の声は怒気を孕み、自分を殺さんとしている残党を前に、目を三角にして鋭く睨みつけていた。

「おー怖い。……けどなぁ、お前この状況がわかってんのか?」
「お前たちこそわかっているのか? もうじき悪鬼羅刹が来るぞ。私をアレから取り上げた事、後悔するといい」

 牡丹の言葉の意味が分からなく、品のない声で笑う残党たちは牡丹に向かって唾を吐き捨てた。残党たちはこぞって口にする「助けなど来ない」と。然しそんな言葉牡丹には響かなかった。

 助けにやって来る。燕青は必ず。
 痛む身体。最後の残った気力で牡丹は燕青の到着を待った。今か今かとではない。必ず来ると信じているからこそ、この状況でも心に余裕がある。
 牡丹が押し込められている建物の一部が崩壊する音が耳を劈く。残党兵が何事かと周囲を見回すも状況が飲み込めていないでいる。

「来たか……」

 崩落の音が徐々に近付いて来る。それに合わせて男たちの断末魔が牡丹や周りにいる残党の耳に入って来る。
 
 ──片端から殺して回っているわけではないだろうな。
 
余計な殺しは好きではない牡丹は、燕青が殺しをしていないかを危惧していたが、燕青の歩いた後には人間だったものの臓物が転がり、頭から血を浴びている。深い緑を含んだ長い髪が赤黒く染まっている。
 石畳の床には燕青の足跡があり、それは赤く濡れている。
 向かってくる敵を漏れなく殺し、牡丹がいる場所を探し回ってとある部屋に辿り着いた。中からは残党兵の狼狽える声が聞こえた。

 ──この中にいる。
 それは確信だった。牡丹の声は聞こえなかったが、間違いなくこの中にいると、閉められた扉を蹴破った。室内には身動きを封じられ、肌の色を附子色に変えられた牡丹と、燕青の登場に唖然とし、呆然と立ち尽くす武装した残党兵が何人も立っていた。

 牡丹の口の端や、頬や腕と血を流している。服は濡れており近くには中身が入っていない桶が転がっている。

「あんた……誰だ……」
「我が名は天巧星燕青、主を返してもらおうか」

 目にも留まらぬ速さで駆け出した燕青は、手始めに一番近くにいた残党兵を殺した。武器を持っている人間に対し、燕青は籠手をしているだけ。それなのに、瞬きの間に武装している人間が死んでいく。

「燕青……!」

 殺すな。と言った牡丹の声は燕青には届かなかった。牡丹ですら目で追えない速さで次々と殺していく燕青の目に感情はなく、瞳孔が開ききっている。他人の返り血を浴び敵がいなくなるまで止まる事のない燕青に向かって牡丹は叫んだ。

「何をしている! 主の声が聞こえないのか! お前は誰の従者だ!」
「っ!」

 そこで漸く燕青は動きを止めた。然し、それは一人の人間を殺し終わった後で、残ったのはたった一人だった。その一人は燕青の姿に恐怖し気絶してしまっている。

「ある、じ……」
「漸く落ち着いたか。馬鹿者」
「すまない。すまない。主……主」

 縛られたままの牡丹を抱き締めた燕青の頬には涙が伝っていた。返り血塗れの燕青に抱き締められた牡丹の頬に触れる暖かさは、燕青のものなのか、ついさっきまで生きていた人間の温かさなのか、牡丹にはわからなかった。

 それからというものの、燕青は梁山泊を抜けるべきだ。と牡丹に進言するようになった。それは牡丹を誘拐し、殺そうとしたあの残党に軍師である牡丹の情報を流したのは高俅だったという事がわかったからだ。
 だが牡丹は首を横に振って燕青の進言を退けた。それは高俅が皇帝を後ろから操っているという事を知っていたからだ。梁山泊として宮廷に召し抱えられた今が一番、高俅を処罰出来る材料を手に入れられ、執行する機会だってある。
 その後も反乱軍を抑える為に様々な地に駆り出され、疲労が溜まっていた。そんな梁山泊の人間を鼓舞しようと牡丹は、妓館に梁山泊の人間を連れて行った。

 李師師を始め美姫が揃っている妓館は、戦続きの梁山泊の人間の疲れを癒してくれた。

「旦那様!」
「猫。久しいね」
「旦那様に会えない時間が永劫のように感じておりました」
「嬉しい事を言うな」

 頬を赤く染める猫の頭を牡丹が撫でると、猫は口元を緩めて笑った。

「盧俊義さまは私には見向きもしないのに、その子は可愛がるのだから」
「李師師大姐!」

 牡丹の傍に控えている燕青の隣に腰をかけたのか、この妓館一番。否、この国一番の妓女と名高い李師師だった。皇帝の愛人である事を知っている人間なら、誰しもが李師師には近付かないであろう。勿論牡丹もその一人であったが、梁山泊は官軍入りを果たす為に、燕青と李師師は義兄弟の契りを交わしており、その縁で牡丹も李師師と少なからず会話をするようになった。

「思ってもいない事を言う」
「あら? そんな事言ったかしら? 盧俊義さまにだったら私いいわよ」
「はは、止めておこう。簡単に手に入るとつまらない」
「ふふ。随分奥手なのですねぇ。燕青もそう思うでしょう?」
「主だからなぁ。ま、追われるより追う方が楽しい気持ちはわかるがな」

 ここぞとばかりに酒を呑む燕青のお猪口が空になり、猫が酒を注いだ。それを煽った燕青は急に苦しみだし、喉を両手で絞め、蹲り、何かを吐き出すような咳を繰り返した。

「ガハッ! ぐっ、は、はっ、あぁ!」
「燕青! どうした!」

 血の気が引いたような顔色の燕青の背中を、牡丹がさすり、それと同時に李師師に水を持ってくるように伝えると、李師師はすぐに水を持って来て牡丹に手渡した。毒が身体に回り切る前に吐き出さないといけないと、牡丹は水差しを燕青の口元に持って行くが、燕青は蹲ったまま苦しそうに顔を顰めている。

