パブロフの兎


テオ・マクニール

「ひひゃっ、ひゃはははははっ!」

 闇夜の町に飛び出してきた人影から高笑いが聞こえてきた。テオは思わずため息をつく。
 あの女はやはり自分の弟が犯罪行為に関わっていた事実に動揺して重要な犯人を取り逃がしたようだ。いつまでたってもツメが甘いのは治らないらしい。それが自分の命に関わる悪癖だと、なぜ気づかないのだろう。

「……また後で、だな」

 これが終わったら小言でもなんでもいって矯正してやらねばならない。
 コートの中から拳銃を取り出して、暗闇を走る男にむける。
 S&W社M38はアルミ合金製フレームで軽量化されたリボルバー銃だ。その軽さからエアーウェイトとも呼ばれている。
 頻繁に使うわけでもないし、耐久力も望まない。持ち歩くなら軽いほうがいいからテオはこの銃が好きだった。
 パァンッ、と腹に響く乾いた音がする。
 エアーウェイトといえど発砲時の衝撃はそれなりにある。実弾を撃つといつも手が痛い。

「ひゃがぁっ?」

 さっきまで笑っていた男がよくわからない悲鳴をあげて地面に倒れた。

「お前が梶山陸か?」

 たずねても、男はひぃ、とかがぁ、とか意味のない悲鳴しか口にしない。

「……間違いないな」

 苦痛に歪む顔を見て、直樹が言っていた男であることを確認する。
 陸がテオを睨みつけた。

「お、お前っ、なんだよっ、なんなんだよっ!」

 彼が痛みに身もだえると足から血が飛び散る。生臭い鉄の臭いがした。

「黙っていろ」

 テオはこの臭いが嫌いだ。気持ち悪くなってくる。
 口を開くのもおっくうだったので暴れだそうとする男をとっとと黙らせることにした。

「ぐぇっ……!」

 陸の後頭部を思いきり銃のグリップで殴りつける。男はカエルが潰れたような声をだし、脱力して動かなくなった。

「さて……」

 気絶しているのを確認したあと銃をコートの中にしまいこみ、男の襟首を掴む。脱力した男を引きずりながらドアが破壊された倉庫へ向かった。
 獣の吠える声やうなり声が壊れたドアから聞こえてくるが、壁が防音になっているらしく思ったほど騒がしくはない。

「姉さんっ、大丈夫っ? 姉さんっ!」

 それよりも直樹の悲鳴のほうが耳ざわりだった。
 少年の横には出血した肩口を押さえて座りこむ祐未がいる。おおかた大事な弟をかばったのだろう。まったくバカな女だ。

「姉さんっ……姉さんっ!」

 そして姉がバカなら弟もバカだ。こんな場所で名前を呼び続けても祐未の怪我が治るわけではない。
 テオが今まで掴んでいた男の襟首をはなし、二人に近づく。
 すぐ後ろで気絶した男が頭をぶつけるゴンッ、という音がした。

「下がってろ、足手まとい」

 直樹がぱっと顔を上げる。
 目には涙がたまっており、いますぐに零れそうだ。情けないツラだと笑ってやりたかったが、きっとそれをすれば祐未に殴られるだろう。
 当の祐未はテオの顔をみてこの上なく嫌そうな顔をする。

「げっ」

 失礼なヤツだ。緊張感のなさに思わず笑ってしまう。
 クスクスと笑い始めたテオの足に直樹がしがみついた。今にも泣き出しそうな顔でテオのズボンを掴んでいる。

「姉さんを助けて!」

 プライドがないのだろうか。緊急事態だと判断してプライドをかなぐりすてたのだろうか。多分後者だろう。

「残念だが、俺も戦闘に関してはお前とおなじくらい足手まといだ」

 折角の決意なのに申し訳ないがテオは祐未を助けてやれない。
 戦闘技術をたたきこまれたのは祐未だ。テオは非人道的な実験や研究のやりかたや聞きたいことを無理矢理他人から聞き出す技術くらいで、戦闘技術の知識など皆無に等しい。

「はっ、ずいぶん深い傷だな。大丈夫か?」

 周りからは煩いくらいのうなり声が聞こえてくる。どうやら獣に囲まれているらしいが、奴らも自分たちを警戒しているようだ。
 怪我をした祐未の肩を掴むと女がかすかに眉をひそめた。声を上げないだけ立派だが褒めようとは思わない。

「……あんた、三月兎じゃないのか……?」

 直樹が、テオから少しはなれてぽつりとつぶやく。

「祐未、教えたのか」

 テオがたずねると祐未は勢いよく首をふった。確かに弟に普通の生活を送って欲しいと願うこの女がよけいなことを教えるとは思えない。
 ということはウイルスや姉のことと同様自力で調べたのだろうか。そのわりには情報が不確かだが、ウイルスの情報よりも厳密に管理されているしその名前を知っているだけ感心するべきと言ったところか。
 もしかしたら偶然そう呼んでいただけかもしれない。
 日本人なら銀髪赤目で飛び跳ねるとなれば兎という動物にたどりつくだろうし、そこから三月兎という単語を思いついてもおかしくはない。ICLOでも三月兎という呼び名を使い始めたのは日本文化に詳しい男だった。

「三月兎は俺じゃない」

 テオの言葉を聞いて直樹は不思議そうに首をかしげた。その動作はよく祐未がやるクセとそっくりだ。やはりはなれて暮らしていても姉弟だということだろう。
 男が笑って祐未を見る。彼女の表情は心なしか強ばっていた。
 それはそうだろう。
 誰だって大切な人間に無様な姿は見られたくない。

「祐未」

 けれど今やらなければいけないとわかっているから、彼女は抵抗しなかった。いつだって彼女はやらなければいけないことを理解しているからテオに抵抗したりしない。
 結構なことだ。祐未のそういうところは気に入っている。

「いっ……!」

 祐未の肩を揺らすと今度こそ悲鳴を上げた。少し力を入れすぎたらしい。
 テオが女の鼻先に触れるほど顔を近づけて、ニヤリと笑ってみせる。
 痛みにこらえながら、祐未がテオを睨みつけてきた。

お茶会の始まりだ、三月兎March Hare、Time for mad tea party!」

 祐未の体がビクリと跳ねる。
 傷ついた肩の痛みを意に介した様子もなく、彼女は眼鏡の奥にある黒い瞳を見開いて天井を見上げた。手足が痙攣しはじめて瞳孔が大きく左右にブレる。
 それは何度見ても不思議な光景だ。
 きっと初めて見る直樹にはもっと不可思議に映ったことだろう。
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