あたしのダフネ・コンプレックス


1

「おとなしくしてないと、痛い目をみるぞ……」

 荒い息を吐き出して、白衣の男が言った。艶のない黒髪のすぐ下で、同じ色をした目が欲望にギラギラと光っている。骨が軋むほど強く腕を捕まれ、裕未は恐怖で泣きたくなった。腐ったナメクジが首筋から下へずるずると這い回る。生臭い二酸化炭素を顔に吹き付けれれて、息がうまくできなくなった。まだ十年も生きていない裕未には理解できない行為。けれどそれが恥ずかしくはしたないものであることはなんとなくわかっていた。

「ふっ……ふふっ、はっ」

 笑い声のような泣き声のような音をもらし、男が体を押しつけてくる。夏場に放置した飲み水のような温度。裕未の意志を無視して体の上を動き回る手のひらは足高蜘蛛。気持ち悪くて身を捩ると、肩を強く掴まれてその場に縫い付けられた。

「抵抗するなっ……!」

 低い声が裕未を怒鳴り付ける。他人に痛みを強いて快感を得る人種がいる事は知っているけれど、彼らはそれの何にひかれているのだろうか。肉を引き裂かれる不快なだけの行為を強いられた時、裕未は早く終わればいいとそればかり考えていた。

「ふふっ、ふっ……っ!」

巨大な芋虫が体の中で蠢いて肉を食い破る。やがて、人の肉を味わっていた芋虫が突然動きを止めた。男の体がびくりと大きく痙攣してから、裕未の中に汚れきった欲望が吐き出される。この白いヘドロを処理するのは裕未の仕事だ。芋虫と高足蜘蛛の合成獣が白衣を翻してその場を立ち去った後、裕未は痛む体に鞭打ってのろのろと立ち上がる。無意味で不快な疲労感に涙が出てきた。

「……シャワー……」

 彼女の呟きに答えるものはいない。虚しく散った自分の声を置き去りにして裕未はのろのろと扉に手をかけた。

――ガタンッ

 それは誰かがいる合図。他人の気配を察知した裕未が緩慢な動きで音源を辿ると、そこには見知らぬ男がいた。くすんだ灰色のつなぎを着て、その上から濃い青色のエプロンをつけている。ここで働いている連中は全員白衣を来ている筈だから、おそらく外の人間だろう。裕未が呆然とその姿を見ていると、男は素早く裕未に駆け寄ってきて腕をつかんだ。また骨が軋む。

「っ……、来い!」

 低い唸り声が響いて、裕未の体が元いた部屋に引きずり込まれる。床に叩きつけられた体がじんじんと痛み、疲れた体が起き上がる前に男の体がのしかかってきた。息が荒い。血走った目が裕未を睨み付け、まるで犯罪者でも見るような色で見下してくる。

「見てたぞっ……ガキのくせに、売女のマネなんかしやがって……!」

 ばいた、がなにを意味するのか裕未にはよくわからなかった。自分の知らない間になにか悪いことをしてしまったのだろうか。心当たりがないのだけれど。怒り狂う男が怖くて裕未が身を固くしていると、男は赤らんだ手で彼女の服を引っ張った。

「ガキのくせにきたぇアマだ! 腐れ売女め! その乳くせぇ顔で何人男くわえこみやがった!」

 濁音と半濁音の中間を思わせる音がして、服が破ける。外気にさらされた肌に足高蜘蛛が這い寄って来たので、裕未はまたあの忌まわしい行為が始まるのだと悟った。恐怖に震える頭の片隅がすっと冷たくなっていく。足の隙間に芋虫が這いずってきて、裕未の肉に噛み付いた。

「バカにしやがって……女なんてみんなそうだ! お前だって、男に媚売って生きてるんだろ!?」

 不細工な芋虫が裕未の肉を食い荒らす。頭上から降ってくる男の怒号を、裕未は黙って聞いていた。媚を売るとはなんだろう。この行為を言うのだろうか。男は裕未が自分からこの行為を望んでいると思っているのだろうか。こんなに力ずくで押さえ込んでおいて、抵抗したら殴るくせに、それを裕未が望んでいるとでも……

「汚ぇガキめっ……! おまえらなんかっ、おまえらなんか人以下の家畜のくせに……! 雌豚がっ、雌豚どもが!」

 醜く赤らんだ顔にねっとりとした汗を浮かべて男が言う。きっと彼はこうして他人を見下すのが好きな人間なのだろう。怒るのが好きな人間がいるのは裕未も知っていたから、彼女はただずっと、冷めた目で赤ら顔を見つめる。

