現在対向のトリック
お酒を飲みませんか、と切り出したのは司書の方だった。終業間際、巡回の報告を待つのみとなった夕べのことである。書類を整理しながらぽつりと零した司書の提案に、虚子はあからさまに不審がる様子を見せた。この日の助手は虚子だったが、それは一昨日から続く虚子の異常を考慮してのことで、本来は潜書担当だったのだ。そのため、司書がそれを切り出すのは半ば意図があってのことであると虚子に勘違いされるのは、仕方のないことではあった。ただ、司書が虚子に酒を勧めたのは、一昨日からの不調について切り出す目的以上に、虚子が司書の求めるちょっとした条件に合致する人物であったことがある。「違います、違います。あのね、館長からこんなものを貰ったんですよ」
司書は順序を揃えきった書類を棚に詰め込むと、いそいそと給湯室の方へ向かった。明かりを付けないままの薄暗い給湯室の片隅には、やや縒れた包装紙に包まれた箱が置かれている。その箱を抱えて司書室に戻れば、虚子は先ほどより多少眉間の皺が取れた顔つきで、まるで値踏みするように司書の手元をじっと見つめていた。館長の名前を出されて多少気が緩んだのだろうか、と司書は思う。ソファの前の低い机に包みを置けば、虚子は机を挟んだ向かいのソファに座ったまま、書類整理の傍らで視線をこちらに向けた。
一度封を切ってしまった包装を、それを悟られないように丁寧に剥がしてゆく。白い包装紙と蓋を取れば、そこには鈍く艶のある独特の形をした酒器が収められていた。徳利のように窄まった首元とそれに反する以降の波打つような形状は、ともすれば醤油差しのなりそこないのようにも見える。傍らに添えられた二つ揃いの猪口によって、それらが酒器としての意図を持つことがわかる程度であった。その見慣れない形状に、虚子は作業の手を止め、目を眇めて考え込んでいる。
「これ、燗酒をするための器具らしいんです」
司書は慣れない手つきでその酒器を箱から取り出すと、首を摘まむように指をかけ、それをするりと抜き取る。醤油差しのようだと思った酒器は、じつは特殊な形をした徳利と、それを覆うような容器とが組み合わさったものだった。徳利の窄まった部分よりやや下は容器の蓋をするように広がり、そのさらに下部には蓋部分より少し狭まってほとんど円柱に近い形が続いている。外側の容器に沸騰した湯を注ぎ、この徳利に酒を注ぐことで、湯煎の要領で燗を付けるのだと館長は言っていた。その受け売りをそのまま伝えれば、虚子は頷いて、しかし途端に納得がいかないと言わんばかりに眉を顰める。気に障ったことがあっただろうか、と密かに案じる司書をよそに、虚子は鈍重に口を開いた。
「いや、お前に尋ねるべきではないのかもしれんが……。妙齢の女性への贈答品として、これは適しているのか?」
神妙な顔で何を言い出すのかと思えば、こうだ。脳裏に昨日の碧梧桐の、きよってそういうところあるよね、という声がちらつく。堪らなくなって、司書は笑い声を零した。
「あはは、適してるんですよ。私が館長に、あんまり燗酒を飲んだことがないって話をしたから頂いたので」
言いながら、司書は少し前の館長との酒の席を思い返す。そこで、司書が燗酒について館長に尋ねたことがあったのだ。そのとき飲んでいたのはワインであったので、司書にしてみればそれは単なる雑談のつもりだったのだが、館長は律儀にもその時のことを覚えていた。そして今朝顔を合わせた時に、特務司書としての就任から六年の節目も近いという名目を引き合いに出して贈られたのが、この酒燗器なる器具である。曰く、燗酒に不慣れなうちはこうした器具を使うのも良いのではないか、ということだ。同席したネコは顔を顰めていたが、司書も立派な社会人であるからして、酒にまつわるものはほどほどに喜ぶことにした。その経緯を掻い摘まんで伝えれば、虚子はやっと腑に落ちたように目を伏せた。
「だが、なぜ俺なんだ」