 埒が明かないと判断した牡丹は水差しを煽り、口いっぱいに含み燕青の唇に自分の口を重ね、無理矢理水を飲ませた。何度も何度もその行為を繰り返し、胃に入らなくなった水を燕青は吐き出した。その勢いで胃に入っている物も吐き出した燕青は、まだ苦しそうで、額から汗が伝っている。

「あ、るじ……すまな……」
「燕青!」

 息も絶え絶えで吐き出した言葉を最後に、気を失い牡丹に凭れかかるように倒れた。
 その一部始終を見ていた梁山泊の人間が、猫の胸ぐらを掴みか弱い女の身体を乱暴に揺らす。恐怖で声すら出ない猫は、助けを求めるように周りの人間を見るも、猫を見る視線は敵意に溢れている。
 猫は縋る思いで牡丹を見つめた。その視線に気が付いた牡丹は温度のない声で梁山泊の動きを制した。

「その娘に触るな」
「玉麒麟さん! けど、この女が燕青を……!」
「私に同じ事を二度言わせるつもりか?」

 猫の胸ぐらを掴む男を鋭く睨みつけると、男は猫の胸ぐらを離した。手放された猫は恐怖で腰が抜けまともに立てず、床に尻を着いて座る。そんな猫に向かって牡丹は声をかけた。

「猫、部屋を用意しろ」
「は、はい!」
「李師師、医者を呼べ」
「もう呼んでいるわ」
「ありがとう。お前たちはもう下がれ」

 梁山泊の面々は後ろ髪を引かれる思いで妓館を後にした。燕青は猫が用意した部屋の寝台に横になり、慌てた様子で到着した医者が燕青の具合を診る。
 金に糸目は付けないと牡丹が言うと、医者は張り切って燕青を診察し薬を投与した。暫くすると薬が効いたのか、顔色を青くし苦しそうに顰めていた燕青の表情は穏やかなものになり、不規則に短く発していた呼吸が安定したものになった。

「よかった」
「……旦那様」
「盧俊義さま。この度は申し訳ございません!」

 李師師と猫が拱手し頭を下げた。その声は緊迫を孕んでいて、牡丹に殺されても可笑しくないという緊張感が二人を中心に室内に広がっているが、牡丹は二人の謝罪が耳に入っていないかのように、燕青の手を握ったまま動こうとはしない。
 寝台の上で横たわる燕青よりも顔色が悪い牡丹は、自分の指先が白くなる程燕青の手を強く握ったままだ。
 これでは謝罪を受け入れてはくれない。と李師師と猫が立ち上がり、部屋から出ようとすると、この部屋に着て初めて牡丹が口を開いた。

「猫、教えてくれ。お前は誰かに何かを言われたのか?」
「私……私、知らなくて! 毒が入っているなんて聞いてなくて!」
「落ち着きなさい。私はお前がそんな事をしない子だという事を知っているよ」
「ッ!」

 猫は息を短く吸い込んで詰まらせた。やっと振り向いた牡丹の表情は今まで自分に向けられた事がない程に冷たく、冷めた瞳の奥には強い殺意が孕んでいたからだ。口元は笑っているのに、何も笑っていない。自分に向けられた表情じゃないとわかっているのに、息苦しくなり奥歯が震える。

「猫、どうした? さぁ、早く私に教えておくれ」
「……旦那様たちが入って来てから、私に男が話しかけたんです。これをお酒に混ぜると、元気になるよって……だから、私! 旦那様と燕青大兄に元気になって欲しくて! 毒だってわかっていたら、そんな事しませんでした!」

 涙を零しながら訴える猫を牡丹は無表情で見つめた。普段優し気に見つめてくれるその瞳が何も映していない事に気が付いた猫は、流れて来る涙を止める術がなく両手で顔を隠す。

 嫌われてしまった。
 殺されてしまうかもしれない。

 猫は牡丹を心の底から慕っていた。芸もない顔も可愛くはない自分を、利用価値があるからという理由でではあるが見出してくれた。芸や勉学を教えてくれた。それがどれだけ嬉しかった事だろうか。家族ではないのに家族のようで、大好きな人達で……。
 それなのに。 
 猫は、溢れる涙を零し続けた。嗚咽交じりの謝罪の言葉が譫言のように繰り返されている。李師師はそんな猫の肩を抱き寄せ、背中をさすり温度のない牡丹を見つめた。

「泣くな。泣く必要が何処にある」
「ですがっ! 私が!」
「君が泣いた所で時間は戻らない。わかるな?」

 それは諭すような声だった。猫は溢れる涙を拭い、真っ赤になってしまった眼で牡丹を見つめた。知らないとはいえ、警戒心がない故に共犯にされているのだ。
 なんでもいいから、盧俊義さまの力になりたい。地に落ちた信頼を何としてでも挽回したい。

「男は、盧俊義さまよりも背が高く、服装は芥子色で小綺麗なもので、顎髭を蓄えていました。名を聞くと、天に愛された毬だと」
「ちょっと、先ずは謝罪が先でしょ!」

 突然男の特徴を並べ始めた猫に先ずは謝罪をするように言った李師師だったが、猫はそんな李師師の言葉が耳に入らず、牡丹だけを見つめている。

「助かった。流石猫だ」
「旦那様のご意思のままに」

 李師師はそのやりとりを見て、自分が口を挟む必要がない事を悟ると、一歩前に踏み出し胸に手を当て牡丹に懇願した。

「旦那様、どうか私にも犯人を捜す手伝いをさせてください。義兄弟がこんな目に遭って復讐を望まない者が何処にいましょうか」
「では、一つだけ。皇帝に普段どんな報告を聞いているのか聞いて欲しい」

