それは御伽噺のようで



 ——「僕以外に泣き顔見せないでね」

 ふふ、分かりました。でも嬉し泣きは許してくださいね。

 ——「名前、日向ぼっこをしようよ。今日は風が気持ちいから」

 はい。今度は私が花冠を作ってあげますね。総司さんのように上手く出来るかは分かりませんけど。

 ——「ねぇ名前、例え離れる時が来ても、僕の心は永遠に君のものだ」

 私も、私の心も貴方のものですよ。私の永遠を貴方に捧げます。
 だから、どうか、また私と出逢ってくださいな。








 ——私は所謂前世と呼ばれる記憶を持っている。
 生まれた時から持っていたわけではなく、途中で思い出した、というのが正しいのだけれど。
 激動の幕末を生き抜いた私は最愛の人である総司さんと東北の片田舎で、二人慎ましく生活していた。て今みたいな家電製品がない生活だったけど、毎日笑って暮らしていた。家事が終わったら二人で日向ぼっこをして、過去と未来の狭間で微睡んでゆっくりと息をする。
 刀を振るっていた時には考えられないほどに穏やかな時間。その全てを思い出した十七歳の誕生日、私は涙を流した。
 悲しくて涙を流したわけじゃない。忘れてしまっていた在りし日の幸せが蘇って来て嬉しかった。愛された喜びが淡く、緩やかに私の胸を締め付けるから。

 着慣れた制服に腕を通して鞄を肩から掛け、草臥れたローファーを履いて家を出る。スマホを弄って耳に栓をしているイヤフォンからお気に入りの音楽を流してバス停に向かう。それがいつもと変わらない私の日常だ。——ここまでは。
 終点のバス停に着いて椅子に座ったまま外の景色を見れば、ガードレールに寄りかかってスマホをつまらなさそうに眺めている背の高い男子生徒が一人。横顔ですら端正と言えるその風貌はちらりとバスに目を向け、次いで扉から出てくる人物を見定めた。翡翠を連想させる瞳が何かを探す動きで左右に動く。
 スマホケースに仕舞っているICカードを端末に翳して下車すれば、綺麗な顔つきをしている男が目を細めて口の端を上げた。

「おはよう。名前ちゃん」
「おはよう、沖田くん」

 十七歳の誕生日があったのは一週間前。沖田くんとお付き合いが始まったのは二か月前。
 総司さんそっくりの声と姿と同じ名前を持つこの男。もしかして総司さんの生まれ変わりなのでは? と思い出した日から何度も疑っているが、それらしい素振りを見せたことは一度もない。
 きっとこの人は間違いなく総司さんなんだ。でもこの人は私とは違って記憶を持っていない。これから先、記憶が蘇ることがあるかもしれないけど、私は思い出して欲しいって気持ちと同時に、思い出して欲しくないって気持ちもある。
 私にとって総司さんと紡いだ日々は輝いているけど、総司さんの人生の大半は血に塗れた記憶だと思う。仲間を次々と失くし敬愛している最愛の近藤さんを守れなかったあの記憶まで思い出してしまうのであれば、激情のまま涙を流したあの姿をもう一度見たいとは思わない。
 この世界で私は新選組の面々に出会ったことはない。大好きな近藤さんが同じように生を受けているとは限らない。

 そう考えると、やっぱり私と同じようにあの頃の記憶を思い出して欲しいと願うのはエゴでしかないのだろう。

「行こっか」
「うん」

 沖田くんと付き合うようになったのは全くの偶然だった。
 フリーであればどんな女子とも付き合うと噂があった彼に、彼氏欲しさで告白したのが切欠だった。平日は一緒に登校して、休日は偶にデートして、適度な距離を保ったまま順調と呼べるお付き合いを続けている。

「そう言えば期末が近いね」
「沖田くん期末とか気にするタイプだったんだ。意外過ぎる」
「失礼じゃない? それとも僕は期末テストも覚えてない馬鹿に見えた?」
「そうじゃないけど、テストの点とか気にしないタイプなのかなって」
「そりゃ僕だって人並に気にするよ。赤点取ったら補習を受けないといけないしね」

 平坦な道を並んで歩く。進路方向に延びる影が二人の身長差を表している。歩幅が全然違うのに沖田くんがゆっくりと歩いてくれているお陰で置いて行かれることもない。並んでる歩く影は繋がっていないけど、横目で見れば愛した面影が色濃く残る顔が近くにあって、胸に紙で皮膚を切った痛みが走る。
 これは多分罪悪感だ。私は多分本当の意味で沖田くんを好いていない。この人の言動に切なく胸が高鳴ることもあるけど、総司さんを重ねているだけなんだろうと思うとまた一つ罪悪感が重なる。
 痛む胸の内から目を逸らしたくて足元に目をやれば、聞き慣れたチャイムが耳に入った。

