レモネードの向こう側に恋の名前を呼ぶ
番外編 現パロもしも二人が男子高校生と社会人女性だったら
「レモネードの向こう側に恋の名前を呼ぶ」
*
コツ、コツとコンクリートにヒールの音が響く。否、音が響いているのはコンクリートではなく、疲労しきった牡丹の身体にだ。
終電間際の残業に牡丹の頭は回転を止めて、ただ家に帰る意志だけが欠片程度に残っている。足を前に動かしているのは帰巣本能他ならない。
牡丹の借りているマンションは、人工的光源で輝く繁華街を通り過ぎ、街灯がポツリ、ポツリとしかついていない道を進んで行った先にある。駅からほど近い立地の良さが決め手だった。
だが、実際に職場に通勤し始めると繁華街の喧騒が疲れ切った身体に障り、残業続きの身体が悲鳴を上げそうだ。
――いい加減引っ越したいけど、まだ住んで一年なのよね……。
パソコンを見続けた目に刺激が強い電光掲示板を恨めしく思い始めた頃、忙しなく歩く人混みの中、重たい足を無理矢理動かし歩く牡丹の前に、男の影が現れた。
「お姉さん。俺の事買ってみないかい? 今なら安くしておくよぉ」
声につられ顔を上げた牡丹の視界に映ったのは、溌剌と笑う若い男の姿だった。ラフな服装をしている若い男の髪は女のそれよりも長く、キャップを深く被っている所為で目元が半分程度しか見えない。
人に気安く話しかけ自分を売るくせに、顔は知られたくない……もっと言えば知られる事を恐れている。何に? 答えは幾つか絞られる。職場に。友人に。親に。学校に。
牡丹は口元を上げて笑う若い男を品定めするような目で見た。
――大方、学生なのだろう。
「家に帰ったらどう? 補導されたくはないでしょう」
「何の話だい?」
「貴方未成年、しかも学生でしょう。こんな所にいないで家に帰りなさい」
牡丹は目の前に立つ男のキャップのつばを親指と人差し指の側面で挟み下げた。
元々隠れ気味だった男の顔を更に隠し、人の目から隠そうとしたのだと、男は理解し笑みを浮かべた。
「残念だけど、俺、今日財布も家の鍵も持ってないから家に帰れないよ?」
「は? 君どうするつもりだった……あぁ、だから声をかけたわけね」
それで買いませんか。に繋がるわけだ。と牡丹は納得し深い溜息を吐いた。この男狡い。小賢しいとでも言うべきか。と深く被せたキャップを元の位置に戻しながら笑う男は、牡丹の反応を楽しんでいるようで、それが牡丹にとって腹立たしかった。
「それで、お姉さんは一文無しの俺を路上に捨てるのかい?」
「……いいよ。家に来るといい。但し、一晩だけだよ」
「毎度あり〜!」
「馬鹿。これは親切であってビジネスではないの」
男は鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべたものの、すぐに溌剌と笑った。
初対面の二人は隣に並び、牡丹の家まで歩いた。男は牡丹の遅い歩調に合わせ時折立ち止まったりもしたが、決して牡丹を急かす事なく歩いた。
帰路についている最中、無言になるかも知れない。と帰巣本能しかなかった牡丹の思考に、社交性が加わり何か会話をした方がいいか。なんて思ったが、男は人懐っこい性格なのか、世渡りが上手なのか、はたまたその両方なのか、会話に困る事はなかった。途中コンビニに寄って必要なものを購入しようとした時、さり気なく避妊具をカゴの中に入れようとした男に対し、牡丹がビンタを喰らわすという出来事もあったが。
燕青と名乗った男は牡丹の家に着くなり、シャワーを浴びてもいいか。と言った。
「どうぞ。リビング出て左にあるから好きに使って」
「ありがとぉ」
燕青が脱いだ服を洗濯機に入れ、浴室を開けた。
その頃牡丹はスーツを脱いでリビングにあるソファに深く座り、背凭れに身体を預けた。
そうしてはいけないとわかってはいるものの、残業続きで疲れている身体は休息を求めているのだ。呼吸をしているだけなのに、それが億劫に感じ、瞼が重たくなってくる。