 それはとても難しい注文だった。
 皇帝の愛人とは言え、後宮に入っているわけではない李師師は、今まで皇帝の仕事に関して口を出した事がなかった。それは皇帝も同じで、民間人の李師師に宮廷の事を話すわけがない。

「仰せのままに」

 だが、李師師は牡丹の注文を断らなかった。自分の目の前でこんな事が起こるなんて、妓女としての誇りが許せなかったのだ。
 それから二人は音もなく部屋から出て行き、牡丹はまた寝台で横たわる燕青を見つめた。月光差し込む室内で、牡丹は祈るように燕青の手を額に当て、大丈夫だと繰り返し呟いた。

 それは自分を安心させる為のものなのか、はたまた深い眠りについている燕青に言ったものなのか、わからないまま、牡丹は肩を震わせ涙を流しながら燕青の無事を祈った。

 これ以上奪わないでください。お願いです。どうか。どうか。私からこれ以上彼を奪わないで。
 友人じゃなくてもいい。恋人になんて望まないから。従者である事で燕青がこんな目に遭うのなら喜んで手放すから。だから、どうか。どうか。彼を連れて行かないで。私から彼を取り上げないで。彼の為になら何でも差し出すから。だから、どうか。

 牡丹の頬に何度も涙が伝い、雫が落ちて染みを作る。額に当てた燕青の手が暖かい事だけが牡丹の希望だった。

 翌朝、燕青が目を覚ますと目を大きくさせた牡丹と目が合った。然しそれは一瞬で、牡丹は燕青の首に腕を回し抱き締めた。

「よかった……よかったよ。燕青」
「悪いな。心配をかけちまった」
「謝るな。今はもう少し寝ていろ」

 燕青が目覚めた事知った李師師は医者を呼んだ。診断では後遺症も残らず、任務にも支障がないだろうとの事で、何日も休養した燕青は牡丹の許しの元、職場復帰を果たした。その間、甲斐甲斐しく牡丹が世話を焼いたのだが、燕青と違い、世話を焼かれた事はある牡丹でも、世話を焼いた事が殆どなく、燕青に笑われた牡丹であったが、主従共々お互いに過保護な二人。医者が動けると診断したのに、牡丹はもう少し休むようにと言って、医者の診断より二日遅れの復帰となった。

「んで、俺に毒を盛ったのは誰だい?」
「まだわからない」
「あの場には梁山泊以外の人間もいたからなぁ」
「特定は難しいだろうな」

 牡丹は一つ嘘を吐いた。本当は燕青に毒を盛った犯人の正体なら知っている。それは高俅だ。彼は蹴鞠が得意で天子様に気に入られ宮廷に入ったのだから。だから猫に名前を聞かれた時天に愛された毬≠ニ答えたのだ。
 そしてこれは脅しでもあった。その気になればいつでも殺す事が出来るという意思表示なのだ。

 ──誰がそんな事をさせるか。

 今度は何処の戦場かねぇ。と暢気に欠伸をする燕青の横で、牡丹はひっそりと高俅を処刑に導く計画を立てていた。

 戦続きで疲弊している梁山泊の士気を高める為に開催した宴は、燕青が毒を盛られた事で不発に終わった。そこに更に制圧の任務が回って来ても、士気を高める事は難しかった。
 元々梁山泊の中には官軍になる事を、良しとしない人間も一定数いて、この戦続きでその感情が抑えられなくなり、宋江の元から離れる人間も後を絶たなかった。
 官軍に入った頃いた百八人の幹部が、今となっては半分にまで減っている。
 このままだと梁山泊と共に身を滅ぼす事になると、燕青は何度も牡丹に離脱するように勧めたが牡丹は頑なに首を縦に振らなかった。

「主! 賢いあんたならわかるだろ!」

 この先の事が見えていないわけじゃないだろ!
 と、燕青と牡丹が衝突する日が、日を追う毎に増えた。それに比例するように牡丹が燕青を置いて一人行動する事が増え、燕青はどうしたものかと頭を悩ませていた。

 ここ最近。牡丹が何を望んでいるのかがわからなくなってきたのだ。
 身を滅ぼす為に梁山泊に身を置いたわけではない。この国を変える為に此処まできたんじゃないのか。と燕青は頭を抱えた。
 そんな中牡丹に一通の手紙が届いた。それは李師師からのもので、内容は皇帝の口から聞き出す事に成功したと言う事と、皇帝が聞き入れた報告の内容が書かれており、牡丹はそれをじっくりと舐めるように見ると、勝ち筋が見えたように笑った。

 ──あぁ、これで漸く。お前をこの舞台から引き摺り落す事が出来る。

 圧政を行っている事を知らない皇帝。疫病が流行っている事を知らない皇帝。自分が傀儡である事を知らない皇帝。何も知らないで寵臣に裏切られている皇帝。

 それは何と哀れなのだろうか。

 その日高俅から任務が下った。それは今までで一番激しい戦場で、この疲弊しきった梁山泊ではとてもじゃないが制圧しきれないものだ。牡丹は高俅に何度も人員を要求したが、高俅はそれを全て退けた。
 大した人員もないまま駆り出された戦場は、想像するに容易く過酷で、どれだけ牡丹が声をかけようとも兵の士気は見るからに落ちていた。
 そんな中、敵兵の何人かが盾役を突破し、牡丹目掛けて走る。その両手には一本の槍が握られていて、戦闘を走る敵兵の心臓を射抜いた牡丹だったが、運悪くその一本で矢を使い果たし、どうする事も出来ないまま、向かって来る敵兵を見つめた。

