01 始まりは風の如く

なんて美しい姿なのだろう。
矢を射る彼の姿を初めて瞳に映したあの瞬間から、私と雅貴の時がゆっくりと進み始めた。

それはまるで2つの歯車が噛み合わさるかのような、運命的な邂逅だったのだ。

-始まりは風の如く-




それは春先の風を少し感じはじめた季節の事。
しがないOLである名字名前の日常の一コマ。
定時を迎え鐘がなると、残りの仕事は次の労働時の自分が何とかするのだから大丈夫だ、という気持ちで店じまいを決意し、帰り支度を始める。
「お疲れ様でした!お先に失礼します」
「お疲れ様〜!良い週末を!」
事務所にいた同僚達に声をかけ、いざ退勤。
本日は心躍る金曜日、いわゆる華金というやつだ。

琴葉市への転勤を命じられ、実際に移り住んでからというもの早3ヶ月が経っていた。
最近の趣味といえば、土地勘のない琴葉の街を散策することだ。
転勤してから暫くはそんな余裕はなかったものだが、支店の雰囲気や人間関係にも慣れ余裕ができ始めた今、自宅付近から琴葉の街を知ろうと金曜日の夜は車で夜の琴葉を少しずつ巡っている。

目的地は決めていない、ただ何となく車を走らせ気になった場所で降りては付近を散歩し適当に帰宅するという自由なスタイルである。

「さて、今日はどちら方面に行きますかね…」
今までは職場から比較的近い繁華街を中心に回っていたから、今度は別方面に行ってみようか、などと考えながら車のナビを操作する。
「うーん、この辺にしてみようかな。景色が良さそう」

独り言を呟きつつ適当に行ったことのない場所をピックアップし、好きな曲ばかりを入れたミュージックプレイリストを再生するとおもむろに車を発進させる。
鼻歌を歌いながら運転するのが思いの外心地が良いもので、予定よりも長いドライブになる事が多かった。
「もしかして私、ドライブが趣味が趣味なのかな…素質あるかも」
誰もいない車内で1人呟く。
一人暮らし、恋人は無し。今まで縁もゆかりもなかった琴葉の街に引っ越してきたが故にこちらに友人は無し。
会話をするのは専ら職場の上司や同僚となれば、自然と単独行動時は独り言が多くなるものだ。

「恋人…はちょっとハードルが高いから、せめてこっちに友達ができればいいのになぁ」
心の声をだだ漏れさせながら走っていると、ドライブの目安にしていた場所に辿り着いた。
運転席から外を見やると、そこには琴葉の夜景が広がっていた。

「わぁ、綺麗…!」
気まぐれで訪れた場所が街を一望できる絶景スポットだったなんて偶然はなかなか無いだろう。
この辺りは民家もまばらな小山の上だ。交通量も少ない事を確認し、路肩に車を駐車させた。
「空気吸ったらすぐ戻るから…」
そういいながら車の外へ出る。

新鮮な空気を吸いながら、ガードレール沿いを少し歩くと心地よい風が頬を撫でた。
良い場所を見つけたものだ。これから疲れた時はこの場所に来よう。

「うーん…!」
気分良く伸びを一つし、ふと右側を見ると暗がりの中に佇む鳥居と上へ続く階段があることに気がつく。
地図で見ていたときはそこまで確認していなかったので入り口付近の看板を見るべく目を凝らす。

「夜多…神社…?こんな所に神社があるんだ」
少々時間は遅いが、せっかく通りかかったのだから参拝してから帰ろうと思い立つ。
鳥居前で一礼をし階段を登り始めたその時、カーン!という聞きなれない音と何かが当たるような音が聞こえた。
今までの人生の中で聞いたことのない音に首を傾げる。

「藁人形に釘を打つ音とかじゃ…ないよね?今丑の刻じゃないし。なんの音だろう…」
出どころ不明の音と夜の神社という組み合わせからそんな不吉な想像をしてしまう。
カーン!という音はその後も一定の間を空けつつもずっと響き渡っていた。
何かを弾くような、その音を聞きながら階段を登る足を進めた。





