不可分セカイ


​───────あつい。

からだをいくら抱き締めても寒いのに。
この熱は、いったいどこからくるのだろう。

脳裏で人間が次々と自死していく。
あの人も、既に何も云わない骸に成り下がった。
わたしたちは、自由になれる。

ねぇ、かあさん。
もういちど。その糸をわたしに。
わたしを、もう一度抱きしめて。

その熱だけで、きっとわたしは生きていけるから。







目を、開く。

冷えた石造りの壁はあらゆる光を遮り、唯一の灯りもこの場所では頼りなく揺れていた。
ここは或るマフィアが住処とする屋敷、その地下に位置する座敷牢。
瞼を撫でた僅かな空気の変化に少女は目を開いた。闇に慣れた目でくるりと鉄格子の嵌った扉を見る。
そこには男が一人。
鉄格子の向こうから同じく少女を見ていた。

「時間だ。来い」

ガチャン、と錆びた音を立てて錠前が開かれるも、少女は動こうとしなかった。痺れを切らした男が少女の切りそろえられていない髪を掴み、牢から引きずり出す。
手足を擦りながら連れていかれる少女を、座敷牢の中で幾つもの紙の山が見送っていた。


所変わって。
或る建築物の最上階。同じくマフィアと呼ばれる非合法組織が根城とする場所の、主の部屋。
頂点に坐す栄華とは裏腹に、照明が落ちたその部屋で、男が一人、恐怖に震えていた。

「​────どこだ、出てこい! 溝鼠……ッ」

周囲の暗闇に銃を向ける。忙しなく銃口を向ける先を変えては標的を探し、威嚇のように声を張り上げる。
夜の闇に紛れて滑り込んだ刺客は影も形もなく、不気味なほど静かに男の声だけが部屋に木霊している。
然し時折、空の薬莢や靴を放って音を立てては、男の精神をすり減らした。
殺し日和の曇り空を、所により雨が通る。

「このッ……おちょくりやがってぇえええ!!!」

雨のような銃声。下手な鉄砲も数撃てば当たるとは云うものの、その弾はただ部屋の壁や床や調度品に傷をつけるばかりであった。月明かりの届かない、所々影の落ちた部屋に幾つもの銃痕が刻まれる。

刺客は、革張りのソファの影で、じっと雨が止むのを待って居た。

「…っくそ、くそ、くそ!!」

地響きのようだった銃声が消える。代わりにカシャカシャと気の抜けるような音が響く。
途端、この時を待っていたかのように、闇の外へ何かが躍り出た。
一瞬の出来事だった。視界がずれる。男がそれを認識する。視界の端に赤い飛沫を捉え、ゴトン、と鈍い音を聞く。キーンという耳鳴りの後、男はその音が何なのかを理解する。
赤い飛沫は男の首から噴射されたものだということを。ゴトンという音は、自分の首から滑り落ちた頭が床に当たって出た音だということを。視界がずれたのは、今、男の目に映る天井は。
一拍遅れて、銃が手から滑り落ちる。男の体は床に倒れ、息絶えた。

伏した男の影の上に、小さな影がゆらりと立ち上がる。
それは、年端も行かない少女だった。

血溜まりの広がる部屋に1人きり。
静かになった部屋では少女の心臓の鼓動すらはっきりと聞こえるようだった。

(いきている)

通常よりも早いその鼓動は、確かに少女が生きている事の証明だった。
今日まで少女は、小難しい本や地図や資料などの紙たちに囲まれ、未熟な頭にこのマフィアの情報を叩き込んだ。そして、鼠のように抜け穴を通って、容姿で油断した敵の喉元を斬り、最終目的であるこの部屋まで潜入した。
そしてたった今、ここの主人とも云える者を絶命させたのだった。

きっとこれであの人達も満足するだろう。そのような安堵が胸を包む。
少女は、不機嫌そうに牢から自分を引きずり出した男や、牢に紙の束を投げ入れた男、そしてこの行為を命じた自分の父親の顔を思い浮かべた。

少女の父親は、たった今殺した男と同じく、或るマフィアで一番偉い人間、所謂首領と呼ばれる人間だった。
少女はその血を引いていたが、正妻との子どもではなかった。所謂愛人との間にできた子どもである。
当然、父親には母親よりも"あいすべき"正妻が居た。少女と母親は、正妻にとって煩わしい存在だった。
そしてそれは、父親にとっても当然同じである筈だった。それでも何故、少女と母親が、父親の許に置かれ続けたのか。
それは、少女が異能という特別な力を持って生まれた人間だからであった。

