或る少女
其処は、地獄だ。
誰かが云った理由では無い。唯、漠然と其処は地獄だと、自らの頭で理解していたのだ。
其れでも私が、天上から垂れる蜘蛛の糸に目も呉れず、此処に留まり続けるのは。
窓の無い座敷牢に少女は居た。10にも満たない容姿には相応しく無いその場所に、只じっと座って居た。少女の周りには、少女の背丈よりも高く本が積まれている。その背表紙にはなにやら一介の大人がぱらぱらと捲るだけでは理解し得ないような、難しい言葉が羅列していた。本だけではない。ホチキス止めされた何らかの資料も、その座敷牢に唯一有る低い机の上に、乱雑に積まれていた。少女は幾つもの紙に囲まれ乍もじっと、何の音もしないその場所で、只時が過ぎるのを待っていた。
ゆらり、と。その座敷牢の唯一の灯りが揺れる。少女からは影しか目視できなかったが、それが待ちに待ったものだと解っていた。
「時間だ。来い」
低い声の男が牢の中に呼びかける。ガチャンと重い錆びた音を立てて牢の扉が開かれた。男は少女の切り揃えていない髪を掴み、そのまま牢の外へと引き摺っていった。少女がこの牢から出るのは、決まって或る事をする為だった。
▽
暗い部屋。窓の外では新月が身を隠している。全てが闇に溶け込む此の日。
「この…ッ餓鬼如きがァアア!!!!」
咆哮を挙げながら銃弾の雨を降らせる男が居た。其の銃口は焦点が定まっておらず、下手な鉄砲数打ちゃ当たるとは言うものの、弾は只部屋の壁や床や調度品に傷をつけるのみで、肝心な標的には掠りもしない。其の標的は、弾の届かない革張りのソファを盾に、じっと雨が止むのを待って居た。
そしてカシャカシャと、地響きのようだった銃声は消え、代わりに気の抜けるような音が響く。標的___否、少女は。その身を疾風よりも速く動かし男の喉笛に刃を突き立て、裂いた。
男の首から血飛沫が噴射される。ゴトンと銃が男の手から滑り落ちた後、男は床に倒れ息絶えた。
(いきている)
血溜まりの広がる部屋に1人きり。静かになった部屋では少女の心臓の鼓動の音がはっきりと聞こえた。通常よりも早いその鼓動は、確かに少女が生きている事の証明だった。今日まで小難しい本とこの場所の地図や資料を叩き込んだ。そして、鼠のようにこそこそと子ども一人分くらいの抜け穴を通り、容姿で油断した敵の喉元を斬り、潜入。此処の主人とも言える者を絶命させた。これであの人達も満足するだろう。
“あの人達”とは、少女の父とその取り巻きであり、少女を此の場所に送り込んだ者達のことである。少女の父は或る小さなマフィアの首領だ。然し、少女はその血を引いていたが、正妻との子どもではなかった。所謂愛人との間にできた子だった。
では何故、少女がこんな処にいるのか。それは至って単純だった。少女が異能を持って生まれた能力者だからだ。父親の小さなマフィアは目立った戦力は無かった。裏社会を牛耳るポートマフィアの傘下でこそこそと鼠のようにゴマをスリ、奉仕することで存続してきた。然しその中で、愛人との間に思いがけずできた子どもは、異能を持って生まれた。父親は歓喜した。己にも漸く運が回って来たと。異能を持たない者にとってそれは銃よりも脅威だ。この子どもが居れば自分が闇を掌握する事も夢ではないと、希望を見出した。
然し、少女は、異能を使わなかった。赤子の時の1度以外は。父親の正妻の図りで使用人が忍び込み、赤子に刃を向け、首を掻き斬らんとした。然し、その切っ先は赤子の首ではなく、使用人の首を貫いた。使用人は絶命し、何が起きたかも分からない儘、死に顔は驚嘆の色を浮かべていた。赤子は声を上げて泣いて居たが、傷一つ無かった。それ以来、使用人が忍び込んでくる事はなかった。
赤子は成長し、少女になった。其れでも異能を使うことは無く、父親は焦りを感じていた。此の儘では駄目だ、闇を掌握するなど、夢のまた夢。如何にかして異能を使うように仕向けなければ。其処でふと、思いついた。赤子の時は命に危機が迫っていた。だから異能が発動した。ならば、それと同じ状況を又与えれば良いではないか、と。そして少女は、地獄に突き落とされた。
一番最初は非道かった。何の情報も無く敵陣にほっぽり出され、武器は小さな短剣のみ。身体の動かし方もわからない。其れでも敵は容赦をしなかった。腕は両方使い物になら無くなり、短剣は何処かに落として武器も無く…いや、短剣は逃げる為に一人の男の腹部に突き刺して来たのだったか。足は片方を引き摺り、それでも森を駆けて家に戻った。父親は少女が帰って来た事に喜んだが、敵を殲滅していない事を知ると怒り、少女の唯一傷の無い片足も蹴った。其れから暫く少女は休養したが、四肢が完治すると又地獄に落とされた。そうして繰り返すうちに、少女は身体の動かし方を覚えた。武器の翳し方を覚えた。敵陣に入る前に、敵の情報を知ることも覚えた。父親に其れを要求すると、快く敵の資料を渡して来た。鼠なだけあって、父親のマフィアは情報収集を得意としていた。其れを元に少女は抜け道や警備の穴、ターゲットとなる首領の居場所を特定し、時が来て外に出されれば敵の陣地へと潜った。
然し、矢張り少女は、異能を使わなかった。異能を使わない分、地獄で生き抜く方法は、相手の急所を的確に突き殺すことだった。付け焼き刃である少女のそれは、細く弱い容姿とは裏腹に鋭く、無慈悲だ。やらなければこちらが殺られる。其の地獄で唯一の生きる方法だった。極悪の道を辿るしか少女にはできなかった。
だから例え天上から垂れる蜘蛛の糸に掴まっても、其れは直ぐに切れるだろうと、私は予感していたのだ。
だから私は、只糸が降りてくるのを見て、見ているだけ。其の糸を垂らして居る人が無事だとわかれば私は糸を登らずとも心は浄土に行けた。私に糸という慈悲を与えてくれる人、私の母が、例え私に見えずとも、其処に居て呉れれば、生きていて呉れれば。
私はそれで、良かったのだ。