燕青と牡丹


元主と元従者。一度築いた関係を破綻させ、ふたたび新しい関係を築きつつある二人は、今日も今日とて“二人だけの時間”を過ごしていた。

 カルデアで与えられる個室には備え付けの家具がある。部屋の主は好きにアレンジしてもいいことになっているが、燕青はあまり手を加えず、基本的な家具は与えられた状態の時のままだ。
 つまり、応接するような家具もなければ、客人が腰を掛けるような椅子もない。ということだ。
 思いが通じ合ってから日も浅く、今までカルデアの施設内の何処かで二人の時間を過ごしてきた為、自室に招くことなどなかったのだ。
 今日だって燕青が進んで自室に招いたわけではない。牡丹が行きたいと言ったのだ。

 客人用の椅子などないこの部屋で二人が腰を落ち着かせられる場所と言えば、ベッドの上か備え付けの唯一の椅子か床しかない。が、燕青が牡丹を床に座らせるはずもなく、牡丹を唯一の椅子に座らせ、自身はベッドに腰を掛けた。

「燕青、籠手を貸して欲しいのだけど……」

 何故籠手を? と疑問に思ったものの、燕青は大人しく牡丹の言うことに従った。

 紺色のガントレットの一本は、牡丹の足元に転がっている。
 もう一本はというと、牡丹の左腕に支えられている。矛とも盾ともなるガントレットは重く、燕青の鍛え上げられた腕だから振り回せるものであって、女の牡丹の腕では長時間動かすことは出来ないだろう。
 そもそも、ぶかぶかすぎて直ぐに外れてしまう。

 では、何故牡丹が燕青のガントレットを腕に抱えているかというと、ひとえに、燕青の武器の手入れをしたかったからだ。
 基本的に自分の獲物は、自分で手入れをするのが暗黙のルールだ。誰が定めたものでもない。自分が使用する武器は、自分が整えたいと思うのは武人であれば誰もが理解を示すだろう。
 事実、アーチャーとして現界している牡丹も、愛弓の手入れを他の誰か、燕青にだってさせたことは無い。

「よしっ、ちゃんと磨けた」
「…………」

 重たいガントレットを両手で持ち上げ、拭き残しがないかどうかを確認する牡丹の機嫌は良く、今にも鼻歌を歌いそうなほどだった。

 一方、燕青はというと──。

「なぁ主ー」
「呼び方が違うよ。従者殿?」

 揶揄うような視線を一度燕青に向けた牡丹は、挑発的な笑みを浮かべている。

 嗚呼そうだった。牡丹とはもう主従関係ではないのだった。頭ではわかっている。なんなら二人が望んで主従関係を終わらせたのだから、心だって理解しているのに、癖というのは怖いもので、時折、何も考えずに“主”と呼んでしまう。

「っ、……牡丹」
「なあに? 燕青」

 かつて女は後宮に入り、時の皇帝の妻の一人となった。噂によると異例の出世を果たし、四夫人の一人、賢妃として名を連ねた。
 腐り、歴史から消えようとしていた国を救った一人の大英雄。その正体を知った皇帝──徽宗は自身の腕の中で死んでいった牡丹を後宮に迎え入れたからだ。
 死人を後宮に迎え入れることは前代未聞だった為、反対も多かったらしい。だが、花嫁衣裳を着た牡丹は美しく、完成された人形のようだった。と話に聞く。

 さぞ綺麗だったろうよ。と、牡丹を見下ろす燕青の頬は薄らと赤く染っている。

 この女、胆力は勿論のこと、武芸に秀で、頭も良く、男だろうが女だろうが誑し込む才能があり、挙句の果てに容姿まで整っている。
 所謂才色兼備というものだ。

「燕青? 何か用事があったのでしょう?」
「…………いや、大丈夫だ」
「そう。何かあったらまた名前を呼んでく……呼んでね。君に名前を呼ばれるのは、嬉しいから」
「ぐっ!!」

 咄嗟に燕青は己の心臓を、鷲掴むように抑えた。幸運だったことは、常時上裸の為、服に皺が出来なかったことだろう。
 もし仮に燕青が服を着ていたとすれば、暫く取れない皺を作っていたに違いない。

