パブロフの兎


赤目の化物

「あぁあああああぁああぁっ」

 だからその声を聞いたとき、自分の声がもれてしまったのかと思って驚いた。

「……は?」

 今まで直樹を蹴っていた四人も直樹とは別の理由にせよ心底驚いたようで、体を硬直させ声のほうを凝視する。直樹も彼ら同様、やや呆然としながら声のするほうを凝視した。
 真正面からこっちに向かってくる人影がある。
 フラフラとよろめきながらだれかが直樹たちに向かって歩いてきた。
 壁に足音が反響する。
 またうめき声が聞えた。

「……ぁぁああぁ」

 低い男の声だ。苦しんでいるようなただ疲れているだけのような判別しづらいうめき声が聞える。

「おい、ヤベェってアレ。多分サイコさんだぜ」

 だれかが小声で仲間につぶやく。直樹も立ち上がろうとするが蹴られた衝撃で立ち上がれない。

「あぁあぁああぁああぁっ」

「やっべぇ、ぜってぇ頭おかしいって! おい、逃げようぜ!」

 頭上から焦った声が聞えてくる。さっきまで笑っていたはずなのにいい気味だ、とは思えなかった。
 それより自分も早くここから逃げたい。

「おいっ、いくぞっ」

 バタバタと足音がしていままで直樹を囲んでいた四人が走り去っていく。
 直樹はもう一度立ち上がろうとして足に力が入らず地面に叩きつけられた。
 耳元でビチャッ、という音がする。
 よりにもよって、自分の吐瀉物にダイブしてしまったらしい。臭いにつられてまた吐きそうになるのをこらえ、体に力をいれるため深呼吸する。
 いつの間にか男との距離が近づき、暗がりの中かろうじて相手の姿を確認できるようになった。
 フラッシュ撮影に失敗した写真のような、真っ赤な瞳と目が合う。口のはしから唾液を垂れ流し、眼球が左右に揺れていた。走っている電車の中で外の景色を見ているように赤い眼が小刻みに揺れる。

 ヤク中の外人?

 少しずつ体勢を整えて男から距離をとる。まじまじと観察するが顔立ちは日本人だ。

 じゃあ、ヤク中のヤンキー?

 目はカラコンでもいれているのかもしれない。でも眼球があんなに小刻みに揺れていてカラコンなんていれられるのだろうか。
 唾液が流れ出る口元からうなり声が響く。

「ぁああぁああぁああぁあぁあああぁっ!」

 直樹が体を揺らして身がまえると相手も揺れる赤目で直樹を睨みつけてきた。
 顔はコチラを見ているのに視線が合わない。
 口の端からは相変わらず唾液が流れ出していていい知れない不気味さがある。大声を出されたときとは別の意味で体が震えた。赤目の男が身をかがめる。
 そして揺れる眼球で直樹を見すえ、大地を蹴った。

「うわっ!」

 躍りかかる、という言葉がピッタリの動作だ。
 直樹との距離を一気につめた男が身がまえた少年の腕に首を伸ばす。
 そして、噛みついた。
 噛みつかれた場所から腕全体に痛みが走り、だんだんしびれに変わっていく。骨がきしんでそのまま折れてしまいそうだ。ぬめった舌が腕をなめまわすせいで肌が粟立つ。痛みと一緒に腕を伝う湿りけが相手の唾液なのか自分の血液なのかわからない。
 もしかしたら両方だろうか。
 とっさに振りほどこうとするが相手の力が思ったより強くはなれない。噛みつかれていないほうの腕で男の顔を殴りつけるもやはり腕を放す様子はなかった。

