脱国『逃げよう』   



 降り積もった雪が、赤く染まっていた。
 剣戟音が響く村を少年は駆け抜ける。
 疲れ切って村外れの家へ帰ると、いつもの癖で少年は独り言ちた。
「ただいま! って……誰も居ないか」
 足早に急な梯子を上る。
 丸二年——世話になった屋根裏部屋が随分と手狭く見えた。
 肺が凍ったように冷たい。分厚い手袋を脱ぎ、黙々と荷物を詰めていたところに彼の姉が帰ってきて屋根裏へ来るなり、問うた。
「帝国を出るって!?」
 薄紅色のセミロングヘア。レモンイエローの瞳がまんまるになっている。
「そのつもり」
 少年はひとつ頷いた。
 彼の話は、聞く者からすればとんでもなく突飛なものだった。
「どうするん……まさか外国船に乗る?」
 ——明けの明朝、東の港で。
 背に流れるような長い黒髪、赤い瞳。
 異国の旅人を名乗った女性の台詞を、少年はなんども反芻していた。
「あの人が言ってた。明日東の林奥から出る船に乗れば、このおかしな国から出られるんだって」
「何それ……あそこって港じゃなくて崖よ。低いかもしれないけど船なんて」
「ある。向こうの地図もくれた。あの人に付いて出てく」
「……あきれた。こないだ、共和国から来たっていうギルドの人の話ね」
 姉の心配そうな声が聞こえる。
「大丈夫なの……?」
 少年は黙った。
「外国って、今、危ないのよ。ただでさえ大戦中で治安も良くないし……今よりも怖い思いだって、するかもしれない」
 少年はやはり押し黙っていた。
 村で染み付いた血の匂いが、胸騒ぎをより酷くしていた。
 姉が問うた。
「もう明日なのよね。ひとりで出てくつもり?」
「……うるさいな……」
「シエ——」
「放っといてくれよ!」
 彼女が追って何か言おうとした言葉を彼は遮ってしまった。
「頼むからさぁ……!」
 寒さに喉がヒリついて痛い。
「シエル」
 呼ぶ声が落ちる。
 シエル。
 荒天の寒空に例えられたようなこの名が、好きじゃなかった。
 僕は僕が嫌いだ。
 僕は国外のことをきちんと知っているわけじゃない。けれど、危ないことが全くない場所なんて、どこにもない。そんなのは子どもでも分かることじゃないか。
「もう嫌だ。こんなところ、居たくもない」
 気が付けば、そう吐きだしていた。
 涙が滲んできた。軍人達の掛けてきた圧力、二度にもわたる村への襲撃、それらの記憶が脳裏に次々に蘇る。
 狂っている。今の場所に居たら死んでしまう。
 シエルは絶叫する。
「家族なんか嫌いだ……! 帝国なんか大っ嫌いだッ!!」
 側に寄り添う姉へではない、何か他の存在、世界に対して叩きつけるように。
 そんな少年の震える体を、彼女は、ぎゅっと抱きしめた。
「そうだね」
 強く強く抱き込んで、彼女が告げる。
 ——私も、怖いわ。
 小さなたった一言で、固結びになっていた何かが、呆気なくほどけた。
「だから、連れてってよ私もさ。置いてくなんて、間違っても言わないで」
 そう言った彼女の声も、震えていた。
 涙が頬を伝い、零れる。少年は何度も頷いた。 ごめん、ごめんよと、繰り返していた。
 ずっと、誰かにそう言って欲しかったのだ。
 ここは痛くて、冷たくて、怖いところだと。
 震える手で、そっと、彼女の温かい背に触れる。
「逃げよう。ふたりで」
「うん」



 ——……
 そうして二人は旅立った。
 最低限の荷物だけを背負って。
 朝日が昇るより前、町外れの非合法な船着場に着くと、紺色のフードを被った人物が言った。
「なんだふたりなのか。まぁいい」
 姉が一歩前に出た。
「怪しまないのね、あなた」
 それは少々トゲのある言葉だったが、相手は意に介さないと言うように、首を振った。
「なに。私たちはしがない何でも屋、ひとりやふたり増えても、どうってことないさ」
 飄々とした雰囲気のフードの人物が、愉しげに笑う。
 姉は、相手をまだ警戒しているようだが、ここは雪国だ。相手もそりゃあ防寒しているし、たとえ怪しんだとして自然と口数も少なくなる。
 シエルはそう考えて、赤黒いフードの人影をじっと見上げる。
「いいんですか?」
 今更だが、シエルからも聞いておきたくなった。万が一にも断られたらどうしようか、と思ったが、
「良いよ。行く宛が無いならば、来い。おまえたちを歓迎しよう」
 杞憂であった。
 よいことを言っているはずなのに、目深なフードの下の口元は、いびつにつり上がっている。
「じゃ、よろしく」
 相手が右手を差し出した。
 シエルがおずおずと手を伸ばすと、ぶんぶん上下に振られた。それは、なんとなく大人びた相手の雰囲気とは、合わない感じのする振る舞いだった。
 不思議な人だと、シエルは思った。
「そろそろ出発致します」
 船の奥の方から、女性の高い声が聞こえる。目の前の人物が踵を返した。
「行こうか」
 ちいさな漁村の片隅。
 密やかに港を発った貨物船は、朝焼けを映した海を確かに漕ぎ出していく。
 背の高い塔の立つ方へと、船は進む。向こうの大陸に立つ塔は、霧の上まで伸びていて、中央大陸同様どこまで続いているのかわからないほどだった。
 窓辺に添ったシエルは、ひとり拳を握りしめた。

 ——もう戻らない。僕は僕の道を、前を向いて歩いていく。

 朝日が昇ってきた。
 鮮やかな藍紫色の空に、もう雪は降っていなかった。

_1/6
── TOP NEXT
   

▽希望ページ数入力
▽章選択