虚子は俯き気味だった顔を上げると、わずかに首を傾げて司書に尋ねた。こういうところが虚子らしい、と司書は思う。ひとつひとつ靄を払い、正しい場所へ導こうとするのは虚子の癖のようなものだ。司書が虚子を酒に誘ったことも、決して他意がないとは言い難い。しかし、虚子を選んだことに強い理由がないことは、却って虚子を納得させるのではないか、と司書は思う。
「あんまり、たくさん飲む人じゃない方がよかったんです。まだ私は燗酒に慣れていないから、配分がわからなくなりそうで……」
「ああ……」
司書の言葉に、虚子は乾いた声を零す。おそらく、虚子の脳裏にも司書の懸念する光景がありありと浮かんでいるのだろう。食堂やバーで日夜行われる酒騒ぎに混ざる勇気は司書にはなかったし、だからといって個人的に文豪たちを誘うことも憚られた。贈り主である館長に頼ることも避けたがった結果、助手という業務を任された文豪に対し、それを労うという名目で付き合わせる羽目になっていたのだ。
「それに、虚子さんは前に日本酒が好きだって仰っていたから、ちょうどぴったりじゃないかなって」
どちらかといえば、この理由が本筋のものである。虚子の酒の好みについては、折に触れてというほどではないが聞くことはあった。ただし、実のところそれについては虚子本人の口から聞くより、碧梧桐を通じて知ることの方が多い。というのも、碧梧桐と彼の旅路について報告がてら話す際に、地酒についての話題で時折虚子の名前が挙がるのだ。おかげで司書も虚子の酒の好みについて、おおまかなことは覚えていた。この情報経路について虚子に話したことはないが、いつかこの件が落ち着いたら打ち明けてみてもいいな、と司書は思う。虚子に対しては誠実でありたいと思う反面、虚子に対してちょっとした秘密があることは、司書の気分をかすかに高揚させた。
「……わかった。付き合おう」
虚子はしばらく悩む様子を見せてから、やっと口を開いた。思わず歓声が司書の口から零れる。正直なところ、確率は五分だと思っていた。決して自分が虚子からあまり好かれていないとか、そういうことではないのだが、虚子は自他ともに厳格な人物である。仕事上において上司部下的な関係を持つ司書に対し、虚子があくまで同じ立場で酒を共にしてくれるかはは半ば賭けであった。
多少は気晴らしになればいいな、と司書は密かに思う。結局のところ、その意図がないとは言い難いのだ。異常が発覚した一昨日からずっと、虚子と碧梧桐がまったく違う形でお互いを気にかけていることは痛いほどにわかる。虚子が碧梧桐の一切を認識できない以外にまったく異常がないことが、却って二人の気遣いと空回りに拍車をかけていた。
「ただし、酒量には気をつけろ。明日も業務があるのだからな」
喜びから舞い上がっているであろう司書をきつく睨めつけて、虚子はしっかりと釘を刺す。虚子は話しながら、酒燗器についてを優先したために止まっていた手を動かして、順列を正した書類を机で揃える。とん、とん、という軽い音が、まるで警告音のようでおかしかった。司書は虚子の言葉に軽く頷いて、彼の整えた書類を受け取って検分する。お互いソファに身を委ねて流れ作業を続けながら、司書はふと尋ね忘れていたことを付け足すために口を開いた。
「あと、飲むお酒ってどうします? バーから拝借してくることもできますけど」
司書の問いに虚子はぴくりと肩を揺らして、それから考え込むように目を伏せた。菫色の瞳がかすかに揺れる。何か当てがあるのだろうか、と言葉を待つ司書を遮るように、扉を叩く軽い音が響いた。立ち上がろうとする虚子を手で制して、司書は手にしていた書類を置くと扉へ向かう。扉を開けば、果たしてそこには午後から夕方にかけての巡回を担当していた夏目漱石の姿があった。司書は軽く礼をして漱石を迎え入れようとして、それから机の上に未だ置かれたままになっている酒燗器のことを思い出し、慌てて扉の前で話をはじめる。背に刺さる虚子の視線が痛かった。
「夏目さん、お疲れ様です。巡回終わりました?」
「ええ。君もご苦労。本日も特に異常はなく、負傷者もなし。ごく平和なものでした」
