君はリリーを知っているか?


「もういっぺん言ってみろ!」

「私っ……違いますっ!」

「どうだかわかったものじゃないね!」

 リリアンの叫びは目の前の警官には届いていないようだ。下唇を噛み締め再び俯いた彼女の耳に冷たい声が降ってくる。

「そもそもジャッキー・ボーモントとのトラブルも、君が教授を殺したことが原因である可能性だってある!」

 壁側のすみでブチリと荒々しい音がした。リリアンが何事かと振り返る。隆弘が煙草を噛みきっていた。彼は千切れた煙草の破片を踏みつけて消化すると、口の中に残った残骸もツバごと吐き出して警官に歩み寄る。

「なんだとテメェ……もういっぺん言ってみろ!」

 地を這うような低い声だった。地響きのように人の身体を揺さぶる声だ。人殺しのような表情を浮かべた隆弘は、大股で警官に詰め寄り、拳を思いきり振り抜く。

「ぐっ!?」

 警官がうめき声をあげて床に倒れる。
 アーマンが叫んだ。

「たっ、隆弘! なにをやっている!」

 だが隆弘は男の悲鳴を無視した。立ち上がった警官の襟首を乱暴に掴み、哀れな被害者の上半身を無理やり起こす。

「ふざけんなよてめぇこのクソポリ公が! こんな脅えてる奴によくそんなことが言えるな! バルボ教授を殺したのがリリアンだと!? そういうことは証拠があがってからいうもんだぜ!」

 隆弘が大きく振り上げた腕をアーマンが掴んだ。

「やめろ隆弘っ! だれか手伝ってくれ!」

 アーマンがしがみついたことで動きの鈍った隆弘の腕にリリアンが飛びつく。

「通販で買ったホモ本読むまで死ねないのに!」

 男は怒りにまかせて2人を少し引きずった。肩で息をしたまま警官を殴る寸前で停止する。なんとか2度殴られることを回避した男は最初こそ隆弘に脅えていたようだったが、すぐさま顔に怒りを滲ませて声を荒げる。

「なっ、なんだお前はいきなり! 公務執行妨害だぞ! 突然殴りかかるなんて、こっちは仕事してるってのに非常識にもほどがある!」

 取り押さえられた隆弘が巡査を睨みつけて呻った。

「うるせぇ! 殴ってねぇ!」

 男にしがみついたリリアンが悲鳴をあげる。

「いや、今思いっきり殴ったよね!?」

 反対側の腕を押さえるアーマンも声をあげた。

「なんでお前はそうやってすぐバレるウソをつくんだ!?」

「こんなもん殴ったうちにはいらねぇ!」

 ぶら下がった腕が動いたので、リリアンは慌てて足に力をいれる。

「西野、恐ろしい子!」

「隆弘だっ!」

 西野隆弘に睨みつけられた警官は一度ビクリと肩を振わせたが、またすぐ負けじとギリシャ彫刻をにらみ返した。

「学生だからって調子にのるなよ! 留置所で頭を冷やしてもらうからな!」

 未だ隆弘の腕を掴んでいるアーマンが、警官に向って怒鳴る。

「やめないか!」

「しかしこいつは!」

 青年の腕を離したアーマンが警官に歩み寄り、肩を掴んだ。言い聞かせるようにゆっくりと言葉を吐き出す。

「我々はすべてを疑うのが仕事だが、お前のは疑っているのではなく決めつけている態度だ。自分の仕事がデリケートなことを自覚しろ。市民を傷つけるような対応をしてはいけない」

 巡査が苛立ったように顔をそらした。アーマンはひとつ息を吐き出すと、コートの襟を直してリリアンとドリーに向き直る。隆弘はアーマンの言葉を聞いて思い直したらしく、静かにたたずまいを直してタバコに火を付けた。
 アーマンのコートのとれかけた第二ボタンを凝視するリリアンは、頭上から降ってくる刑事の言葉をぼんやりと聞く。

「このたびは危険な目にあわせてしまい、大変申し訳ない。このうえさらにご不便をかけるようで忍びないのですが、警察でホテルを用意しますので、みなさん事態が落ち着くまでそこを使って頂けませんか」

 ドリーが心配そうな顔でリリアンを見る。隆弘は壁にもたれかかってタバコを吸っているが、彼もリリアンを見ているようだ。
 アーマンが言葉を続ける。

「警備には万全をつくします。事件が落ち着くまでは出かける際も目立たないようにですが、警護のものをつけましょう。詳しい事情は明日、こちらから出向いてお話を聞かせて頂きます」

 リリアンは他人の家を借りておいて不審者に侵入されてしまったのだ。当然拒否権などない。隆弘もドリーも事件の関係者だからこの後危険がないとは断言できない。この提案が彼らの身の安全を保証するうえで一番有効な策だと、誰もが嫌と言うほど理解していた。
 俯いたままのリリアンがゆっくりと頷く。

「……わかりました」

 ドリーもリリアンと同じように頷いた。

「宜しくお願いします」

 隆弘が壁から背中を離し、2階の自室へ向かっていく。
 彼を巻き込んだのはリリアンで、男が住み慣れた家から出ていく原因もリリアンだ。
 彼女はしばらく、罪悪感で顔をあげることができなかった。
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