「はぁ…はぁ…」
どう考えても仕事用のパンプスで登るような階段ではなかったと階段の終わりを目前にしつつ後悔が募ったがしかし、このまま来てしまったので今更後悔したところで仕方がないことだ。
階段を登り切ると真正面に本殿があった。
賽銭箱に小銭を入れ作法に則り参拝をする。

参拝を終えても尚、カーン!という謎の音は響いていた。
どうやら神社より上の建物から聞こえているらしい。
この音の出どころを突き止めてみたいという好奇心が抑えられなかった。
境内の奥からにさらに上へと続く階段を見つけると、上の建物を目指し歩みを進める。
運動不足で重たい足を引きずりながら、やっとの思いで頂上へと到達する。

カーン!
先ほどは遠くから聞こえていた音が、すぐ近くで聞こえていた。
泥棒ではないです、違うんです…などと心の中で呟きながら建物の影からこっそりと様子を伺うと、その光景に目を奪われた。

少し伸びた髪を後ろで一つに結え、和服を着た1人の男性が矢を射っていたのだ。
矢を番え、ゆったりとした動きで弓を引くその動作に瞬きすら忘れ見入ってしまう。
方向を定め、放たれた矢が一直線に的に向かって行く。私は息を呑んだ。

カーン!

という音がした直後スパン!と的の真ん中に矢が的中する音が響く。
その瞬間、電流が流れたかのような身震いが身体をかける。
弓道に明るくない自分が見ても、ここで矢を射る彼の佇まいがとても美しく、そして気迫に満ちている事だけは分かった。

「なんて…綺麗…」
聞き取れるか聞き取れないかの間の小さな声が漏れた。
彼は一体どれだけの時間ここで弓道をやっているのだろうか。
少なくとも自分がこの神社を見つけた時から音は聞こえていたのだから、相当長い時間だろう。

1人だというのに儀式にも近い荘厳な雰囲気に、その真剣な眼差し。
きっと自分はここに居てはいけない存在だろう。
見ては行けないものを見てしまったかのような感覚に早く去らねばと思う。
しかし自分の意思とは反対に、足はその場に縫い付けられたように動かなかった。
この場を離れなければ、そう思っているというのに。

(動いて、私の足…!)
コツン…ッ
「ぁっ…」

無理に離れようとしたその時、石畳にパンプスのヒールの音が響いた。
ふと顔をあげると、矢を射った後の動作に入った彼と目が合った。

「ん?…どちら様で?」
訝しげな表情で彼が問う。
「えっ、と…その…」

心臓が忙しなく騒いでいる。
悪事を働いたわけではないけれど、勝手に覗き見ていたことに変わりはないのだ。
言葉を紡ごうと必死に頭を回転させるその間にも弓を置いた男性がこちらに近づいてきていて、気づけば目の前まで来ていた。

「あの…っ違うんです!神社の下から不思議な音がしたから気になって、それで…っここまで来てしまって、勝手に覗き見してすみませんでした!失礼します!」

咄嗟に出た言葉を焦って口にし、謝罪をする。そして急ぎ来た道を戻ろうと振り返るが、気が動転していたせいでバランスを崩してしまった。

「っ…!!」
「危ない!」
ぐんっと強い力で腕を引かれ目の前が真っ暗になったと同時に、とても落ち着く香りが鼻孔をくすぐった。
低い竹柵越しに抱き止められ、目の前の暗闇は先ほどの男性の胸だと理解してしまったらとてもじゃないが平常心ではいられなかった。

「ひゃぁ…ごめんなさい、助けてくださってありがとうございます…」
先程からとんだ痴態しか晒していない。おまけに情けない声まで出てしまったではないか。ままならないったらない。

「落ち着いてください。何もただ弓を引くのを覗いてたくらいでそんなに急いで逃げなくても」
「ぅ…はい。すみません…」

抱き止められた腕が緩められるのを感じ身体を離す。
恥ずかしさから熱くなった顔をゆっくりあげると端正な顔立ちが私を見つめていて無意識に呼吸を止めてしまった。
強い意志を持っているが涼しげに感じられる目元に、程よく低音の声色、均整のとれた身体つき。
世間でいう非の打ちどころのないイケメンというやつだ。
これは世の女性が放っておかないだろうとこの状況にもかかわらず呑気な感想が頭をよぎった。