うとうと。と牡丹が船を漕ぎ始めた頃、浴室から聞こえて来たシャワー音が止まった。
――燕青が出てくる……けど、眠たい。
夢現の牡丹は、自分は今眠っているのだとわかっていながらも、ぼんやりとした五感が牡丹に燕青の存在を教えている。
「牡丹さーん。服どうしたらいいんだい?」
ふく……服は、引き出し? あぁ、キッチンにあったかも……。
満足な思考も出来ていない牡丹は、重たい瞼を開ける事さえ叶わず、呼吸だけを繰り返している。そんな牡丹に近付いた燕青は、眉間に皺を寄せたまま眠る牡丹を見て、呆れたように笑った。
「あんた、男を連れて来たって自覚はないのかねえ」
「ふく、き……ちん……ん、のなか……」
「生憎俺はあんたの寝言を理解出来る程頭が良いわけじゃないんでねぇ」
コンビニで下着を買っていた為、燕青は下着こそ着ているものの、それ以外は身に纏っていないのである。首からぶら下げているタオルでは身体を隠す事が難しく、ソファで完全に寝落ちしてしまっている牡丹に、寝間着を訪ねても、返って来るのは寝言だけで、何の役にもたちはしない。
「取り敢えず、寝室にでも運ぶとするかねえ」
わざわざ独り言を言って燕青は牡丹の肩に触れた。すると、牡丹の目が急に開き、薄い肩に置いた燕青の手首を掴んだ牡丹が燕青の腕を捻り、堪らず燕青は悲鳴にも似た叫び声を上げた。
「いたたたっ!」
「んぁ? 燕青か。驚かせないで」
脊髄反射で燕青を撃退しようとしていた牡丹の意識がはっきりと目覚め、痛がっている燕青の腕を離した。痛みから解放された燕青は、労わるように己の腕を、もう片方の掌で擦り眉尻を下げ牡丹を見た。
「牡丹さん護身術かなんかやってんのかい?」
「あぁ。まぁ、家の方針でね」
「へー」
燕青は牡丹から視線を外し、部屋の中をチラリと見た。女の一人暮らしにしては広く、値が張りそうなマンション。これは親が相当金持ちなのだろう。と適当な辺りを付けた燕青は、捻られた腕を擦る事を止め、翡翠の目を細めて笑った。
「お姉さん。着替えを恵んでくれろ」
「着替えならキッチンに……いや、今のは忘れて欲しい。――着替えは寝室にあるから取って来るよ。それまで髪でも乾かしてなさい」
燕青の髪は長く、髪を一纏めに縛っていても地面に着きそうなのだ。髪を乾かすにも時間がかかるだろうと、牡丹が濡れ烏のような髪を見ると、燕青は気の抜けた返事をして浴室の方へ戻って行った。
ほぼ全裸だというのに、燕青は恥ずかしがる素振りも見せやしない。確かに、恥ずかしがるような体格ではないが、あそこまで恥ずかしがりもしないと、見てしまったこちらにも罪悪感が芽生えない。と、のそのそと立ち上がった牡丹が、箪笥の中から大き目の寝間着を取り出し、脱衣所に向かった。
浴室の前にある脱衣所には洗面台があり、見えるようにドライヤーも置いてあるのだ。
燕青もそれを使っているに違いない。と牡丹は閉め切られた脱衣所の扉の向こうにいるであろう燕青に声をかけた
「着替え持って来たけど、どうする?」
「あー、置いといてくれないかい?」
「わかった」
適当に着替えを床に置いた牡丹は、踵を返しリビングを通過して自室に戻った。
何も寝る訳じゃない。スーツから寝間着に着替える為にだ。するりと手触りの良いブラウスが牡丹の肩を滑るように床に落ちる。
どうせクリーニングに出すからこのままでもいいか。と牡丹は無遠慮にブラウスを踏みつけ、目当ての寝間着を手に取った。下着を外すか否かを迷った末に、気にしなくともいいか。と牡丹はブラホックを外し床に落とす。
結果、床に物が散乱としているのだが、牡丹はそれを気にも留めていないのだ。
「髪乾かしたんだけど、俺何処で寝たら……って汚っ!」
「あぁ? ソファで寝てもらう予定だ。あれはソファベッドだからね」
「えぇー……イメージとのギャップが凄いね。あんた」
