鳥の末路



 格子の向こうに浮かぶ月は真ん丸く、籠の中にいる私を嘲笑うように見下ろしている。それが憎らしくて堪らない。
 私を捨てたあの人たちを思い出すから。
 
 大切な人たちに幼くして捨てられた。所詮子供。どうせ何もわかりはしないと思っていたのだろうか。私を売って手に入れた銭に目が眩んだのだろうか。私の記憶の中にいるあの人たちは、私を見下ろして笑っていた。
 頭を撫でるその手の温もりは、もう、とうの昔に忘れてしまった。

 この籠の中は酷く狭い。格子で囲われ、その隙間から男を手招くことしか出来ない。仮に格子から出られたとしても、高い塀が街を外と絶するように聳え立っている。一度この街から逃げようと試みた姉さんに聞いた話だから、私はこの格子は常に目にしても、塀は見たことがなかった。
 塀の向こうからお客さんがやってくる。塀の外には私が忘れてしまった世界が広がっているのかと思うと、お客さんが全員自分と違う世界を生きている人間に見えた。

「名前。会いに来たよ」
「まぁ、沖田さんおいでなんし」
「名前に注いでもらうお酒が一番美味しいからね」
「いやぁ。お口が上手でありんすねぇ」

 すっかり慣れてしまった廓言葉に違和感を覚えることはない。小さい頃はよく姉さんに叱られたというのに。

 座敷上がり、沖田さんの隣に座ってお猪口に透明な酒を並々と注ぐ。口の端を上げた沖田さんは無言で口元に近付けたお猪口を傾けると、喉仏が大きく上下した。唇からお猪口を離すと、口の端に付いた酒を舌で舐めとる。その姿が女の私より色っぽいなんて、半ば嫉妬のような気持ちを抱きながら見ていると、沖田さんの大きな手が指先で持つ徳利を取り上げた。空いた私の両手に、さっきまで使っていた徳利を置いた。

「さ、名前も飲みなよ」
「ありがたくいただきんす」

 並々に注がれたお猪口を口元に近付け、一気に呷ると酒が通る喉が熱くなり、食道が狭くなる感覚がした。
 この感覚にはあまり慣れない。もっと言えば、私はお酒が得意ではない。私を買ってくれるお客さんには申し訳ないが、好きでもないお酒をこうやって嫌がりもせずに飲むのは、断れないからでもなければ、仕事だからでもない。
 お酒の勢いでことを為さないとやってられないからだ。

 私を水揚げした客とは上手くいかなかったのが原因だ。
 水揚げを許されるような男なのだから、この花街では優遇されるような太客なのだが、私が必要以上に恐れてしまったのがいけない。それからというものの、床に就く前は酒を一杯入れるようにしている。

 そのことを知った沖田さんは、必ず私に酒を飲ませるようになった。
 酔ってしまえば怖くはない。と言ったのも彼だった。
 それはいつしか床に就く前の合図のような役割をするようになった。

 舞を踊り、琴を奏で、食事を提供する。
 さて次は何をしようか。と沖田さんを見つめると、彼は両手を広げた。

「おいで」
「はい」

 元々少しだけ開けている沖田さんの胸に頬を寄せると、彼は私の頭をその大きな手で何度か撫でた。小さな子供をあやすようでありながら、私の胸の内を全て暴いてしまいたくなる甘露な優しさがある。
 それが嬉しくもあり、どうしてなのか悲しくもなる。
 慣れたその手付きで私ではい他の女の頭を撫でているのだろう、と簡単に想像出来てしまうからだ。

 ここは一夜の恋を楽しむ為にある。のであれば、私にこの気持ちは必要はない。……必要ない筈なのに――。

「ん、ぁッ……!」

 必要以上に触ってくれるから。無情にも人を殺すことを生業としている貴方が、壊れものを触るみたいに私の柔肌を撫でるから。
 勘違いしてしまう。私は芸と身体を売るのが仕事の遊女でしかないのに、沖田さんと身体を重ねる度に、自分は特別なんじゃないか、と錯覚してしまう。しょうもない勘違いは自覚する度に虚しくて、自分を殺したくなる。