「あ……」
「予鈴だ。急ごう名前ちゃん」
「うん」

 並んでいた影が繋がって走り出す。校門目掛けて駆け抜ける少し前を走る沖田くんの横顔がどうしてか輝いて見えて、流れる景色全てがスローモーションに見えた。

 担任が来る三分前、朝から騒がしい教室に到着して一息ついた。机の上に鞄を置いて椅子に腰を掛ければ、隣の席に座っている沖田くんが嫌らしく口元を緩めてこっちを見ていることに気が付いて、何か用があるのだろうか。と小首を傾げれば頬杖をついている沖田くんの唇がゆっくりと開く。

「いつも思うけど名前ちゃん体力ないよね。いつも先にへばっちゃう」
「あの距離をダッシュしたら肩で息もしたくなるよ」
「少しは鍛えたら? 僕が満足するくらい頑張れるようにさ」
「——?! ちょっと、朝からなんの話を——!」

 不満気に唇を窄める沖田くんの言いたいことが伝わり、昼間からなんて話題を出してくるんだ! と目を皿にして言葉に詰まる私を前に沖田くんの双眸が弧を描く。

「僕はー、朝からばてた君を引っ張って走んなくても済むようにって意味で言ったんだけどー? 名前ちゃんは違うことを想像したんだ。やらしいね」
「な——! 違ッ!」
「ま、僕としてはそういう意味で鍛えてくれてもいいけどね」
「沖田く——」

 タイミング悪く教室に担任が入って来て、私は沖田くんに揶揄われたままホームルームを迎えてしまった。沖田くんが座っている方が見られなくて、視界を遮るように両手で頬杖をつけば掌に熱い熱を感じた。顔が真っ赤になっているに違いない。良かった沖田くんに見られる前に隠せて。見られていたらまた揶揄われていたに違いない。

 吐いた溜息は妙に熱を孕んでいて、黒板に目を向けることも出来なくてそっと窓の外を眺めた。

 ——昼休み。屋上に続く階段の最上段で沖田くんと並んで食べるのが付き合ってからのルーティン。
 解放されることがない屋上に用事がある生徒なんているはずもなく、結果的にこの場所が穴場になっている。本校舎の中でも端にあるのが人気の無さを手伝っているのだろう。グラウンドから聞こえる男子生徒や中庭ではしゃぐ女子生徒の声をBGMにお弁当を食べていれば、サンドウィッチを咀嚼する沖田くんが私の唇の端を親指で押し付けた。

「ついてるよ」
「ん、ありがとうございます」
「なんで敬語なのさ。急にしおらしくなると調子が狂っちゃうな」
「酷い」

 唇を尖らせて非難する目で沖田くんを見上げれば、彼は私の唇摘まんで悪戯始める。そうされるといつまでもお弁当が食べられないのだけど、少年の笑みを浮かべる沖田くんを前に文句を言える訳もなく私はそっとお尻の横にお弁当箱を置いてその上に箸を置いた。
 好きなだけ弄ればいいさ。そう思っていても自然と眉間に皺は寄ってしまうもので、ついでに「うぅー」と唸り声混じりの声も出している。

「可愛いね」
「うぅ?」
「そのまま動かないで」

 唇から手を離した沖田くんの指が下って私の顎をすくい上げる。瞬きもしない間に唇がそっと重なって離れていく。
 そんなタイミングや雰囲気だっただろうか。と瞬きをする私を他所に満足したのか、沖田さんは食べかけのサンドウィッチに口を付けた。
 遠くの外から生徒の声、隣からは咀嚼音。それだけしか聞こえない空間。沖田くんは無言を貫いている。それに合わせるように私もまた無言のままお弁当に手を付ける。
 静かな空間に心臓の音が今にも響きそうで、私はそっと息を止めていた。

「ご馳走さまでした」
「それだけ? もっと食べないと成長しないよ」
「もう僕、十分大きい部類なんだけど」
「ちゃんと栄養取らないと病気にもなるし、ほら、卵焼き食べる?」
「んー、食べようかな」

 大人しく口を開いたそこに卵焼きを近付ければ、ぱくりと沖田くんがお手製の卵焼きを咥えて咀嚼する。喉仏を上下させて飲み込めば、もう一度口が開く。どうやらお気に召したらしいと最後の卵焼きを与えれば、沖田くんの眦が心なしか緩んだ。

