パブロフの兎


少年の世界

 衝動のまま直樹は地面に吐瀉物をぶちまけた。
ビチャビチャと派手な水音がしてタンパク質の臭いが鼻につく。酸味の強い緑黄色野菜と発酵した乳製品とをスポーツドリンクでむりやり胃に流し込んだような、不快な味が口の中に広がった。
 のどが焼けつくように痛い。
 胃酸で焼けたのもあるだろうが、中途半端に溶けてぐちゃぐちゃに混ざり合ったものが逆流したのも原因だろう。強烈な違和感と痛みに、自分ののど笛を切り裂いて掻きむしりたい衝動に駆られた。

「こいつ吐いたぜ! きったね!」

 頭上からやけに低い笑い声が聞えてくる。
 思いきり蹴ればこうなることはわかりきっているはずなのに、汚いと思うなら腹を蹴らなければいいのだ。
 そう思ったが反論する気力がなくて結局口は動かさない。

「直樹くぅん、大丈夫ですかぁ?」

 視線を少しずらすと、自分が履いているものとまったく同じスニーカーが四足見える。学校指定のスニーカーを履いた同じ高校の生徒だ。しかもあまり関わりたくない部類のガラの悪い連中。

「おい、なんとか言ったらどうだよぉ」

 自分とは少しはなれたところについさっき買った新聞が転がっていた。あれを読みふけって前を見ていなかったことがすべての原因だ。ぶつかった相手がたまたまガラの悪い同級生だったりしなければ殴られる事態だけは回避できたかもしれない。そこは自分の運の悪さを呪うしかないだろう。

「無視ですかぁ、なっおっきっくんっ!」

 腹部に軽い蹴りが入った。道ばたに転がった空き缶を蹴るような無造作な動きだったがやられたほうはたまったものではない。

「ぐぇっ……!」

 わずかばかり肺に残っていた酸素が全て飛び出し、それが声帯を鳴らして妙な声が口からもれる。

「なんか変な声だしたぞ! カエル? カエルっぽくね?」

 一番左にいた少年がゲラゲラ笑う。建物と建物の隙間と表現したほうが正しいような道だから大声を出しても誰かが来てくれるとは考えにくい。太陽はすでに沈んでおり、夕日の名残は西側にわずかな朱色を残すばかりだ。となれば、昼間でも薄暗いこの路地にわざわざ人が入ってくることはないだろう。大通りを歩く人々はみな帰路を急いでいて半ば非日常がかった煩雑な騒動に関わっているひまなどないだろうから。

「新聞読んでるって、オヤジかっつーの。カエルオヤジか」

「なんだよカエルオヤジって。お前ネーミングセンスねぇなぁ」

 スニーカーが一足、直樹の持っていた新聞を拾い上げた。しげしげと一面をながめているようだがどうせ見ているのは写真だけだろう。この面子に文字の読める人間がいるとは思えない。

「お前、新聞見てわかんの?」

 ほら、仲間内にだってそう思われているではないか。

「うるせー」

 新聞を見つめる少年は仲間の皮肉に小さく反論したあと新聞をくるくると丸めて棒状にしてみせた。

「これアレじゃね。地元で5人死んだヤツ」

「犬とか猫とかも死んでるやつかぁ。先々週もあったよな?」

「ってか先々週からずっとだべ」

 言いながら、新聞を持った少年がそれで直樹を叩いてきた。たいして威力はないが屈辱的だ。ゲラゲラと4人全員が笑い転げる。

「なんなの? 直樹くんは殴られて死ぬのがうらやましかったの? だから俺らにわざとぶつかってきたの?」

 なぜそういう理論になるのだろう。誰が好きこのんで殴り殺してほしいだなんて思うだろうか。そういう理論を思いつく当たり、きっとこいつらは頭のネジが外れかかっているのだろう。

「自分のミライをヒカンしたの? カワイソウな直樹くん! 大丈夫だよ強く生きて!」
 
 しらじらしいはげましのエールのあと、何度か聞いた耳ざわりな笑い声が聞えてくる。

「自殺シガンの孤児とか泣けるわぁ、ケータイ小説でありそうじゃね?」

「韓流ドラマや!」

「むしろ世界名作劇場じゃね?」

 こいつら全員死ねばいい、とその時直樹は本気で思った。
 幼いときに家族をなくしたらしい直樹はずっと児童養護施設で暮らしていた。
 らしい、というのは自分がそのことをまったく覚えてないからで、家族のことも自分の置かれている立場もすべて人づてに聞いたからだ。
 確かに自分でもどこの世界名作劇場だと思うときがある。
 この生まれに劣等感を抱いているわけでもない。
 触れて欲しくない、なんてしおらしいことを考えているわけでもない。
 ただ、目の前の人間に笑われるのが嫌だった。
 死ねばいいのに、と嫌な味がまだ残っている口で小さくつぶやく。
 それに気づいたというわけではないだろうが、今まで笑っていた少年の一人が不機嫌そうな顔で直樹を睨みつけた。

「……なんだよその目。ムカツクわぁ」

 低い声で吐き捨てられ、また腹部を蹴られる。
 死ねばいいのに、とまた声に出さず口だけ動かした。
 こんなアクシデントは彼にとってもはや日常茶飯事だったが、やはり良い気分はしないものだ。
 黒い髪に黒い目。
 それだけなら目立たないから、日常茶飯事と言えるほど絡まれることはないだろう。けれど童顔気味で体が細い直樹は不良によく目をつけられる。似たような顔の人間がいないというワケではない。なのになぜか直樹だけが目をつけられる。頼りなさそうと言われることもある。絡まれるのはそのせいだとも。
 好きで童顔になったわけでも、わざと頼りない雰囲気を出しているわけでもない。けれどどうやったら絡まれなくなるのかもわからないからこうして黙って時が過ぎるのを待ち、被害を最小限に抑えるしかないのだ。
 死ねばいいのに、とまた声に出さずつぶやく。

「へへっ、バァカ」

 だれか知らないやつがここにきて、いきなりこいつらを殴り殺してくれればいい。
 妄想が頭の中にあふれていく。
 そうしたら僕はどこか物影にかくれてこいつらが殴り殺されるのを見てるから、通行の邪魔だったからとかそんなどうしようもない理由でだれかがこいつらを殴り殺してくれればいいのに。
 何度も何度も蹴られながら、直樹はそんなとりとめのない妄想にとらわれる。逆らったらもっと酷い目にあうことは知っているから、妄想だけでフラストレーションを発散させる。
 本当に、どこのケータイ小説の主人公だ。
 行動がバカすぎて自分で自分を嘲笑う。
 精神構造自体はきっと直樹もこの四人とあまり変わらないのだろう。危うく声に出して笑ってしまいそうになり、なんとかこらえる。
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