牡丹の足元に転がっている衣服を目にした燕青は、数時間前、繁華街で闊歩していた牡丹にイメージした何かが壊れていく。
無駄にたむろしている連中が多い中で、牡丹の足取りは重たかったものの、目的地を持った芯の通った歩き方をしていたのだ。そういうきっちろとした人間なのだろうと燕青は、勝手な想像を牡丹に押し付けたのだ。
――だからってこれはどうなのかねぇ……。
明日の朝……否、もう今日だ。朝日が昇り切ったらどうせこの家から出て行くのだ。自分には関係あるまいよ。と燕青は牡丹から毛布を受け取り、ソファに横たわってそれを身体にかけた。
耳を澄ませば、牡丹がベッドに入る布が擦れる音が聞こえてくる。本当に買う事もなく、何もしないとは。なんて過去、相手にして来たオトナたちとは違う真っ当な人間なのだ。と燕青の腹の奥が痛んだ。
翌朝、牡丹よりも先に目が覚めた燕青は、一宿一飯の恩義に欠けると牡丹の許可を取らずにキッチンに立った。女性の家なのだから冷蔵庫に何かしらの野菜が入っているに違いない。と大方入っているであろう野菜で何を作ろうか。と右手で冷蔵庫の扉を開け絶句した。
「嘘だろ……」
冷蔵庫の中には野菜おろか調味料も入っていないのだ。明らかにコンビニで買ってきた品であろう、総菜が幾つかある程度でそれ以外に何も入っていない。
燕青はすぐさま持ち前のスマホを取り出し、近所にあるスーパーが何時に開店するのかを調べた。
――二十四時間営業は……あった!
燕青はキャップを被り、ついでに牡丹が適当に置いた鍵を拝借してマンションを飛び出した。ポケットにしまっている財布を片手に、素早く買い物を済ませた燕青は、マンションに戻りキッチンに立つ。この間牡丹は熟睡していた為に燕青が、朝出て行った事もまだ知らない。
まな板に包丁が当たる音。焼き魚とみそ汁の食欲を擽る匂い。燕青は熱した玉子焼き器の中に卵液を流して全体に敷く。菜箸で奥の方からくるくると回しながら手前に持っていき、また卵焼きを奥に追いやり液を流し込む。綺麗な色に焼けた頃、鮭にも綺麗な焼け跡が付く。
細長の更に焼き鮭と卵焼きを二切れ乗せ、お椀に長ネギと豆腐の味噌汁を注ぐ。米がない牡丹の家では白米も炊けない為、レンジで温めるタイプのご飯をお茶碗に持って食卓に並べた。
冷蔵庫と、調理器具、炊飯器に食器はあるのに、それらを使う食材がない。
調味料もないのだから、このマンションで一度も料理をした事がないのだろう。と、燕青は寝室で未だに寝ているであろう牡丹の顔を思い浮かべた。
「牡丹さーん。朝飯出来たけど食うかい?」
閉め切った扉の向こうにいる牡丹に聞こえるように燕青は声を僅かに張り上げる。すると、衣擦れ音が聞こえ女の唸る声が燕青の耳に届いた。漸くお目覚めか。と燕青は湯気の立つ料理を何の感情もないままに眺め、次に窓の外を見た。時間は朝の七時。すっきりとした空、まだ優しい光が部屋に差し込んでいる。目覚め易い季節ではある。ともう一度燕青は閉め切られている扉の向こうにいる牡丹に声をかけた。
「仕事、遅刻しちまわないのかい?」
牡丹が何時に家を出ているのか全く見当もつかない燕青は、兎に角牡丹を起こす事を最優先にした。正直、ここからだと一旦家に寄って学校に行くにしろ、時間がないのだ。遅刻してもいいが、何かとうるさい先生が一人いる所為で、遅刻も出来そうにない。
どうしたものか。と息を吐き出すと、閉め切られた扉が開く。だぼだぼの明らかにサイズの合っていない寝間着を着ている牡丹は、まだ眠い目を擦りながら食卓の上に並ぶ料理を見て、一気に覚醒した。
「なんだ……これは」
「ま、一宿一飯の恩って事で! 温かいうちに食べてくれ」
「あぁ。――頂きます」
食卓の椅子に座り、丁寧に両手を合わせて挨拶をする牡丹。その仕草につられるように燕青も普段しない挨拶をして、箸を手に取り焼き魚を摘まんだ。
