"俺の可愛い名前"そう優しく私を呼ぶ彼の声が聞きたくて、私はいつも聞こえないふりをする。
そうすると彼は、聞こえているだろう?と言いたげに背中から優しく抱きしめ、耳元で甘く囁くのだ。
彼の腕の中は酷く安心した。
彼との出会いは人が行き交う銀座の街角。
田舎から上京し、自活の為にカフヱの女給をしながら生計を立てていた私は、久々の休暇を銀座で過ごしていた。
働いているとはいえしがない女給だ。銀座で遊ぶ金など持ち合わせているわけがない。
上流階級の人々が優雅に通り過ぎる銀座の街を、通りの一角から羨望の眼差しで見つめるだけである。銀座の街で浮いていたであろう事は確かだ。
そうしてぼうっと人の往来を眺めていると1人の男が私に近寄り話しかけてきたのだ。
「そこのお嬢さん、待ち惚けかな?こんなに可愛らしいレディを待たせるなんて失礼な男だ。」
声の主は綺麗に糊付けされた背広を着て中折れ帽を被った若い男。
紳士な身振りに優しげな瞳、綺麗に整えられた頭髪はカフヱに来ていやらしい視線をよこす客とは大違いである。
整った顔立ちをしたその男は伊沢和男と言うらしかった。
「もし宜しければ、俺と少し遊びませんか?」
誘い文句はカフヱの客とあまり変わらないのね。
そう思いながらも女給の仕事で鬱憤の溜まっていた私は男の誘いに乗ることにした。
既に何人もの客に汚された身体であるし、偶に羽目を外すくらい許されるはず。
そう自分に言い聞かせながら差し出された大きな手に己のそれを重ねると、男は口角を上げ綺麗に微笑んだ。
伊沢は私をデパアトに連れるや否や、私の服を見繕い始めた。
見たこともない高価そうな着物から西洋のモダンな洋服まで様々なものを試着した末、深緑色をした膝丈のドレスに落ち着いた。
「とてもよく似合っているよ。さあ行こうか」
何処へ行くのだとか、こんな高価なドレスをどうして私に与えるのかとか、聞きたい事は山ほどあったが彼は口を挟む余裕を与えなかった。
向かった先は新宿帝都座のダンスホール。
多くの男女がひしめき合い、流れる音楽に合わせ楽しそうに踊っていた。
「伊沢さん、ここは…」
「こういう所に来るのは初めて?可愛い君と踊り明かしたいと思ったんだ。レディ、お手をどうぞ。」
慣れた様子で不敵に微笑みながら手を差し伸べる伊沢は見惚れてしまうほど絵になっていた。
掴めそうで掴めない、そこらの男性とは違う雰囲気を彼は纏っていて、其れが一層伊沢という男の魅力を引き出しているように思えた。
「私、ダンスなんてした事ありませんわ…」
「俺に身を任せてくれれば大丈夫だから、君は何も心配する必要はないよ」
ほら綺麗なお嬢さん、さっきみたく俺の手を取って。
甘い文句と煌びやかな空気に背中を押され、数時間前に出会ったばかりの男と踊り始める。
先ほどの言葉通り、伊沢に身体を任せればまるで操り人形になったかのように綺麗に踊れたのだ。
ね、俺の言った通りでしょ?と伊沢は踊りながら言った。
背中に触れた彼の手から熱がじんわりと広がり、胸が高鳴る。
恥じらいから目を逸らそうとするけれど、綺麗な色の瞳に吸い寄せられ逸らすことができなかった。
胸が締め付けられるような感覚。異性にこんな気持ちを抱くのは初めてだった。
その夜、彼は私を家まで送ると「また会いに来る」と告げ帰っていった。
伊沢和男という男は不思議な魅力に溢れている。
ものの数時間で彼を好きになってしまったのだから恐ろしいものだ。
数日後、自分の働くカフヱに伊沢が訪れた。
下品なこの店に不釣り合いな程綺麗な伊沢は女給の間で瞬く間に人気となった。
「×円で如何かしら?」「今宵はお暇ですか?」そんな台詞を吐きながら数人の女給が伊沢の周りに群がっていく。
ある者は胸を押し付けるように擦り寄り、ある者は彼の手を取りきゅっと繋いだ。
彼はその女給達を言葉巧みにあしらうと、私の名を呼を呼び手招きをした。そしてこう言ったのだ。
「会いに来たよ。」
それからというもの、彼は幾度となくカフヱを訪れては私をテーブルへと呼び談笑するようになった。
可愛いねなんて言いながらも私の身体を買う事は一切しない伊沢。
私は欲を見せない紳士的な伊沢により一層惹かれていった。
彼との出会いから2ヶ月もすると、私と伊沢は店以外でも逢瀬を重ね恋人という関係に収まっていた。
身体を売ることを辞めて欲しいと困った顔で懇願され、彼の力を借りながらもカフヱの女給からデパアトの受付係に転向した。
伊沢と過ごした時間は幸福に満ちていた。
好きだ、愛している。
彼はそんな甘い言葉を何時も囁いてくれた。
大切そうに、壊さない様にと気遣いながら身体を暴かれる度に愛されているのだと実感した。
今まで生きてきた中で1番幸せだと、そう思った。
しかし終わりは突然に来る。
その日は、いつも通りのデートだった。
行きつけの喫茶でお茶をして、手を繋ぎながら近くの公園を散歩しながらたわいの無い会話をする。
そう。いつも通り、何一つ変わらなかった。
最後の言葉以外は。
路面電車、人々が行き交う中、私を電車に乗せた彼の手が離れていく。
私と彼の間の扉が閉まり切る直前、彼の口が言葉を紡いだ。
『今日でお別れだ、名前。ありがとう、君と過ごした時間はとても楽しかった。俺の人生の中でかけがえのない時間だったよ。さようなら。どうか幸せになってくれ』
何故、何故、何故。
かけがえのない時間だったといいながら、何故そんな物悲しそうな顔で私を手放すのだろう。
突然の別れに私は呆然と立ち尽くす。
動き出す車両の中、彼の姿が見えなくなるまで見つめていた。
伊沢が、好きだった。愛していた。
優しく微笑む垂れ目も、落ち着くバリトンボイスも、いつも私を撫でてくれる優しい手も。
彼との思い出が走馬灯のように駆け巡り、涙は止まることを知らないかのように流れ落ちた。
こんなにも、彼のことが好きだったのだ。
彼の、いや、彼は、どんな人だっただろうか?
私は其処ではたと気付いてしまったのだ。
私は伊沢和男という名前以外、彼について何も詳しく知らなかったということに。
伊沢の経歴は勿論、好物もどんな女性が好みなのかも、好きな煙草の銘柄も何もかも私は知らずにいたのだ。知ったつもりでいた。
知っているのは彼が愛おしげに触れてくるその高い体温だけ。
恋の熱に浮かされ甘い言葉に翻弄されていたのかもしれない。
ああ、何と滑稽な事か。
彼は私の全てを知っているというのに、私は彼の事を何も知らない。
愛していた癖に知っている気になって、何て馬鹿な女なのでしょう。
虚な目をしながら最寄りの駅で下車し、彼との思い出を噛み締めるようにゆったりと歩く。
「ああ、なんてこと…」
女の呟きは街の雑踏に消えて行った。
本当は君と共にありたかった