 沖田さんの節張っている指が私の項を撫で、薄い唇が胸の頂点を食む。はしたない私は、あのお酒で喉を潤わせた時から、沖田さんの行動一つ一つに対して反応してしまうようになっていた。
 嗚呼。はしたない、なんてはしたない。期待したくないと考える頭で、身体は期待してしまっているのだ。
 なんて愚かで、浅ましくて、頓馬なのだろうか。

 沖田さんの人差し指が項を通って生え際に辿り着いた。私の首を支える手は大きくて、触れている箇所がじんわりと熱い。火傷してしまいそう。なんて言えばきっと彼は「そう? 僕は寒いくらいだよ」って笑うんだ。私よりも体温が高いくせに、そんなことを言う彼は何て天邪鬼なのだろうか。でも、そういうところも――っ!

「何考えてるの? 僕以外の男のこと?」
「ひゃっ! ちが、違います……ぁン」
「ねぇ、何を考えていたの?」

 項を触っていた指が場所を変え、私の首を掴み、胸の頂を食んでいた唇が歯に変わって甘噛みをする。
 違うと。沖田さんのことしか考えていないと伝えたくとも、唇の隙間から洩れるのは嬌声だけで、何一つとして沖田さんに伝わらない。
 もどかしいのに、嫉妬してくれているようにも見えて、お腹の下が甘く疼いた。

「沖田、さんのっ、……ゃあ、んん……ことしか、考えっ……ァあ、ん!」
「それでもダメだよ。頭の中空っぽにしてくんないと」

 空っぽにしろなんて言われても、今目の前にいる彼を見ただけで思考が乱れて溢れる。消そうと思っても、やはり沖田さんの温もりを享受すると、影を焼き付けるほどの炎で沖田さんの全てが脳裏にこびりつく。
 肌の感触も、呼吸の音も、髪に陰影する灯篭の影も、その若葉色の瞳も。

「空っぽ……んっ、んん! 出来な……い!」
「しないと駄目だよ。僕、嫉妬深いだから」
「そん、なっ! ……やぁっぁん」

 乱れた着物の隙間から沖田さんの手が入り込み、腹を撫でるその手は下へ下へと続き、秘部の割れ目に触れた。
 私の皮膚を擽っていた指先が、濡れぞべっている谷に入り込み、陰核を刺激する。そうすれば私は、嬌声を上げるしか出来なくて、必死に沖田さんにしがみつく。

「ぁあ! だめ、だめ! そこはン……やだぁ!」
「だめじゃないでしょ? 気持ち良いって言いなよ」

 気持ち良い。だけど、同時に苦しいのだ。
 だって私の頭の中に浮かべる沖田さんにすら嫉妬するのに、私を一番にはしてはくれない。私を買ってはくれるけど、この籠の中から取り出してはくれない。
 わかってる。私は遊女だから、だからこの人の良い人にはなれない。
 私は、彼の一面しか知らないけど、最近よく女の名前を言うようになった。「千鶴ちゃん」って。その人が沖田さんの良い人なんでしょう? 方や私は体のいい情報収集先だ。この店には沢山の情報が入って来る。それを目当てに私を買ってくれるのでしょう? だから、私をこの鳥籠から出してはくれないのでしょう?

 胸の奥が栓をされているみたいに詰まって苦しい。
 胸の奥だけじゃなく、いろんなところに栓をしてくれたらいいのに。そうしたら、涙なんて零れないのに。

「名前ちゃん?」
「――愛してます」
「うん。僕も」

 私は誰にも拾われない飛べない鳥。特別羽の色が綺麗なわけでもないし、囀りの声が美しいわけでもない。
 誰にも拾われないまま、籠の中歌を歌って、時折格子の隙間から伸びる指で撫でられ。そして年老いていくのだろう。
 せめて意中の人に買ってもらえないのなら、死に方くらいは好きにさせて欲しい。

 ――この人の腕の中で死ねたら、どれだけ幸せな人生なのだろうか。

 多くは望まない。ただ一つ。最期に見る景色は、この若草の瞳が良い。

 きっと叶わぬ願いだろうけど、想像するだけタダでしょう?
 鳥の末路は泡沫に散ると知っていても、私は願わずにはいられないのだろう。
 何事にも代えがたいものを知ってしまったのだから。
 


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