「これ、合鍵。私は先に家を出るから合鍵で鍵をかけて出て行くように。あと鍵はポストの中にでも入れといてくれて構わないから」
「牡丹さんもう行くのかい?」
「えぇ。使えない上司に扱き使われているのよ……頑張って昇進してあの上司の上に立たないと、身が持たないからね」
朝食を食べ終わった牡丹は慌ただしく出勤する準備をして、家を出て行った。残された燕青は、ちらりと時計を見、遅刻する事が確定した事を悟り、残された食器を丁寧に洗い、ついでに牡丹が脱ぎ散らかしたものを洗濯にかけて、昨日乾燥機にかけ既に乾いている服に腕を通す。
洗濯機が洗い終わったと、機械音を鳴らし燕青は洗濯物を干していく。それが終わった頃には、何処かやり遂げた達成感のようなものを感じ燕青は、牡丹から渡された合鍵を片手にマンションを出た。
電車で何駅か先に行ったところに燕青の借りているアパートがある。とても古いそのアパートは外壁に蔓が伝い、周りに生えている雑草と相まって、鬱蒼とした雰囲気を醸し出している。
牡丹が借りているマンションに比べ、建物の劣化が目立つアパートに、燕青は何処か安堵を覚えた。それは一円の金にもならない事をしていた自分に、違和感を覚えなかったからだ。
オトナに自分を売って稼ぎを得る。危ない道ではあるが出来ない事ではない。
「らしくない、よなぁ……」
なんの稼ぎにもならないあの時間が、何故だか温かく感じ、もう少し続けばいいい。なんて柄にもなく思ってしまったのだ。
――もう少し、踏み込んでみるかねぇ。
そう決めた燕青の行動は早かった。
先ず制服に着替え、学校に行く道すがら合鍵を複製し、学校に着くと比較的真面目に授業を受け、放課後になると飛び出すように学校を出て、牡丹の家のスーパーに行き、食材や調味料を買い込みマンションに赴き合鍵をポストの中に入れ、自分は複製した鍵で部屋の中に入った。
朝見た光景と何も変わらない部屋。生活感がまるでない部屋。人のいない部屋。なのに温もりを感じる部屋。
燕青は初めに掃除を開始した。あまり家に帰っていない所為で物は少ないが、掃除をする暇がない為に埃も溜まっている。それを掃除機で吸ったりコロコロをかけたりして綺麗にし、次に料理に取り掛かった。何を作ろうか。と考えていると、不意に、朝ご飯を美味しそうに食べた牡丹の顔が浮かび、自然と口角が上がった。
料理も出来上がり、あとは牡丹が帰宅するだけ。となった。時間はまだ夜の七時。繁華街が漸く賑わいだした時間帯だ。
「まだ帰って来る分けねぇよなぁ」
牡丹があの道を歩いていたのは終電間際の時間帯。まだまだ帰っては来ないだろう。と燕青はスマホを片手に、デジタル時計を眺めた。
いつもなら私服に着替えて出歩いている時間だが、どうにもそういう気分にはなれない。
大人しく寝るか。と食卓の上で腕を枕にし、燕青は壁時計の秒針の音を聞きながら目を閉じた。
何時間寝た事だろう。部屋の扉の鍵が開く音が聞こえ、意識を浮上させ丸めていた上半身を起こした燕青は、悪戯な笑みを浮かべる。果たして彼女は自分を見てどんな反応をするのだろうか。
――あぁ、でも、靴を玄関に置きっ放しだったっけか。
見慣れない靴が玄関にあれば警戒もするか。と牡丹の驚く顔が見られない事に僅かに肩を落とした燕青は、怒った顔くらいは見られるだろう。と、リビングと廊下を隔てる扉が開くのを今か今かと待った。
時間にして数十秒。体感としてはそれよりもずっと長く感じていた。
ガチャリとドアノブが回り、扉が開く。
「よぉ、牡丹さん。今朝ぶり」
燕青が片手を上げて挨拶すると、牡丹は手に持っていた鞄を床に落とした。
「なんで君が此処にいるの……?」
「え、嘘だろ……」
玄関に靴置いてあっただろ。と目を丸くする燕青と、帰った筈の燕青は未だにマンションにいた事に驚く牡丹。二人の間に沈黙が流れた。
どうして此処にいるのか。と牡丹が問えば、燕青は翡翠の目を細めて笑った。
