02 恋心に矢を番え

『興味があればいつでも、またいらしてください』
出会ったばかりだというのに、和かな笑みを浮かべた彼のその表情がずっと脳裏に焼き付いたまま消えないでいた。

心地の良い声色と、息をする事さえ忘れてしまうような綺麗な射形。
真剣な横顔を思い出すだけでも心拍数が上がりそうだ。

「落ち着いて私。当日はそこまでじゃなかったじゃないの」
ベッドにうつ伏せになり、枕に顔をうずめる。
時間が経てば経つほどにあの日の出会いが特別なものに思えて落ち着かないのだ。

また今週末会いに行ってもいいだろうか。
滝川さんが"待っている"と言ってくれはしたものの、連続で邪魔ではないだろうか。
そんな考えが頭を埋め尽くしていた。

-恋心に矢を番え-




「ああ、来てしまった…」
初めて出会ってから1週間後の金曜日。時計が18時半を過ぎた頃、私はまた弦音の響く夜多神社を訪れていた。
少し見るだけだ、少し滝川さんのお顔を確認したらすぐに帰るのだ。そう言い聞きかせて弓道場までの階段を上り続けた。
今回はちゃんとスニーカーに履き替えたからこの前のように足音で見つかるなんてヘマはしない筈だ。

カーン!

今日もいい音を響かせながら滝川さんが弓を引いていた。
道場の側からその姿を一目見ようと、少しだけ開いていた玄関の隙間から顔を覗かせる。
とても真剣な表情が見え、また胸がどきりとした。
姿を拝見したからとすぐに帰路へ着こうとした瞬間、滝川さんが振り返りばちりと目が合った。

「っ…?!」
「こんばんは名字さん。気づかないとでも思いましたか?」
「う…いや、逆になんですぐに私が居るとわかったんですか」
「あいにく、気配には敏感なんですよ。どうぞ入ってください。」
「いやいや、今日は本当に少しお顔を見たら帰るつもりだったので遠慮させて頂きます」
「どうして?」
「どうしてって…毎週のように来るのもストーカーみたいじゃないですか」
「ふは…っそれは、なんて可愛らしいストーカーだ」

破顔して笑うその表情に目をぱちくりさせた。
落ち着いていて余分なことなど口にしない冷静な人だと思っていたのだが、存外子どもっぽく笑うので意外だったのだ。
初めて出会った時と同じ距離まで近づいた滝川さんはこの前よりもずっと楽しそうな顔をしている。

「笑わないでくださいよ…」
「あーいや、気を悪くしないで頂きたい。俺は会いたかったですよ、あなたに。」
「…っ、それはどういう意味で…?」
「そのままの意味です。また名字さんと話したかった。そうでなければいつでも来ていいなんて言いませんよ。」
「もしかして私、口説かれてます…?」
「うん、正解」

冗談めかして聞いたというのに、目の前の青年は動じることなく爽やかな笑顔をたたえながらけろりと言ってのけた。
真正面から投げられるその言葉にじわりと体温が上がるのを感じる。きっと今自分の顔は赤くなっていることだろう。

「とりあえずこちらに入ったらどうです?」
「うう…ちょっと不本意ではあるんですが…お邪魔します」
「どうぞ」
人好きのする笑顔で迎え入れられ、おずおずと道場の机近くに正座をする。

「名字さんの気が済むまで見学して行ってください。この前同様、帰りはちゃんと下まで送るのでご安心を」
「ありがとうございます。実は、滝川さんの弓を引く姿があまりに美しいので忘れられず。それでまた見たくて来てしまいました」
本音を漏らせば、彼は目を軽く見開いた。
「弓引き冥利につきますね。あなたは、俺の欲しい言葉を分かってるみたいだ」
「…?」
「いや、此方の話です。すみません。」

そして弓を引き始めた彼を、背中から見つめる。
黙々と的へ矢を放つその姿はどこか義務感のようなものを背負っているようにも見えて何故だか寂しさも感じるものだった。
ひたすらに弓を引くその美しい背を、時間を忘れて見つめ続けた。





カーン!

