降ろされた糸


青い月が見える。真っ青な月明かりが部屋の中を照らしていた。
その部屋には、窓があった。
死体もあった。
右手には短剣が握られていた。
あの夜だ。と、頭の中で誰かが呟く。

青い月明かりが部屋に差し込む。
短剣を抜かれた死体から血が流れていく。床を赤く染めてゆく。そして血溜まりの先に、矢張りと云うべきか、細い足が見えた。
暗闇に紫が浮かび上がる。其れは一言も何も発しないまま、青白い手が、血溜まりの先の死体を指差した。

死体の顔は母だった。

ぐにゃり、視界が歪む。霧散し空気に溶けるように紫が散り、月明かりも暗闇もその境界を曖昧にして凡てが溶け合い次の場所を映し出した。

広いコンクリートの部屋。窓は無く、そこには自分と、幾らか離れた所に、誰かが立っていた。よく見えない誰かは口を開く。それが何を言っているのか、わかるはずなのに理解ができなかった。耳に水が入っているような、ぼんやりとした音だった。







太宰は硝子張りのエレベーターに乗っていた。それは外ではなく、地下の暗い地中を映してどんどん下へと降りていく。

(こんな時に一体何をさせようというのか、あの人は)

裏社会は今、じわじわと広がりつつある抗争の真っ只中だった。
五千億円という大金を契機にして始まった今回の抗争。その大金だけに、近いうちヨコハマの裏組織という組織を凡て巻き込む大抗争になるだろう事は容易に想像できた。その燃え盛るような激しさは有力幹部候補である太宰まで駆り出される事態である。
然し抗争は地上ヨコハマで起きている。そんな中、太宰が地下へと降りるエレベーターに乗っているのは、首領である鴎外より直々に通達があったからだった。

“銃や刃物は持たずに、一人で指定する場所に来なさい”

…気になるところが有りすぎる連絡である。
ふぅ、とひとつ息を吐くと、太宰は未だ降り続ける硝子張りの壁に背を預けた。
一応言いつけ通りに銃や刃物は持ってきていない。そもそも指定された地下室はコンクリート打ちっ放しの広い部屋だったはずだ。
指定してきた鴎外はそこに居るのだろうか、それとも何か別の人物がいるのだろうか。………中也だったら嫌だな。今すぐ地上へのボタンを連打しそうになってやめた。まだそうと決まった訳では無い。落ち着こう。
チン、とエレベーターが目的の場所についたことを知らせる。音を立てて開く扉、倒れてくる黒服。

「え?」

ドサリ。エレベーター内部に黒服が倒れる。扉は黒服の体に引っかかり、機械的な開閉を繰り返していた。

何かが可笑しい。

敵の仕業を考慮してエレベーターの側面に張り付き外の様子を伺う。しんと静まり返った地下。通路をよく見れば他にも何人かの黒服が倒れていた。エレベーター床に倒れている黒服の脈を確認する。…死んでいた。気配を感じなかったのはこの所為か。
よく見れば、仰向けに倒れたと思っていた黒服は、顔は天井を向いているが、爪先は床を向いていた。首を捻じ砕かれたようだ。

見る限り敵の気配は通路からは感じられない。エレベーターから出た太宰は、鴎外に指定された目的地へと向かう。
締め切られた扉には鍵穴。試しにドアノブを回してみるが開かない。どうやら鍵がかかっているらしい。
そこで太宰が取り出したのはピン。髪も留められる優れものだ。寧ろそっちが本命だという詰まらない言葉を投げかけてくる中也はいない。そのまま鍵穴に差し込みくいくいかちゃかちゃ。そしてカチャンという音が響いた。


「さぁ、ご対面だ」

この扉の向こうに、鴎外では無い1人の気配がしていたことには気づいていた。いっそ芸術的なまでに180度、綺麗に黒服の首を回転させたのはどのような者か。それも敵陣の逃げ場が無い地下に潜り込んで来るような者だ。
屈強な大男か、後が無い窮鼠か。
何処か嬉々とした気持ちを抱えながら、太宰はガチャりと扉を開く。

締め切られているはずの地下室に風が舞い込んだ。

そこに居たのは屈強な大男でも無く、傷だらけの放浪者でも無い。
1人の小さな影。何処か見覚えがあった。
以前もこうやって鍵を開けて、私は。


「……嗚呼、君は、また泣いているのかい」


そっと、その小さな肩に触れた。







ホログラムが、箱庭がボロボロと崩壊する。

異能がその範囲を地上へ届かせる前に、椿の“箱庭”は強制的に解除された。
いつの間にか母の姿もフョードル・ドストエフスキーの姿も、青い月も見る影もなく、ただ広いコンクリートの部屋が広がっていた。部屋の隅には、Qの人形が粉々に切り刻まれた状態で転がっている。