「飯が上手かった、からだろうなぁ」
「自分の家で食べればいいでしょう。君が作ったものなんだし」
「そうじゃねぇって」
燕青は腰を掛けていた椅子から立ち上がり、キッチンに移動した。手慣れたように冷蔵庫を開け料理の入っている保存容器を取り出しレンジで温める。
「人と食う飯ってこんなに美味かったっけ? って思ってな」
「あぁ、それは、わかる」
「あんた、まともなもの食べてないだろ」
ゴミ箱の中栄養ドリンクばっかりだったぜ。と燕青が笑いながら言うと、牡丹は「栄養が取れればそれでいい」と真顔で返した。
然し、牡丹だって食を蔑ろにしているわけではない。温かいご飯の方が好きだし、実家で出てくる料理の方が、コンビニで食べる総菜よりも好きである。
だからだろうか、燕青が作った朝食を食べて、懐かしさに浸ったのは。まさか自分が誰かの声に起こされるとは思ってもみなかった。もっと言えば、まな板に包丁が当たる音を聞いて、安心するとは思いもしなかったのだ。
「牡丹さんは俺の作った飯美味かったかい?」
「ぐっ、その質問は卑怯だぞ」
美味しかったとも。それこそ毎晩食べたいくらいには。然しそんな事学生に言えるか。と牡丹は燕青から視線を外し、室内を一瞥した。
するとどうだろう。掃除をしていなかった筈の部屋が綺麗になっている。埃を被っていたラックが綺麗になっているではないか。
まさか、この男は部屋の掃除までしてくれたと言うのか。と、牡丹は食卓に湯気の立つ料理を並べる燕青を凝視した。
「さ、食べようか」
食卓テーブルに料理を並べた燕青は、椅子に腰をかけた。
牡丹は最初こそ顔と名前しか知らない男の料理を食べてやるものか。と意気込んでいいたが、普段の生活では見ない湯気の立つ料理と、美味しそうな匂いに、意地が破壊され、大人しく席に着いた。
「頂きます」
「頂きまーすっとぉ、俺のおすすめはこれ! 味付けが上手くいったんだよねぇ」
どれもこれも美味しそうな料理に、思わず牡丹は迷い箸してしまいそうだったが、燕青がおすすめを言ってくれた為、一口目はそれを食べる事にした。
味付けが上手くいった。と豪語していたその言葉通り、頬が落ちるような美味しさに、牡丹は眉尻と目尻を下げた挙句、薄っすらと目尻に涙を浮かべている。
黙々と食べ進め、お茶椀が空になった頃には牡丹のお腹が一杯になっていて、満足感が幸せな溜息を零させた。
「ご馳走様でした。君料理が上手なのね。お母様がお上手なの?」
「お粗末様でした。俺、両親いないから独学だよ」
「そう、なのか……君は自由なのね」
自由だね。と言われたのは初めての事だった。
大抵の人は可哀想∞頑張ってきたんだね∞辛くない?≠ニ同情や憐みの目で言われる。それがどうしても嫌だった。
――最初から温もりなんて知らないから何もない。
親の縛りがないから自由だとでも言いたいのだろうか。と燕青は翡翠の目を細めて問うた。
「なんで自由なんだい?」
「ん? だってそうだろう。自分で責任が取れる事は何をしてもいいのだから。でも、それは同時に切ないものでもあるけどね。自由とは、開放的なように見えて、酷く寂しいものだから」
――あぁ、それ、何となくわかる。
そうだ、そういう感覚だ。と燕青は目を輝かせた。この人は人とは違う考え方をする。
その人が見ている景色は一体どんなものなんだろうか。と燕青は食器を両手に持ちキッチンに行く牡丹の姿を目線で追いかけた。
「なぁー。あんた俺の事雇わない?」
「は?」
「料理も掃除も洗濯もするけど。なんなら弁当も作るがどうする?」
「乗った」
すっかり燕青の家事スキルで胃袋も心も掴まれた牡丹は即答した。仕事で疲れ切っている頭で判断した為に、正常な思考力はなく、日中だったらこんな話に乗る事もなかった。
「よっしゃっ! と言う事で今日も泊まらせてもらうよぉ」
「は? というか待て君。高校生だったのか!」
