若葉の到来
休日の昼間、夜多ノ森弓道場に二人の男女の姿があった。
弓の手ほどきをする男の隣で真剣な顔をして弓を構えるその女は、男の恋人であった。
「そう、そのまま斜め上から弓を構えて打起し。そう、もう少し、身体はこっちだ。腕もこう。巻藁でやった時の感覚を思い出して」
「こう…?」
「うん、オーケー。次に引分け。ゆっくり引いて。そうだ。まだ手は離すなよ。的を確認。見えるか?」
「うん」
「的を定めたら一気に離す。」
弦がキリキリと音を立てる。どこをどう狙えば的に矢が当たるのかは分からない。
女の背後に回った男が弓と的を確認する。
「うん、名前の身長ならその辺だな。とりあえず当たりそうだと思う場所で離してみるといい。体格や身長の違いもあるし、離れは慣れと感覚だ。」
「ん……」
カンッ
軽い音がして、矢が放たれる。
的よりもかなり手前の地面に矢が突き刺さった。
「あー、全然届かなかった。巻藁と違うから難しいね。思ってるより飛ばないや」
「最初から当たるやつなんていない。もう少し練習したら的に当たると思うぞ。」
「そんなもんなの…?」
「ああ、それに名前は筋がいい。」
「指導者がいいんだよ。私も本当にやりたくなってきちゃった。」
「はは、恋人と弓を引けたら俺も楽しいな。これから一緒にやるか?」
「うん。教えてくれる?」
「もちろんだ」
そう言うと、彼女は嬉しそうに笑顔を溢した。
「少し休憩しないか」
「うん、そうする。はぁ…弓引くの凄い緊張した」
弓を置いて伸びをする彼女を見て笑う。
仕事着のスーツ姿や休日に着ている膝丈スカートの女性らしい格好も好きだったが、弓道着を着た彼女はより素材の美しさが強調されていて綺麗だと雅貴は思った。
机に置いてあった缶コーヒーをひとつ手渡す。
彼女はおもむろにプルタブを開けるとこくん、とコーヒーを一口飲み込んだ。
その姿に何だかいけないものを見ているような気になり、急いで視線を逸らす。
彼女と居ると意図しない情欲が疼く事が多く、雅貴は思春期さながらの己の欲求に困惑していた。
「にしても、まさか名前が弓に興味を持つとはな…」
「雅貴が弓馬鹿だから、私も感化されちゃったのよ…」
「悪かったな、弓馬鹿で」
こつん、と額を軽く拳で突く。
「ふふっ、でも弓馬鹿な雅貴だから好きになっちゃったんだよね、私。」
柔らかく微笑むのが可愛くて、思わずその頬に指を滑らせてしまった。
彼女は最初こそきょとりとしながら瞬きをしていたが、雅貴の雰囲気に気づくと頬を赤らめた。
普段は純粋で真っ直ぐなこの瞳が、夜は快楽と情欲で染まり己の下で淫らに喘ぐのだ。
それを知っている雅貴はふと彼女との情交を思い出してはこうして無意識に触れてしまう。
ゆっくりと顔を近づけ、彼女の唇に触れるまであと1センチ。瞼を閉じろと無言で促すと抵抗していた彼女は諦めたかのようにそっと瞳を閉じた。
…ちゅっ、ちゅっ。
軽く唇が触れ合う。
うっとりとした表情で雅貴のキスを受け入れる名前に、雅貴は堪らなくなりゆっくりと床に彼女の身体を押し倒した。
「ねぇ、雅貴…ここ、道場」
「ああ、そうだな。」
「そうだな、じゃなくて…」
「こんな所でしたら、弓の神様に怒られちまうな。」
「そうよ。罰当たりよ。」
横たわった名前が早く戻れと言わんばかりに雅貴の胸元をぐいぐいと押す。
「弓を教えてくれるんじゃなかったの?」
「弓は教える。が、えっちな事ももっと名前の身体に教えたい所だ。」
「変態。大体、そっちはもう充分教え込まれてるって…」
「いやぁ、えっちなことは無限大だからな。まだ足りないだろ」
神聖な道場でこんなことをしていては誰に見られるか分からない。
なによりここは、雅貴が物心つく前から祖父に弓を教わっていた道場である。
弓の神様だけじゃなく、死んだじいさんにも怒られるな。
この先は夜の楽しみにしようと思い、身体を起こすべく体勢を変えようとしたその時。
ガラガラッ
玄関の引き戸が開く音がして雅貴と名前は思わず顔を見合わせて固まった。
次いで雅貴には聞き馴染みのある声が聞こえた。湊だった。
「マサさん、いる?道場開いてたから弓引いてるかなって思っ…………ぅわぁあっ?!」
慣れたように道場に入ってきた湊は、その光景に絶句した。
弓引きとして尊敬していて、自分の弓の目標でもある部活のコーチが、弓道場で女性を押し倒していたからだ。
しかも、相手もとんでもない美人で映画のワンシーンでも見ているのかようだった。
見てはいけないと思いながらも、目が離せずにその様子を凝視してしまう。
雅貴の下にいるその人は他人にこの状況を見られた羞恥で顔に紅がさしていた。
「マサさんの変態……!!!」
