パブロフの兎


March Hare、Time for mad tea party

「……え……」

 祐未の髪が、肌が、目が、みるみる色を無くしていく。
 黒かった髪は透明かと見まごうほど白くなり、肌もテオと同じくらい白くなる。
 目は鮮やかな赤に変色した。赤い目が左右に大きく揺れはじめる。
 視線があわない。
 口が開いて、そこから咆吼が吐き出された。

「ぁあああぁああああぁああああああぁああああああぁあああああぁっ!」

 白い髪、白い肌、左右に激しく揺れる赤い瞳孔。口から吐き出されるのは意味のない獣の咆吼だ。

「三……月、兎……?」

 直樹が恐る恐るつぶやくが、祐未の咆吼にかき消されてしまった。
 驚いている彼の横に歩みより、テオは言う。

「お前はA-10の最も重要な特性を理解していなかったようだな」

 ウイルスのデータの中でも特に厳重に管理されていたから気づかなくても仕方ないだろう。

「このウイルスは、当初の二週間こそ風邪に似た症状や反射亢進の激しい痛みに悩まされる。毒素によってシロチナーゼが破壊され、その後も生成されない。そのため色素が完全に欠乏した外見的特徴を見せるが、二週間のち感染者が生き残っていれば症状は消え、ウイルスは感染者との共存を始める」

 祐未が吠えた。体がビクビクと痙攣して白くなった肌に血管が浮き出る。
 直樹は驚いて、なかば怯えているようだ。

「そうすると症状は消えるが、シロチナーゼは回復しない。だがウイルスの生成する酵素が色素の代行をし、紫外線耐性および外見はシロチナーゼを破壊される前と変わらない状態になる」

 油断するとテオの声もかき消えそうだ。横にいる直樹は、必死に男の声を拾おうとしている。
 自分の姉になにが起こっているのか知りたいのだろう。

「宿主が興奮するとウイルスが活性化し、扁桃体の動きを活発化させる。その時の腱反射や瞳孔反射の亢進は二週間苦しんできたものをはるかにしのぎ、視力に関してはほぼ失明状態となるが、運動能力および視力以外の五感は向上する傾向が見られる」

 周りでうなっていた獣たちが祐未の咆吼に怯えたようにうなり、声を小さくした。

「その時発生する反射亢進は、ウイルスが生成する酵素のためだ。色素の代行をしていた酵素が宿主の興奮とウイルスの活性化によって働きを変える。すると色素の代行をしなくなり、当然宿主の外見も変化する」

 肩口から血をまき散らしながら祐未が立ち上がった。敵がどれなのか彼女はちゃんと理解している。

「祐未はウイルスと共存する唯一の成功例だ」

 テオがクスクスと笑うと直樹にギロリと睨みつけられた。
 姉が実験体で、しかも物騒なウイルスの保有種とあっては良い気分はしないだろう。しかしテオは笑いを止めるつもりはない。

「ここまで来るのには苦労したぞ」

 祐未が体勢を低くして戦う準備を整えた。こうなれば彼女は敵を全滅させるまで暴れるだけだ。

「パブロフの犬の実験を知っているか?」

 犬にメトロノームを聞かせ、そのあとエサを与えるという行為を繰り返す。すると犬はメトロノームの音を聞いただけで唾液を出すようになるというものだ。多分祐未は知らないだろうが、直樹なら知っているだろう。

「それと似たようなものだ。三月兎March Hareと呼びかけてから興奮剤をうつ行為を繰り返す。するとあいつの体は勝手に、三月兎March Hareと呼びかければ興奮するようになる」

「そんなっ……」 

「本来の効果は望めないが、あいつ自身もジンクスのように使っているな」

 テオを見る直樹の目は認めたくないものを目の前にした恐怖と侮蔑に彩られていた。どれだけ姉の状況を否定したくとも目の前で起こっている出来事を否定はできまい。

「がぁああああぁああああああああああぁああああぁああああああああああぁっ!」

 祐未が一際大きく吠えた。そして、低い体勢のまま大地を蹴って、一気に走り出す。

「姉さんが……三月兎……」

 直樹の声はどこか絶望したような響きだった。

「ああ。三月兎はお前の姉だ」

 今の彼女はまさに三月兎という呼び名がふさわしい。
 本来三月兎というのは、ジョン・ヘイウッドの辞典に収録されている『三月兎のように気が狂ってる』という慣用句が由来だ。繁殖期間が始まる二月の終わり頃、兎の雌がいきり立った雄を前足ではねつける。その時の狂ったように飛び跳ねる姿こそ、三月の兎は頭がおかしいと言われる所以なのだ。
 だから気が狂ったように敵を攻撃する祐未は――三月兎に違いなかった。

「キャンッ」

 祐未が走っていった方向から犬の悲鳴が聞こえる。幾重にもうなり声や鳴き声が重なって、その間から微かに祐未の咆吼が聞こえてきた。

「がぁあああああぁあああぁああぁああっ!」

 襲いかかってくる獣をさけて横腹を蹴り上げる。
 大地を蹴って空中へ飛び上がりそのまま足下にいた猫を踏みつけた。

「にぎゃぁあっ」

 耳を塞ぎたくなるような猫の悲鳴が聞こえる。
 次に彼女を襲ってきたのは人間の女だった。

「がぁあああぁあああぁああっ!」

 白銀の長い髪を振り乱して祐未に襲いかかってくる。
 頭からつっこんでくる相手に対し祐未も頭から相手につっこむ。頭突きの形になるのは当然だった。ゴンッ、と鈍い音がして長髪の女が倒れる。
 祐未が白いワニの頭を踏み台にして赤目のヘビに食らいつく。白いヘビは空気をきり裂くような鋭い音を出したがすぐ聞こえなくなった。細長い胴体が二つに分断されて地面に落ちる。
 食いちぎられたのだ。

「ぐぁるぅぅぅぅぅぅぅぁあああああああっ!」

 祐未の口からもれたうなり声に意味はない。唾液をまきちらしながら歯をむき出しにする姿は、敵の獣と変わらない。
 祐未の腕に人間の女が噛みついてきた。それを地面に叩きつけ、馬乗りになって殴りはじめる。
 充満する鉄と獣の臭気にあてられたらしく、直樹が口元を押さえてうつむいた。

「……うっ……」

 祐未の咆吼が聞こえてくる。

「姉さんは……なんでこんなふうに……」

 女であることも、人間であることさえ捨てた咆吼。
 彼女がこんな風になった理由は一つだけだ。

「お前を守るためだよ」

 テオが教えてやると、直樹が驚いて男を見つめる。
 そしてもう一度獣のように戦っている祐未に視線をむけた。
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