応数主任のクラウディア・倉田はテオが引き抜いた数学の天才だ。テオとは大学の同期であるらしく特異点がふたつ存在するブラックホール解を求めるなど、驚くべき実績を数おおく持っている。頭の回転も速いから政治に疎いハルの変わりに御輿として利用される可能性は充分にあった。本人が乗り気かどうか直樹には今のところ判断できないが、少なくともテオが意識不明だからといって慌てふためいている様子はない。どこかの派閥に属している様子もないため、マクニール派がハルを後継者として担ぎ出した場合、反マクニール派が彼女を対抗馬にする可能性すら考えられた。このままテオが目覚めず直樹が吊し上げにあったときのため、今のうちから味方につけておいたほうがよさそうだ。 現状最も動きに気を配るべきなのはレジス・ダランベールだろう。今までICLOで比較的冷遇されてきた言語学や国際関係学、法学、あるいは経済学や考古学、地理学、民族学や社会学といったいわゆる『文系研究室』から圧倒的な支持を得る社会心理学研究室の主任で、テオやクラウディアとは大学の同期。ハーバード大学で講師をしていたところをテオに引き抜かれて以降異例の早さで功績を詰んでいる。彼が勢力争いに参加するにしてもしないにしても『文系研究室』はレジスの行動を全面的に支持するだろう。彼がどう動くかが勢力争いに大きく関わってくることは間違いない。彼もテオが意識不明だからとうろたえている様子はなかった。またどこかの派閥に属している様子もない。強いて言えばダランベール派筆頭であり、なにを考えているか、どう動くか直樹にはまったく予測ができなかった。こちらも取り入るなら早めに動いたほうが良さそうだ。 忙しなく回していたペンの動きをとめ、直樹は携帯電話に手を伸ばす。幸い、NSMと同じ棟にある機工――機械工学開発室――の主任新川国光はレジス・ダランベールとそれなりに交流がある。クラウディア・倉田のことも毎朝寮からバイクで送ってくるというから、彼らに取り入るなら国光に頼んだほうが手っ取り早いだろう。同じ日本人ということもあって、直樹も懇意にさせてもらっている。 新川国光は友好関係が非常に広い男だったがそれ故中立と見なされ、勢力争いからは無関係な立ち位置を築いている。レジスやクラウディアとはまた違った意味で厄介な男だ。あの2人は動きが読めないだけでどれだけの規模の味方がいるかくらいは把握できる。新川国光という男は、動きが読めないだけでなくどれだけの味方がいるのか、また彼自身は誰の味方なのかも、まったく掴めていなかった。 まだICLOに入って半年ほどしか経っていない直樹はそれでなくても人間関係を把握できていないのに、この職場は厄介な人間が多すぎる。ほぼ孤立無援の状態――力強い味方である姉の祐未はこのような繊細な争いに対応できる神経と脳みそを持ち合わせていないだろう――で起こった今回の窮地にはすべてを投げ出して頭を抱えたい気分になった。 電話帳のデータから新川国光の電話番号に発信すると二、三度コール音がしてから通話状態になる。 「……もしもし、国光? ちょっと紹介して欲しい人がいるんだけど」 本人かどうかの確認もそこそこに本題を切り出すと、電話の向こうから明るい男の声が聞こえてきた。新川国光のものだ。 「おー、丁度良かったです! こっちも直樹に紹介してぇ奴がいるんですよ!」 「え?」 「いやー大丈夫大丈夫。取って喰いやしねぇはずですから。今からそっち引っ張ってきますね」 「いや、ちょっと国光……」 彼は自分の本題を言うや否や一方的に通話を終了させてしまった。取り残された直樹はもう一度電話をするべきかどうか迷う。その一瞬のタイムラグで隣の研究室にいたらしい国光がNSM室の扉を開けた。 「やっほー直樹ぃ! お仕事お疲れさまです。ちょっと俺の話を聞きやがれですよー!」 直樹が眉をひそめて扉に視線を向ける。このクソ忙しいうえに色々なことを平行して行わなければならない非常事態に、話の通じないバカの説得までしている余裕はないのだ。国光を睨み付けるつもりで振り向いた直樹は彼と目が合った瞬間目を見開いて硬直してしまった。 国光はあいかわらずハイテンションのまま宣う。 「レジスとクラちゃんが直樹に話があるとかいいやがるんですよ! ついでにハルちゃんも引っ張ってきちまったです!」 直樹の手から握っていたボールペンが床に滑り落ちた。 しおりを挟む目次 戻る [しおり一覧] |