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そう決心して視線をずらした先にあったテレビの中には、抱きしめ合う男女。
その熱い抱擁に、女は涙を流しながら手にした包丁を取り落とす。
包丁を持ち出すほど、彼のことを熱烈に愛していたのか。
そんなに熱い恋愛を経験した試しがないな、とぼんやり考える。
包丁を持ち出すような恋愛なんて、それこそ経験したことのある人間の方が稀かもしれないが。
中高生の頃は、確かに形式上付き合っている男性はいた。
向こうから声をかけられてカップルとしておさまるのはいいものの、皆こちらの勉強熱・看護師熱にやられてそっとそばを離れて行った。
専門学校にあがってからはますますそんな余裕はなくなるし、就職してから先はお察しの通り。
当時付き合っていた彼らには今となれば申し訳ないな、と思う。
決められた青春時代、つまらない女と共に過ごさせてしまって。
勿論こちらも彼らのことが好きじゃなかったわけではない。
ただ、私の人生の途中でいきなり現れた男よりも、幼い頃から目指し続けた自身の夢の方を大切にしてしまっていた。
要はこどもだったわけだ。
高校生ともなれば、親がいないのをいいことに家に呼ばれることもままあった。
手を繋ぐ、ハグする、キスする、までは良いとして、若さの勢いで獣のようにぐいぐいその先に進もうとする彼らからは恐ろしさしか感じられず、いつも拒否してしまった。
彼らが望んでいることは頭では理解していた。
応えてあげたいとも思っていた。
ただいざその場に立たされると、どうしても駄目だった。
怖くて、足が止まってしまった。
途端につまらなくなった彼らは去っていく。
看護学生時代も似たようなことが無かったわけではないが、その時も気持ちがついていかなくて。
そんなわけでこの体は、この歳になっても未だ男を知らないのだった。
今時珍しいことではないのかもしれないけれど、その事実はことあるごとに私の心を重くし、徐々に男性に対する、ある種の恐怖心へと変わっていった。
今更彼氏ができたとて、その先に進める気がしない。
いざその時になって、ハジメテなんですぅ、なんて言えたものではないだろう。
若い子の処女は歓迎されど、アラサーのそれなんて面倒臭すぎる、と自分でも思うもの。
こんなことなら学生時代にでも適当な男で捨てておけばよかった(そう言ったら元同期にはボコボコに叱られたが)。
「なーんかもう…」
何も考えたくないなぁ。
仕事のことも、今後の私の行く先のことも。
難しいことを考えるのは苦手だ。
体の限界が来るまでここで働いて貯金して、限界が来たら退職して、貯めてあったお金で質素にひとり暮らす。
転職するのもいいが、もう今更ここを離れて転職活動するのも面倒だし、それじゃダメなんだろうか。
こんな年寄りみたいなこと考えて自分でも虚しくなるけれど、今はこんなことしか考えられない。
どこでもいい、何にも考えなくていい世界に行けたらなぁ。
ふぅ、と息が漏れた。
握りしめた私物のスマホを見る。
休憩に入ってから30分が過ぎようとしていた。
今まで突っ走ってきたおかげか今の私は同期達より少し先をいっており、しばしば統括を任される立場にあった。
本当なら後30分時間があるが、先輩が少ない時は大抵このタイミングで呼び出しがかかるので、そろそろ気持ちを整えておこうと立ち上がり、大きく伸びをした。
途端にあの眩暈が私を襲う。
「っ、」
いつものことだとその場にしゃがみ込むが、一瞬で過ぎ去ると思っていたそれは長く、今まではなかった痛みさえ伴って段階的に強さを増していく。
手のひらを滑り落ちるスマホを気にする余裕もなく、さっきの男性患者が脳裏を過った。
「(あーこれ…)」
やばい、かも。
助けを求めようと院内連絡用PHSをポケットから乱雑に取り出し、取り落とし、また拾う。
最早面白いほどに震える手は、自分のものではないかのようにいうことを聞かない。
その瞬間、何処からか不穏なサイレンが大音量で流れ出した。
「(な、に、)」
激しい痛みに耐えながら恐らくサイレンの発信元であろうスマホをなんとか表に向けると同時に大きく強い揺れに襲われた。
準備ができていなかった体が一瞬宙に浮く。
テレビ画面は刹那を置いてドラマのエンディングから慌ただしいスタジオに切り替わり、けたたましく速報が流れる。
「緊急地震速報」
「M9超」
ちらりと見えた地図に示される震源は、まさしく今この場所で。
瞬間的に、逃げ道のことを考えた。
アイスピックで刺されるような痛みと経験したことのないような揺れで立つことも出来ぬまま床を這い、嘔吐した。
いよいよもって命の危機を感じる。
息も絶え絶えに廊下に繋がる扉にたどり着き、全身の力を使って開け放った。
だが、扉の先は見慣れた廊下ではなく、真っ白い謎の空間。
激しい頭痛もおさまらず、謎の空間に疑問を感じる隙もないまま成す術なくあっという間に白に飲み込まれた。