 突然心臓を押え苦しみだした燕青に驚いた牡丹は、瞬間的に立ち上がり、逞しい肩に手を置いて反対の手で大きな背中を撫でた。

「だ、大丈夫か?! 魔力不足……ってことはないだろうけど……」
「何でもない。気にするもんじゃない」

 自身の肩に置かれている手を取り、大丈夫だと軽く手を握る燕青の体温は暖かい。
 
「気にするさ! 君は私のっ!」

 途中で言い淀む牡丹を前に燕青が、仕返しとばかりに目を弧に歪め、口の端を上げた。

「私のぉー?」
「私の……好きな人、だから」
「ぐっ!!!!」
 
 動悸が……っ!! と心臓の上を再び抑える燕青を、これまた再び心配する牡丹。

 藤丸がこの場に居れば、死んだ目をして言っただろう。

「とんだ茶番じゃん。流石燕青特攻、末永く爆発してろ」と。

 勿論、牡丹のスキルの中に燕青特攻はない。ただ、燕青が牡丹に弱いだけなのだ。クラス相性や属性で弱いわけではない。

 惚れた弱み。というものだ。

 いつの時代も惚れた者が弱い。不変的な理とも言えるだろう心理は、幻霊として現代にも存在している燕青にも当てはまった。
 兎に角、牡丹のやることなすことに生前から弱い燕青は、カルデアに召喚されても弱かった。友人という一線を越えた関係になった今、牡丹が燕青に好意を伝えるだけで、ゴリゴリと燕青のライフポイントが削られていく。代わりにノウブルファンタズムポイントがゴリゴリに貯まっていくような気がしているが、気だけで実際には貯まっていないし、貯まっていたとしても宝具を放てる場面がない。

 もうだめだ。殺される。と心臓を抑えたままベッドの上に転がる燕青の表情は穏やかで、本気で苦しんでいるわけではないことが一目でわかる。

 燕青が横になっている寝台の側で、床に両膝を付けている牡丹は、一度、燕青の顔を覗き込んで、息を短く吐き出して笑うと、ベッドの余っているスペースに横になった。

「牡丹?」
「フフ、近いね」
「……そうデスネ」

 いつにない近さに再び心臓を抑えそうになった燕青は、深く深呼吸し、腹筋に力を入れることで心臓の高鳴りを落ち着かせた。そう大事なのは筋肉だと、どこぞの国の王様が言っていた。
 もし、生前の時にこんなことをされていては、間違いなく早死にしたに違いない。なんせ人間の心臓がポンプする回数は決まっているのだから。
 良かった。サーヴァントで。と感謝する燕青を知らずに、牡丹が燕青の髪を一房手に取り、髪を梳くように指の隙間で遊んでいる。

「楽しいのかい?」
「楽しいか、楽しくないか。の、二択なのであれば、“楽しくない”が正解、かな」
「……なら、触るのを止めるのを薦めるよぉ」
「それは断る」

 もう三回は繰り返しているのに、楽しくはない。と答える牡丹に内心軽く傷つきながらも首を傾げた。一体何の為に触っているのだ、と。

「聞くタイミングを見計らっているのだけど、見当たらなくて……」
「何を?」
「私が死んだ後の君のことを」
「――!」

 まさか、そんな話題が出て来るとは思ってもみなかった燕青は息を呑んだ。瞬間、部屋の空気ががらりと変わり、ピンと糸を張ったような緊張感が充満する。

 衣擦れの音ですら、もっと言えば、唾を飲み込む音すら響きそうなほどの静寂と、言葉を発することを躊躇う威圧感。
 ――そんな部屋の中でも牡丹だけは異質だった。

「ねぇ。教えてくれるかい? 私がいなくなった後の君を」

 緊張感も威圧感も、静寂すら関係ないと言わんばかりに、牡丹はこの部屋で唯一の自由だった。
 髪を遊んでいた手を、燕青の頬に添えするりと撫でる。小さくて少しだけ体温の低い手だ。

「マスターには話さなかった内容を、教えて欲しい」
「――それは、主としてかい? それとも、牡丹として?」

 返答次第では話す内容を変えようと思った燕青は、牡丹に尋ねた。
 もし主としてなら、主を失った従者の末路を。もし牡丹としてなら、最愛を失くした男の末路を。
 どっちにしろ良い話ではない。牡丹だってそのことは承知の上で聞いてきているのはわかっている。だが、少しでも最愛の耳を腐らせるようなことは話したくはない。

