箱庭虚妄


少女は存外、しぶとく生きていた。溝鼠の如く、草履虫の如く。その間も異能は応えることなく、人を殺す術ばかりが研ぎ澄まされていった。
部屋の体裁を保っていた少女の温室は、父親の心を映すようにいつしか冷えた地下の座敷牢へと変わった。
母の姿も見えなくなった。以前は温室のような部屋で母と共に過ごしていたのに、地下に移ってからぱったりと父親は少女に母親を合わせる事が無くなっていた。会いたいと云えば資料を渡され、標的を消せば母親からの言伝を他人の口から聞くのみ。
然し、少女はそれでも良かった。会えなくとも言葉が聞ければ、其処に母を感じることができた。其れだけで母の熱を思い出すことができたから。

そうして或る夜も、少女は駆けていた。凡ては母のため、自分のために。また一人、一人と切り倒し、床に血の池を作っていく。
嗚呼、あの扉の奥の最後の一人を殺せば母を感じられる。そう考えれば地を蹴る力が自ずと強くなり、何度も突き刺した短剣の感触を確かめるように柄を強く握った。
そして感じる、肉を裂く感覚。

その日は、月が出ていた。

一言も発する隙がないままピクリとも動かなくなったそれを、低い双眸で見下ろす。最早、人を殺すことに恐れも罪悪もなかった。ただ純粋な、殺意すら伴わない行為。少女は安堵すらしていた。

その歪さが、何かを呼び寄せたのだろう。

「見事なものです。其の小さな手で、今迄どれ程の罪を犯してきたのでしょう」
「っ!」

唐突に現れた第三者の声に、油断しきっていた体が大きく跳ねた。
標的は仕留めたはず。他に気配は感じなかったのに、と突き刺した短剣を抜いて構え、少女は暗闇の奥を見据えた。剣を抜いたことで穴の空いた標的の身体から血が流れ、床に広がっていく。其の先を辿れば、細い足に辿り着いた。月が雲間から覗く。光が部屋を照らす。青白い光に照らされて、男は顔を顕にした。

男というには若い、青年だった。

青年の顔は、月の光に負けないほど白く、青く、其の目は、紫に輝く。魔物を前に、少女は剣を構えることが出来なくなった。手が震え、足も縫い付けられたかのように動かない。其の目に凡ての体の動きを封じられてしまったかのようだった。

「おや……どうかしましたか? 何故、震えているのです」

魔物は手を広げ、迎えるようにゆっくりと少女へ近付いた。その間も少女は震え、頭の中に叩き込んだ情報を幾度も反芻した。然し、どんなに探しても資料の中にこんな男はいなかった。見たことがない。この男は、此のマフィアの人間では、ない。

コツ、と。足先は少しの距離を保ち止まった。ゆっくりと見上げた先では、男が変わらず薄笑みを浮かべている。

「ぼくを殺さないのですか?」

その問いかけすら、身の毛がよだつような心地がした。奇妙だった。
自ら殺さないのかと聞いてくるような人間は初めてだった。
少女が相対してきた人間のすべてが、皆一様に少女へ命乞いをした。けれどこの男は、まるでそれを待っているかのように少女の前に立ち、次いで口を開く。

「貴女は此のマフィアの人間を、凡て消すために来たのでしょう? …ふふ、然し、驚きました。こんな小さなものが近頃裏社会に現れる死神の正体とは。ぼくも貴方を調べるのには苦労しました。何せ、貴女は襲ったマフィアの人間を、凡て、一人残らず殺すのですから…さて」

どうします?と、魔物が嗤う。細い三日月のように口を歪めて。
私を知っている。
少女は、初めて自分を認識する者に出会った。そして、資料にない異分子おとこが現れることも、初めてだった。

「……ころさ、ない。あなたは、わたしの、……あの人の標的じゃない、から」

少女は、何とか言葉を紡ぎ出した。僅かに冷静になった頭で思い返せば、幾つかの可笑しな点に気が付いた。
何の音も、悲鳴も発さずに死んだ標的。抵抗もなかった。短剣を抜いた穴から、血は緩やかに流れ出ていった。通常、殺したての人間はまだ血流の活きがいい。栓の役割を果たしていた剣を抜けば血が噴射される。
導かれる答えはひとつだ。
この男は態々死体を置いて、鼠捕りの罠のようにして待っていたのだ。

​───────何の為に?

ぞくりと背筋を怖気が駆け抜ける。
この人間には、知られている。見られている。私が何人も殺したことを。けれど、それじゃあ、何の為に私を誘き出したというのか。この魔物は、はじめに何と云っていた?
ドクドクと心臓が早鐘を打つ。まるで、初めて父親に外へ出された時のような恐怖と緊張が少女を包んだ。

「ぼくは貴女に、何かをするつもりは有りません。今日はただ、お話をしに来たのです」
…おや、其の目は疑っていますね? と、魔物が首を傾げる。少女は何も云わない。

「本当ですよ。ぼくは、嘘は吐きませんから。……信じられませんか? では、証拠にひとつ。貴女に真実を教えて差し上げましょう」

「しんじつ…?」と、やっと反応を示した少女に魔物は目を細めた。此方を見上げる無垢な瞳に月光が射し込む。男はそれを、感情のわからない瞳で見つめ返した。

「ええ……妙だとは思わないのですか? 貴女の母親が、何故、貴女に会わないのか」

何故、知っている?

ひゅ、と少女の喉の奥で息が鳴った。極度の緊張に呼吸が浅くなる。目の前が、思考がぐるぐる回る。玉のような汗が米神を伝って落ちた。何故。何故何故何故。何故知っている。私の事を調べたから?あの人達、父親のマフィアのことも、

「知っていますよ」
「……如何して、かあさん、を」
「嗚呼、貴女が知らないことをぼくは知っていることに恐怖しているのですね。…教えて差し上げましょうか?」
「…い」

嫌だ。
何か嫌な予感が背筋を走り抜ける。もう月の光は部屋の中には届いていないというのに、青年の肌は青白く、瞳は紅紫に瞬いて見えた。
魔物の口が開かれる。

「ふふ…貴女も薄々気付いていたのでしょう? 貴女の母親がもう」
「ッ嫌!!!!!!!!」
「この世に居ないことを」

「ぁあ…ッ!!!」

聞きたくないと云うように両の耳を塞いだ。然し小さな手の隙間から、魔物の声が奥の鼓膜を震わせる。

「貴女は、正妻では無く愛人との間に思いがけずできた子ども。其れを良しとはせずに正妻は貴女の母親に非道い嫌がらせを行っていた様ですね。貴女の母親は精神をすり減らし、亡くなった。ずっと、地下牢と夜を駆けていた貴女は気づかなかった……いいえ、気付かないふりをしていたのです」

コツと靴の音が響く。私の足は動かない。魔物が近づいてくる。私の足は動かない。魔物は蹲る私の耳元に口を寄せ、言った。

「罪の子よ。今こそ罰を与える時ではないのですか?」

もう、地獄に糸は降りない。
私が必死に守ってきた糸は、私にしか見えていない糸だった。故に、存在もしていない。
夢に見ることすらも、魔物は許してくれなかった。