「玉麒麟さま!」

 その言葉に反応したのは燕青だった。
 味方の兵すら間に合わないと目を瞑った瞬間、音もなく現れた燕青が、牡丹に槍を突き立てようとした敵兵の心臓を籠手で覆っている右手で貫いた。
 目にも留まらぬ速さで何度も打撃を喰らい、最後には心臓を一突きされた敵兵は声もなく地面に倒れた。地面には無数の燕青の足跡があり、それは燕青が新しい戦法を確立させた瞬間でもあった。
 結論から言えば、戦に勝った。が一応鎮圧させる事が出来た程度であり、いつ、またこの反乱軍が立ち上がるかはわからないものだった。
 そしてこの戦いを機に多くの同士が離れて行った。宋江はその全てを引き留める事はしなかったが、何か言葉を投げかける事もなかった。そうして無敵を誇った梁山泊は事実上解散した。
 多くの同士が去った夜。宮廷までの帰り道で宿泊している逆旅で、燕青は牡丹の部屋で説得を試みた。

「主、此処を出よう」
「断る」
「どうして俺の言っている事がわからない! 此処にいても身を滅ぼすだけだ。あんたが生きている限りこれからも機会はある。だが、此処であんたが死ねばこの国は本当に終わっちまう!」

 燕青は何度も何度も梁山泊から離脱するように説得するも、牡丹は中々その忠告を聞き入れなかった。それどころか、今回の戦で勝利した褒美にと、官位を上げてやると言われているとまで言ったのだ。

「どうしてちまったんだよ!」

 金に目が眩むような人間じゃなかった。そんな事燕青が一番よく知っている。従者である燕青には金をかける癖に、自分には金をかけない。未だに安い逆旅に泊るし、少しでも稼げば実家に仕送りしている。
 そんな牡丹が官位を求めているわけがない。と燕青は声を荒げるも、牡丹は厭らしく笑い言い放った。

「私には栄華が約束されている」

 そんな美味しい話を逃さない手はない。と。
 その言葉を聞いて燕青は深く傷付いた。髪を掻き毟り眉間に皺を寄せ今にも吐き出しそうな怒号を精一杯押し止めている。

 ──ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな!
 なんであんたがそんな事を言うのだ。何故俺の言葉を信用しない。どうしてそんなくだらない嘘を吐く。なんで俺を置いて行こうとするのだ!

 震える声を必死に隠し、縋る思いで燕青は口を開いた。

「だったら俺はもう主にはついて行かない」

 ──だから、どうか、俺を選んでくれ。主。
 
然し、そんな燕青の願いは虚しく、牡丹はあっさりと燕青の願いを聞き入れた。

「わかった。但し条件がある」
「あ?」
「私を女にしろ」

 牡丹の台詞に燕青は耳を疑った。それはどういう意味だと。

「お前が私を男にしたのだ。だったらお前が私を女にしろ」

 あんたは、俺に何を望んでいるんだ。そう言えたらどれだけ楽だっただろうか。

「……わかった」
「頼んだぞ」

 牡丹は衣服を脱ぎ、その柔肌を晒してく。腕には戦で傷ついた跡が薄っすらと残っており、燕青は、背中はもう少し濃く傷跡が残っているのだろうと、牡丹の身体に厚みを出す為に巻かれている晒を外した。
 予想通りに牡丹の背中には、路可を庇って出来た傷跡が残っており、それを目にした燕青は愛おしい気持ちが溢れ出す。誰にでも示す慈悲にどれだけ心を奪われた事か。
 晒を全て取った牡丹の身体は細く頼りない。腕を掴めば折れてしまうのではないか。と錯覚、否、折れてしまうのだろうと燕青は籠手を外し、牡丹に着付けていく。初めて会った時と同じような体験に、もしかしたら自分たちは何も変わって等いないのではないか。と現実逃避をしたくなるが、だったらこの込み上げてくる絶望感は何なのだ。と問いかけた。

 細い腕、しなやかな身体。艶のある髪。その全てが愛おしく、何処までも守っていくものだと疑わなかった。
 白粉を塗り唇に紅を引き、髪を整え、簪を挿した。すると牡丹は手持ちの鞄から高価な装飾品が入っている手提げを取り出し、その中から赤いトンボ玉の耳飾りを取り出して、それを燕青に差し出した。

「これも付けてくれないか」

 なんでこんなものが高価な装飾品が入っている手提げの中に入っているんだ。と一瞬言いかけた燕青だったが、その意味を知り言葉を詰まらせた。その手提げは以前牡丹が退職金だと言って差し出して来た手提げの中に入っていたのだ。
 その時は価値があるから売れば幾らか金になると、言っていた。つまり、ただの景品であるトンボ玉は、牡丹にとってそれだけの価値があるという事なのだ。

 喜びなのか後悔なのかもわからない感情のまま、燕青は震える手で牡丹の耳朶に触れ、小さな穴に耳飾りの針を通した。

「ありがとう」

 その声はいつもよりも高い音に感じた。
 女の姿になった牡丹は、目を伏せて笑った。
 それは、久しぶりに女になれた喜びなのか、約束された栄華に期待してのものなのかはわからなかったが、水蜜桃の頬に紅を引いた唇。晒を取った事で生まれる女の形。それらは自分の為にあるわけじゃない。という事だけは燕青はわかってしまった。

 なんて残酷な女だろうか。
 白粉を塗った頬を指先で、撫でるように触り、牡丹の肩を掴み押し出した。唐突の事に驚き、牡丹が足を何歩か後退させると、壁に背中が付き顔の横に燕青の腕が伸びる。決して触れないが、今にも触れそうな距離に牡丹は息を詰まらせた。