言いながら、漱石は報告書を差し出す。司書が眺めていると、漱石はおや、と零して二、三歩前進した。
「虚子君もいるんですね」
「……夏目さん。ええ、今日は助手でしたから」
「そうですか……」
虚子の姿を見つけ、声をかけた漱石は、しかし言葉を濁して言い淀んだ。おそらくは漱石もまた、虚子の身に起こった異常について扱いあぐねているのだろう。虚子と碧梧桐の師である子規はまだ落ち着いた風で、時折二人の間柄を直接的に気にかけている様子も見られたが、その他は(司書自身も含め)どうにも扱いづらいらしかった。漱石も例外ではないのか、と司書が密かに驚いていると、漱石は考えを振り払うようにゆるく頭を振り、わずかに微笑んだ。
「とにかく、虚子君もお疲れ様でした。助手は長丁場だったでしょう、ゆっくり休んでください」
「はい。子規さんにもよろしくお伝えください」
虚子の身を案じる言葉に、彼も素直に答える。漱石も虚子の返答に満足げな表情を浮かべると、報告書に異常がないことを司書とともに確認し、それから引き上げていった。漱石の仕事に対する割り切りのよさに舌を巻きながら、司書は受け取った報告書を綴じるために棚へと向かう。そうして紐を通すための二穴パンチを探しに悪戦苦闘していると、虚子は見計らったように言葉を零した。
「……先ほどの、飲む酒の当てについての話だが」
その言葉に司書はやや驚いて、わずかに目を見開きながら振り返る。虚子がまさかそれについて考えているとは、司書はほとんど思わなかったのだ。虚子の瞳は変わらず伏せられていて、そのうえでなお躊躇いがちに言葉を探している。虚子らしくない、と司書は胸中で呟いた。虚子は普段はきっぱりとした理知的な人物で、特に句作やその添削をよく行うこともあってか冗長を嫌う。何か虚子にとって特段言いづらいことなのだろうかという懸念に考えが至るのと、虚子がゆっくり口を開くのとはほぼ同時だった。
「俺の部屋に、日本酒が一升ある。お前の口に合うかはわからないが」
え、と思わず声が漏れた。虚子の提案は司書にとっては渡りに船とも言えるもので、同時にそれ以上の特別な価値をはらんでいる。まるで、頭を殴られたかのような衝撃だった。驚きから黙りこくった司書を気遣ってか、虚子は司書に対して拘りがあるならばそれを優先するように促す。司書はそれに対してゆるく首を振って、滲み出すようにはにかんだ。
「……嬉しいです。ぜひ、頂きます」
言葉とともに、司書は頭を下げる。視界の端でゆらゆらと揺れる髪を見て、そういえば最近は頭を下げてばかりだな、とふと思う。顔を上げれば、虚子は戸惑いの中にわずかに浮き足立つ喜びを混ぜ込んだような、そんな複雑な表情を浮かべていた。
いまさらのことだけれど、虚子を見下ろすのは新鮮だ。虚子は普段からしっかりとした男性らしい背丈をしているうえ、碧梧桐の比べても下駄の分が背の丈を足している。けれども見下ろす形になると、虚子の姿は意外にもどこか青さや幼さを思い起こさせた。司書の視線に気付いた虚子はわずかに目を逸らし、それから立ち上がって確たる足取りで扉へ向かう。どこへ、とその背に声をかける司書の声に後ろ髪を引かれたように、虚子は踵を返した。
「いまさら反故にするわけじゃない。……酒を取ってくる」
振り返った虚子の、はんぶんしか見えない顔がずいぶんと優しく見えて、 司書は思わず言葉を失った。頷いて、軽く会釈する。虚子が個人的に購入したという酒は司書としても気になったし、なにより虚子がどこかやさしいのが切なくも嬉しかった。虚子はそのまま扉の方まで歩いてゆくと、ノブにゆるく手をかけながら、振り返らずに立ち止まる。司書が小さく首を傾げる様子を見ないまま、虚子の肩がわずかに揺れて、(ただでさえ筋の通った)背中がぴんと張った。
「……秉のこと、気を遣わせただろう。すまなかった」