少女の父親は、銃よりも暴力的な力を欲していた。そして父親は、異能というものが、それを持たない者にとって銃よりも脅威であることをよく知っていた。

そんな父親の許で生まれた少女に異能が宿っていることが知れたのは、少女が未だ赤子の頃のことだ。
正妻の図りで赤子の部屋に二人の使用人が忍び込み、取り押さえた愛人の目の前で赤子に暴行を加え、最後に刃を向けその首を掻き斬ろうとした。
然し、その切っ先は赤子の首ではなく、その短剣を握る使用人の首を貫いた。使用人は自分の身に何が起きたかも分からないまま死に、不気味に思ったもう一人の使用人はその場から逃げ、その事を自分の主人に報告した。
あの赤子は妙だ、いわく付きだと正妻に訴えられて様子を見に来た父親は、使用人の死体と、愛人の腕の中で声を上げて泣く赤子が居るその光景に、妙な高揚と予感を覚えた。
そして、あるひとつの答えに辿り着く。

この子どもは、自分が求めていた力を持っているのだ、と。

同時期、さる巨大マフィアが根を張る日本の裏社会では、銃よりも暴力的な力が横行し始めていた。
異能と呼ばれる人の手には余る力。それを武力の中心に据えた武力組織同士の睨み合いは、その力がなければ、もはや頂点の座を争う椅子取り遊戯の一員にも数えられないほどに異能の有無が組織の強さに直結していた。

この子どもが居れば、そこに椅子を並べられる。自分が闇を掌握する事も夢ではないのではないか。
異能という圧倒的な力に野心を煽られ、そんな希望に取り憑かれた父親は、子どもをそれはそれは大事にした。正妻よりも、愛人よりも。
この子どものことが外の者に漏れれば、力を欲した強奪者が現れるに違いない。そう考えた父親はその子どもを監禁し、その母親も、次の子供を産ませるために手許に残した。
子どもには温室のような暮らしが与えられ、外を知らぬまま従順に育てられ、異能の発現を待たれている間、母親は幾度か出産させられては異能のない赤子を取り上げられ続けた。腹を痛めて産んだ子どもを奪われ、愛人の精神は次第にすり減り、そして終ぞ初めの子ども以外に異能を持つ者は産まれず、愛人は子を孕むことができなくなった。

そして生き残った子どもは、赤子の頃の一度以来、異能が顕れないまま少女に成長した。

異能を持たない赤子ばかりを産む愛人、異能が再び現れない少女に、父親は焦りを覚えた。
この儘では闇を掌握するなど、夢のまた夢。あの子どもは異能を持っている筈だ。如何にかして異能を使うように仕向けなければ。
そこでふと、思いついた。赤子の時は命に危機が迫っていた。だから異能が発動した。ならば、それと同じ状況を再び与えれば良いではないか、と。

そうして少女は、いとも容易く地獄に突き落とされたのだった。

一夜目の衝撃を、少女ははっきりと覚えている。温室の花のような暮らしから一変、何の情報もなく短剣一本で敵陣にほっぽり出された。
身体の動かし方なんてわかるはずもない。然し敵は当然容赦をしない。
少女の両腕は切れ味の悪いハサミのように誰かを傷つけることなく、短剣はいつの間にか何処かに落として、片足を引き摺りながら暗い森を駆けて家に戻った。
父親は少女が帰って来た事に喜んだが、敵を殲滅していない事を知ると怒り、少女の傷がある方の足を蹴った。少女は父親の変わり果てた姿に呆然とした。命からがら帰ったことを褒めてくれると思っていたのに、期待とは異なる父親の反応に困惑した。部屋に戻され、母親にしがみつくも、痩せて虚空を見つめるようになってから久しい状態の母親が少女を抱きしめることはなかった。

いつから母親がこうなってしまったのかも、少女にはもうわからなかった。

それから暫し休養している間の父親は、以前と変わらず優しい父親だったが、再三地獄に落とされ続けたことで、少女は父親のその言動がすべて嘘偽りであることを嫌でも理解するようになった。けれどそれを理解したからといって、逃げようと動くこともできなかった。
生まれてからずっと従順であるよう育てられたことに加えて、少女には母親という存在があった。

傷のある四肢を殴ったり蹴ったりしない、やさしい母親。上手く殺せなくても罵声を浴びせない、やさしい母親。夜風で冷えた体に温度を分け与えてくれる、やさしい母親。少女にとって母親は、その地獄に垂れる一本の蜘蛛の糸だった。
此方を見なくてもいい。話さなくてもいい。抱きしめてくれなくたっていい。ただそこに居てくれれば。
生きていてくれれば。
少女はそれで良かったのだ。


或る夜、何度目かの地獄も殲滅に至らなかった少女に、父親は標的の資料を渡して来た。それを元に少女は抜け道や警備の穴、標的となる首領の居場所を特定し、時が来て外に出されれば敵の陣地へと潜った。
そうして繰り返すうちに、少女は身体の動かし方を覚え、武器の翳し方を覚えた。敵陣に入る前に敵の情報が必要だということを覚え、命令を全うするために必要な知識を求めた。

外から隔絶された地下牢、父親の命令、母親。

それらが少女の世界を構築していた。
それ以外、少女の目には映らなかった。ずっと此処で生きて、それはこの先も続くものだと、少女は思っていた。

温室はとうに崩壊したというのに、いつまでも、ぬるい温度の名残に身を浸していた。
少女を見つめる双眸が、刻一刻と近付き始めていることも知らずに。