去読了のミスリード

 碧梧桐と窓越しに目が合ったのは、ほんとうに偶然のことだった。お互いに、ぴたりと動きが止まる。中庭に立つ碧梧桐の肩にかかる大きな鞄だけが、碧梧桐自身の動きから取り残されてゆらゆらと揺れていた。司書室の本棚に収納された資料から顔を上げて、すっかり紅葉で秋めいた中庭に視線を向けた途端のことである。
 しばらくして先に動き出したのは碧梧桐の方で、彼は弾かれたように両手と首を頻りに振りはじめた。何かを否定したいらしい碧梧桐の振る舞いに、しかし司書は思い至るところがない。そのため、碧梧桐の伝えたがる意図よりもその動作の滑稽さの方に意識が逸って仕方がないのだ。司書は精いっぱいに笑いを堪えながら、手にした資料を置いて窓辺へ近寄る。びくりと肩を揺らす碧梧桐が、余計に司書の笑いを誘った。
「何してるんですか?」
「あっ、違う、違うんだって! 買い物行こうとしてただけだから!」
 窓を開けて、声を上げる。碧梧桐は司書の声に慌てて窓辺に駆け寄って、肩で息をしながらそうしどろもどろに弁明した。すでに紅葉は見頃を迎えて肌寒くなってきた季節だというのに、碧梧桐はほのかに頬も上気しているだけでなく、額には薄らと汗が浮かんですらいる。何をそこまで慌てることがあるのだろう、と考えを巡らせて、司書はひとつの可能性に思い至って、またおかしくなった。
「ああいや、べつに碧梧桐さんが突然旅に出ちゃったりとか、そういう疑いがあったわけじゃないですから」
 言いながら、司書は肩を震わせて笑い出した。司書の言葉に碧梧桐は胸を撫で下ろすような仕草をしていて、それが司書には追い打ちになって仕方がない。碧梧桐は明るく朗らかな人物で、普段はその表情もころころと変わる鮮やかなものだが、いまはそれが動きの大きさと相まって却って大げささを演出していた。こういうとき、司書は本来自分よりもずっと先達であるはずの碧梧桐に対して、不躾にもかわいいな、と思うのだ。反面、碧梧桐があらぬ疑いを持った原因については、あまりこの愉快な気分のまま話題に出したくはないな、とも思う。はぐらかすように、司書は自分から話を切り出した。
「それで、どこに行くつもりだったんですか?」
「えーっ、まだ疑ってるの?」
「違いますって、単に気になっただけですよ」
 司書の問いに対し、碧梧桐はしばらく考えて、それから悪戯っぽく笑って質問で答える。くすくすと聞こえる声が、どちらのものかはもうわからなくなっていた。いちおう、司書の問いはべつに碧梧桐の思うような笑いを期待したものではなく、転生した文豪を管理する立場にいる人間として、その動向を確認しておきたいという考えからだ。とはいえ司書は碧梧桐の行き先に対し、否やを言うつもりはあまりなかった。
「ちょっと靴を買いに行こうと思ってさあ」
「靴ですか?」
 碧梧桐の返答に、司書は首を傾げた。靴の買い物という言葉と碧梧桐が、あまり結びついていないように感じたのだ。碧梧桐はけっして服装に無頓着というわけではなく、自分なりに着飾ることを楽しんでいるようだったが、それでも強い拘りがあるとは言い難いと司書は思っていた。
「そうそう。見てよ、これ」
 判然としない様子の司書に対し、碧梧桐はその脚をくの字に折って履いている靴の裏側を示す。窓枠から身体を乗り出して覗き込んで見れば、多少高さのあるはずの底面はすっかり摩耗してでこぼことしていた。うわ、と思わず声を上げる。歩きやすさの観点から見たとしても、これでは整備されていない道では安全性にやや不安が残ってしまうだろう。曰く、一昨日までの旅が徒歩中心だったために、すっかり磨り減ってこうなったのだという。司書は碧梧桐の健脚ぶりに、ひそかに恐れを抱いた。
「こういうの、早いうちに買っといた方がいいかなーって。この靴結構気に入ってたから、ちょっともったいない気もするんだけどな」
 やや怪しい靴底によるやや怪しい体幹の影響からか、ふらふらと揺れながら碧梧桐は脚を下ろす。その流れで肩にかけた鞄を指差されれば、司書もその理由に納得がいった。例の靴は丈の長いブーツである。磨り減ってしまった靴と似た用途で靴を買うのであれば、靴が収められている箱はおそらく一般的なものよりも大きくなるだろう。そのためと考えれば、普段はあまり荷物を持たない碧梧桐が、やけに大ぶりの鞄を持っていることにも説明がついた。