そう言って虚子は部屋を出ると、ばたん、と扉を閉じる。下駄特有の靴音が足早に遠ざかってゆくのを聞きながら、司書は顔を覆って天を仰いだ。手にしたままの巡回報告書が、くしゃりと音を立てる。叶わないなあ、と痛いほどに思う。司書の勝手なおそれが虚子に却って無駄な気遣いをさせてしまうことは、ほんとうは避けるべきなのに、司書はどこか後ろめたさをはらんだ喜びを感じる自分を否定しきれなかった。こういうとき、司書はどこか虚子に甘えてしまう自分を自覚するのだ。
手のひらをほどけば、天井の照明は溢れてしまいそうなほどにきらきらと輝いていた。その明かりを避けるように、そっと目を細める。俯いて、握りしめて縒れた報告書を伸ばしながら、司書は途端にいまから虚子と酒を飲むのだということを実感した。二穴パンチを諦めて報告書をむりやり棚に仕舞いながら、支度をしなければ、と思う。小走りで向かった給湯室の蛇口を捻れば、流れ出る水は秋らしくつめたかった。
大ぶりの薬缶に半分ほど水を張って、ひとつしかないコンロに置いて火をつける。かたかたというかすかな音を背に司書室に戻って、酒燗器の箱を手に取った。初めて食器を使う前には水洗いをするべき、なんてずいぶんとていねいな考えが頭を過ったのだ。浮かれきっている自分が、顔に出ていなければいいな、と思う。猪口を洗うつめたい水が、身体のほのかな熱を奪っていくようだった。
「戻った。つまみはあるか?」
「おつまみですか?」
軽く水洗いを済ませた酒器類を布巾で拭いていると、背後の扉が開く音がする。振り返って司書室の方を見れば、抱き込むようにして一升瓶を持った虚子の姿があった。駆け寄ろうとして、つまみ、と言われて踵を返す。ふつう、仕事場に酒のつまみなどあっていいはずがないのだが、なにせここは帝国図書館である。仕事場であろうと気にせずに酒を飲む人間は少なからずいるわけで、おそらく虚子もそれを予測して司書に声をかけたのだろう。給湯室には予想の通り、そういった人間の置き土産が積み上がっていた。
「えーっと……。チーズと、するめと……、うわ、鯖缶とかある」
中には誰がいつどういった意図で持ち込んだのか甚だ疑問に思うものもあったが、その中からつまみらしいつまみをいくつか選ぶ。疑問に思うようなものをなるべく隠蔽して、水を拭った酒器とともに抱えて司書室へ戻れば、虚子はその種類の豊富さに眉を顰めていた。それぞれめいめいのつまみを選んで、それから栓抜きを使って一升瓶の蓋を開ける。軽い音とともに、ふわりと華やかな香りが部屋に広がった。わあ、と歓声を上げる司書の向かいで、虚子もまたそっと目を細めている。ひと通り味わってから、司書は徐に立ち上がった。
「お湯、持ってきますね。虚子さんはお酒をこの徳利に注いでおいてくれませんか」
「わかった。熱湯を扱うんだ、用心しろ」
世話焼きで几帳面な虚子らしい言葉に司書は苦笑して、酒の香りを惜しむようにゆっくりと給湯室に向かった。長いこと放っておかれた薬缶がしゅんしゅんと蒸気を吐く光景は、どこか郷愁のようなものを引き起こさせる。虚子の忠告通りに濡れた布巾越しに取手を掴めば、直に触っていないにもかかわらず、そこはじわりと熱を持っていた。
そのまま司書室に戻って、徳利が抜き取られたことでぽっかりと穴の開いた酒燗器に湯を注ぐ。内側に刻まれた規定の線までをいっぱいに満たせば、横で徳利の用意をしていた虚子の手によって、立ち上る湯気に封をするように徳利がふたたび差し込まれた。最後に、かたん、と備え付けられた徳利の蓋を落とす。その様子を興味深げにじっと眺めていた司書に対し、虚子は薬缶を給湯室に戻すように促してからぽつりと呟いた。
「先ずはそのまま飲んでみたらいいんじゃないか。そうすれば、燗酒で飲んだ後で味が比べられるだろう」
「ふふっ、確かに……。ぜひ頂きます」
虚子の言葉に、司書は堪らなくなって笑いを零す。おそらく、虚子の目には司書が燗酒のできあがりを待ちきれない幼い子供のように映っていたのだろう。きよってそういうところあるよね、という昨日の碧梧桐の言葉が、またも脳裏に過った。司書は笑いを噛み殺しながら、虚子の提案に従って薬缶を置いて戻る。まだ笑いが収まらないままに深々とソファに腰かけて、震える手で揃いのお猪口に酒を注ぐ。そうしてその片方を虚子に差し出せば、虚子はわずかに目を見開いて、それから花が綻ぶように笑みを見せた。