 やがて男の動きがぴたりと止まって、裕未の中に芋虫の嘔吐物がまきちらされた。芋虫が彼女の体内から去ると、男はゴミを捨てるような手軽さと粗暴さで裕未の体を突き放した。その後彼は、乱れた自分の衣服を整えて立ち上がり扉のほうへ歩いていく。しかし男がドアノブに手をかけるより先に、扉のほうが勝手に動いた。

「なにをしてるんです?」

 現れたのは、色素を忘れた銀色の髪に炎のごとくギラギラ光る赤い目をもった少年だった。裕未より3つ年上の彼は、名前をテオ・マクニールという。11歳で既に母親の手伝いと称し大人顔負けの仕事をこなしている彼は――つまりここで働く大人たちと立場や権限上はなにもかわらない、というとんでもない子供だった。

「えっ、あっ……ま、マクニール博士のお子さんですか……」

 炎の瞳でちらりと睨み付けられた男は額に浮かぶ脂汗を拭って質問を返した。テオの眉がぴくりと跳ね上がり、眼光がさらに鋭くなる。そのままの目付きで彼は視線を裕未に移した。そして、目線を薄汚れた裕未に固定したまま口を開く。

「貴方の言っているマクニール博士というのは、ジュリアン・マクニールのことですよね? だとすれば僕は『マクニール博士のお子さん』ですよ。僕もいくつかの博士号を取得しているので、あなたのいうマクニール博士が僕だった場合、答えはノーですが」

 嫌味。その一言につきる解答だった。わざわざ他人のあげあしとも言えない言葉のあやを細かく指摘してみせるテオに、今度は男の眉がぴくりと跳ね上がる。相手の機嫌が急降下したのはわかっているだろうに、テオはたいして気にした様子もなく男にたいして

「で、なにをしているんです?」

 と、問い掛けた。自分のほうが立場が上だと理解している人間の口調だ。尋ねられた男は一瞬だけ裕未を睨み付け、コイツが悪いのだと言いたげに舌打ちしてみせた。答えようとしない男にテオがもう一度言葉を吐き出す。

「何をしていたんです?」
 見下すような声色で紡がれる質問にとうとう観念したのか、男は赤ら顔を醜く歪めて叫んだ。

「こっ……こいつが誘ったんだ! 俺は悪くない! このガキが売女のまね事なんかしやがるから、ガキがそんなマネするなって……注意してやったんだ! なのに、このガキが……!」

「すいません、理由なんてどうでもいいんですよ」

 必死に弁明する男に対して、テオは心底呆れたような侮蔑の表情と声でバッサリと切り捨てる。男の動きがピタリと止まった。

「僕が言ってるのは、貴方がうちのモルモットにどんなことをしたか、です。仮に貴方の言う事が正しいとしても、貴方がうちのモルモットに手を出したことは変わらないでしょう? 動物園の動物を逃がしてしまった時に、閉じ込められて淋しそうにしてたから檻の鍵を開けてやったなんて言い訳が通用すると思ってるんですか?」

 それは裕未に対してもかなり屈辱的な理論だったけれど、彼女はこの理論についてはもう諦めがついていたのでため息ひとつで見逃すことにした。テオの顔をまっすぐに見ている男は、体をぶるぶると震わせてなにか反論したそうにしている。

「それは我々が保有している実験サンプルです。貴方はどうやら人道主義的な勘違いをしていらっしゃるようですので指摘させて頂きますが、貴方のやったことは強姦ではなく器物破損と営利妨害、場合によっては産業スパイと疑われてもおかしくはない行為ですよ」

 それは『裕未に対する行為』ではなく、『裕未を保有する者に対する行為』なのだと、故に裕未に過失があるかどうかなど問題にならないのだと、テオは暗に告げてくる。

「それに」

 あまりといえばあまりに非道な少年の理論に男が言葉を忘れて呆然としていると、テオが口元に嘲笑を浮かべて吐き捨てた。

「強姦及び強姦致死で二回も投獄された人間の言い分なんて、誰が信じるんですか?」

完全に相手を見下して侮蔑した視線が男を射ぬく。これ以上の反論を許さぬ死刑宣告に、彼はとうとう完全に言葉を失った。
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