その少年
「椿、」
其れが、この扉の向こうにいる少女の名だった。
正確には、扉は閉じられているため少女が向こうにいることは推測に過ぎないが。以前僕が鍵を開けて接触した時から暫く日が経ち、僕は再びこの扉の前に来ていた。然し、あの一度から、扉の鍵は針金で何とか出来る代物ではなくなっていたようで、矢張りと言うべきか、首領は僕がこの部屋に入り彼女に接触したことを知ったらしい。
電子キーへと変わった扉を見ながら、太宰は外套の下の指先で針金を遊ばせていた。
別に、彼女に特別興味がある等ということではない。
あの時、自身の置かれた状況は愚か、森鴎外がポートマフィアの首領であることすら知らなかった世間知らずも甚だしい彼女に、僕が少しの呆れを感じていたことは事実だ。もう会うことは無いだろうとその場で適当な挨拶を交わし部屋を出て、「ここから逃げよう」と云った彼女へ、少しのプレゼントと少しの興味と悪戯心で鍵を掛けずにその場を後にした。この現状を見てわかる通り、彼女は逃げず、変わらず部屋に納まっているらしい。
あの日から僕はどこか可笑しかった。少女が見せた涙の理由が何となく心に引っかかっていて、もやもやと胸の内に渦巻いていたのだ。それを解消するために今日、この場所まで来た。然し、鍵を態々電子キーに変えられた扉を見たところで、彼女には別の新たな興味が湧いた。
あの首領が何故ここまで徹底的に彼女を隔離しているのか?それも態々僕の鍵開け(針金)で開かないようにするとは「気にしてくれ」と言っているようなものではないか!
これは難攻不落と聞くと胸が踊る性分である僕の心を擽るには充分だった。見れば、この電子キーは型から云って日によってランダムに解除番号が変わる代物だろう。回りくどく確実に鍵を悟らせない方法である。あの人らしいと云えばらしい。褒めているか否かは不問とする。
とりあえず景気づけにその扉をコンコンとノックした。
▽
「…?」
コツコツと扉から音が聞こえる。
そして直後にピッピッピッピッというリズミカルな電子音の後にビーッッというけたたましい音が扉の向こうで鳴り響いた。
何事かと椿が扉に近づいてそっと耳を澄ませてみれば、「うーんまあ違うよねえ…」という声。その声には聞き覚えがあった。
「太宰治」口の中で椿がそう云うと、扉の向こうではまた何かの電子音の後にビーッッという音が鳴った。
…不正解という事だろうか?否、この音と私の答えとは特に関係は無い筈だ。とすると、扉の向こうで彼が何かをやっているらしいと察する。
一度だけやって来た彼の名を覚えていたのは、この部屋に入ってくるのは森鴎外かエリス、名前を知らない無口な黒服の人々等の限られた人間のみだったからだ。
以前は1つのマフィアの情報を一晩二晩みっちりと脳に入れていたため、椿は何かを記憶する事に長けていた。現在はそんな事はやっていないため、ほぼ使うことがない椿の脳は情報を欲して腹を空かせていると云ってもいい。そのような環境の中で、スポンジに水が染み入るように太宰の名は椿の頭へとすんなりインプットされ、今しがたアウトプットされた。
扉の向こうで「うーん僕の誕生日ではないか」と云う太宰の声。以前はするりと部屋に侵入していたが、今回はそうもいかないらしく、扉の前で苦戦していた。クイズでもやっているのだろうか? と扉に耳を欹てていると、
「ねえ、いるんでしょう椿。君はここの解除番号を知らないかい?」
と話しかけられビクッと肩がはねる。話を振られると思わなかった椿は、恐る恐る扉の向こうへ声をかけた。
「太宰?」
「おや、覚えていたのかい?そうだよ僕だ。其方に行きたいのだけれど、入るためにはここの電子キーに解除番号を入れなくてはいけなくてね」
「? 前みたいに入れないの?」
「鍵を変えられてしまっているんだ。前は針金でこう、くいくいーっとやればね」
「…そう。でも、知らない」
「まぁそうだよね。いいよ、しょうがないから今日はここで話をしようか」
「話?」
背中がトン、と扉に当たる音がした。椿の部屋がある階層には不気味なくらい人の気配が感じられなかった。あるのは監視カメラやエレベーターの機械音くらいである。
太宰は廊下でひとり、扉を背もたれにゆっくりとした口調で話し始めた。
「そう。君の事が知りたいんだ」
▽