「牡丹さんって、何処に目ぇ付けてんだ?」
俺、ずっと制服着ていただろ。と呆れる燕青を他所に牡丹は疲れ切っている頭でも、高校生をこんな時間まで外に出歩かせてはいけない。という責任感という重みのある常識的条例に頭を抱えた。
そんな牡丹を他所に燕青は長い髪を揺らし鼻歌を歌いながら、脱衣所に向かい衣服を脱いだ。
どうしたものか。と牡丹が働かない頭を抱えたのだった。
結果として、いくつかの条件を出し、それが守れるのなら家政婦として雇う事になった。
その条件とは――――。
・夜は必ず自分の家に帰る事。
・学校にはサボらずに行く事。
・雇用主に対しあらゆる嘘を吐かない事。
この三つである。燕青はそれを素直に受け止めたが、翌日から問題が発生した。燕青は牡丹が帰宅し一緒にご飯を食べるまで、家に帰ろうとはしないのだ。流石の牡丹もこれに対し、何度も口酸っぱく家に帰るように言うも、今から帰るから問題がないと、終電を過ぎた時間帯にマンションを出ようとするのだ。
それは補導される為に、結局牡丹はその日も燕青をマンションに泊まらせた。
このままではいけない。だが燕青が話を全く取り合ってくれない。のらりくらりと言葉尻を掴んで躱すのだ。これでは暖簾に腕押しで何の意味もない。と牡丹は自分の方を変える事に方向性を変えた。
普段職場でやっている仕事を家に持ち帰る事で、残業を定時上がりにし、帰宅時間を早めた。そうすると燕青は嬉しそうに「おかえり」と笑った。
不規則だった生活が、燕青に合わせる事で規則正しいものとなり、より長く睡眠時間を確保する事が出来るようになった。
然し、それだけでは高校生に世話を焼かれている駄目な大人になってしまう。と牡丹は、燕青の課題をみてあげるようになった。直ぐにサボろうとする燕青は、家でも課題をやらないとぽろっと牡丹に零してしまい、そこから牡丹は燕青の家庭教師紛いな事をするようになった。
牡丹の家は裕福であるが故に牡丹も高学歴の大学出身で、燕青の通う高校レベルならば面倒みれると踏んだのだ。実際牡丹の教え方は上手く、中間考査では今迄にない点数を叩き出したが為に、カンニングを疑われた燕青はクラス担任に呼ばれる事になったのだった。
しっかり者のようで何処か抜けている牡丹は、居間で寝落ちする事も頻繁にあり、その度に燕青に寝室まで連れて行ってもらっていた。生活スキルがない牡丹は燕青がいないと不規則な生活に逆戻りしてしまう。燕青はそんな牡丹を世話する度に、俺がいないと駄目な大人なんだからなぁ。と呆れ笑いを零していた。
そんな燕青に対し、牡丹はなにかとサボり癖がある燕青の私生活を心配し、口を出していた。
学校にはちゃんと行っているのか、課題をサボってはいないのか。特に燕青はボロボロになったものを使い続ける一面もあり、牡丹は何度か燕青に対しボーナスと言った形で新しいものをあげていた。それは財布だったり、ヘアゴムであったりと大小値段も様々なものだった。
弟を世話しているような感覚に、牡丹は私がいないと駄目なのだから。と溜息を零しながらも、口元は笑みを浮かべていた。
「お前最近変わったな」
「あー……駄目な大人を世話するようになったもんでね」
「ほーん」
対して興味もなかったのか、燕青に声をかけた男子生徒は相槌を適当にうって次の話題を持ち出した。
「なぁ、今日いつもの奴らでカラオケに行かねぇ?」
「悪いな。今日も無理だ」
「お前最近付き合い悪いぞ!」
また今度な。と燕青は大した謝罪の気持ちも込めていない声色で、誘いを断ち切り帰路につこうと教室を出ると、担任の教師に呼び出された。手渡されたのは進路調査票で、本来なら埋まっている筈の記入欄が全て白紙のままになっている。
「来週までに再提出だ」
「はいよぉ」
適当な返事をしながら受け取った進路調査票を適当に鞄に突っ込んだ燕青は、今度こそ牡丹が帰って来るあのマンションに一秒でも早く帰りたくて。