「とりあえず……、今日のお仕事、お疲れ様でした!」
「ああ。司書もご苦労様」
酒が零れてしまわないように、そっとお猪口を捧げる。水面に映る虚子の瞳がゆらゆらと揺れて、まるで菫の花弁のようだな、と司書はぼんやりと思った。そのままゆっくりと口をつければ、封を開けたときに感じた華やかな匂いが鼻を抜けてゆく。けれども味は香りに反してきりりと引き締まったもので、その対比が感覚をいっそう引き立てた。虚子もまたお猪口を満たす酒をゆっくりと味わっていて、その表情はずいぶんと柔らかい。虚子はさして酒に弱いわけではないのだろうが、それでもほのかに色づいた目元は艶やかで美しかった。
「……お前が酒に口をつけたら言おうと思っていたんだが」
そう言って神妙に切り出した虚子に、司書は思わず酒を煽る手を止める。何を言い出すのだろう、と身構えて司書が慌ててお猪口の中身を飲み干したのを見て、虚子は呆れたような表情を浮かべながら口を開いた。
「その酒は、もともと秉と飲むために買ったものだ」
思わずお猪口を取り落としそうになって、中身を空にしていてよかったと司書は心底思う。正直なところ、虚子と碧梧桐のことについて過敏になりすぎている自覚はあった。ただ、二人には(今度こそ)すれ違うことなく幸せであってほしい、と身勝手にも願っている身である。ここ数日の間柄には、いつまで耐えきれるかはわからなかった。驚きに目を瞠る司書をちらりと流し見て、虚子は目を伏せる。虚子はほどほどに温まったであろう器から徳利を取り出すと、その蓋を取って自らのお猪口に注ぎながら、囁くように声を零した。
「……秉がいないから、あてがないんだ」
その声は、よりどころを失った寄る辺ないつめたさに満ちていた。具体的に口にしているわけではないけれど、虚子がその内面に踏み込んだ心情を吐露するのは初めてかもしれない、と司書は思う。心臓を鷲掴みにされたような暴力的なまでの感覚が、司書の胸を襲った。司書は虚子がふたたび器に戻した徳利をひったくるように手に取ると、その勢いのまま自分のお猪口に酒を注ぐ。慌てる虚子を横目に、司書はそのお猪口の酒を一気に煽った。――熱い。酒自体も熱ければ、アルコールの染み渡った身体も熱い。ぜんぶ、燃えるように熱い。味なんてわからないまま、司書は一息にお猪口を飲み干した。
「碧梧桐さんは、ずっと虚子さんのそばにいます。少なくとも、私にとってはずっとそうでした」
頭がくらくらする。言い切って、司書は酸素を求めるように大きく息を吸った。虚子は零れんばかりに目を見開いて、それからわずかに眉を下げる。普段の怜悧な表情はぐしゃぐしゃに歪んでいて、もはやそのかんばせに浮かぶものが喜びであるか悲しみであるかすら判然としない。そうして、虚子はゆっくりと口を開いた。唇が開いて、閉じて、それからまた開く。
「――そうかもしれない。秉は、……いないわけじゃないんだ」
震える声で、まるで何かを確かめるようにそう告げて、虚子は今度こそ微笑んだ。その表情に司書はなぜだか泣きたくなって、けれども涙は出なかった。身体じゅうの水という水がからからに涸れてしまったみたいだ、と司書は思う。虚子は司書の固く握り締めた手からそっとお猪口を攫って、ゆっくりと酒を注ぐ。そうしてゆらゆらと揺れる水面をたたえたお猪口をふたたび司書の手に握らせて、それから祈るようにありがとう、と囁いた。優しくもさみしい虚子の声に、司書はさまざまな思いがぐちゃぐちゃになって俯く。泣かされているのはどっちなんだろう、と覚束ない頭で考えた。
「……また、碧梧桐さんともいっしょにお酒を飲める日が、きっと来ます」
そう言って、司書は虚子の注いだ酒にそっと口づける。もうすでに温くなってしまった燗酒は、やわらかい花の香りがした。