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そうまでしてようやく漕ぎ着けたこの職場、実は漆黒すぎるほどのブラック病院であることに気がついたのは入社してから程なくしてであった。
無理もない。想像してみてほしい。
先立って話したように、そもそも普通はそれなりに通常業務をこなすことのできる看護師を求めるような環境なのだ。
それが毎年毎年新卒でも構わないと求人が出ている。
それはつまり、次々と人が辞めていっている病院であり、その悪評故に近場の現職看護師たちには転職するにしてもここは選ばない、と避けられている病院なわけである。
週休2日とは名ばかりで入社早々週6勤務もままあり、人手の関係で夜勤が数日続くこともしばしば。
そもそも夜間だけが勤務時間ではなく、昼間もけたたましい救急車の音とともに患者は搬送されてくる。
只でさえ覚えることだらけの新卒は、まさしく忙殺。読んで字の如く忙しさに殺されていく。
新卒中途合わせて10人程いた同期も、今では半分以下に減ってしまった。
給料はこの職歴にしては良い方だと思うし、ギスギスしていると思われがちなスタッフ間の仲も悪くないどころかむしろ良い(恐らくキツすぎるが故に運命共同体のような気持ちになっている)。
それにしんどいな、と思うことは多々あれどこの仕事自体は好きなのだ。
幼い頃の自分の憧れであり、生涯譲れないプライドでもある。ただそれとこれでは話が違う。
カバーしきれないことだってある。
色んなことに我武者羅に食らいつき、慌ただしい日々を送る中で気がついたらこんな年齢になってしまっていた。
辞めて行った元同期たちの中には、寿退職した子だっている。
この環境の中で、いつどうやったらそんな時間が作れたのか。
たまの休みにランチに誘われ、おおよそその場に似つかわしくない形相でぽろりと溢せば貴女は仕事に対して真面目すぎる、とまだ幼い子を抱えた彼女は言った。
「仕事一辺倒で、自分を大事にすることを忘れてるのよ」
「あの職場で自分のケアに回す時間とか作れなくない?」
「貴女のことだから入って早々、まだなんとか時間が作れるような時にも勉強ばっかりだったんでしょ」
「う」
「みんなその時期に自分磨いて彼氏作ってんのよ。看護師ってみんなそうよ」
「だって少しでも気抜いたら先輩たちに置いてかれちゃう…」
「もしくは学生時代ね。そのうちに彼氏作っとくとか」
「いやそれ今言われてもさ」
「貴女みたいな人のことをワーカーホリック、社畜っていうのよ」
「……」
「好きでやってるのは十分知ってるけどね。アラサーといえど世間的にはまだ若いんだし、拠り所を作っておかないとそのうち心身共に倒れて後悔するわよ」
こちらがぐうの音も出なくなった頃に彼女の腕の中の子が泣き出し、試合終了のゴング。
そもそも負け戦なことは分かっていたがここまでボコボコにされるとは。
そのままその場はお開きとなった。
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「拠り所ねー…」
眠れずとも頭を休める為閉じていた目を開く。
眼前に広がるのは見慣れた休憩室の天井。
さても難しいことを言われたなあ、とゆっくり体を起こした。
さっきのドロドロドラマも佳境を迎えている。
それを横目に、一口のお茶で再度喉を潤した。
拠り所とは果たして、趣味か、男か。
もしくはその両方か。
昔は色んなことに興味があった。
料理も読書も映画鑑賞も、洋服も化粧も。大好きだった。
社会人になって金銭的余裕が生まれてからは勉強の合間の気分転換として買い物も趣味になった。
ネットショッピングが主だけど、たまに街に繰り出して。
今となっては、料理はおろか必要最低限の自炊すらできる時とできない時が分かれるし、購入する本は勉強の為の医学書ばかり。
映画なんて映画館で観たいなぁと思っていたものを結局見逃し、更にそれが地上波で放送された時、にすら見れていない。
化粧は毎日最低限、買い物も生活用品のみ。
「買い物」というよりもはや「買い出し」に近しい。
「買い物」、最後にしたのいつだったかな。
以前はあんなに好きだった洋服も、殆どが洗濯機にぽい、で済む楽なものたちが一軍にのさばり、一目惚れして買ったシアーブラウスも、シフォンワンピースも、すっかりその鳴りを潜めている。
美容院にも何ヶ月行けていないだろう。
一時は職場で怒られない程度にインナーカラーを入れたり、ずっと伸ばして緩いパーマまでかけていたのに突如ばっさりと切り落としてみたりとよく遊んでいた。
無造作に伸ばしたままになっている髪に何気なく触れる。
最後に入れた色もすっかり落ちきり、簡素なホームケアでは対応しきれない痛みが目立つ。
…せめて次の休みこそ美容院に行こう。そうしよう。