 碧梧桐は司書の反応に満足げに頷くと、だからエントランスに向かってたんだ、と言う。司書はその言葉に、少しだけ複雑な思いを抱いた。建物の構造として当たり前のことではあるが、転生した文豪たちの住む区画からエントランスまでは、けっして中庭を必ず通らなければいけないはずはない。わざわざ中庭を通ったのは、ひとえに理由があってのことだろう。碧梧桐が無理をしていないといい、と司書は思う。だって、昨日あんなことがあったばかりだ。
「そういうわけだから、行ってくるね!」
 そう言って、碧梧桐は(今度は否定ではない意図で)ひらひらと手を振った。踵を返すのに合わせて、羽織った上着がふわりと翻る。歩き回っていないと落ち着かないと自称するだけあって、碧梧桐の動作はいつも淀みなく軽やかで、足取りだってまるで羽が生えたようだ。司書はぼんやりと頷きつつその背を眺めて、それから一拍おいて碧梧桐の背が遠くなってゆくことを予感した。
 ――気付けば、その上着に手を伸ばしていた。指先が掠めて、その末の方をはっしと掴む。ちょうど首元を引っ張られる形になった碧梧桐は、後ろ向きに倒れ込むような形で姿勢を崩してしまって、司書は慌てて手を離す。踏鞴を踏みながらもなんとか持ちこたえた碧梧桐は、何事かと言わんばかりに振り返った。当たり前だ、と司書は激しい自省に駆られる。なにせ、司書自身も自分が碧梧桐の背に手を伸ばした理由について、心当たりがなかった。
 碧梧桐ははじめ目を零れんばかりに見開いていたが、改めて司書と向き合う形になって、やがて眉を下げてへらりと表情を崩した。自分自身の表情は自分ではわからないわけで、司書は途端にこわくなって俯く。羞恥と反省と、とにかくさまざまな感情でいっぱいだった。
「あ、えと、……その、もし碧梧桐さんがよければなんですけど」
「うん」
「その買い物、ご一緒させてもらってもいいですか……?」
 俯いたまま、司書はおずおずと尋ねる。言ってから、下を向いたままでは碧梧桐の表情を知ることができないのに気付いて、司書は慌てて頭を上げた。果たして、碧梧桐は声を上げて笑っていた。司書の顔を見てまるで悪戯が見つかった子供のように慌てて、なんとか笑いを収めようと口元に手を当てる様子に、思わず毒気が抜かれて司書は呆気にとられる。やっとと言わんばかりに息を整えてから(今日二度目だなと司書は思う)、碧梧桐は司書の手をそっと取った。
「もちろん! 俺も司書さんと一緒にお出かけできるなら、すごく嬉しいな」
 そう言って微笑む碧梧桐に、司書は何を言えばいえばいいのかわからなくなってしばらく黙り込んで、それから、支度をしてきますとだけ返す。碧梧桐は頷いた。いたたまれなくなって司書が窓辺から離れて身支度を始めてなお、碧梧桐は窓の向こうから司書の姿を眺めている。その碧梧桐のゆるやかな視線が否応なしに気になって、司書はなるべく碧梧桐を視界に入れないように顔を伏せた。幸か不幸か、今日の潜書の予定は午前中ですべて済ませてしまっているため、特務司書としての仕事はもう雑務程度しか残っていない。ご用は館長へ、と書き置きを認めながら、司書はその館長への言い訳を悶々と考える。衝動に対する後悔が、いまになってじくじくとその形を主張していた。

***

 意外にも、館長からの許可はあっさりと下りた。碧梧桐を伴って訪ねたことが大きいのかもしれない、と司書は考える。館長は揃って現れた司書と碧梧桐の姿に目を見開くと、わずかに眉を下げて、それから司書にたまには気分転換をすべきだと告げた。館長の寛容さには普段から助けられている部分も多いが、今回ばかりは司書は少し後ろめたくも思う。だって、司書が碧梧桐の外出に同行するのは、けっして館長が考えたような理由からではないのだ。
 わずかな罪悪感を抱えながら、司書は碧梧桐の後ろについて歩く。道すがらの紅葉に目を輝かせる碧梧桐の姿は明るく、司書は密かにどちらが塞ぎ込んでいるのかわからないと自嘲する。そうして碧梧桐に連れられて向かった先は、案外大規模とは言い難い店舗だった。曰く、品揃えが良質で気に入っている店なのだという。少し意外に思いながら扉を開けた司書は、しかし次の瞬間、それ以上の驚きに襲われた。
「うっ、わ……すご……」