 そんな牡丹を尻目に燕青は、薄い肩に自分の額を置いた。

「俺に女にさせろって言ったくせに、俺じゃない誰かの為に着飾るんだな」
「うん」
「俺を置いて行くのか?」
「うん」
「酷い女だなぁ。あんたは」
「ごめん。ごめんね燕青」

 そこには盧俊義の姿はなく、主としての牡丹の姿もなかった。燕青の腕の中にいるのは、この国を変えてやると息まき、只管にその夢の為だけに突き進んだ女の姿があり、その姿に燕青は今も恋焦がれている。
 何処にいても何をしていても、誰になっていても、そこに牡丹の意思があるのならば、それだけで燕青は心を惹かれていく。
 守りたいと、傍にいたいと、支えてあげたいと、愛おしいと内側から溢れて来るのだ。
 傍に仕える事を拒絶されたあの日。あんたに俺の全てを伝えたと思っていた。それが間違いだったのだ。刺青に込めた忠節は届かなかったというのか。

 牡丹は燕青の背中に腕を回し、軽く抱き締めるとゆっくりと燕青の頭を撫でた。その手付きの柔らかさに、暖かさに燕青は涙を流した。

「俺の事は信じてくれないのか?」
「私は、栄華の為に歩みを止めない」

 ──ごめん。
 信じていなわけがない。
 大切で、大事にしたくて、恋しくて、愛おしい。
 
 こんな感情は初めてなのだ。こんなにも他の人を深く慈しむ事なんてないと思っていた。沢山の感情を貴方が教えてくれたから、人を好きになる喜びも、共にあれない切なさも、守りたいという思いも、失う事の底知れぬ怖さも、君の幸せを願う苦しみも。何もかもが燕青と出会って知った感情で、今にも張り裂けそうな程胸が痛くて、呼吸が出来ないくらいに苦しいのに、愛おしい。
 これから先、交わる事はないのかも知れない。それでもいい。それでもいいから、どうか幸せになって。

 燕青の胸の刻まれた自分と同じ名前の花を見て、牡丹は胸が痛んだ。燕青の意思をちゃんと受け取っていたからだ。
 抱き締めていた腕はぶら下がり、掻き抱きたい衝動を無理矢理抑え込んでいる。そんな二人がいる室内は静寂を保っていて、衣擦れの音でさえ響く。

「――燕青」

 そんな中、牡丹が男の名前を呼んだ。静寂だった空間はピンと糸が張ったような緊張感に包まれる。

「お前はいつまで此処にいるつもりなの」
「……っ!」

 牡丹の肩口に頭を置いていた燕青は、勢いよく顔を上げて牡丹の瞳を見つめた。自分よりも大きな目に映る燕青の表情は今にも泣きそうになっている。
 真正面から歪む翡翠の瞳を見ている牡丹が、その事に気が付かないわけがない。だが、いつまでもこうしている時間はないのだ。約束の時間が迫っている。唇が震える。それを目の前で泣きそうになっている燕青に気付かれないようにするのは至難の業ではあるが、震えを、迷いを気付かれるわけにはいかないと、牡丹は口を開いた。

「従者でなくなった君は、私の何だ。友人か? 恋人か? どれも違うでしょう」

 ──関係を決めたのは貴方だ。

「早く出て行って。女の部屋に男がいていいものではないからね」
「……あんたにとって俺は簡単に切り捨てられる存在だったのか?」

 どれだけ縋ってもお前は俺を捨てて行くのか? 俺が忠節を誓ったあんたはもう何処にもいないのか?
 俺はあんたにとってそんな程度の存在だったのか?

 答えてくれよ。牡丹!

 数秒の沈黙は永遠のように感じた。

「燕青。君はもう自由だよ」

 それが牡丹の答えだった。

 燕青は牡丹から離れ、両目を隠すように掌で覆い狂ったように笑いだす。身体の中にある全てのものを吐き出すような笑い。それなのに、どうしようもない絶望が孕んでいる。

 ──お前にとって俺は……。
 今まで尽くして来た忠誠を、忠義を軽んじていたのだ。遊びだったというのか。この国を変えるという言葉も嘘だったというのか!
 全ては狂言で、あんたの言葉に真実はなかったというのか!

 こんなに愉快で酷い裏切りもないと燕青は肩を揺らし、天井を見上げながら一通り笑うと、牡丹を鋭い翡翠の瞳で睨み窓硝子を割って外に飛び出した。硝子の破片が燕青の頬に傷を作るが、燕青はそんな事気にも留めず暗闇の中走り続けた。

 燕青が部屋から出て行った事を見送った牡丹は、深い溜息を吐いて背中を壁に預けながらしゃがみ込む。我慢していた涙が頬を伝い、床を濡らしていく。
 牡丹は声を殺して泣き続けた。破壊された窓から風が入って来ようと、気にも留めずに泣き続けた。
離れたくなんかない。ずっと傍にいたい。何処までも、何処までも――。

 然し牡丹の進む道は茨で出来ており、進めば進む程狭く生い茂り歩みを進める者に傷をつける。それを知ったのは、燕青が毒を盛られた時だ。あの時牡丹は自分が毒を盛られた方がずっとマシだ。感じ、燕青が二度と目を覚まさなかったら? と、恐怖に怯えた。
 この国を変える為にと真実に近付けば大切に思う人間を失うかも知れない。それだったら最初から手放した方がいい。その方がずっと楽だ。
 きっと燕青なら最後まで、例え死ぬとわかっていても側で守ってくれていたに違いない。