「僕、甘い卵焼き好き」

 知ってますよ。あの頃は砂糖が高級品だったから甘いものは作れなかったけど、よく隠れて金平糖を食べている姿を見ていたから。そんな気はしていたの。

「そっか」
「また作って来てよ。これなら食べる」
「ん、わかった」

 その後幾つかのおかずを沖田くんに食べさせて空になった容器をランチバックの中に仕舞うと、見計らったように沖田くんがもう一度私の唇を奪って首筋に擦り寄る。甘えているみたいな仕草に胸が締め付けられて心臓が跳ねる。そっと頭に手を乗せて撫でれば首筋に息がかかる。

「生意気だよ」
「じゃあ止めて欲しい?」
「そうは言ってないでしょ」

 相も変わらず天邪鬼な性格で、そんなところも好きだと胸が騒ぐのだから私は相当沖田総司という男に惚れこんでいる。
 でも、それは総司さんを重ねているだけで、沖田くんそのものを見ているわけではないんだと思う。罪悪感が抱えきれなくなる前に手放してしまった方がお互いの為になるはずだ。少なくとも沖田くんは私が告白したから付き合ってくれているだけで、本心では私を好いてはいないのだし。
 そう考えるだけで少し息苦しくなった昼下がり。そっと息を吐けば沖田くんの腕が私の腰に回って抱き締めた。





 人気者と付き合うというのは大変なのだなぁと実感する瞬間と言えば、彼女持ちの彼氏を誘っている女を見た時だろう。
 階段を下りた先にいた沖田くんの腕に細い腕を絡めて上目遣いをしている女子生徒は、以前彼と付き合っていたと噂が流れていた。外見は私よりもうんと可愛くて愛想も良い。どうして別れることになったのだろうか? と二人の背中を眺めながら小首を傾げていると、不意に振り返った可愛い女子生徒と目が合った。
 その視線は瞬時に逸らされ絡める腕に力が入る。まるで最初からいなかったかのような扱いに、眉間に皺を寄せたものの、別れようと思っている彼氏に絡む女に不快感を覚える必要もない。と指の関節で眉間を解すも解れる気配がまるでなかった。

「ねぇ、今晩どう? あたしんち、今日親いないんだぁ」
「へー、そうなんだ」
「えへへ、決まりね! 帰りコンビニ寄ってく?」

 これは、彼氏の浮気現場を発見したという場面なのだろうか。これを機に別れを告げてもいい場面なのだろうか。間違いなくいい場面だ。
 今すぐにでもその背中に駆け寄って失望したって言えばそれでいい。それだけでこの罪悪感から解放されるんだ。

 そうだというのに、沖田くんと過ごした日々が次から次へと浮かんで足が前に踏み出せそうにない。
 何となく彼氏が欲しいからと始まった関係だけど、心地いい距離感を築いていた。あの頃と同じくらいの愛おしい時間を確かに二人で刻んできたんだ。切り離そうって思って切り離せるような軽い感情はその中に一つもない。一つ一つが大切な思い出だ。

「あ、れ……?」

 廊下に透明な雫が落ちた。廊下で駄弁っていた男子生徒が私を見てぎょっと目を大きくさせたのが視界の端でわかった。
 私今、泣いているんだ。手放そうとして漸く、捨てられて漸く沖田くんのことがちゃんと好きだと、好きになっていたんだって気が付いた私はなんて愚か者なんだろうか。
 次から次へと流れる涙をこれ以上誰かに見られる前に、急いで拭って踵を返せば、私から沖田くんを取っていった女の不満気な声が廊下に響いた。

 あまりの声量に思わず足を止め振り返った私は、涙が止まらないままその現場を目撃してしまった。

「それ、本気で言ってんの?! そんなにあの女がいいわけ?!」
「うん」
「なんで?! さっきまで乗り気だったじゃん!」
「乗り気じゃなかったよ。君が僕の話を聞かないで話を勝手に進めただけでしょ。僕、僕の話を聞いてくれない人嫌いなんだよね」

 修羅場である。修羅場が出来上がってしまっている。涙も引っ込むくらいの修羅場が。
 私の泣いていたところを目撃した男子生徒なんかは、どっちに目をやればいいのかわからなくて顔を左右に振っている。
 わかるよその気持ち。なんて同情まで覚える混乱加減。