合鍵を使って誰もいない室内に入り、電気をつける。いつだったかに牡丹が買って来た芳香剤の匂いが外の匂いを掻き消し、燕青に安らぎを与える。いつも通りに仕事をこなし、それが終わってもまだ牡丹が帰ってくる気配がなく、仕方がなしに燕青は鞄から進路調査票を取り出し、第一志望と印刷された文字をシャープペンの芯で何度も突く。突いたところで現状は何も変わらない。
――何もない俺が一体何になると言うんだ。
何かに流されるように生きて来た燕青は、初めて牡丹という自分の意思で生きる個体に触発された。そうすると、自分の中に何もない事に気が付いたのだ。
酷く空っぽのそれが寂しく感じだのだ。
何が望みなんだろう。俺はどうしたいのだろう。と考える燕青は一つの回答を導き出した。それを調査票に書き込むも現実的ではない。と直ぐに消しゴムで自分で見つけた答えを消した。
どうしたものか。と頭を抱えて悩んでいると、玄関から開錠された音が聞こえ、燕青が慌てて調査票を鞄の中に突っ込んだ。
「おかえり牡丹」
「ただいま、燕青」
最初こそ牡丹さんと呼んでいた燕青は、自分も知らぬ間に牡丹、と呼ぶようになった。
それを咎められる事もないまま、ずっと呼び捨てで呼んでいる。それが妙に擽ったくも、嬉しく燕青は牡丹の名前を呼ぶ度に、自分の居場所を確認しているようだった。
「今日の晩御飯はなんだい?」
「今日は――」
食卓に向かい合って座り、今日起こった事や変わった事、何でもない話を話し合い、穏やかな時間が一室に流れた。
食後のお茶を淹れる為に立ち上がった燕青は、床に置いていた自分の鞄を蹴り倒してしまい、口の空いた鞄から白紙の進路調査票が飛び出して来た。
「燕青、これ……」
牡丹が手に取った調査票は白紙で、提出期限は先週末になっている。それなのに白紙のままここにあるという事は、提出出来ていないのか、よっぽどの事を書いて再提出を求められたかのどちらかだろうが、燕青に限って後者はない。と判断した牡丹は気まずそうに立ち尽くす燕青を一瞥し、もう一度視線を調査票に移した。
そこには薄っすらと牡丹と書いた跡があり、流石になんの事だと牡丹は首を傾げた。
「これはどういう事なの?」
「それは……」
「燕青」
もう一度牡丹が燕青の名前を呼ぶと、燕青は観念したように大きな息を吐いて、わかった。と右手で後頭部を掻いた。
「何も浮かばねぇんだ。何もない俺が何かになれる気もしないし、進みたい道もない俺が進学する先もない」
今のままがいい。と燕青は小さく言葉を漏らした。
「燕青。鍵を返して」
「は? なん、で……俺何かしたかい?」
「何もしていないよ。だけどここに私の名前が書かれた跡がある。私に何か関係するのだろう?」
それは、とあからさまに戸惑う燕青はしどろもどろになりながらも答えた。
「進学にしろ、就職にしろ、牡丹との時間が減るのは、嫌だった、から……だったらこのままがいいって」
「だったら余計に鍵を返すんだ燕青」
牡丹は燕青に向かって腕を伸ばし、掌を見せた。それはまるでこの掌に燕青が所持している鍵を乗せろと言われているようで、燕青は焦った。このまま二人の関係が、時間が鍵を返す事で終わってしまったらどうしよう。となんとかこの関係が続く算段を考えていると、牡丹の口が開いた。
「一緒に住もう」
薄く笑う牡丹。その言葉には優しさしか詰まっておらず、まるで綿菓子のように柔らかく、甘いその響きに燕青は息を飲んだ。
「牡丹!」
堪らず駆け出した燕青は長い両腕で、細い牡丹の身体を抱き締めた。きつくきつく抱き締め牡丹の髪に鼻を寄せる。「牡丹、牡丹」と掠れた声で掻き抱いている女の名を呼ぶと、少しだけ苦し気に、自分の名前を呼んでくれた。
それは、此処にいてもいいのだと、必要とされているのだと、胸の内から満たされていく感覚に、燕青は心臓を締め付けられた。