太宰は歩いていた。
椿との話の後、真っ直ぐエレベーターに乗り込み最上階へのボタンを押した。硝子張りの其れがぐんぐんと高度を増していく間太宰はその顔に薄らと笑みを浮かべ、エレベーターが最上階へ着くと迷わず目線の先にある執務室へと向かった。
執務室の前に立っていた大柄の黒服に首領に用事がある旨を伝えると、黒服は一度執務室に入り、そう時間が経たないうちに出てきた。
執務室の扉がゆっくりと開かれる。太宰はまた中央の机まで迷いなく足を伸ばし、机の目の前の椅子に腰掛ける森鴎外と向き合った。
「首領」
「君がここに来るのは珍しいね、太宰君。…報告、という訳ではなさそうだけれど」
「ええ、違います。お願いがあり参上しました」
「ふむ。聞こうじゃないか」
「うふふ、聞いたら認可していただけますか?」
「それは保証出来ないねぇ。内容次第、というところだ。それで?態々ここまで来るお願いとは、どういった用件かな?」
「かの部屋の宝物を僕にください」
「……宝物、ねえ。私の宝物はエリスちゃんなのだけれど、勿論認可出来ないよ?」
「ふふっそうでした、首領にとっては愛し君が宝物でしたね。では、言い方を変えます。僕に椿をください」
「相手と己との認識の齟齬を洗う良い切り口だ。シンプルかつ手短な交渉は最もわかり易く効率的で好ましいね」
「ええ、そうですねぇ」
「それで? 椿ちゃんを君にあげたとして、どの様なメリットが有るのか聞こうじゃないか」
机に肘をつき手を組んで座る鴎外はニコリと微笑みを浮かべ、然しその目は太宰を鋭く見据えていた。
ひやりと冷たい其れに、もう一度頭の中の思案を整理して、太宰は口を開く。
「メリットは3つ。1つは彼女の才能を伸ばす教育ができます。次に、そこで共に任務を行えば成果を増やすことができます。そして…彼女の異能に干渉されず、尚且つそれを止めることができるのも僕です。推察するに、彼女を部屋に閉じ込めているのは彼女の異能の使役に問題があることが理由でしょう? 手を焼いているなら、」
「成程。椿ちゃんについてよく調べたようだね」
「ええ。彼女の経歴を調べても、余りに完璧すぎる白の履歴しか出てこないものですから、直に彼女の口から聞きました。彼女がどこから来たのかも、彼女の異能のことも」
「それで、椿ちゃんの過去を聞いたのなら、彼女は父親のマフィアに異能を利用されていた事も、知っただろう?彼女が自らあの場所に留まっていることもね」
「それも聞きました。然し、彼女には凡百才能がある。それを閉じ込めて磨かずにいるのは勿体無い。彼女はいわば原石。宝石は原石に心奪われる人も少なからず居ますが、研磨されて漸くその価値が多くの人々に浸透し確固たるものになる。彼女の力はマフィアの威光を知らしめるのに申し分ないはずです。それに彼女ほどの異能力者を貴方の力に加えれば、残っている先代派も口を噤む他なくなるでしょう?」
「うーむ…痛いところを突いてくるねぇ」
「…森さんらしくも無い。利用できるものは凡て利用し、力にするのが貴方でしょう?」
「……箱から原石を取り出し研磨したとして、本来の輝きを得ることが出来れば、君の半年の働きにも勝るとも劣らない成果を上げるだろう。然し、今暫くは駄目なのだよ。無価値な石ころ同然で居てもらわなければ」
「それこそ存在しているかいないかなんて、誰も気に留めないような石ころになるまでね」そう続けた鴎外に、太宰は更に疑問を膨らませた。この合理主義が服を着て歩いているような男が、何故あれ程の者を利用しないのか。椿の周囲を取り巻く何かを未だ知り得ていないことを、太宰は察した。
「……では、彼女は唯腐らせるだけ、という事ですか?」
「うーん、言われてみれば矢張り勿体無いねえ。よし、それじゃあ私の読み物を与える事にするよ。知識は幾ら蓄えてもいい」
「………僕に彼女はくださらない、という事ですか?」
「うん、そうだね。君のお願いは認可出来ない。椿ちゃんには部屋で大人しくしてもらわなければならない。少なくとも1年間はね。その後も君のその考えが変わらないなら、椿ちゃんを太宰君に一任してもいいよ」
「………そうですか。わかりました」
糸が切れたように、太宰はふうと息を吐いた。
「その言葉、忘れないで下さいね」と云って一礼すると、太宰は外套を翻して執務室を後にした。