「ふぅーっ」

どれくらいの時間が経ったのだろうか、滝川さんの呼吸を整える音が静かに響く。
おもむろに弓を下ろすと、上半身を少しこちらに傾けた滝川さんがふっと微笑んだ。

「日課は終わりです。」
「あ…お疲れ様でした。」
ずっと弓を引く姿に見惚れていて、言葉がすぐに出てこなかった。

「そうだ、少し肩を借りてもいいですか」
「肩…?」
疑問に思いながらも、こくりと頷く。
「驚かないでくださいね」

私の肩に布をかけると、滝川さんが口笛を吹いた。
すると、森の中から白い何かが一直線に私の肩を目がけて飛び込んでくる。

「わ…っ?!」
「フウ、初めましての挨拶。この前から来てくれてるお姉さんだ」
「びっくりしました…フクロウ?」
「ええ、この森を縄張りにしてるみたいで。色々あって懐かれてます。」
「ふふ、滝川さんって本当に不思議な人ですね。フクロウまで飼ってるなんて」
「飼ってるつもりではないんですけどね…というか、俺からすると名字さんの方が不思議ですよ」
「そう…ですか?」
「そうですよ。フウが大人しく初対面の人の肩に止まるなんてあんまり無いですから。な?フウ。このお姉さんが好きか?」
滝川さんがそうフウに話しかければ、返答するかのようにフーッと鳴いた。

「この子、フウっていうんですね。凄く可愛い」
「片付けが終わるまで、フウと一緒に待っててもらえませんか」
「もちろんです。」
「ありがとうございます。はい、これも」

手のひらサイズの小さな白い袋を差し出される
「これは…」
「おやきです。腹減ったでしょう?」
「初めて食べます、ありがとうございます。」
「そういえば転勤でこちらに来たと仰っていましたね。」

滝川さんも私にくれたものと同じおやきを食べながら、コーヒー缶をお供に机に向かい記録を書いている。
ちらりと見えたそこには正の文字が埋め尽くされていた。
毎日何本の矢を引いていて、それが何を意味するのか、私には分からないが無粋な質問をするつもりもなかった。
きっと彼にとって意味があるからやっていることなのだろうと思うからだ。
私の肩に止まったフウは、指で優しく撫でると気持ちよさそうに目を細めては頬を寄せて来た。
誰も何も言葉を発さないこの静かさが今はとても心地いい。

静かに机に向かう滝川さんの顔を横目に見ながら、この時間が続いてほしいと願う。
自覚してしまったら、もう駄目だった。

まだ出会って2回だというのに、私は滝川さんへ恋慕を募らせている。
この人と居るときに流れるこの空気感が好きだ、この人が好きなのだ。
たった2回。しかもたかだか数時間同じ場所で過ごしただけで惚れただなんて言ったら、流されているだけだと言われるかもしれない。
しかし誰にどう思われようがそんな事はどうでもよかった。
これはもう一目惚れのようなものなのだから。

道場に吹き込む新鮮な夜風を静かに吸い込み、そっと瞼を閉じた。
隣で鉛筆を走らせる音、右肩にとまるフウの重み、そのどれもが愛おしく感じて自然と口角が上がる。そんな私の様子に気づいたのか、ふっと彼が隣で微笑む気配を感じた。





「おまたせしました。帰りましょうか」
「はい」
帰り支度を終えた滝川さんは、爽やかな好青年といった出立ちだ。

静かな神社に、私と滝川さんの話し声だけが響く。
「初めて食べるおやきはどうでしたか」
「とても美味しかったです!あんこも美味しくて…」
「俺がよく食べているのはあんこ入りですが、野沢菜なんかが入ってるものもありますよ」
「そうなんですね、今度食べてみます!」

他愛もない話でも、滝川さんと話すのはとても楽しく、あっという間に神社の入り口まで来てしまった。

「…名字さん」
真剣な表情で名を呼ばれ、どきりとする。
「滝川さん…?」
「こちらに越してきて寂しいから話せる人が欲しい、そう言っていましたよね」
「は、はい」
「俺じゃだめでしょうか。」
「えっ、と」
「弓道場だけじゃなく、好きな時に名字さんと会えたら嬉しいなと思ったんです。」

迷惑だったらすみません。
困り顔でそう言う彼に、迷惑なんかじゃないと首を横に振った。

「私も、道場以外で滝川さんとお話ししたいと思っていました」
「良かった、じゃあ、連絡先交換しましょう」
「はい。」

お互いにスマホを取り出すと、連絡用のSNSを起動する。
「滝川雅貴」の文字と夜多神社の鳥居のアイコンが表示された。
名前の読み方は聞いていたが、漢字まで彼を体現するような美しい並びだと思う。
緊張で少し震える手で連絡先追加のボタンを押した。

「ありがとうございます」
「こちらこそ、ではまた連絡します。」
「はい!おやすみなさい」
「おやすみなさい」

好きな人の連絡先を手に入れたことがとんでもなく嬉しかった。
道場に顔を出すまいか悩んでいたこれまでの自分が嘘かのようだ。足取りは軽い。

嬉しさに空を仰げば、夜空の一等星が光っていた。