君はリリーを知っているか?


「手間ぁかけさせやがって」

 その日の朝、リリアンは誰よりも早く起きてギリシャ彫刻の傍を離れた。朝食にあわせ、ベッドで寝ていたかのような素振りでリビングへ顔を出す。
 夕食同様、朝食も作ってくれたドリーが笑顔でリリアンに尋ねた。

「今日の予定は?」

「私、サイエンス図書館いってくるよ」

「気をつけてね。隆弘さんは?」

「俺も図書館だ」

 隆弘は女の態度ですべてを察したようだ。
 リリアンは申し訳ないなと思いつつ、朝食の後すぐにオックスフォードの中心地へと出かける。

 オックスフォードにある図書館は当然だがどこも静かだ。ラドクリフサイエンス図書館も例外ではなく、真冬の朝を思わせる張り詰めた空気が満ちていた。1861年に建築された建物は煉瓦造りで中世の趣を残している。閲覧室は外見に似合わない白い壁だ。照明が直接埋め込まれた清潔で近代的なデザインになっている。図書検索のためにパソコンが設置され、キーボードを叩く音やページを捲る音だけが微かに響いていた。息をひそめた人々の気配が時間までもを止めてしまったようだ。手もとの本とノートに集中してしまえば時間などあっという間に過ぎていく。図書館とはそういう場所だ。
 開館とともに図書館を訪れたリリアンは数分前に生体医科学の個別指導チュートリアルで指定された課題図書を読み終えた。今は薬学関係の本を探して本棚の間を歩いている。図書番号の表示を参考に目的の本を探し出し、背表紙に手を伸ばすもギリギリで届かない。何度か挑戦してみたが結果は同じだった。
 決してリリアンの背が低いわけではない。むしろ175pは平均より高いほうだ。
 もう少しで届きそうなのだが、いったん諦めて台座を持ってきたほうがいいかもしれない。リリアンがみっともなく背伸びをしていると、背後に影が差した。
 目当ての本に長い指先がひっかかる。骨張った男の手が本を掴むと、リリアンの腕の中にハードカバーを落とした。

「手間ぁかけさせやがって」

 リリアンが背後を見る。やたらと背の高い男が立っていた。

「西野!」

「隆弘だ」

 白いシャツの中央でかわいらしい子豚が三匹手をふっている。相変わらずファッションセンスが息をしていない。非常に残念なイケメンではあるが、一応助けてもらった手前礼は言っておいたほうがいいだろう。

「ありがとう」

 すると隆弘は喉の奥でククッ、と笑った。

「気にするな。読み終わったらその本かしてくれればいいさ」

「西野って薬学とってるの?」

「隆弘だ。俺は政治経済だぜ」

「それ科学図書館で読むもんなくね」

「親父の会社が今度製薬に手ぇ出すらしくてな。話のネタにと思ってよ」

「そのわりに上級者向けの本読むね」

「そんくらいじゃねぇと話のネタにならねぇだろ」

「そうかなぁ」

 軽い会話だけならその手の雑誌で最新の論文を聞きかじるだけで充分だろう。リリアンは薬学を大学できちんと勉強しているのだ。同じ本で勉強しているなら、それは軽い会話のためではない。きちんと企画会議や商品開発に参加するための知識だ。
 こんなものを昼間から読んでいて、本来の勉強は夜だけなのだろうか。
 眉をひそめたリリアンになにを思ったのか、隆弘はもう一度喉の奥で笑って

「じゃあ頼んだぜ」

 とリリアンの頭を軽く叩く。彼の腕には既に10冊近くの本が抱かれていた。しばらくは図書館にいるつもりなのだろう。
 男の背中が本棚の角を曲がるまで見送っていたリリアンは、我に返ってもう5冊ほど薬学関連の本を探し出すと、自分も確保していた机へと戻っていく。
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