 ──だが、私は弱いのだ。貴方が思っている程強くなんてない。
 
 もし、守り切れなかったら。目の前で命を落としてしまったら? あの男はいつでも殺せると脅して来たのだ。用心するに越した事はない。その用心が決別だっただけ。
 何も悲しい事じゃない。例え嫌われたとしても、燕青を守れたなら、それでいいじゃないか。
 そんな感情とは裏腹に、締め付ける胸の苦しみに、吐き出したくなる痛みに頬を濡らし続けた。
 
 ごめん。ごめん。
 好きだよ。大好きよ。愛している。

 どの言葉も伝えられなかったものではあるが、どの言葉も牡丹の胸の内でひっそりと息をしていたものだ。あの花畑で二人の関係は変わらないものになってしまったが、それでも感じていたもの。
 この国を変える。その目的は今も変わっていない。それどころか、牡丹は以前より強く願うようになった。一重に大切な人間が増えたからだ。この国をよりよくする為の犠牲になら喜んでなろう。

 牡丹は無理矢理笑い、この部屋に来る客人を待った。
 燕青が壊した窓から入る風が寒いと感じ始めた頃、牡丹の部屋に客人が訪ねて来た。

「旦那様。朱華です」
「入りなさい」
「失礼しま……え?」
「驚かせたね。先ずは部屋に入りなさい」

 朱華は牡丹の姿を視界に入れて、目を丸くした。
 それもその筈。朱華が知っている盧俊義は男であり女の姿ではない。それなのに、今目の前にいる女は、違う姿で盧俊義と同じ声を出している。

「先ずは君を騙していた事を謝ろう」
「騙していたんですか?」
「あぁ」

 牡丹は自分に纏わる事を全て朱華に話した。本当は女である事、商売をしていく上で女の姿は何かと不便だから男になった事。梁山泊に入った事。朱華を呼んだ目的。
 朱華は口を挟む事なく黙って牡丹の話を聞いた。然し、その姿を俯いており、牡丹からは朱華の頭部しか見えず、騙された事に怒っているのかも悲しんでいるのかもわからない。

「君を騙したみたいで悪かった。怒る気持ちもわかるが、私に協力して欲しい」

 半ば、諦めが混じった牡丹のお願いに朱華は顔を上げて、牡丹に向かって怒鳴りつけた。

「ふざけないでください! 私がお慕いしたのは盧俊義さまですが、男だったから好きになったわけじゃありません! あの日、私を助けてくださった貴方だから好きになったのです!」

 早口で切られる啖呵に牡丹は呆然としたが、朱華の台詞の意味を理解すると、肩を揺らして笑った。牡丹は朱華の事を惚れっぽい性格だと思っていたからだ。熱しやすく冷めやすい。そんな人なのだろうと思っていた自分が恥ずかしいと、息を吐き出して朱華に向かって手を伸ばした。

「ありがとう。では、協力してくれるね」
「私が旦那様のお願いを断るわけありません」
「助かるよ」

 牡丹は今着ている服を脱ぎ、朱華も着ている服を脱いで交換した。偶然にも朱華は赤いトンボ玉の耳飾りを付けており、髪形も寄せれば遠目から見れば牡丹に見間違える。その一方で牡丹は朱華が来ていた衣服に袖を通した。本当は髪形も変えたかったが、燕青が最後に施してくれた髪だから解きたくない。と簪が挿してある髪を解く事はしなかった。

「これを君に託す。私の一部が此処に書かれている」

 そう言って牡丹は書き続けていた日記を朱華に手渡した。女はそれを受け取り確りと頷くと瞳に涙を浮かべながら口を開く。

「旦那様。ちゃんと帰って来て下さいね。旦那様が帰りたいと思う方の所へ」
「……行ってくる。心配する必要はない。あいつは必ずやって来るから」
「はい。お気をつけて」

 牡丹は逆旅に火をつけた。それは牡丹の全てを此処で焼き払う為だ。それと同時に燕青の足を止める為でもあった。牡丹の読みでは燕青は牡丹を止める為に宮廷に向かって行っている筈だ。だがそれだと牡丹が燕青を手放した意味がない。高俅は今か今かと牡丹と梁山泊の人間が死んでいくのを待っている。それは蜘蛛の糸に絡めとられた虫が弱っていくのを観察している蜘蛛のように。

 牡丹が泊っている逆旅に火が付いたと知れば、燕青は踵を返して逆旅に向かうに違いないと、馬に跨り全速力で宮廷に向かう道中に祈った。
 その牡丹の読みは当り、身体を休めていた燕青の耳に火事が起こったと知らせが入り、牡丹が寝泊まりしている場所と知れば、すぐさま駆け出して牡丹の安否を確認しに行った。
 逆旅に着いた燕青は自分が破壊した窓を真っ先に探し、見つけるも目を見開いた。そこには女の姿があったからだ。女は煙を吸わないように窓の外に顔を出しているものの、黒煙は女の背後まで迫っており、苦しそうに何度も咳を繰り返している。

「クソッ!」

 この身を捨てた女だとわかっているのに、燕青は業火に包まれる建物の中に入って行き、女を横抱きにすると、壊した窓から飛び出し着地した。
 救出した女は未だに咳き込んでおり、頬には煤が付いている。焦燥しきった女を燕青は地面に降ろし、牡丹に成りすました朱華が崩れるように地面に尻を着けて座る。

「ごほっ、ごほっ」
「お姉さん。大丈夫かい?」
「えっ? なんで……」
「はい?」

 牡丹に変装した朱華であるが、燕青の目を欺くには何もかもが牡丹と似ていなかった。
燕青以外の人間が見れば似ていると言っただろうが、燕青には似ても似つかない他人に見えたのだ。唯一同じだったのは性別という点だけだろう。
 服装は同じなのに後ろ姿も、身体の重みも、香りも、何もかもが違う。
 本当の牡丹はまだあの中にいるのか。と燕青が視線を燃え盛る建物に移すも、朱華が燕青の髪を掴み意識を自分に向けさせた。

「盧俊義さまが……言って、いたんです……貴方が、必ずっ、助けに、来るって」

 朱華の言葉に燕青は言葉を詰まらせた。
 信じているなんて言わなかった癖に。どうしてそんな無茶をさせるのだ。
 牡丹は敵にすら慈悲の心を示す。それなのに朱華にこんな役割を与えたのは、信じているから。それ以外の何物でもない。

 ──くそっ!
 
