スイート・バニラ・ガール


1

――追え、逃がすな。

 体中が訴える声に従って裕未は勢い良く大地を蹴った。人通りの多い石畳の商店街を、弾丸のように素早く駆け抜ける。
 裕未が横を走り抜ける時に間違えて蹴ってしまったカフェテラスのパラソルがバタバタとはためき、その下に置いてあった真っ白な椅子がバタンと大きな音を立てて倒れた。買い物袋を持った女性が物音に気付いて悲鳴をあげる。
 裕未の鼻先を、潮の匂いが掠めていった。海岸を見渡せる丘の上にこの商店街はあるのだ。ブティックも喫茶店も図ったように赤煉瓦でつくられた町はこの国でも有数の避暑地であり、利益の大半を観光客に頼っている。赤煉瓦で統一された商店街は中世の面影を強く残し、時代に取り残されたような趣があった。時間がゆっくりと流れる町は訪れた者の心を和ませ、故郷に帰ってきたような気持ちにさせてくれる。故に赤煉瓦の道を走る男はその場に酷く場違いで、その男を追い掛けて全力疾走する裕未もまた、男と同じくらいに場違いだった。
 ゆったりとした足取りで店のウインドウを見て歩く観光客の間を縫うようにして、男が走っていく。彼の尋常ならざる雰囲気を察知した人々が、時々悲鳴をあげて立ち止まった。そんな彼らの間をくぐりぬけながら裕未が走る。驚きに硬直した人々の間を走り抜けるのは思った以上に骨が折れた。

――このままじゃ、逃げられる。

 悲鳴をあげたカップルの頭上を飛び越えたところでそう悟った裕未は、店の軒先に突き出た屋根に足をかけて、建物の上を走りはじめた。障害物がない分このほうが楽だ。屋根から屋根へ飛び移りながら、1人で障害物レースをしている男との距離をつめていく。丁度走る男の頭上に来た時、裕未は叫んだ。

「ゲームセットォオォ!」

 彼女の怒号に気付いた男が勢い良く顔をあげ、飛び掛かってきた裕未を見て目を見開く。しかし予期せぬ攻撃に対して咄嗟に反応できるわけもなく、彼は降ってきた裕未に踏み付けられて

「ぎゃっ」

 という、間抜けな声を出した。しかしそれでも諦めきれないらしく、不様に寝転んだまま男が激しく暴れまわる。

「おとなしくしやがれっ」

 手足をばたつかせる男の腹へロデオよろしく馬乗りになって、裕未は怒号を飛ばした。地面に縫い付けられたまま裕未が銃を取り出す姿を見た男が、形容しがたい悲鳴をあげる。もともとクスリを使い続けて思考力が低下している所に長時間逃げ回ったものだから、すっかりパニックを起こしているらしい。裕未が脅してもおとなしくなるどころか余計に暴れ始めた男は、とうとう自分の上にのっていた裕未をはねのけ、彼女の腹部を勢い良く蹴り飛ばした。

「ぐぅっ……!」

 思わず苦悶の声をもらした裕未の体が後方に飛ばされ、すぐ近くにあった街頭販売用のワゴンに叩きつけられてしまった。

「きゃああぁっ!」

 店員の悲鳴が聞こえる。どうやら観光客にソフトクリームを販売していたらしく、ぶつかった勢いで銀色のサーバーを倒してしまった裕未は頭からバニラソフトクリームの原液をかぶる羽目になった。彼女が視界を奪う白くドロドロした液体を手で拭った頃には既に男は転がるようにして逃走を再開しており、裕未は思わずため息をついて握り締めていた銃を構える。周りにいた群衆が悲鳴を挙げ逃げ惑うのを気にせず、彼女は狙いを定めて引き金を引いた。
 パァン、と空気の破裂する音が響き、走っていた男が不様に崩れ落ちる。デザートイーグルの弾丸を右足で受けとめた男は、悲鳴とも泣き声ともつかない声をあげながら痛みにのたうち回っていたが――しばらくして、甘ったるい液に塗れた少女に連行されていく。

 そして赤煉瓦の町は、再び静かで穏やかな時間を取り戻した――
- 1 -次#
しおりを挟む
目次
戻る
[しおり一覧]
LongGoodbye