 牡丹の唇が動いた。

「どっちも。私は私の全てで燕青の全てを聞きたい」

 どうしてこうも、この方は残酷なのだろうか。
 そんなことを言われたら、話すしかないではないか。この身の全てを話す以外の選択肢がないではないか。
 嗚呼狡い。この人はこんなにも狡い。狡くて、憎らしいのに、綺麗だ。
 外見だけの話ではない。内面が綺麗なのだ。この世の醜さを知っているのにも関わらず、それでも綺麗な心を持っている。

 聞いて欲しくはない。そのままの美しい人でいて欲しい。
 だが、望むのであればその声に応えよう。例え、牡丹の心が曇ったとしても、原因が己にあるのならいい。

 燕青は唾を嚥下した。

「わかった――」

 ――それは、一匹の迷子の話。
 男は走った。どこに行くべきなのかもわからないまま走った。男の慟哭は天をも轟かせた。
 どうして自分が捨てられたのかわからない。自分の何が足りなかったのか。弱かったのか? 足手纏いだったからか? 俺のことが嫌いになったのか? 教えてくれと求める相手ももういない。
 
 ――憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い……憎い!!

 燕青の心を支配したのは、かつての主を憎いと思う感情だけで、在りし日の華々しい思い出が真っ黒に染まっていく。否、影を落としていくのだ。
 光が強ければまた闇も深くなる。

 燕青は牡丹に関する全てを焼き払った。皇帝が執筆した牡丹の英雄奇譚も焼き払った。
 自分を否定するのであれば、牡丹の存在を否定してやる。
 まるで最初から牡丹という名の人間なんていなかったかのように。

 従者は牡丹を否定する獣に成り下がった。
 決して満たせぬ潤いを求める渇いた獲物。燕青を知っている人間は腫物のように扱うか、同じものを失った悲しみを共有するだけの人間しかいない。
 少しでも燕青の渇きを潤してくれる存在がいれば……そうすれば、男の未来は変わったのかもしれない。

 侠客らしく信義に重く、弱きを助け強きを砕く。
 牡丹が愛した男の心は常に潤いを渇望していた。

 男は渇きを女で埋めようとした。女の顔覚えていない。全てが同じ顔に見えるのだ。なんの特徴もない、鼻と目と口が付いている。それだけ。
 しかし女は埋まらなかった。だから今度は戦いで埋めようとした。それでも埋まらない。音楽も芸も踊りも、燕青の渇きを潤してはくれないのだ。

 ――もう、死んだ方がいい。楽になりたい。

 確かに国は変わった。汚職が蔓延っていた国はゆっくりと、美しくなっていった。
 一人の犠牲を称えながら。

 そんな世界を見るのが燕青にとって一番の苦痛だった。
 あの人が死んだのに、どうして明日はやってくるのだと。どうして、この国は生まれ変わっていくのだと。あの人が死んだのであれば、この国も滅んでくれたらいい。そうしたら、幾らかこの痛みだって和らぐのに。

 苦しい。朝日を迎える度に生きていることを絶望する。そんな毎日。

 それなのに、燕青の中に自決という選択はなかった。
 考えなかったわけではない。選択出来ない理由があったのだ。

 だってこの国は、牡丹が愛した国だから。
 その国の行く末を寿命が来るまでは見届けたい――見届けなければならない。

 牡丹を否定している男が、否定している女の為に今も生きている。なんという矛盾だろうか。

 朝日を拝む度に渇いていく心。牡丹の全てを否定しながら生きてく燕青。
 そんな男の懐にはいつも一冊の本があった。半分と少しだけ書かれた本の残りのページは白紙になっている。
 それは牡丹が遺した日記だった。日記とは名ばかりで、書き連ねていることは燕青のことばかりだ。

 ――馬鹿だなぁ。

 なんで俺のことばっか書いてんだよ……。なんであんたは……。

 そこには燕青を恨む牡丹などいない。そこには燕青を捨てる牡丹もいない。いるのは在りし日の二人だけだ。

 男の心が潤うのはその日記を見ている時だけだろう。

 ――男が死ぬまで手放さなかったその日記は、ボロボロになってしまい、解読することが難しいとまで言われている。

「……ありがとう。確かに、マスターには少し話し難い内容だったね」
「――嫌いになったかい?」

 いつになく弱気な燕青がそこにいた。
 牡丹が知っている燕青は、溌剌とした性格で、侠客らしく信義を重んじる人間だ。どんな相手だろうと強気な姿勢を崩さない。
 それなのに、目の前の燕青は眉尻を下げ不安そうにしている。