 燕青は地面を自身の拳で殴り続けた。何度も何度も殴り続け、遂には皮膚から鮮血が流れ始める。朱華は燕青を止めようとするも、燕青は全く止まらない。
 今燕青を止められるのは、この世に一人しかいないのに、その人物は当にいない。
 朱華は誰も止める事の出来ない無力さに唇を噛み締めた。本当は朱華だって盧俊義である牡丹を止めたかった。何処に行くかもわからないのに、いつも傍にいる燕青が近くにいない事に疑問を持ち、何処か遠い所に行ってしまうのではないか。と危惧した。それでも止めなかったのは止める資格がなかったからだ。
 風のように自由なあの人を繋ぎとめておく事は出来ない。出来るとしたらこの人しかいないのに。と朱華は地面を殴りつけ涙を流す男を見つめる。

「追いかけて!」
「は?」
「盧俊義さまを追いかけてください! 旦那様が何をしようとしているのかは、わかりません。でも、でも! もしあの人が危険な目に遭うのなら、それを止められるのは、貴方しかいないのでしょう⁈」

 女は力の限りに叫んだ。自分には出来ない。でも、自分の知っている二人は、お互いがお互いを信用している二人なのだ。名前を呼んだだけ自分の意思が通じると信じ、名前を呼ばれただけで言いたい事を理解する。初めから二人はそういう関係だったわけではないのは知っている。然し、朱華が初めて会った時にはもう阿吽の呼吸が出来る信頼関係があったのだ。

 だったら、だったら手放してはいけない。

「お二人に何があったのかは知りません。でも、旦那様の目が赤くなってらっしゃいました。私の前では気丈に振る舞われていましたけど、泣いていらしたんです!」

 そんなに信頼関係を築ける人にもう一度出会える確可能性なんて殆どない。それは奇跡に他ならない。
 朱華は燕青の肩を掴み、両目から涙を流しながら何度も男を揺さぶった。自分よりも体格の良い男を前後に何度も揺さぶる。男は抵抗する事なく視界を揺らされている。

 どんな言葉を聞こうが、牡丹は燕青を捨てた。それ以外の事実はない。だからこそ燕青は動けないでいた。どうしたらいいのかがわからないのだ。
 本当に牡丹は金に目が眩んだのか? 権力に頭を下げるような人間に成り下がったのか? わからない。そんな人間ではなかったのに。
 何をしようとしているのかが全くわからないのだ。
 朱華を足止めに使い、何をしようというのだ。それさえわかれば対策のしようがあるというのに。

「旦那様はもう帰って来ないつもりなんです。帰って来て欲しいと言ったら、何も答えて下さらなかった――燕青さん! 旦那様は何をするおつもりなのですか?」
「牡丹がそう言ったのか……?」

 朱華は首を何度も縦に振った。それを見た燕青は弾かれるように立ち上がり走り出した。
 燕青は牡丹が死ぬつもりだとは知らなかったのだ。何は目的の為に自分は邪魔なのだろうと。考えていたのだ。梁山泊の中の誰かと婚姻を結ぶのかと考えたりもした。その為に自分は邪魔なのだろうと。

 でも、そうではないのなら。牡丹が一人死にに行くなら話は変わる。そんな事はさせない。

 ──今度こそ、今度こそ必ず……!
 
 朱華は走り去って行く燕青の背中に牡丹の無事を祈った。

 その頃牡丹は李師師や、政務室の官僚の協力の元、皇帝と対峙していた。皇帝の傍には高俅もいて、面白そうに笑う皇帝とは逆に、高俅は卑下するように牡丹を見ている。

「それで、盧俊義。お前は女だと言うのだな」
「はい。陛下」
「お前は私を騙していたのか? それとも高俅が俺に伝え忘れていたとでも?」
「お言葉ですが陛下。私は一度もこの身を男だと言った事はございません」
「――はは、これは一本取られたなぁ。高俅よ」
「…………えぇ」

 皇帝は愉快だと笑う一方、高俅はどうして牡丹が此処に来たのかを図りかねていた。予定では戦場近くの逆旅で泊っている筈なのに。その逆旅に送り込んだ刺客は何をしていたのだ。と高俅は鋭い視線を牡丹に向ける。

「して、女になったお前の名は何という」
「天罡星――牡丹、と申します」

 牡丹は拱手し頭を下げたまま、煌びやかな椅子に腰を掛け、頬杖をついている皇帝に向かって話している。

「牡丹か。いい名だな。それで牡丹。お前はどうして此処に来た?」
「皇帝に聞いて頂きたいお話があります」
「それは閨で聞いた方が良いか? お前の活躍は聞いている。女の褒美ならそちらの方が良いだろう」
「お言葉ですが陛下。この身は愛しい者に女にして頂いた身。それ以外は望みませぬ。褒美をくださるというのであれば、そこにいる高俅の首を」
「何を……!」

 高俅は驚き声を上げた。

「理由を聞こうか」
「陛下!」

 皇帝の寵臣の首を寄こせと言われた皇帝は、上げていた口角を下げはしたものの、高俅のように取り乱したりはしなかった。先ず牡丹の話を聞こうとしたのだ。その行動に牡丹は口の端を上げて笑った。