牡丹は燕青の背中に手を回し、ぽんぽん。と背中を優しく撫でた。小さな子供が母を求めるような燕青に、牡丹は薄く笑って何度も自分の名を呼ぶ燕青に対し、何度も燕青の名を呼んだ。
隙間なくきつく抱き締めていた二人の間に、僅かな隙間が生まれる。
燕青は牡丹の背中に回していた手を、白魚のような牡丹の頬にあてた。
自分よりも少し体温の低い頬に、燕青の背中がぞくりと震えた。
「キス、してもいいかい?」
そう言って燕青が牡丹の顔に、自身の顔を近付けると堪らず牡丹は、近付く唇同士の隙間に自身の手を捻じ込み、間一髪で唇同士が触れ合う事を避けた。
然しそんな牡丹の態度に、燕青は不満を露にする。
「……燕青、私の事好きなの?」
「え〜? 今更その確認するかぁ……?」
てっきり気付いているもんだと……。と燕青が気落ちした雰囲気を隠す事もせず牡丹にぶつけると、牡丹は小首を傾げて、さも当然という態度で言った。
「言われないと、わかるわけないでしょう」
「この鈍感女」
牡丹に隠す気もない燕青は、真正面から鈍感女と罵った。が、気が付いてもらえないのなら言うしかないのだ。この鈍感にもわかってもらえるように、伝えないといけないのだ。と燕青は、じんわりと汗の滲む手で握り拳を作り、ぐっと息を飲んだ。
「あんたの側に俺を置いちゃあくれないか」
「それは、恋人として?」
「牡丹もそう望んでくれるなら」
燕青の声は微かに震えていた。
正直牡丹は燕青に対し恋愛感情は全くと言っていい程ない。では何故、同居しようと言ったのかと言えば、燕青の危うさにあった。
一人にしてしまっては、支えてあげなければならないと、手を引いて導いてやらねばならないと、そう思ったからだ。
それも一種の愛情だろう。ただ、燕青の求めているものとあまりにも性質が違い過ぎたのだ。
いつか燕青に恋愛感情を持つようになるのだろうか。そんな事はわからない。一年後かもしれない、五年後かもしれない。それは明日かもしれない。一分後かもしれない。
切欠は何処にでも転がっているのだろう。
「牡丹?」
燕青の顔を見つめたまま何も答えを言わない牡丹に不安を感じ、眉尻を下げて牡丹の顔を覗き込んだ。
――綺麗な目をしている。
「勿論だよ。燕青」
どうなるかわからないなら、それは楽しい事ではないのだろうか。牡丹は燕青の頬に手を伸ばし、顔の輪郭を隠すように流れている、黒く艶のある横の髪を耳に掛けるように梳いた。
どっちにしろ、もう燕青がいないと生活もままならないのだ。それを嫌だとも感じていない。寧ろそうであるなら燕青は良いとすら思っているのだから、この感情が恋に変わるのも時間の問題だろう。
牡丹はするりと燕青の輪郭を指でなぞりそっと離した。その動作に引き寄せられるように燕青は再び、牡丹の顔に己の顔を近付けるも、もう一度牡丹の手によって止められた。
「燕青が大学生になるまで雇用関係は変わらない。私は高校生に手を出すつもりも、従業員に手を出すつもりもないからね」
「手を出される側なのに?」
「燕青!」
「わかってるって……あー、生殺しも良いところだ」
次の春。住宅街近くのマンションの一室から若い男の声が聞こえるようになった。
「朝飯出来たから早く起きろー」
「んー……あと五分……」
「それは駄目だ。早く行かないと遅刻するんじゃないのかい?」
朝食は牡丹の好きなもので固められている。湯気の立つスープに半熟の目玉焼きとカリカリのベーコン。ふわふわの食パンにイチゴのジャム。
胃袋を穏やかに刺激する美味しそうな匂いに抗えない牡丹は、寝ぼけ眼を軽く擦り席に着く。寝起きの牡丹は毛先が跳ねているし、寝間着のままである。
いい歳の社会人の癖にと、燕青は軽く溜息を吐いて己も牡丹の正面に腰を掛けた。
その姿はもう指定された制服姿ではない。
「頂きます」
二人の声が重なり、まだ段ボールも見えるリビングに広がった。
明日も二人はこうして朝食を共にするのだ。それが当たり前のように。