「うわぁああぁあぁっ!」


「ぐぁぅぅぅぅっ!」

 むしろ逆効果だったらしい。男が縄張りを荒らされた犬のような怒号をあげ、小刻みに揺れる赤目が直樹を睨みつける。

「ひっ……!」

 彼は思わず悲鳴をあげて、少しでも相手との距離をとろうと噛みつかれた腕を引っ張った。
 男の歯が食いこんで皮膚が破れる。おもちゃで遊んで興奮しすぎた犬のように腕にかみついたまま男が激しく首を振った。そのたびに歯が皮膚の奥に食いこんできて涙が出そうだ。このままでは腕が咬みちぎられてしまう。
 ギチギチ、と骨のきしむ音が聞えた気がした。

「……っ!」

 痛みにたえるため強く目を閉じる。息をのんで体を強ばらせていた直樹の耳に、バキッという鈍い音が聞えた。

「ぐがぅっ!」

 男のあげた声はうなり声と悲鳴の中間だ。なにごとかと目を開くと目の前にいるはずの男がいなかった。腕は解放されていて噛みつかれた場所から血が止めどなく流れている。

「ぐっ……がっ、ぁ……」

 視界の外で、小さなうめき声が聞えた。あわててそちらを向くと、今まで直樹の腕に噛みついていた男が壁に押しつけられているらしかった。すでにあたりが闇に沈んでいるせいでよく見えない。

「がぁっ……がっ、ぐぅぅ……」

 暗がりの中でうっすらと、だれかの輪郭が見える。
 一人は、壁に押しつけられた男。
 もう一人はその男を壁に押しつけているだれか。
 こちらにいたっては、男なのか女なのかすら直樹にはわからない。男の姿は噛まれたとき至近距離で確認したから記憶をもとに判別できるだけだ。

「がっ……」

 男がまたうめいた。
 彼を壁に押さえつけた人影が腕を振り上げる。
 空気を切る音が聞えた。直後に鈍い音がする。

「がっ、あっ、ぎゃっ、ぐぎっ」

 ガツン、ガツン、ガツン、ガツン、と一定のリズムで鈍い音が聞える。それと一緒に男の悲鳴がやはり一定のリズムで聞こえてきた。男の足が音と一緒に小刻みに揺れている。

「ぎっ、ぎぃっ、がぁああぁあぁっ!」

 男のうめき声が大きく響いた。今までだらりと放り出されていた腕が人影に伸びる。
 ガツン、と鈍い音がして、人影が吹っ飛んだ。

「ぐぁぅぅうっ!」

 男から距離をとって人影がうなる。やはり犬が威嚇しているような声だ。

「がぁああぁああぁあぁあっ!」

 声が両脇の壁に反響する。腹に響くうなり声に直樹は思わず身をかたくして息をのんだ。
 影がふらりと立ち上がり体勢を低くする。
 そして、消えた。

「ぎゃぁぅっ!」

 声がする方向を見ると男が壁に叩きつけられているところだった。いつのまに移動したのだろう。暗がりだからよく見えなかったのか。それにしても行動が早かった。

「がぁあっ!」

 男が短く吠えて影に飛びかかる。襲ってきた男を飛び越えて影が男の背中を蹴り飛ばした。
 直樹は逃げようと思ったけれど足に力が入らない。どうやら、腰が抜けてしまったようだ。

「ぎゃぁああうぅぅぅぅぅぅっ!」

 どちらの声なのかすでに直樹にはわからない。どちらも獣のように吠えるだけで、言葉を話す様子はなかった。
 男が体勢を立て直しまた影に向かってくる。影は低くうなり声を上げながら大地を蹴った。

「……え?」

 直樹は思わず間抜けな声をあげて見上げてしまう。
 見上げるほど高く飛び上がっていた。
 影の背後に月が見える。
 攻撃を避けられた男は一瞬だけ体勢を崩し、けれどすぐに影のあとを追って跳んだ。
 影が空中で体の向きを変えて男の顔を蹴りつける。

「ぎゃぐっ!」

 男が悲鳴をあげて、空から落下してきた。
 そのうえから影が振ってきて、男に馬乗りになり腕を振り上げる。
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