 決して広くはない店の中には、所狭しと野外用品が並んでいた。普段はそう見る機会のないものがいっぱいに詰め込まれた様子に、司書は思わず感嘆を漏らす。入り口付近で立ち尽くす司書の手を引いて、碧梧桐は泳ぐように店内を進んでゆく。すれ違った店員に会釈するのを見て、やっぱり碧梧桐は顔が広い、と司書はまるで他人事のように思った。
「あはは! 司書さんみたく驚いてくれる人、久しぶりだなあ」
「久しぶり、って……?」
 遠行のための頑丈なつくりの靴を眺めながら、碧梧桐はころころと笑った。遠目から見たときは雑然としているようにも感じた陳列棚は、近寄ってみれば商品の量に対して意外にもすっきりとして見えた。こういうところが碧梧桐の気に入る点なのだろうか、と司書は思う。時折手に取って検分するようにじっと見つめているところからも、碧梧桐の中では靴を選ぶ上うえで何らかの基準があるらしいことはわかる。けれども残念ながら司書にはその基準は皆目見当がつかず、代わりのように碧梧桐の言葉を反芻した。
「うん。俺もね、このお店を見つけたときはびっくりしちゃってさー。のぼさんとか、きよとか、いろんな人に話したんだよ」
 不意に聞こえた虚子の名前に、司書はぴくりと肩を揺らす。碧梧桐は案外平然としていて、司書ばかりが気にしているように思うと滑稽だった。言葉のなくなった司書を訝しんでか、べつに何回も何回もしつこく話題に出したとかそういうわけじゃないよ、と碧梧桐が少し置いて弁解するのが、却って慌ただしく感じて面白い。今日は特に、こんなやり取りばかりだな、と司書は微笑ましくも複雑な気持ちを抱いた。
「のぼさんとかは初めは興味を持ってくれたんだけど、……なんか、だんだん俺のことをお気に入りのおもちゃを見つけてはしゃいでる子供を見るみたいな目になって」
 言いながら、碧梧桐は頬を膨らませる。その光景は容易に想像がついてしまって、司書は途端におかしくなった。碧梧桐の好んだものに対しての熱意は、対外的な言動に表れることもあってよく見える。その最たるものが俳句と子規についてだが、それ以外にも碧梧桐は自分の感情を明瞭な言動で伝えてくれる傾向にあった。とはいえ、じつはそれは子規もよく似ていると司書は密かに思う。子規の野球に関する情熱は、丸々碧梧桐にそっくりだ。この場合、おそらく碧梧桐の方が子規に似たのだろう。
「……虚子さんはどうだったんですか?」
 思い切って、司書は虚子の名前を出す。わざと避けていたつもりはなかったが、切り出すために勇気を要したことが、司書には却って順当に思えた。
「きよはねー、もっと素っ気なかった!」
 司書の恐る恐るの問いに対して、返答はあっけらかんとしたものだった。呆気にとられて、司書は立ち竦む。碧梧桐はそのまま一足のブーツを手に取ると、隅の方に置かれていた背の低い丸椅子を引っ張り出して腰を下ろす。司書さんごめんそこの靴篦取って、という言葉に、司書は弾かれたように動き出した。ばたばたと慌ただしく靴篦を渡す司書を碧梧桐は不思議がって見つめて、それから足下を見て履いている靴の紐を解きはじめる。細い指が生地の上を辿って滑る様子は、どこか秘密めいて感じた。
「べつに、仲が悪いとかそういうわけじゃないんだけどさ。そうか、よかったじゃないか、くらいだったよ。面白みのないやつだよなー、まったく」
 俯いているために碧梧桐の表情ははっきりとは見えないが、先ほどとは違って頬は膨らんでいないようだった。それが司書には意外でもあり、ある種順当でもあるように思う。虚子と碧梧桐の二人はよく連れ立って行動しているような印象を受けるが、実のところそこまでべったりというわけではなかった。碧梧桐は旅好きの文士たちと情報交換をしていることもあるし、虚子はその頼りがいを買われて子供たちの教師役のようなことをしていることもある。
 二人の行動範囲はあくまで二人の共通項を中心に重なっているだけに過ぎず、重ならない範囲の行動について、二人はお互いにほどよく無関心である。逆説的に、共通項が多いからこそ二人は特筆して近しい関係性に見えるわけで、その距離感は折に触れて司書も感じることがあった。虚子の反応を面白みがないと評する碧梧桐だって、きっと本心から腹を立てているわけではないのだろう。
「ふふ、想像つきます」
「でしょー! きよってそういうところあるよね!」