「というか離してよ。ウザい」
「ちょ——ッ!」

 イライラを隠しもしないまま踵を返した沖田くんが長いコンパスを存分に生かしながら近付いて来る。これは何処かに隠れた方がいい。と判断して階段の踊り場の壁に回り込んで壁に背中を付ける。赤くなっているであろう目を隠す為に両手で視界を覆い、ぐっと息を殺す。横を通り過ぎる足音を幾つか聞いた後、掌の中に溜息を零せば誰かに手首を掴まれた。
 握り潰してしまわぬように優しく触れるこの大きな手を私は知っている。

「名前ちゃん?」
「見ないで」
「なんで?」
「見られたくない、から」
「見せて」

 力尽くではないにしろ、抵抗を許さないとばかりに私の手首を引っ張る。隙間から射し込む光の先には案の定沖田くんがいて、咄嗟に目を逸らせば眦に彼の親指が触れた。
 目尻に残っていた涙を拭ってくれたらしい。

「誰に泣かされたの? 僕が知ってる人? 誰かに泣き顔見せたの? 教えて、そいつの記憶飛ばしてくるから」
「物騒だし質問が多いよ」
「うん。全部に答えて。誰に——」

 誰に泣かされたの? その質問の答えは至極簡単だ。目の前にいる男を指差せばいい。

「この人に泣かされましたけど」
「僕? 何かしたっけ? 記憶に……あー、成程ね。聞いてたんだ? えっち」
「えっ!? なんで?!」

 口の端を上げて笑う沖田くんが私の背中に腕を回して抱き締める。背骨が痛むけどどうしてか拒絶する気にもなれなくて、私はそっと大きな背中に手を回せばさらに力がこもる。
 何処かはしゃいでいるようにも見える彼に口元を緩めれば、機嫌良さそうに笑う声が頭上で揺れる。

「嫉妬してくれたんだ」
「……しますけど」
「嬉しいなぁ。僕ばっかりが好きみたいだったから……っと、此処じゃ何だから何処か落ち着く場所に移動しようか」

 移動した先の空き教室の後ろの隅っこに腰を落ち着かせた私たちは肩をくっつけて並んでいる。
 いつもよりもうんと近い距離に心臓が騒ぎ出す。耳元に心臓があるんじゃないかと疑うほどの騒音に、せめて沖田くんにだけは伝わらないでいて欲しいなんて願ってみても、私を見つめる翡翠の瞳は楽し気に歪んでいる。

「緊張してるんだ」
「そりゃ、好きな人と一緒に居たらこうなるでしょう? 言わせないでよ、もう」
「なんで? もっと言ってよ。僕のことが好きだって、ね? ほら」

 いつの間にか正面に回って窓枠に手をかけている沖田くんは完全に私を閉じ込めていて、逃げ場が何処にもない。
 短い呼吸を繰り返して、大きく息を吸い込んだものの言葉に乗せて吐き出せそうもなく、眉尻を下げて沖田くんを見上げるも、彼はいつものように飄々とした笑みを浮かべて私を見降ろしている。

「ほーら」

 期待が混じった声色を前に、私は無理矢理喉を震わせた。

「……すき」
「うん」
「すき、だよ」
「僕も好きだよ。もう、名前以外の何も要らないくらいに」

 まだ騒がしい校内の空き教室で私たちそっとキスをした。やっぱりまだ罪悪感が顔を出したけど、それでももうこの人を手放したくないと思ったから。だからちゃんとこの気持ちも抱えていよう。例え沖田くんが最期の瞬間まであの日々を思い出さなかったとしても。

 でも、願わくば、あの日々を思い出して欲しいと我欲が溢れ出し、私は沖田くんの頬に唇を寄せた。





 ——そうして迎えた期末テスト。私たちは赤点を一つも取ることなく終わり、長期休みの一日を手を繋いで歩くことが出来ている。

「そう言えば、総司くんって意外と赤点とか気にするタイプだったんだね」
「だって、補修になったら名前とデート出来ないでしょ」
「そういうことをさらっと言う……!」
「あはは、顔が真っ赤だ」

 二人で慎ましく暮らしていたあの日々と同じ笑みを浮かべている総司くんを前に、私もあの頃と何一つとして変わらない笑みを浮かべているのだろう。

 ——その一年後、総司くんはふとしたタイミングで在りし日の記憶を思い出したらしい。
 涙を流しながら私の手を取って唇を寄せるその仕草は、私に総司さんの心をくれた時と同じ仕草で心臓の奥が小刻みに震え、一筋の涙が頬を伝う。

「やっぱり、僕の心は永遠に名前のものだ」

 そう言って総司くんは今生の幸せを煮詰めた笑みを浮かべた。

 
 


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