椿の異能は極度のショックによって暴走していた。然し、何者かが“何らかの方法”でそれを止め、椿は脳死を免れ、ポートマフィアもその被害の拡大から免れた。

頬を濡らす滴は、いつの間に流れていたのだろうか。
呆然とする椿の目の前には、初めて会った時と比べて少し大人びた太宰がいた。

「大丈夫かい?」
「……太宰、治?」
「ああ、そうさ。覚えていてくれて嬉しいよ」
「……あなたが、私を出させたの?」
「?」

「余計なこと、しないで…!」
肩に触れていた手を払い落とす。震える自分の体を抱いて、椿はしゃがみこんだ。

鴎外は知識を与えはしたが、椿を外に出す素振りは見せなかった。椿もそれを望んでいた。鴎外は椿が異能を使うことを恐れていることも承知していた。
その鴎外が今回椿をあの部屋から出し、Qに接触させるに至ったのは、鴎外と椿以外の第三者の働きかけがあったからだと椿は推測していた。

Qに態々異能を使わせ、椿の異能を暴走させる。そこに現れた、“椿の異能を止められる方法”を持つ太宰。タイミングが良すぎて仕組まれていた以外に考えられない。
太宰もそれに気がつくと「嗚呼なんて手の込んだ再会だ」と、今頃最上階の執務室で幼女と戯れているだろう鴎外の姿を想像した。このやり取りも何処かの監視カメラから見物しているだろう。
そう云えば、1年前に椿を要求してから鴎外に云われた月日が経っていたのだ。太宰はひとり合点がいった。
然しこの再会は、映画の終焉のような感動的な再会とは云えなかった。
落とされた手は拒絶の証だった。太宰は感謝はされても拒絶されるいわれはないはずだ、と口を開く。

「君は、逃げたいと云っていたじゃない」
「逃げたい、でも、私は外に出ちゃいけない。異能が、私の異能が全部壊してしまう。出たくない、出たくない…」
「ふぅん。君は…異能が怖いの?」
「怖い?」

太宰の問いに暫く黙った末に、椿はこう云った。

「異能を恐ろしくないと思う人なんて、この世にいる?」

俯いていた顔が太宰を見る。

「異能はそれを持たない者には銃火器よりも脅威、でしょう。自分の手に余すものなら尚更…敵も味方も関係ないの、私の異能は。見たでしょ?あの扉の向こう、黒服たちが死んでいるのを」

椿が指差す扉の先にあった死体を、太宰は勿論目にしていた。
この細い少女に外の連中の首を捻じ砕く力があるとは到底思えない。彼女は異能で己の体の3倍はあるだろうものを数人、いとも容易く殺したのだ。
手に余るという事は、彼女は今も自分の異能を制御出来ていないという事。それによって彼女が異能に恐怖を抱いている事は明白だった。

矢っ張り、外に出なければ良かった。そう云って椿は再び膝に頭を突っ伏してしまう。

(…惜しいな)

彼女をこのまま地下に置くことは、本来人を殺す刀を美術品のように飾り置く事と同じだ。刀の価値は斬ること。この場合、彼女のポートマフィアでの価値は“異能をポートマフィアの為に使うこと”だ。それに、外の黒服を見て確信した。あの強力な支配と暴力の権化。彼女の異能はポートマフィアで使い、使われるべきだと。
彼女を利用するならば、こちら側に引き摺り降ろす必要がある。然し未だ光の下にいるつもりでいて、光を望んでいるらしい。躊躇なく力を行使し、敵を屠るために心など要らない。心はあれど、陰に沈める必要がある。
太宰は鴎外がこの状態の椿と自分を引き合わせた意図を理解し、口を開いた。

「椿、君が本当に恐れるものは何だい?」

太宰の声がコンクリートの壁に跳ね返って反響する。太宰が近付く。椿にはそれが何だかとても恐ろしい事のように思えて、逃げようとした。然し足が動かない。
夢の中での恐怖が継続して肩を震わせる。
椿の周りを漂う空気がざわりざわりと変化していった。即ち、彼女は再び自らの異能に呑み込まれようとしている。

そんな椿の腕を、温かいものが掴んだ。
相変わらず包帯に巻かれた、怪我だらけの手だ。

「まったく。君は一日に何度異能を暴走させるつもり?」
「……ぼうそう?」
「嗚呼、お陰でおおわらわさ。まぁ抗争で人が出払っていたから、被害は地上より少ないけどね。それでも何人かは死んだかな」
「…」
「Qの異能で何かを見ただろう? それが君の本当の恐怖の正体だ。何を見た?」
「…」
「君は無口だねぇ」
「……私が地獄から抜け出した日の夢を見ていた」
抜け出したと思っていた地獄は、父親の元ではなく自分の異能だったというオチだが、あの頃の椿にとっての地獄は、父親のマフィアだった。