 紐を解いた靴をするりと脱ぎながら、碧梧桐は顔を上げてにっと笑った。脱いだ靴を傍らに避けて置くと、碧梧桐は新しい靴を手に取って足を伸ばす。話しながらも粛々と靴を選ぶ手は止めないのが、なんだか碧梧桐らしく思えて面白かった。靴を預かっておくか尋ねれば、碧梧桐は下を向いて紐を結い上げるままにゆるく首を振った。紐を追って動く瞳につられて、その伏せた睫毛がかすかに震える。
「会いたいなあ……」
 ――その言葉は、ひどくちいさなな声をしていた。相変わらず紐を結い上げる手は止めていないから、おそらくは無意識のうちに零れ出た声なのだろう。靴紐をぎゅっとかたく結ぶ手が、心なしかぎこちなく感じる。
「……ごめんなさい」
 声を聞いて、司書は反射的に頭を下げていた。司書の垂れた髪が碧梧桐の額にかかって、むず痒いように碧梧桐は目を細めて顔を上げる。そうしてはじめて司書の姿を見て、はっきりと目を瞠った。唇は一文字にかたく引き結ばれて、それに反して眉を顰めたのか下げたのかわからない泣き笑いのような表情が、いやに司書の心を責め立てる。言わなければよかった、といまさらのことを思う。
「なんで司書さんが謝るんだよ。司書さん、なんにも悪いことしてないじゃん。司書さんに謝られたら、俺、怒ってないのに、どうすればいいのかわかんないよ……」
 碧梧桐の声は確かに目の前の司書に対して向けられているはずなのに、どこか遠くを向いているような、そんな錯覚に陥る声音をしていた。司書は途端に後悔に襲われる。碧梧桐にそんな顔をさせたいわけじゃないのに、事実碧梧桐は複雑な表情でじっと司書を見つめている。昨日からずっとこんなことばかりだ、と司書は思った。視界の片隅で、碧梧桐の脱いだ靴がかすかに震えるように揺れている。焼けるような喉をぐっと押さえて、司書は口を開いた。
「二人が苦しいはずなのに、体調のこととかで、力になれなくて、なんの解決もできなくて……」
 捲し立てながら、自然と俯いて目を逸らす。人が無力感に苛まれたとき、どうしようもない最後にはごくごく簡単な逃げ道に逃げ込んでしまうのだということを、司書は痛感した。虚子と碧梧桐の間に起こったことは、いまだに改善の気配を見せない。虚子も碧梧桐の一切が認識できないことの他はまったく異常が見られなかったことから、とりあえずは現状維持とし、知識量においては司書を上回る館長とネコが錬金術書などをあたることになっていた。けれども、もし自分が調子を崩していなければ、と司書は思う。詮ないことではあるが、司書はどうしてもその幻想を手放せなかった。
 碧梧桐は訥々と続く司書の弁明にしばらく口を噤んで、それから不意に司書の顔に手を伸ばす。思わず身構える司書を横目に、碧梧桐はその指の腹でそっと司書の頬を撫でた。え、と思わず声が零れる。するりと離れていった碧梧桐の細い指には、光を受けてきらきらと輝く水滴が残っている。油の切れた機械のようにぎこちなく顔を上げれば、目線の下で碧梧桐がくしゃりと眉を下げて、じっと司書の瞳を覗き込んでいた。
「……泣かないで、司書さん。俺さ、正直ちょっと嬉しいんだ。司書さんが俺ときよのことをこんなに考えてくれて、俺ときよを、いっしょにいさせてくれて」
 司書さんは優しいね、と言われて、司書は思わず首を振った。そんなことはない。そんなはずはないのだ。
 碧梧桐は司書の手を握ると、ゆっくりと立ち上がる。触れた手は、燃えるほどに扱った。碧梧桐は新しい靴の調子を確かめるようにその場で何度か足踏みして、それから少し距離を取って、その場でくるりと回った。羽織る上着が膨らんで、司書の視界を遮る。まるで舞台の幕開けのように、外套が過ぎ去った先で碧梧桐は笑っていた。
「ね、どう? 似合う?」
「……似合ってます、すごく」
「じゃあこれにしよう! 決まり!」
 涙を拭って、司書も微笑んだ。碧梧桐のしなやかな脚を覆う靴は、野外活動を想定された靴らしく頑丈なつくりをしていて、それが却って肢体のバランスを引き立てている。かっこいいな、と司書は思う。碧梧桐は司書の返答に満面の笑みを浮かべて、それからいそいそと靴を脱いでその腕に抱えた。司書さん箱知らない?と尋ねる声が意図的に潜められているものだから、普段の朗らかさに反したその様子が面白くて、見つけた箱を渡す手は震えてしまう。気付けば、司書の涙はすっかり乾いていた。
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