指を差しそう叫びながら顔を真っ赤にして立ち尽くす男子高校生と、何も発さずただ無言で赤らんでいく恋人の様子に雅貴は何テンポも遅れて取り繕う。
「湊落ち着け、これは違うんだ」
何も違わないだろうと言うように身体を起こした恋人は隣でため息をついていた。
◆
「さっきは驚かせてごめんね。私は名字名前。君は湊くん?だよね?雅貴の教え子の…」
「えっと、はい。俺は鳴宮湊です。いつもマサさんに弓を教わってます。あの…名前さんはその、マサさんの彼女さんですか?」
湊からの当然の問いに名前は言っていいのかと伺うように雅貴を見やれば、雅貴は何とも言えない表情で頷いた。
「うん、そうだよ。ね、雅貴?」
「あぁ。」
呆けたまま返事をする雅貴の脇腹を小突くと、はっとした表情で雅貴は口を開いた。
「悪いな湊、さっきのは見なかったことにして貰えると助かる。」
「ちょっと無理がある気がするんだけど…分かった。マサさんの彼女さんの事も秘密?」
「いや、名前の事はいずれ分かるだろうし隠さなくて大丈夫だ。」
「いいの?」
「まあ、もう1人には既にちょっとバレてるだろうし今更隠した所でな…」
眼鏡をかけた教え子の一人を思い浮かべ苦笑する。
そんな雅貴を横目に名前は湊に話しかけた。
「湊くんの事は雅貴から色々聞いてたから、今日こうして会えて嬉しいよ」
「え、マサさん俺のことそんなに話してるんですか?」
「雅貴がコーチ引き受ける前から少し聞いてて。でも、まさかこんなに可愛い子だなんて思わなかった」
「か、かわいい…」
「おい名前…可愛いはないだろ」
「ええ?だって可愛いじゃない、男子高校生って感じで。」
恋人の視線が湊に行くのが何となく嫌で雅貴は胸のモヤモヤを覚えた。
相手は高校生である上に自分の教え子だ。一体何を嫉妬しているのだと心の中でつっこむ。
「俺はマサさんにこんな綺麗な彼女さんがいるなんて知らなくてびっくりしてます。」
「お世辞が上手いなぁ…雅貴、自分の事話さないんだ?」
「プライベートはあんまりです。」
「話しても仕方ないからな…コーチのプライベート情報なんていらないだろ」
「逆に不思議すぎて、みんなマサさんのプライベートに興味津々だけど…」
「何だそれ…逆効果だったか?」
「謎めいてると逆に暴きたくなるの、私も分かるかも。雅貴と出会った時そんな感じだったなぁ」
「マサさんと名前さんの出会い、俺ちょっと興味あるかも」
「全く、俺の恋愛話を知ってどうするんだよ」
「まあまあ、可愛くていいじゃない。雅貴が弓を引いてる時にここで会ったのよ、私がおっちょこちょいで、隠れて見てたはずなのに雅貴に見つかっちゃったのが最初。」
「へえ、じゃあ俺も似たような感じです。ていうかほぼ一緒」
「ええ!じゃあ雅貴、この道場で色々運命変わってるんだ。面白いね」
そう言いながらくすくすと口元に手をあてて笑う名前を、雅貴は相変わらず綺麗に笑うなと思いながら見つめる。
同じく、湊もその様子に頬をほんの少し染めて彼女の笑顔に見惚れていた。
自分の恋人が人たらしの美人というのは苦労が絶えない。
いつ誰にとられてしまうかもしれないと、常に気が気ではないのだった。
そんな彼女のあられもない姿を知るのは自分だけという優越感に浸る事もあるが、雅貴はいつでも名前を他者の邪な視線から守れるわけではない。
彼女の職場の同僚が恋人の事をどう思っているかなど想像に容易かった。早く彼女を自分のテリトリーに囲いたい。
はやる気持ちをずっと抑えていた。
「湊、見惚れるな。俺の恋人だ。」
「…そんなんじゃないよ。ていうかマサさん大人気ない」
「仕方ないだろ?無自覚美人すぎてこっちは不安が絶えないんだよ。理解してくれ。」
「?」
名前はよく分からないような顔で首を傾げながら2人の会話を聞いている。
この人は本当に、自分の事に関して余りにも無自覚すぎる。もう少し自分の容姿の良さを自覚して危機感を持って欲しいものだと頭をかかえる雅貴に、湊は苦笑いを浮かべた。
「そういえば、道着着てるけど名前さんも弓引くんですか?」
「ああ、これ。私は弓引きではないの。今日初めて雅貴に弓を教えてもらってたところよ。」
「…へぇ、」
湊のジト目が隣の雅貴を見つめる。
弓を教えるとか言いながら何をしてるんだと訴えるその視線に何も反論が出来ないのが悔しいところだ。
ふぅ、と息を吐くと雅貴は立ち上がって2度手を叩いた。
「さて、練習再開するか!湊もせっかくだし引いてくか?その為にここに来たんだろ。」
そうして教え子と恋人の3人で弓を引こうと動き始める。
湊が準備をしている一瞬、名前に今夜は覚悟しろと耳打ちをすると顔を赤くしながら胸元をバシバシと叩かれた。