「…地獄、か。抜け出したというのに何故心をざわつかせる?」
「母の為に、父親のマフィアを潰した日の夜に、母を。…私が母を殺す夢。………あなたは如何してここに来たの」
「首領に君を任されたから。ポートマフィアは首領の命令が絶対だ」
「首領…森さん……私は、異能は使わない。使いたくない。私を使うために、あなたは遣わされたんだろうけど」
「何故使いたくないんだい?とっても便利な道具じゃないか」
「…便利?道具?仲間が死んだのに、どうしてそんなことが云えるの」
「死んだ仲間よりもポートマフィアに利益をもたらす道具じゃないか。ふふ、あんな殺し方をしていたから心無い怪物かと思っていたのに、君自身は存外心ある人間のようだね」
「…そういう貴方は怪物」
「よく云われるよ」

うふふと女のように笑って太宰は口を開く。

「君は、君の異能から逃げたいんだね。云うことを聞かない異能への恐怖と殺戮への罪の意識から逃れたい。違うかい?然し異能を失うことは不可能だ。君の異能は君の鼓動と共に有るのだから……だから、君は、探しているのだろう? 君の母のような人質を」
「人質?何を、言って………」
「君は母親の為に殺したと云っているが、実際、君の母親は父親とそのマフィアを潰すことを望んでいたか?」
「!」

違う。そう脳が叫ぶ。然しそれと同時に、望んでいたはずだ、ともう一人が頭の中で叫ぶ。母は父親とその正妻に居場所を奪われた。自らの子どもと会う時間も制限され、命さえも奪われた。
恨んでいないはずがない。その“はず”だ。
だから父親も正妻もそのマフィアも潰し、母の仇をとったのだ。

私は母の為に異能を使った、母の為に。
母の、為に?

「これは極一般論だが、母親は普通、己の子どもが生きていて呉れればそれで幸せなのではないかな」

それは自覚した途端、椿の頭を殴打したようだった。
私は、殺しを母の為と云って、母の所為にしていたのか?

蓋をしていた思考がぶわりと溢れ出す。

椿が最も恐れているのは異能では無かった。異能を制御出来ない自分の罪が、何よりも恐れていたものだったのだ。
母のように、殺す理由となる人質。誰かの為に異能を使う事で、その異能を誰かの所為に出来た。だから、あのフョードルが齎した母の死という事実に戦慄した。一番守りたかった人を守れなかった。その人を一番苦しめていたのは自分だと、自身の罪を認識することを拒否した。
椿がずっと守っていたのは、自分自身だった。

「……嫌、だった。大切な人も、居場所も壊す異能が。でも、異能を制御出来ないことよりも、母も祖母も守れないのに、大切な人を苦しめるばかりの自分が何より嫌で、恐ろしくて。でも…」

あの夜。父親のマフィアを潰した後椿は死ぬつもりだった。
母のいない世界など意味が無かった。椿は母の為にあの地獄で生きてきたのだから。
然し異能を使い気力を根こそぎ奪われて気絶し、それから祖母に出会い、次いで本能が強い所為か自殺だけはできなかった。

「私は自分で自分を殺す事さえ出来なかった。死ぬことも、生きることも怖くて…今も、心臓が重たくて、立つことができない」

知っていた。暴力も破壊も人を守るためにだって使えることを。私の異能は、私の大切なものを守るために使うことだってできたはずだ。
それをしなかった……できなかったのは、私が弱かったからだ。それ故に、自分の弱さを見ることすら拒んだ。異能をどうしようともしないまま閉じこもることを選んだ。罪人が牢獄に閉じ込められるように、私もそうあるべきだと思って。そうすることで、異能が再びなりを潜めてくれることを浅はかにも望んでいた。
然し異能は、結局何処にも消えて呉れる事は無かったのだ。幾ら使う事が無くなっても、私が生きている限り異能は私と共にあった。寧ろ、今日使った“箱庭”はあの頃よりも範囲が広がっていた。
このままでは私は、いつか再び異能を暴走させて立ち所に凡て壊すだろう。

私は私の人質を欲していた。私と私の異能のためのよすがを。

「私なら、君を異能の恐怖から解き放つことが出来る」

それを森さんが、今、私に与えたと云うのなら。

「君の異能を止めるには、その鼓動を止める方法とは別に、もう1つ。生きて、私の側に居る方法がある。…何、私も能力者なのだよ。私の異能は『人間失格』凡百異能を無効化する」

「私が触れている間は、君は異能を使えない。死ぬ事が出来ない、一人で生きられない君にはお似合いじゃないか」

嗚呼、と椿は気の抜けた声を漏らした。
あの鴎外が太宰を此処に向かわせた理由を理解したのだ。

「私の人質になってくれるの?」
「……、嗚呼。君が私の側を離れない限り、君の恐怖を殺してあげよう」

先程払われた手を、太宰は椿の前に差し出す。

「当初考えていたこととは気が変わったよ。君には少なからず共感するところがある。生きるということは死に向かうこと。死ぬということは生きていたということだ…私はどちらも、恐ろしくてね」
「?」
「然し君は私よりも怖がりかもしれない。だから面倒を見てあげよう。これも森さんの荒治療の一環だろうからね。私にとっても、君にとっても」
「…………ありがとう、太宰」

椿は己の前に差し出された手を、ギュッと強く握った。
この温もりを離しはしない、失わない。二度と。
この糸は、私のものだ。