血池での遊泳
私はしぶとく生きていた。溝鼠の如く、ゾウリムシの如く。
異能は私に応えることが無いまま、幾許か月日が流れ、何時しか母の姿は見えなくなった。以前はひと月に数日会うことが許されていたというのに、ぱったりと父親は私に母を合わせる事が無くなった。会いたいと云えば資料を渡され、夜を駆け、其れを消せば母からの言伝を他人経由で聞くのみ。然し会えなくとも、言葉が聞ければ、其処に母を感じることができた。其れだけで母の胸の温かさを思い出せた。
そうしてまた、私は夜を駆ける。凡ては母のため、自分のために。また一人、一人と切り倒し、床に血の池を作っていく。嗚呼、あの扉の奥の最後の一人を殺せば母を感じられる。地を蹴る力が自ずと強くなり、何度も突き刺した短剣の感触を確かめるように握った。そして感じる、肉を裂く感覚。
その日は、月が出ていた。
「見事な物です。其の小さな手はこの世の罪を凝縮し、塗り固めた末に出来たかのようですねえ」
「!!!」
標的は仕留めたはず。他に仲間がいた気配は感じられなかったのに。突き刺した短剣を抜いて構え、闇の奥を見据えた。剣を抜いたことで穴の空いた標的の身体から血が流れ、床に広がっていく。其の先を辿ると、細い足に辿り着いた。月が雲間から覗く。光が部屋を照らす。青白い光に照らされて、男は顔を顕にした。男というには若い、青年だった。
青年の顔は、月の光に負けないほど白く、青く、然し其の目は紫に輝く。魔物を前に、私は剣を構えることが出来なくなった。手が震え、先程地を蹴った足も縫い付けられたかのように動かない。其の目に凡ての体の動きを封じられてしまったかのようだった。
「おや。ぼくを殺さないのですか?貴方は此のマフィアの人間を凡て消すために来たのでしょう…ふふ、然し驚きました。こんな小さなものが近頃裏社会を揺るがす死神の正体とは。ぼくも貴方を調べるのには苦労しましたよ。何せ貴方は襲ったマフィア凡ての人間を、一人残らず殺すのですから…さて」
何処からでもどうぞ。とでも云う様に魔物は手を広げ、迎えるように私に向き合った。でも、渡された資料にこんな男はいない。見たことがない。この男は、此のマフィアの人間では、無い。
「アナタはちがう。アナタは私の標的じゃ無い。アナタはこのマフィアの人間じゃない」
「……ほう?其れは何故です」
「アナタのような人を私は見ていない、知らない。それに」
私の標的は、私が部屋に入る前に死んでいた。剣を抜いた瞬間に血が噴き出さず、緩やかに流れ出ていった。鼠捕りの罠の様に、標的は餌にされていた。そして私が掛かった。恐らく私を調べていたと云うこの男が仕掛けた物。早い話が、目撃者が居ないのなら、現場で自らが目撃者となれば良いのだ。然し、標的のマフィアの凡てを消すと知っていて私の前に現れたこの男は、一体。私に殺されない自信があるのか、自殺志望者か、それとも気狂いか。
「ぼくは貴方に何かをするつもりは有りませんよ、今日は貴方とお話をしに来たのですから。…おや、其の目は疑っていますね? 本当です。ぼくは嘘は付きませんからね。ですが、妙だとは思わないのですか?貴方の母親が、何故貴方に会わないのか」
何故、知っている?
ひゅ、と喉の奥で息が鳴った。呼吸が浅くなる。玉のような汗が米神を伝って落ちた。何故。何故何故何故。何故知っている。私の事を調べたから?あの人達、父親のマフィアのことも
「知っていますよ。貴方の事を調べるのは些か骨が折れましたが、貴方の父親のマフィアを調べる事はとても、詰まらないほどに容易でした」
「如何して、母を」
「嗚呼、貴方が知らないことをぼくは知っていることに恐怖しているのですね。…教えて差し上げましょうか?」
「…い」
嫌だ。
何か嫌な予感が背筋を走り抜ける。もう月の光は部屋の中には届いていないというのに、男の肌は青白く、瞳は紅紫に瞬いて見えた。男の口が開かれる。
「嫌、とは…貴方は薄々勘づいていたのでしょう。貴方の母親がもう」
「ッ嫌!!!!!!!!」
「この世に居ないことを」
「嗚呼…ッ!!!」
聞きたくないと云うように両の耳を塞いだ。然し小さな手の隙間から、男の声は奥の鼓膜を震わせる。
「貴方は正妻では無く愛人との間に思いがけずできた子ども。其れを良しとはせずに正妻は貴方の母親に非道い嫌がらせを行っていた様ですね。貴方の母親は精神をすり減らし、亡くなった。ずっと地下の座敷牢と夜を駆けていた貴方は気づかなかった。いいえ、気付かないふりをしていたのです」
コツと靴の音が響く。私の足は動かない。男が近づいてくる。私の足は動かない。男は蹲る私の耳元に口を寄せ、言った。
「罪の子よ。今こそ罰を与える時では無いのですか?」
もう地獄に糸は降りない。
私が必死に守った糸は、フョードル・ドストエフスキーという男に断ち切られ、母の死体と共に血の池地獄へと沈んでいった。