「嫌いにならないよ」
「ま、そういうと思ったがな!」
「やっぱり演技だったのか」

 燕青は不安そうな表情をこんなにわかりやすく作ったりはしない。
 藤丸相手には別だが、元来この男は不の感情を表に出すような人間じゃない。むしろ逆境を楽しむような人間なのだから。

「調べているのかと思ったが、案外そんなことはなかったのか」
「出来れば燕青の口から聞きたいからね」
「なるほどなぁ……それを言うなら俺もあんたに聞きたいことがあるんだけど」

 今度は燕青が牡丹の頬に手を触れ、指先で撫でるように首元まで滑らせる。
 動脈を辿る燕青の指先には明確な意思があるが、牡丹にはその意思を察することは出来ない。
 ついぞ鎖骨にまで指先が届くと、燕青はその大きな手を牡丹の鎖骨下に押し付けた。
 拒絶するようにではなく、皮膚の下にあるナニカを取り出そうとしているように。

「あんたは今も徽宗の妃なのか?」
「…………はぁ?」
「知ってんだろう? あんたは最後、徽宗の四夫人の一人、賢妃として召し抱えられた」
「それは知っているけど、死後の話でしょう?」
「けど他人のものには変わりねぇだろぉ?」

 揶揄い半分。本気が半分。
 この人は死して人のものになった。死んだあと他人に取られるなんて最悪な話だが、当時はそれどころではなかったのだから、仕方がない。

「もし、徽宗が英霊になったら、あんたは――」
「迷うことなく燕青を選ぶよ」

 何を当たり前のことを聞いて来るんだ。と口にはしなくとも、牡丹の目が言っている。
 それが堪らなく嬉しい燕青は、思わず牡丹の背中に腕を回した。

「流石!」
「そんな心配されるとは意外だったな。この浮気男」
「ぐッ!!!」

 さっきまでとは違う痛みが燕青の胸を刺激した。
 浮気も何も、牡丹と燕青はそんな関係ではなかったのだから、責められる謂れはない。だというのにこの強烈な罪悪感。
 それもそのはず、燕青はその身も心も全て牡丹に捧げてきたのだから。一瞬でも他の人間と関係を持つことは、今の燕青にとって罪でしかない。
 そのことを知っている牡丹は、燕青に向けた気持ちを疑われた腹いせに“浮気男”と詰ったのだ。

 しかし、牡丹は詰ったままでは終わらない。

 自分の胸の上にある燕青の手に自分の手を重ねた牡丹は、痛む胸を抑えている燕青に向かって微笑んだ。神の慈愛とも呼べる微笑みに、翡翠の双眸が一瞬大きくなった。

「たとえ過去に燕青が誰と寝ようがいいの。でも今後は許さない。誰かに魅了されることを私は許さない。いい? 君は私の燕青なのだから」
「もし、魅了されたら……?」

 そんな予定は今後はいっていない。だが、戦闘中は別だ。魅了を持っている敵が今後現れるかも知れない。
 そんな気持ちで恐る恐る尋ねると、牡丹は一瞬考える素振りを見せてから、頭を軽く浮かせ、燕青の額に己の額を重ねた。

「私のところに帰っておいで」

 本日何度目かの心臓発作が燕青を襲った。
 もう苦しい。助けて欲しい。お願いマスター。と藤丸の顔を必死に思い出そうにも、燕青の脳内の藤丸は“はいはい”と言うばかりで、何の助けも施してくれない。

「ったく、牡丹は格好いいな!」
「わっ!」

 清々しいくらいに格好いい。性別的な格好良さではない。心の在り方として格好いいのだ。

 燕青が牡丹を思いっきり抱き締めた。
 己の腕の中にすっぽりと入ってしまう小ささなのに、こんなにも大きい。

 小さくて大きな最愛をこの腕で抱き締める喜び。
 それがこんなにも嬉しいとは、生前の自分も、座にいる自分だって知らない。

 そんな優越感に浸るある日の午後。男の溌溂とした笑い声と、女の鈴を転がした笑い声がカルデアの一室に響いた。

 





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