「こんな時間に鬱蒼とした森の中の神社に来るなんて危ないですよ。それと、弓を引いてる時は顔を出さないように。怪我をしてしまうかもしれない。」

「すみませんでした…気をつけます。」
「ちゃんと見たいなら、こちらに来れば良い。入り口はそこです。」

思ってもみない言葉に男性の目を強く見つめ返す。
「えぇ?!いいんですか?部外者なのに…」
「俺の弦音に導かれてここに来たんでしょう?これも何かの縁だ、良かったらみて行くと良い。」
「つるね…」
「弓を引く時の音です。ほら、そこからどうぞ」
「ありがとうございます。それではお言葉に甘えて失礼します。」

厚意で上がらせてもらった道場は、とても新鮮で良い空気が流れていた。

「わ…的ってこんなに遠いのですね」
「ええ、28m先を狙うんです。」
「28m…そんな先の的の真ん中にあれだけ的中させているなんて、ええっと、あなたは凄い腕の持ち主ということですよね。」

「ただの酔狂でやってるだけなので。そういえば名乗るのを忘れていましたね。俺は滝川雅貴です。あなたは?」
「滝川雅貴さん…とても素敵なお名前ですね、私は名字名前と申します。」

「名字さん。まあゆっくりしていくといい。といってもあと4射で終わりですが。」
「ご厚意に感謝です。ありがとうございます」

滝川雅貴と名乗った彼は再び弓を持つと、先ほどと同じようにゆったりと弓を引き始めた。
たった4射、されど4射。
滝川さんが弓を引くその時間はとても緩やかな時間が流れ、この時が永遠に続くかのような錯覚に陥る。
弓を引き終わると、彼が振り返り緩やかに微笑んだ。

「見学させて頂いてありがとうございました。」
「いえいえ、誰かに見てもらうのも偶にはいいと思いまして。」
「とても美しくて見入ってしまいました。いつから弓道を…?」
「15年かな。弓道とは腐れ縁みたいなものでしてね。」
「やはりベテランなのですね。弓道は詳しくないので月並みの感想しか言えないのですが、姿勢や呼吸が整っていてこちらまで息を呑んでしまいました。弓を引く滝川さん、とても素敵です。」
「そんなに褒められると恥ずかしいな、ありがとうございます。」

照れたような、しかし困ったような表情で眉をハの字にしながら首をかく滝川さんがなんだか可愛くて、小さな笑いが溢れた。
ふと腕時計を見やると針は20時を指している。
滝川さんの弓を見るうちに長く滞在してしまったようだ。

「時間も時間なので、私そろそろお暇しますね。遅い時間にお邪魔しました」
「…あの」
「??」
「道場を締めるので少し待って貰えませんか。こんな時間に女性を1人で送り出せませんから、俺に送らせてください。」
「そんなの悪いですよ!それに神社近くに車を停めてあるのでご心配には及びません」
「では神社の入り口まで送ります。それならいいでしょう?」
「うーん…入り口までなら。わざわざすみません」
「いや、俺が心配なだけなので謝らないでください。玄関で待ってて貰えますか」
「わかりました。」

それから、道場を片付ける滝川さんを待って、道着から私服に着替えた滝川さんと神社の入り口まで並んで階段を下った。
道中で私は転勤で琴葉に来た事、滝川さんは弓の話などをした。
短い時間だったはずなのに会話はとても弾んで、自然と笑みが溢れる。
先ほど初めて出会ったはずなのに昔から一緒に居たかのような空気感に居心地の良さを感じる。

「私の車はこっちです。」
「俺は反対方面です。」
「ではここでお別れですね」
「ええ。あ、そうだ。俺は大体毎日ここで弓を引いているので、興味があればいつでも、またいらしてください。」
「いいんですか?また見学しに来ても」
「勿論ですよ。」
「嬉しいです、ありがとうございます!お言葉に甘えて、また伺わせてください」
「待ってます。では、おやすみなさい名字さん。お気をつけて」
「おやすみなさい滝川さん」

また彼の綺麗な弓を見たくなったら来ても良いと許可を貰ってしまった。
なんだか鼓動が早くなっている。
仕事以外で人と会話をするのは久しぶりで、とても楽しい一時であった。
車まで向かう足取りが酷く軽く、また近々夜多神社に来てみようと心に決めながら帰路に着いた。