「陛下は御存じですか? 高俅殿から伝えられる情報と事実が異なる事を」

 牡丹はつらつらと高俅が犯した罪や宮廷の外の事を話していく。その度に高俅は声を荒げ、そんな事はないと唾を吐き出す勢いで叫ぶ。

「そこまで言うのであれば証拠を出せ!」
「出していいのですか? 困るのは高俅殿かと」
「……ぐっ!」
「貴方はこの国の癌だ」

 そこで黙って牡丹の話を聞いていた皇帝は口を開いた。

「高俅、説明してもらえるな」
「陛下……これには……」

 皇帝は初めて寵臣に向かって疑いの視線を向けた。その視線を向けられた高俅は項垂れ肩を落とした。その様子を見ていた牡丹は、高俅はもう少し抵抗するかと思い怪我の一つや二つ、最悪命を落とすかも知れないと思っていただけに、無事に帰られるかもしれないと息を吐いた。
 だが、油断は出来ない。此処にいる衛兵が高俅の手に落ちていない保証なんて何処にもないのだから。その為の根回しもした。
 その矢先、高俅は近くの衛兵から槍を奪い皇帝に向かって槍の穂を突き出す。牡丹は咄嗟に穂を皇帝の間に入り目を瞑った。

「ぐぁっ!」

 腹に強烈な痛みが走る、身体を貫通される感覚を牡丹は初めて知った。朱華から借りた服は赤い染みを作り、それは広がり続けている。鈍い痛みが身体の内側から広がり、さっきまで軽かった身体がとても重たい。

「へい、か……怪我、は?」
「ない。お前のお陰だ」
「それは、よかった……」

 玉座に座ってから生まれて初めて、家臣に見下ろされた皇帝であったが、皇帝はそれを咎める事はしなかった。寧ろ息も絶え絶えな牡丹を抱き締め、血で衣服が汚れるのも気にも留めず、血の気を失っていく牡丹の名前を何度も呼んだ。

「しっかりしろ。牡丹、死ぬにはまだ早いぞ」
「陛下、これを……」

 牡丹は懐から笛を取り出し陛下に差し出した。その笛も血で汚れてしまっているものの、皇帝はしっかりとその笛を握りしめた。
 牡丹は霞む視界で辺りを見回すも、皇帝の衛兵は立ち尽くしたまま高俅を捕まえようとはしていない。

 ──矢張り、高俅の回し者だったか。

「この笛を吹いて、私を……抱き締めて、いて、ください」
「わかった」

 皇帝は牡丹に言った通りに笛を吹くと、外から幾人もの軍部の人間が入って来た。そこに混ざっているのは、首都向江警備を任されている克羽大臣の姿もあり、克羽大臣は高俅を指差して捕まえるように指示した。
 皇帝を取り囲んでいた衛兵や、壁で静観していた衛兵は問答無用でその寿命を奪われた。牡丹を抱き締めていた皇帝だけが助かったのは、牡丹の計らいだった。

 ──よかった、来ていない。

 牡丹はぼやける視界の中必死に濡れ烏の長い髪を持つ男を探した。
 だが、そこに姿はなく牡丹は力を抜いて笑った。

 牡丹は理解していた。自分がもう死ぬ事を。最後の最期、喧嘩別れをしてしまった燕青の事が気になるが、この傷では助かるまいと涙を流した。

 ──ごめん。ごめん。
 
 それは何に対する謝罪なのか牡丹にもわからなかった。ただ胸の内から這い上がる罪悪感に涙を流した。「牡丹」と呼びかける男の声に涙が止まらなかった。望んでいる声ではない。自分を抱き締める体温に、牡丹は涙を流した。求めている体温ではないからだ。
 自分で切り捨てておいて、最期に顔が見たいだなんて、燕青の腕の中で死にたいだなんて、なんて自分は浅ましい人間なのだろうか。どんなに詰られてもいいから、あの人に会いたい。と牡丹は霞みゆく視界に目を閉じた。

「牡丹!」

 するとどうだろうか。聞こえる筈のない燕青の声が牡丹の脳裏に響く。

 あぁ、燕青。燕青……。
 生きてくれ。私の分も生きてくれないか。こんな女なんて忘れてしまって構わないから。

 牡丹は力なく腕を天井に向かって動かした。

「え……せい」

 愛おしい、私の剣よ。君に幸多からん事を。

 微かな息を吐くような声で男の名前を呼んだ牡丹の腕は、力なく床に落ちた。









 牡丹、またの名を盧俊義。燕青の主にて貿易商の女主人。この国を変える為に生きた女は、国の最期を見届ける前に人生の幕を閉じた。
 享年二十六歳であった。
 この事件は歴史に名を刻むようになった。
 怒号の喧騒の中、牡丹は皇帝の腕の中で静かに息を引き取り、その死後、皇帝の後宮の中に入る事になった。後宮の一画の名前が牡丹宮と呼ばれるようになり、皇帝は退位するまで牡丹の月命日には牡丹宮に足を運び静かな時間を過ごした。

「お前の英雄奇譚を記そう」

 皇帝は生涯をかけて牡丹の英雄奇譚を作成した。人気を博した牡丹の英雄奇譚。平民でありながら国を変えた牡丹の名に恥じないようにと皇帝は改革を進めた。
 その結果、宮廷の人間が紙幣で出来た扇を扇ぐ事はなくなり、搾取され続け貧困で飢え苦しむ事はなくなった国民は、毎日を喜びで謳歌するようになった。
 牡丹の英雄奇譚は今でも国民に愛される書物となったが、その半生は未だ謎に包まれたままである。





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